南十字星の下で (11) 最終回 ホベン
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南十字星の下で その21 97/04/29 07:11
帰 還
待望の帰還の時が来た、第一船は病院船で動けなくて担架で運ばれる、程の者達約300名が主体だった。我々は二週間遅れの第二船で病人でも比較的元気な者の部類だった、乗船前の体重測定では確か27キロに近かった、これは小学校の2年生の体重である、自分の手首を親指と人差し指で握るとそれが腋(わき)まですんなりといったのを憶えている。27キロ前後は日本人の男性の生死の境らしかった。食べ物が無くなり栄養の補給が出来なくなると、人はまず自分の血肉からそれを補っていくから、だんだん痩《や》せていくのである、周りが皆同じ状態でどうように痩せているから、全く危機感は無かったのである。
トラックが迎えに来てそれに乗るのだが、乗るための台に箱を積みかせね順番に乗り込むのだが、手を引っ張ってもらったり、後ろから押してもらったりせねば乗り込めないのだ、なんだ情けない奴だ自分で乗れないのかと思い、今度は自分の番になると、やはり手伝ってもらわないと乗り込めなかった、足は10センチ程しか上がらないのだ。
船は海軍が揚子江で警備のために使っていた砲艦で200名程が乗った、来た時の輸送船の蚕棚《かいこだな》式とは違い、今度は学校の教室の様な何も無い床に200名が雑魚寝だった、食事は待ち望んでいた銀シャリならぬ”おかゆ”だった。これは先の「塩と兵隊」でも書いたように第一船での固い飯で多数の死者を出しての苦い経験からだったらしかった。お粥《かゆ》と梅干しでさえも涙を流さんばかりにして食べたことを覚えている。乗り組みの水兵があまりにもがつがつ食べる我々を見て「おまえらみたいなのが居たから戦争は負けたのだ」などと無責任な事を言っていたが、飢餓を経験しない者に、飢餓を語ってもらいたくないものだ、なにも好き好んで栄養失調になったわけでもない。
途中でグアム島に寄港した、隣に停泊していたアメリカの船を珍しそうに見ていたら、カメラの放列ができた、痩せさらばえた兵隊は彼らにしてみれば格好の被写体だったのだろうが、そうはさせじと早々に引き上げた。
全乗船者のうち一人が下痢が止まらず死んだ、毛布に包み砲弾を重りにつけて海に沈め水葬にした、警笛を鳴らし、その周りを一周した、もうすこし頑張れば日本の土が踏めたのに可哀相な事だった。七日程の潜水艦の心配なしの航海で無事浦賀に上陸できた、十一月の初旬だった、二年ぶりの夢にまで見た山河、民家の庭先の色ずいた柿《かき》、まさに"国破て《やぶれて》山河あり”だ、そしてさらにはピチピチした若い健康的な若い女性を目にする事が出来たのは涙が出るほどの感激だった、誰もかれもが美人に見えた。また改めて武運つたなく異郷の地で亡くなった戦友たちの冥福を祈らずにはいられなかった。立川の陸軍病院に入院した、この時面会者の食物の持ち込みは一切禁止された、持ち込みの食べ物は守衛が一時預かることになった、なぜならば入院患者で見舞いに持ち込まれた食べ物の食べ過ぎによってかなりの死者がでたのである、約二月暮れも押し迫った頃退院して故郷に帰ったが、南方でのまず食わずの生活が原因してか正月そうそう肋膜《ろくまく=肋膜炎》で松本の陸軍病院で半年ほど入院生活を送ってから、社会復帰する事にななった、肉体的の回復は以外に早かったと思うが、心的の面ではそう簡単にはいかなかった、アメリカでもベトナム戦争後特に問題になったPTSD(心的外傷後ストレス障害)つまり”心のケア”が必要だったと思う、そのころ敗戦のショックで人のことどころではなかっただろうが、自分などもかなり長期間にわたり心のひずみの様なものが尾を引いていたように思う。
- 完 -
帰 還
待望の帰還の時が来た、第一船は病院船で動けなくて担架で運ばれる、程の者達約300名が主体だった。我々は二週間遅れの第二船で病人でも比較的元気な者の部類だった、乗船前の体重測定では確か27キロに近かった、これは小学校の2年生の体重である、自分の手首を親指と人差し指で握るとそれが腋(わき)まですんなりといったのを憶えている。27キロ前後は日本人の男性の生死の境らしかった。食べ物が無くなり栄養の補給が出来なくなると、人はまず自分の血肉からそれを補っていくから、だんだん痩《や》せていくのである、周りが皆同じ状態でどうように痩せているから、全く危機感は無かったのである。
トラックが迎えに来てそれに乗るのだが、乗るための台に箱を積みかせね順番に乗り込むのだが、手を引っ張ってもらったり、後ろから押してもらったりせねば乗り込めないのだ、なんだ情けない奴だ自分で乗れないのかと思い、今度は自分の番になると、やはり手伝ってもらわないと乗り込めなかった、足は10センチ程しか上がらないのだ。
船は海軍が揚子江で警備のために使っていた砲艦で200名程が乗った、来た時の輸送船の蚕棚《かいこだな》式とは違い、今度は学校の教室の様な何も無い床に200名が雑魚寝だった、食事は待ち望んでいた銀シャリならぬ”おかゆ”だった。これは先の「塩と兵隊」でも書いたように第一船での固い飯で多数の死者を出しての苦い経験からだったらしかった。お粥《かゆ》と梅干しでさえも涙を流さんばかりにして食べたことを覚えている。乗り組みの水兵があまりにもがつがつ食べる我々を見て「おまえらみたいなのが居たから戦争は負けたのだ」などと無責任な事を言っていたが、飢餓を経験しない者に、飢餓を語ってもらいたくないものだ、なにも好き好んで栄養失調になったわけでもない。
途中でグアム島に寄港した、隣に停泊していたアメリカの船を珍しそうに見ていたら、カメラの放列ができた、痩せさらばえた兵隊は彼らにしてみれば格好の被写体だったのだろうが、そうはさせじと早々に引き上げた。
全乗船者のうち一人が下痢が止まらず死んだ、毛布に包み砲弾を重りにつけて海に沈め水葬にした、警笛を鳴らし、その周りを一周した、もうすこし頑張れば日本の土が踏めたのに可哀相な事だった。七日程の潜水艦の心配なしの航海で無事浦賀に上陸できた、十一月の初旬だった、二年ぶりの夢にまで見た山河、民家の庭先の色ずいた柿《かき》、まさに"国破て《やぶれて》山河あり”だ、そしてさらにはピチピチした若い健康的な若い女性を目にする事が出来たのは涙が出るほどの感激だった、誰もかれもが美人に見えた。また改めて武運つたなく異郷の地で亡くなった戦友たちの冥福を祈らずにはいられなかった。立川の陸軍病院に入院した、この時面会者の食物の持ち込みは一切禁止された、持ち込みの食べ物は守衛が一時預かることになった、なぜならば入院患者で見舞いに持ち込まれた食べ物の食べ過ぎによってかなりの死者がでたのである、約二月暮れも押し迫った頃退院して故郷に帰ったが、南方でのまず食わずの生活が原因してか正月そうそう肋膜《ろくまく=肋膜炎》で松本の陸軍病院で半年ほど入院生活を送ってから、社会復帰する事にななった、肉体的の回復は以外に早かったと思うが、心的の面ではそう簡単にはいかなかった、アメリカでもベトナム戦争後特に問題になったPTSD(心的外傷後ストレス障害)つまり”心のケア”が必要だったと思う、そのころ敗戦のショックで人のことどころではなかっただろうが、自分などもかなり長期間にわたり心のひずみの様なものが尾を引いていたように思う。
- 完 -