南十字星の下で (3) ホベン
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南十字星の下で (1) ホベン (編集者, 2007/7/16 7:14)
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南十字星の下で (2) ホベン (編集者, 2007/7/17 7:47)
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南十字星の下で (5)ホベン (編集者, 2007/7/20 7:33)
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南十字星の下で (10) ホベン (編集者, 2007/7/25 7:54)
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南十字星の下で (11) 最終回 ホベン (編集者, 2007/7/26 7:13)
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Re: 南十字星の下で (5)ホベン (岡田義明, 2008/4/16 13:05)
編集者
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投稿数: 4298

南十字星の下で その4 97/03/14 23:58
パラオ大空襲
昭和十九年三月三日だったと思う、起床ラッパなど無く当番の起床の声に、起きだして宿舎の庭に出て体操を始めようとしていた時である、東の空から爆音が聞こえてきた、それはだんだんと近ずいてきたそして二~三十機の編隊である、其の時点では日本はたいしたものだ、パラオを守るための航空隊がまだ残っていたのだと、誰しもが思ったらしかったのだが、機銃掃射が始まってやっとそれは空しい願望だったのに気づいた、何とそれらは敵の艦載機《かんさいき=空母などから発進する飛行機》グラマンだったのだ。ターゲットは港湾施設、及び荷揚げ作業などしている船などだったらしいが、それは激しく、しかも執拗《しつよう=しつこい事》なものだった。島の防備もまだ緒《ちょ》についた《=はじまった》ばかりで、空からの攻撃など考えてもいなかったのだ、対空砲火など皆無でとにかく逃げる以外は無かったのだ、上層部からの指示で雑のう《布製の物入れ》に支給された乾パン二袋を入れて毛布一枚を持って宿舎のすぐ裏手の山に逃げた、防空壕《ぼうくうごう》さえ無かったのだ。
そのころ航空燃料など地下貯油タンクなどは無くニューギニヤやその他へ運ぶためドラム缶は埠頭《ふとう》に山積みになっていたのである、そして弾薬も米も一般食料も総てが野積みで、ただゴムシートを掛けただけのものだった。ドラム缶は機銃の曳光弾(えいこうだん)《
=弾道がわかるように光を出して飛ぶ弾》を打ち込まれ爆発しはじめ次から次ぎえと暴発して10~20メートルも高く飛び上がるのだ、山に逃げたのは賢明の策だったと思う、こんな時波止場でもうろついていたら何が飛んでくるかわからない、一同打ちひしがれて声も出ない状態だった,敵機は弾を撃ち尽くすか、燃料が少なくなると引き返し、また同じくらいの新手の編隊がやってくるのだ。我々は埠頭からわずか500メートルほどの場所にただなすすべもなく傍観しているだけだった、後でわかったのだが唯一《ゆいいつ》戦ったのは海軍の工作艦(船舶修理をする)一隻だけだったとか。
一番恐ろしかったのは、最後の船団がきた時一旦陸揚げされた付設機雷《ふせつきらい=水中に敷設する爆弾》が南洋庁の広場に並べてあったのであるが、(個数などは不明)それが機銃掃射によって爆発しはじめ正確には分からないが50メートルぐらいは空中に炎があがったと思う其の爆風も強烈で、まさにその凄《すご》さは地軸を揺るがすほどのものだった、この世の地獄もかくやと思われた。敵機来襲は夕方まで続き、地獄の一日目は終わったのだが、爆発、暴発はひっきりなし続いたのだ。 米の山など昼間は真っ黒になって煙が出て燻《くすぶ》っているだけのように見えるが夜になると、こだつの炭火のように真っ赤になって見えるのだ、米は植物性の油が多くよく燃えるのだそうだ、後に知らされたのだがこの日の敵機の来襲延べ機数は2,500だったとか、宿舎に帰ったそして覚悟はしていたものの全員があの恐怖のため打ちのめされたようになっていた、そして眠れぬ一夜をすごした。
南十字星の下で その5 97/03/21 07:06
二個の手榴弾
眠れぬ一夜だったがあちこちでひそひそとささやかれていたのは、これは敵さんが上陸してくる前触れなのか、もしそうな我々は武器らしいものは何も持っていないから、その点につてだった。まんじりともせぬうち夜は明けた。早朝全員が集められて手榴弾《しゅりゅうだん=手で投げる小型爆弾》が二個づつ手渡された、敵に一個を投げ残る一個は自殺用に使えとのことだった、各人がそれぞれ複雑な思いでそれを受け取り雑のうに納めた。また東の方から爆音が聞こえてきた、そして昨日と同様に毛布を持って裏山に逃れた、このときわが22歳の人生もこれで終わりかとの覚悟は決めたのだ。 この日もまた昨日同様ひっきりなしの空襲だった対空砲火は皆無の状態なのでグラマンは思い切り低空してきて撃ちまくり、ひきもきらず新手で攻めてきた、延べ機数は昨日と同様2,500だった。
燃料も、兵糧も、武器弾薬も、ブーゲンビルやニュウーギニヤ、の前線では喉《のど》から手が出る様な思いで待ち焦がれていただろうに、ここでかくも大量に破壊されたのではと、無念の極みだった。幸いコロールと本島には敵は上陸して来なかった、だが矛《ほこ》先はアンガウルとペリリューに向けられたのだった、彼らはそこに飛行基地を設営したかったのだ。 この日を境にパラオに関して言えば制空、制海権は完全に敵の手中に入ったようなものだった。 正確の数は不明だが相当数いたパラオの軍人軍属はその兵糧自体が危うくなって来たのである。数日後に我が隊は全員が本島に移動することになったのである。飢餓との闘いが始まるのもしらずに.............
南十字星の下でその6 97/03/27 07:26
(輸送船で)
ガタゴト、ガタゴトとタービンが下から突きあげるような音をたてて氣だるそうに、一刻の休みも無く鳴り響いている。貨客船のハッチを急ごしらえに、二つに区切ってさらに蚕(かいこ)棚式に仕切った、兵隊の居間兼ベッドは奥に各人の背のう、雑のう、銃剣&帯革(ベルト)、鉄兜《てつかぶと》、防毒面、防蚊面、南方向きヘルメット、毛布、外被(レインコート)、飯盒などところ狭しと積み上げられた空間に2畳に5人程の居場所があるのみである。出入りは腰を屈めねば不能である、寝るのは文字道り雑魚寝である、ちょっとトイレに行くにも仲間をまたいだり、踏んづけたりで大変である。
船団は12隻からなっていた、かなりの大船団である、そして我が船は其の中の1番船で“水戸丸”(7000トン)クラスの耐用年数はすでに過ぎたような老朽船で2,500人程乗船していた,そして以下2番船から10番船と続き、それらは煙突に各々その番号が書いてあるそしてその集団を護衛するために駆逐艦と捕鯨用のキャチャー.ボートが爆雷を積んで、絶えず其の周りを巡回しながら目的の港まで送っていくのである。時は昭和19年1月の初旬、宇品港で行き先も告げられずに乗船して下関に敵の潜水艦を避けるために一週間程寄港して、或る夜突然あわただしく出港したのだ。五島群島を過ぎ沖縄の沖に差しかかったころは船内はもう人いきれと熱帯的気温で蒸し風呂のようだった。
船番号は船の大きさできまり順番になっているのである、そして敵の潜水艦に狙《ねら》われる場合一番船が一番先の標的になり失敗した場合は二番三番とずらせていくのだそうで、其の点から言ってもいやな船に乗り合わせたものだ。
潜水艦と言えば下関に投錨《とうびょう=いかりをおろす》していた時、たまたま関釜《かんぷ=下関・釜山》連絡船が潜水艦攻撃を受けて救助された兵隊が桟橋に毛布に包《くるま》っているのを目撃したとの噂《うわさ》がひろまり、何処《どこ》へ行くのか何千キロもの航海が待っているのであろう、我が身にしてみれば心中穏やかならぬものがあった。なんせ速度は一番遅い船に合わせしかも夜間は敵の潜水艦の攻撃を避けるためにS字型に航行するのである速度は8ノットだと聞いた、太平洋の真ん中をである、つまり自転車の速度である。
船での生活は睡眠は昼間とり夜はずっと起きているのである、自分もまだ若かったし船旅は勿論初めてでローリング、ピッチングも話には聞いていたが余り気持ちの良いものではなかった。マストの見張り台には船舶隊の兵隊が交代で立ち潜水艦の出没に備えていた、また3日に一度は避難訓練がある、自分は生来低血圧気味で動作が緩慢のほうなので、しばしば行われるこの訓練はつらかった。装身具を全ぶつけて救命胴衣をまとい甲板まで梯子《はしご》を駆け上るのである。
総員2,500余名の兵員に対して救命ボートはうまく脱出できてもせいぜい200名程が乗れれば良い方だったと思う。そこえもってきて信州の山国育ちで全くの金槌《かなづち》ときているから救いようが無い、もっとも100メートルや200メートル泳げたところで場所が太平洋の真ん中でやられでもしたら、どっちみち助かる見込みはない、せいぜい鮫《さめ》の餌《え》か海の藻くずでもなるしか無かったのである。
食事は船尾の甲板に近いハッチで炊事専門の炊事班の様な兵隊が造ってくれるので、自分たち初年兵が飯あげに行くのである。トイレは後部甲板上に急ごしらえの木造で十いくつかに仕切られた個室が並び下はポンプで汲《く》みあげた海水がとうとうと流れていた。原隊は金沢の東部五十二部隊(山砲)で特科部隊は食事は良いのだそうで、その頃に比べ船の食事はすこし落ちる程度だった。