南十字星の下で (8) ホベン
投稿ツリー
-
南十字星の下で (1) ホベン (編集者, 2007/7/16 7:14)
- 南十字星の下で (2) ホベン (編集者, 2007/7/17 7:47)
- 南十字星の下で (3) ホベン (編集者, 2007/7/18 10:27)
- 南十字星の下で (4) ホベン (編集者, 2007/7/19 7:44)
- 南十字星の下で (5)ホベン (編集者, 2007/7/20 7:33)
- 南十字星の下で (6) ホベン (編集者, 2007/7/24 7:44)
- 南十字星の下で (7) ホベン (編集者, 2007/7/24 7:46)
- 南十字星の下で (8) ホベン (編集者, 2007/7/24 7:48)
- 南十字星の下で (9) ホベン (編集者, 2007/7/24 7:49)
- 南十字星の下で (10) ホベン (編集者, 2007/7/25 7:54)
- 南十字星の下で (11) 最終回 ホベン (編集者, 2007/7/26 7:13)
- Re: 南十字星の下で (5)ホベン (岡田義明, 2008/4/16 13:05)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
南十字星の下で その15 97/04/16 07:21
ボクリュウ.パパイヤ
ジャングルノ中で奇妙のものを見つけて、見たところ野球のボール程の大きさで周りは茶褐色でキノコか猿の腰掛け《さるのこしかけ=木の幹に付く木質のきのこ》見たようなもので、割ってみると全体が米の粉状でザラザラしていて、余り堅くないので刃物でセンベイの様に薄く切って焼いて食べてみた、美味くはないが毒にも薬にもならないらしかったので腹のたしにと思った、ところが尾ろうの話だが便秘になり死ぬほど苦しんだ。これは一般には薬の増量ように使うとかで、やがて絶対食べないようにとの指令が出た。
パパイヤは今ではそう珍しくない果物であるが、当時はまだ珍しかった、人間の背丈ぐらいから実が付きはじめるが、年数を経てくると、脚立《きゃたつ=踏み台》でも無いと収穫は難しくなる、色は外側はグリーンぽくて中は柿《かき》色で形状は茄子《なす》をちょっと太くした感じだが味は表現は悪いが腐った柿みたいだが食べつけると結構美味い、若いのを味噌《みそ》漬けにすると甘みがあって絶品だった。その根の部分がゴボウに似ていたので、ゴボウ代用にキンピラにして食べたが最高だった、実の中が空洞なのでちょっと脳足らんの人の代名詞に使った。
パラオには台湾バナナの様な大きな物は少なかった、ただ島民の家で貰《もら》ったのは大きかったが糖分は無く青い内に味噌汁の実にすると薯《いも》のようにほこほくしてうまかった。普通採れるものは小ぶりのモンキーバナナと言われる物が主流で、瓶(かめ)等に入れて一日、二日地中に埋めておくと甘みが出てうまくなった、これも初めのうちは手に入ったが、その後は難しくなった。
マングローブ
マングローブは内地では見られない珍しい木である、海岸や海水と淡水が交わる付近に密生する潅木《かんぼく=低い木》で、枝が垂れてきて地面に着くと、そこからまた芽が出て彦生え《ひこばえ=切り倒した木の根元に出る若芽》のように新たな木になるのである、さらに古い木になると葉巻のような実が枝もたわわに垂れ下がっている、これが実ってきて泥の中に落ちて芽が出て若木が育つのである、従ってマングローブの生えているところは、まさにマングローブのジャングルの様になるのである。
実はこの実を採集して皮をむき、茹《ゆ》でてあく抜きして、食べるのである、ちょっと固めの芋のようでなんとか食べられるが、島の古老の話に依ればスペイン人でもドイツ人でもマングローブの実を食べる様になった時はそのつど為政者は替わったとのことだった、余り良い話ではなないが、まさに歴史は繰り返すで我々もまたその例に洩《も》れなかったのである。
マングローブのジャングルは昼間入っても蚊が多くて長くは居れない、椰子蟹《やしがに=大型のやどかり》がいるらしいが、お目にかかった事はなかった、捕獲したものは見たが、人間の手程もあるハサミは挟まれれば指の一本ぐらいは切り取れるとかだった。
食糧の調達
スーパーやコンビニに行けば何でも手に入り生協に頼めば何でも届けて呉れる現代社会では想像も出来ないが毎日の食糧の確保は生死に係わる重大事だった。
食糧の調達にもいろいろの方法があった、木の芽とかカタツムリなどは可愛い方だ、炊事場やよその貯蔵所などに忍び込んだりする者も出たりしてなかなか大変である、関西出身のインテリ一等兵がいた小柄で目が悪く全く兵隊には不向きの人だった、親は多額納税者で偉い人だったそうだが、腹の減るのは誰も同じらしく或る夜炊事場へ忍び込み捕らえられたらしいが、そんな行動に出たことに対しては同情の目もあったのか余り咎《とが》められもせずに済んだらしかった、この兵隊も時を経ずして死んでしまったのだ。
戦友のM一等兵はよせばよいのに、海軍の食糧貯蔵所(物置程度のものかもしれないが)に忍び込んでカンパン一箱を持ち帰るところを捕まったそうだ、少なくとも20キロ程はあるだろうに、班長の機嫌とりくらいの軽い気持ちでやったものと思うが、よくも頑張ったものだ、これは相手が他の部隊だったから、ちょっと面倒らしかった。 陸軍から見ると海軍は羨望《せんぼう=うらやましい》の的だった、これは海軍の何百人に陸軍の何万人の兵員の数の差から見れば仕方が無かったかもしれない、今ここでとやかく言うのも憚《はばか》られるが給与の面でもかなりの差はあったらしい。
水路の出口に交代で衛兵《えいへい=番兵》に立った、バラックでの仮眠の時毛布の上を鼠《ねずみ》が団体で駆け抜け行ったり来たりで運動会でもやっているようだった、余り気持ちの良いもではなかった、やはり猫とかキツネの様な天敵が居ないから鼠は多かった。
或る時鼠を捕らえた、既に試食した兵隊の話では,雀《すずめ》のような味だとは聞いていたN一等兵と相談して試食してみようということになったが、なんだか気が進まないので一応班長にお伺いをたてたら、班長は「おまえらに捕まるような鼠は多分病気に違いないから止めておけ」と言われたので試食会はやむなく中止になった。
南十字星の下で その16 97/04/18 06:45
紙の爆弾
八月過ぎた頃からと思うが、敵は ”マリアナ情報”とか ”まこと”等の紙の爆弾、つまり宣伝ビラを多量に撒《ま》きはじめた、上層部では絶対見ないようにとか、拾ったら直ちに届けよとか、の指令をだしたが結局は興味があるから隠れて見てしまうのである。上層部からの戦況についての情報らしいものは何も聞かされない中、タブロイド版《273×406センチ》に日本語で写真いりでサイパンやグアムの攻撃とか瀬戸内海の空爆とかかなり詳しく書いてあった、アメリカは日系人がかなり多かったからそれらの人が書いたであろう日本語は完璧《かんぺき》のものだった。貴方《あなた》の奥さんも子どもも貴方の帰りを待っていますとかも書いてあった。
これも後で分かったが暗号が敵に筒抜けだったらしく、グアムやサイパンでは守備隊は上陸前に殆ど《ほとんど》敵の潜水艦にやられ守備隊は殆ど居ない状態だったらしかった。パラオの方は制海権制空権を手中にしたので心配なく飛び石的にグアムやサイパンに手を出したのだろう、そんな状態のせいでかそれらの島は案外早く玉砕したらしかった、哀れな話である。
手に噛《か》み付いた大鰻《うなぎ》
ある日ボートが借りられたのでN一等兵と潮の退くのを見計らって海に出た、潮の退いた後では大きな牡蠣(かき)が一杯採れた、パラオでは牡蠣を食べる習慣が無いらしく、蠣殻《かきがら》の口にドライバーを入れてこじ開ければ、よく育った牡蠣が面白いように採れた、生がきを食べる習慣も経験も無かったし、前記戦友の岩井の死因が生がきが原因のパラチブスだったので,戦果はそのまま持ち帰った。
潮の退いたあと、一抱えも或る石を起こしてみると大鰻が丸くなって居るではないか、胴回りは10センチ以上あると思った、鉈(なた)を手にしていたので何回も頭を殴り掴《つか》もうとするのだが、ぬらぬらしていてなかなか捕まらない、てきも命懸けで5センチ程に退いた水の中を逃げ回る、追いかけてやっと捕まえたが、右手の甲に噛み付いてきた、Nが小振りのやつを捕まえて戦果はまあまあだった、噛まれた傷が深くてオールは漕《こ》げなかった。
鰻は1メートル以上の大物で班だけでは食べきれなかったが、味の方は調理方法が蒲焼き《かばやき》とまではいかず、適切でなかったのか大味で美味くなかった、噛み付くところを見ると鰻ではなく海蛇だったのかなどとも思った。傷はオールの金具でやったことにして衛生兵に三針ほど縫ってもらった、今でも傷痕《きずあと》を見るたびに鰻の事を思い出す。
手作りのサンダル
”衣食足って礼節を知る”と言うが食は言うに及ばず衣もおして知るべしだった、衣類は水をとうしても、なんとか間に合ったが困ったのは靴だった、 パラオに来て半年以上経っても、身の回り品の補給は全く無いのだ、軍靴《ぐんか》は戦闘用に取って置くようにとのことで、裸足《はだし》で歩くわけにもいかず、考え出されたのは、自転車のタイヤを小判型に切り抜いてパラシュートの紐《ひも》で緒をすげて、手作りのサンダルにして履いた、考えれば何とかなるものだ。だがジメジメしたジャングル生活は足が乾く暇も無く、この時からの水虫は五十数年の付き合いとなるのだ。ロビンソン.クルーソー的の原始生活は一見ロマンチック風だが、戦争という黒い陰の下では、そんな生易しいものではなかった。
トト食わぬ顔
魚は我々にとって欠かせない栄養源だった、中隊の中から交代で受領に行くことになっていた、たまたま海岸にある漁労班まで魚受領の使役が回ってきた、N一等兵と一緒に朝早く背負いこ(しょいこ)《=背負って荷物を運ぶための木の枠》を担ぎ出かけた、人どうりの少ない山道を10キロぐらい歩いて行くのである。漁労班の或る場所につき、各20匹くらいづつを受領して缶に入れて背負って帰るのだった、若いと言っても体力の衰えている身にとっては山道を戻ってくるのも一仕事だった、帰路山道に差しかかてから二人は話しあって一匹づつ頂いて食べながら帰ろうと言う事に決めたのだ、お頭つきの刺し身と思えばと意見は一致した。悪いとは思ったが滅多に無いチャンスでもあった、中程度のものを取り出してハーモニカみたいに横にくわえて、頭は避けて噛み付き生臭いのもものかわ歩きながら夢中で食べた、汁が指の間をつたってくる、そこえ大きな真っ黒い蝿《はえ》がたかり追っても追っても後からついてくる。骨はジャングルの中のヤブに捨てた、口の周りと手は良く拭《ふ》いて中隊にはトト食わぬ顔で帰ったのである。
魚受領は初めで最後だった。
ボクリュウ.パパイヤ
ジャングルノ中で奇妙のものを見つけて、見たところ野球のボール程の大きさで周りは茶褐色でキノコか猿の腰掛け《さるのこしかけ=木の幹に付く木質のきのこ》見たようなもので、割ってみると全体が米の粉状でザラザラしていて、余り堅くないので刃物でセンベイの様に薄く切って焼いて食べてみた、美味くはないが毒にも薬にもならないらしかったので腹のたしにと思った、ところが尾ろうの話だが便秘になり死ぬほど苦しんだ。これは一般には薬の増量ように使うとかで、やがて絶対食べないようにとの指令が出た。
パパイヤは今ではそう珍しくない果物であるが、当時はまだ珍しかった、人間の背丈ぐらいから実が付きはじめるが、年数を経てくると、脚立《きゃたつ=踏み台》でも無いと収穫は難しくなる、色は外側はグリーンぽくて中は柿《かき》色で形状は茄子《なす》をちょっと太くした感じだが味は表現は悪いが腐った柿みたいだが食べつけると結構美味い、若いのを味噌《みそ》漬けにすると甘みがあって絶品だった。その根の部分がゴボウに似ていたので、ゴボウ代用にキンピラにして食べたが最高だった、実の中が空洞なのでちょっと脳足らんの人の代名詞に使った。
パラオには台湾バナナの様な大きな物は少なかった、ただ島民の家で貰《もら》ったのは大きかったが糖分は無く青い内に味噌汁の実にすると薯《いも》のようにほこほくしてうまかった。普通採れるものは小ぶりのモンキーバナナと言われる物が主流で、瓶(かめ)等に入れて一日、二日地中に埋めておくと甘みが出てうまくなった、これも初めのうちは手に入ったが、その後は難しくなった。
マングローブ
マングローブは内地では見られない珍しい木である、海岸や海水と淡水が交わる付近に密生する潅木《かんぼく=低い木》で、枝が垂れてきて地面に着くと、そこからまた芽が出て彦生え《ひこばえ=切り倒した木の根元に出る若芽》のように新たな木になるのである、さらに古い木になると葉巻のような実が枝もたわわに垂れ下がっている、これが実ってきて泥の中に落ちて芽が出て若木が育つのである、従ってマングローブの生えているところは、まさにマングローブのジャングルの様になるのである。
実はこの実を採集して皮をむき、茹《ゆ》でてあく抜きして、食べるのである、ちょっと固めの芋のようでなんとか食べられるが、島の古老の話に依ればスペイン人でもドイツ人でもマングローブの実を食べる様になった時はそのつど為政者は替わったとのことだった、余り良い話ではなないが、まさに歴史は繰り返すで我々もまたその例に洩《も》れなかったのである。
マングローブのジャングルは昼間入っても蚊が多くて長くは居れない、椰子蟹《やしがに=大型のやどかり》がいるらしいが、お目にかかった事はなかった、捕獲したものは見たが、人間の手程もあるハサミは挟まれれば指の一本ぐらいは切り取れるとかだった。
食糧の調達
スーパーやコンビニに行けば何でも手に入り生協に頼めば何でも届けて呉れる現代社会では想像も出来ないが毎日の食糧の確保は生死に係わる重大事だった。
食糧の調達にもいろいろの方法があった、木の芽とかカタツムリなどは可愛い方だ、炊事場やよその貯蔵所などに忍び込んだりする者も出たりしてなかなか大変である、関西出身のインテリ一等兵がいた小柄で目が悪く全く兵隊には不向きの人だった、親は多額納税者で偉い人だったそうだが、腹の減るのは誰も同じらしく或る夜炊事場へ忍び込み捕らえられたらしいが、そんな行動に出たことに対しては同情の目もあったのか余り咎《とが》められもせずに済んだらしかった、この兵隊も時を経ずして死んでしまったのだ。
戦友のM一等兵はよせばよいのに、海軍の食糧貯蔵所(物置程度のものかもしれないが)に忍び込んでカンパン一箱を持ち帰るところを捕まったそうだ、少なくとも20キロ程はあるだろうに、班長の機嫌とりくらいの軽い気持ちでやったものと思うが、よくも頑張ったものだ、これは相手が他の部隊だったから、ちょっと面倒らしかった。 陸軍から見ると海軍は羨望《せんぼう=うらやましい》の的だった、これは海軍の何百人に陸軍の何万人の兵員の数の差から見れば仕方が無かったかもしれない、今ここでとやかく言うのも憚《はばか》られるが給与の面でもかなりの差はあったらしい。
水路の出口に交代で衛兵《えいへい=番兵》に立った、バラックでの仮眠の時毛布の上を鼠《ねずみ》が団体で駆け抜け行ったり来たりで運動会でもやっているようだった、余り気持ちの良いもではなかった、やはり猫とかキツネの様な天敵が居ないから鼠は多かった。
或る時鼠を捕らえた、既に試食した兵隊の話では,雀《すずめ》のような味だとは聞いていたN一等兵と相談して試食してみようということになったが、なんだか気が進まないので一応班長にお伺いをたてたら、班長は「おまえらに捕まるような鼠は多分病気に違いないから止めておけ」と言われたので試食会はやむなく中止になった。
南十字星の下で その16 97/04/18 06:45
紙の爆弾
八月過ぎた頃からと思うが、敵は ”マリアナ情報”とか ”まこと”等の紙の爆弾、つまり宣伝ビラを多量に撒《ま》きはじめた、上層部では絶対見ないようにとか、拾ったら直ちに届けよとか、の指令をだしたが結局は興味があるから隠れて見てしまうのである。上層部からの戦況についての情報らしいものは何も聞かされない中、タブロイド版《273×406センチ》に日本語で写真いりでサイパンやグアムの攻撃とか瀬戸内海の空爆とかかなり詳しく書いてあった、アメリカは日系人がかなり多かったからそれらの人が書いたであろう日本語は完璧《かんぺき》のものだった。貴方《あなた》の奥さんも子どもも貴方の帰りを待っていますとかも書いてあった。
これも後で分かったが暗号が敵に筒抜けだったらしく、グアムやサイパンでは守備隊は上陸前に殆ど《ほとんど》敵の潜水艦にやられ守備隊は殆ど居ない状態だったらしかった。パラオの方は制海権制空権を手中にしたので心配なく飛び石的にグアムやサイパンに手を出したのだろう、そんな状態のせいでかそれらの島は案外早く玉砕したらしかった、哀れな話である。
手に噛《か》み付いた大鰻《うなぎ》
ある日ボートが借りられたのでN一等兵と潮の退くのを見計らって海に出た、潮の退いた後では大きな牡蠣(かき)が一杯採れた、パラオでは牡蠣を食べる習慣が無いらしく、蠣殻《かきがら》の口にドライバーを入れてこじ開ければ、よく育った牡蠣が面白いように採れた、生がきを食べる習慣も経験も無かったし、前記戦友の岩井の死因が生がきが原因のパラチブスだったので,戦果はそのまま持ち帰った。
潮の退いたあと、一抱えも或る石を起こしてみると大鰻が丸くなって居るではないか、胴回りは10センチ以上あると思った、鉈(なた)を手にしていたので何回も頭を殴り掴《つか》もうとするのだが、ぬらぬらしていてなかなか捕まらない、てきも命懸けで5センチ程に退いた水の中を逃げ回る、追いかけてやっと捕まえたが、右手の甲に噛み付いてきた、Nが小振りのやつを捕まえて戦果はまあまあだった、噛まれた傷が深くてオールは漕《こ》げなかった。
鰻は1メートル以上の大物で班だけでは食べきれなかったが、味の方は調理方法が蒲焼き《かばやき》とまではいかず、適切でなかったのか大味で美味くなかった、噛み付くところを見ると鰻ではなく海蛇だったのかなどとも思った。傷はオールの金具でやったことにして衛生兵に三針ほど縫ってもらった、今でも傷痕《きずあと》を見るたびに鰻の事を思い出す。
手作りのサンダル
”衣食足って礼節を知る”と言うが食は言うに及ばず衣もおして知るべしだった、衣類は水をとうしても、なんとか間に合ったが困ったのは靴だった、 パラオに来て半年以上経っても、身の回り品の補給は全く無いのだ、軍靴《ぐんか》は戦闘用に取って置くようにとのことで、裸足《はだし》で歩くわけにもいかず、考え出されたのは、自転車のタイヤを小判型に切り抜いてパラシュートの紐《ひも》で緒をすげて、手作りのサンダルにして履いた、考えれば何とかなるものだ。だがジメジメしたジャングル生活は足が乾く暇も無く、この時からの水虫は五十数年の付き合いとなるのだ。ロビンソン.クルーソー的の原始生活は一見ロマンチック風だが、戦争という黒い陰の下では、そんな生易しいものではなかった。
トト食わぬ顔
魚は我々にとって欠かせない栄養源だった、中隊の中から交代で受領に行くことになっていた、たまたま海岸にある漁労班まで魚受領の使役が回ってきた、N一等兵と一緒に朝早く背負いこ(しょいこ)《=背負って荷物を運ぶための木の枠》を担ぎ出かけた、人どうりの少ない山道を10キロぐらい歩いて行くのである。漁労班の或る場所につき、各20匹くらいづつを受領して缶に入れて背負って帰るのだった、若いと言っても体力の衰えている身にとっては山道を戻ってくるのも一仕事だった、帰路山道に差しかかてから二人は話しあって一匹づつ頂いて食べながら帰ろうと言う事に決めたのだ、お頭つきの刺し身と思えばと意見は一致した。悪いとは思ったが滅多に無いチャンスでもあった、中程度のものを取り出してハーモニカみたいに横にくわえて、頭は避けて噛み付き生臭いのもものかわ歩きながら夢中で食べた、汁が指の間をつたってくる、そこえ大きな真っ黒い蝿《はえ》がたかり追っても追っても後からついてくる。骨はジャングルの中のヤブに捨てた、口の周りと手は良く拭《ふ》いて中隊にはトト食わぬ顔で帰ったのである。
魚受領は初めで最後だった。