南十字星の下で (7) ホベン
投稿ツリー
-
南十字星の下で (1) ホベン (編集者, 2007/7/16 7:14)
- 南十字星の下で (2) ホベン (編集者, 2007/7/17 7:47)
- 南十字星の下で (3) ホベン (編集者, 2007/7/18 10:27)
- 南十字星の下で (4) ホベン (編集者, 2007/7/19 7:44)
- 南十字星の下で (5)ホベン (編集者, 2007/7/20 7:33)
- 南十字星の下で (6) ホベン (編集者, 2007/7/24 7:44)
- 南十字星の下で (7) ホベン (編集者, 2007/7/24 7:46)
- 南十字星の下で (8) ホベン (編集者, 2007/7/24 7:48)
- 南十字星の下で (9) ホベン (編集者, 2007/7/24 7:49)
- 南十字星の下で (10) ホベン (編集者, 2007/7/25 7:54)
- 南十字星の下で (11) 最終回 ホベン (編集者, 2007/7/26 7:13)
- Re: 南十字星の下で (5)ホベン (岡田義明, 2008/4/16 13:05)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
南十字星の下で その13 97/04/11 09:49
帰らなかった漁労班
南海の魚は色さまざまで美しい、鑑賞用には良いが余り食欲はそそらなかった、鯖《さば》とか鰯《いわし》のような魚は見なかったように思う。 兵糧が底をついた中、動物質蛋白《たんぱく》の補給は欠かせなかった、上層部では漁業経験者を集め漁労班なるものを作った,主力は沖縄出身のパラオ在住の漁民だったらしかった、漁法は網でなく爆薬でとるのだ、まずパインアップル工場での空き缶にいらなくなった50キロ爆弾の黄色薬を詰め雷管をつないだもので、魚の集まりそうな場所を探し発火してそれを投げ込むのであるが、問題はそのタイミングらしかった、早すぎれば魚は逃げ、遅すぎれば危険が伴うのである、うまく行くと魚は死ぬか気絶して海底に沈んでいくらしい、そこで彼らは海に潜り指の間に何匹もの魚を挟《はさ》んだり口にくわえたりして、上がってくるのであるが命懸けの魚法である。本島に来る時、広島からの軍属とは別れたが、其《そ》の中に居たHと言う中年の威勢の良いアニイ?が漁労班のメンバーに入り活躍しているとの話は聞いた、そして或る時期を境に見えなくなったとか、自爆したに相違なかった、これが現在の社会で起きたとしたら大騒ぎになるところだが、戦地ではほんの噂《うわさ》ていどに終わってしまうのだ。
野 鶏 (やけい)
宿舎の近くで時を告げる鶏の声をよく聞いた、近くに民家も無いのにと不審に思っていた、たまたま或る時ゴミ捨て場にコウチン《鶏の1種類》を小柄にした様な鶏を見た、焼き鳥にちょうど良いと思い、そっと近づき捕まえようとすると、驚いたことにさっと飛び上がり高々と舞い上がりジャングルを越えて飛び去った、まさに雉《きじ》さながらだった。聞く処に依ると、民家で飼っていたのが逃げて野性化したのだと言う、ここは天敵が居ないので結構野鶏が多いのだそうだ、その後数羽の雛《ひな》を連れた雌鶏《めんどり》が路を横切る様な場面を時折見かけた、我々が素手で捕らえるにはちょっと敏捷《びんしょう》過ぎた。誰かこの鶏の雛を捕まえてきた。生後1ケ月ほどの小さいものだった、普通の鶏よりも一回り小柄だったが動きはすごく機敏だった、なんとか餌《え》付けをしようと試みたが人の与えるものは一切受け付けず間もなく死んでしまった。最近沖縄の”ヤンバルくいな”が話題になっているがそれと同類らしいものはパラオにもいて野鶏と同様、よく子連れで路を横切るのを見かけた、やはり天敵の猫やイタチが居ないから生き長らえていたのだろう。
エスカルゴの様なもの
体は日増しに痩《や》せ細っていく中なんとしても、動物質の蛋白《たんぱく》は取りたかった、まず目に付いたのは月夜などに、民家に通じる道路や畑のなどに這い回っているカタツムリだった、大きいものは握りこぶし程もあり、ナメクジのようで初めは気持ちが悪くて手が出せなかった、それを拾い集めて食べるようになってきた、まず拾ってきたカタツムリを川端に持っていき石でつぶし、臓物を取り除いたものを針金に突き刺し、それをとろ火で焼くのであるドロドロした粘液が出尽くし、焼きあがるとそれは親指ほどの大きさになる、これを先出の雑炊にでも入れて食べるのである。貝のような味で何とか食べられる、これが食べられるとなると皆で獲《と》るようになるから、なかなか獲れなくなってきた。戦後引き揚げてから5年もした頃パラオでは日本軍が帰還してから台湾マイマイが繁殖して農作物を荒らして其の被害は甚大であるとの記事を新聞で読んだ、我々がエスカルゴの親戚《しんせき》と思って食べていたものは、害虫の台湾マイマイだったのだ。
動くものは皆動物質蛋白に見えた、棒を持って蛇でも蜥蜴(とかげ)でも追いかけた、島が小さいからかそれらはみな小さ目で、しかも余り捕れなかった。蛇はたしかにマムシだったと思う、よくかまれなかったものだが、骨がありスルメを噛《か》むようで美味くはなかった、蜥蜴は美味かったがそんなに沢山はいなかった。ある時用事があり闇夜《やみよ》のなかを灯《あ》かり無しで歩いた、立ち木を手探りで一歩一歩進んで行った時、ついでに蜥蜴をむんずと掴《つか》んでしまい、飛び上がらんばかりに驚いた、トカゲにしてみれば睡眠中を人間の手で押さえつけられ、さすがの冷血動物も心臓麻痺《しんぞうまひ》でもおこしたかも..........
京都出身のF一等兵は甲種合格の現役兵だったが「わてはながむし(蛇)はよう食べんは」と言ってあまり動く物の捕獲に熱心で無かった、そればかりでもないだろうが早くになくなった。
南十字星の下で その14 97/04/14 07:17
飛行機鳥
若い高砂族のR君が飛行機鳥の捕らえ方を教えてくれた、台湾時代から知っていたこととかで、興味深かった、この鳥は鳩《はと》ぐらいの大きさの水鳥で空を飛ぶ時は飛行機のようにきれいに飛ぶのでそう名づけられたのだろう。帰還後に調べたら ”オオミズナギドリ”のことだったらしい、指の間に膜があり水中深く潜り魚をとる事が出来る、ねぐらはジャングルンの5ー6メートルもの高さの木の洞(うろ)である、明け方に海に餌を取りに出かけるのだが指でつかまれないので飛び立つのが苦手で、一旦2ー3メートル落下する様な格好でやっと飛び立つのである。そして夕方巣にもどる時はまっすぐ自分の巣穴に戻る事ができる、そこを見定めて捕まえるのである。これは今の野鳥保護団体などの人から見ればとんでもない事と怒られるだろうが、50年以上も昔の事なので勘弁《かんべん》願いたい、梯子《はしご》などないから、つたかずら等を足がかりにして登って行って、巣穴に手を突っ込んで捕まえるのである、ギャーギャーと助けを求めるように鳴いて可哀相だったが、翼を交互に組ませて下に落とすのだ、これはそれほど大きな鳥ではないので大人数ではせいぜい汁のだしぐらいのものだった 実際とったのは2回ほどだった。
鳥の話のついでだが、山鳩がいた、隣の中隊の下士官が上空に敵機が来る時に爆音にかこつけて小銃で撃ったらしいが爆音に鳩が逃げるし、散弾でないから失敗だったらしい。
タバコの煙のリサイクル
自分は入隊前から喫煙の習慣は無かったので、タバコの配給がストップしても何も困らなかったが、これがニコチン中毒的の人には大変の事だったらしい、お茶の葉っぱを吸ったり、ちり紙をまいて吸ったり、蔦(つた)の葉っぱを干して吸ったりして、見るも哀れだった、たまに誰かが本当のタバコを手にいれると、皆で回しのみするのである、5ー6人で輪になって、半分程に切ったタバコをマッチ棒に突き刺し一口づつ吸うのである、ちょっと余計に吸うとお前もう次ぎにまわせよとか言って小突かれたりするのである。輪に入れなかった兵隊が、輪の上から金魚のように、人のはいた煙をパクパクと吸うのである、煙のリサイクルである、多分炭酸ガスも一緒に吸い込むことになる。今未成年者のような若い女の子が格好つけてスパスパと煙草を吸い半分ぐらいで投げ捨てて居るのを見ると、しきりにあの頃のみじめな時代を思い出すのである、世の中いい時代になったものだと思う反面、好きな煙草も吸えないで、死んで行った兵隊も居た事に思いをいたすのである。
水路で見かけた美女
船舶隊だったので班に一隻のダイハツ(上陸用舟艇)《しゅうてい=小舟》があった、これは多分横浜で造った物らしかった、元小型船舶の船長だった、吉田上等兵を艇長に、漁師あがりの山本一等兵が乗り込んでいた。そして使役の時はこのダイハツでコロールまで出かけた、海の水は澄んで真っ青で下が珊瑚礁《さんごしょう》で白いから船の下を横切る魚がハッキリ見えた、今の東京横浜の汚染された海しか見たことのない人には想像も出来無い事と思う、水路を半分も覆うようなマングローブの茂みは敵機に対して格好のカムフラージになっていた、その日も水路を下りコロールまで行った、帰りに水路に差し掛かった時、一隻のカヌーが下ってきた、恥ずかしそうに胸を隠すようにして乗っていた一人の美女とすれ違った、トップレスだと思った、漕《こ》いでいたのは多分父親だったろう、カナカ族とスペイン人の混血なのかも知れない、南欧的の風貌《ふうぼう》だった。
なんせ我々は半年以上も女性を目にする事も無い世界にいたのである、一同一瞬息をのんだ、パラオでは昭和初期まで女性は腰みのだけだったそうだが、その後ブラウス、を付けるようになったそうだ、トップレスに見えたのは、何か自分に見たいとの願望の様なものがあったのかも............とにかく目の保養にはなったが、なぜかわびしさだけが残った....
刺激が強すぎたのかも.........
帰らなかった漁労班
南海の魚は色さまざまで美しい、鑑賞用には良いが余り食欲はそそらなかった、鯖《さば》とか鰯《いわし》のような魚は見なかったように思う。 兵糧が底をついた中、動物質蛋白《たんぱく》の補給は欠かせなかった、上層部では漁業経験者を集め漁労班なるものを作った,主力は沖縄出身のパラオ在住の漁民だったらしかった、漁法は網でなく爆薬でとるのだ、まずパインアップル工場での空き缶にいらなくなった50キロ爆弾の黄色薬を詰め雷管をつないだもので、魚の集まりそうな場所を探し発火してそれを投げ込むのであるが、問題はそのタイミングらしかった、早すぎれば魚は逃げ、遅すぎれば危険が伴うのである、うまく行くと魚は死ぬか気絶して海底に沈んでいくらしい、そこで彼らは海に潜り指の間に何匹もの魚を挟《はさ》んだり口にくわえたりして、上がってくるのであるが命懸けの魚法である。本島に来る時、広島からの軍属とは別れたが、其《そ》の中に居たHと言う中年の威勢の良いアニイ?が漁労班のメンバーに入り活躍しているとの話は聞いた、そして或る時期を境に見えなくなったとか、自爆したに相違なかった、これが現在の社会で起きたとしたら大騒ぎになるところだが、戦地ではほんの噂《うわさ》ていどに終わってしまうのだ。
野 鶏 (やけい)
宿舎の近くで時を告げる鶏の声をよく聞いた、近くに民家も無いのにと不審に思っていた、たまたま或る時ゴミ捨て場にコウチン《鶏の1種類》を小柄にした様な鶏を見た、焼き鳥にちょうど良いと思い、そっと近づき捕まえようとすると、驚いたことにさっと飛び上がり高々と舞い上がりジャングルを越えて飛び去った、まさに雉《きじ》さながらだった。聞く処に依ると、民家で飼っていたのが逃げて野性化したのだと言う、ここは天敵が居ないので結構野鶏が多いのだそうだ、その後数羽の雛《ひな》を連れた雌鶏《めんどり》が路を横切る様な場面を時折見かけた、我々が素手で捕らえるにはちょっと敏捷《びんしょう》過ぎた。誰かこの鶏の雛を捕まえてきた。生後1ケ月ほどの小さいものだった、普通の鶏よりも一回り小柄だったが動きはすごく機敏だった、なんとか餌《え》付けをしようと試みたが人の与えるものは一切受け付けず間もなく死んでしまった。最近沖縄の”ヤンバルくいな”が話題になっているがそれと同類らしいものはパラオにもいて野鶏と同様、よく子連れで路を横切るのを見かけた、やはり天敵の猫やイタチが居ないから生き長らえていたのだろう。
エスカルゴの様なもの
体は日増しに痩《や》せ細っていく中なんとしても、動物質の蛋白《たんぱく》は取りたかった、まず目に付いたのは月夜などに、民家に通じる道路や畑のなどに這い回っているカタツムリだった、大きいものは握りこぶし程もあり、ナメクジのようで初めは気持ちが悪くて手が出せなかった、それを拾い集めて食べるようになってきた、まず拾ってきたカタツムリを川端に持っていき石でつぶし、臓物を取り除いたものを針金に突き刺し、それをとろ火で焼くのであるドロドロした粘液が出尽くし、焼きあがるとそれは親指ほどの大きさになる、これを先出の雑炊にでも入れて食べるのである。貝のような味で何とか食べられる、これが食べられるとなると皆で獲《と》るようになるから、なかなか獲れなくなってきた。戦後引き揚げてから5年もした頃パラオでは日本軍が帰還してから台湾マイマイが繁殖して農作物を荒らして其の被害は甚大であるとの記事を新聞で読んだ、我々がエスカルゴの親戚《しんせき》と思って食べていたものは、害虫の台湾マイマイだったのだ。
動くものは皆動物質蛋白に見えた、棒を持って蛇でも蜥蜴(とかげ)でも追いかけた、島が小さいからかそれらはみな小さ目で、しかも余り捕れなかった。蛇はたしかにマムシだったと思う、よくかまれなかったものだが、骨がありスルメを噛《か》むようで美味くはなかった、蜥蜴は美味かったがそんなに沢山はいなかった。ある時用事があり闇夜《やみよ》のなかを灯《あ》かり無しで歩いた、立ち木を手探りで一歩一歩進んで行った時、ついでに蜥蜴をむんずと掴《つか》んでしまい、飛び上がらんばかりに驚いた、トカゲにしてみれば睡眠中を人間の手で押さえつけられ、さすがの冷血動物も心臓麻痺《しんぞうまひ》でもおこしたかも..........
京都出身のF一等兵は甲種合格の現役兵だったが「わてはながむし(蛇)はよう食べんは」と言ってあまり動く物の捕獲に熱心で無かった、そればかりでもないだろうが早くになくなった。
南十字星の下で その14 97/04/14 07:17
飛行機鳥
若い高砂族のR君が飛行機鳥の捕らえ方を教えてくれた、台湾時代から知っていたこととかで、興味深かった、この鳥は鳩《はと》ぐらいの大きさの水鳥で空を飛ぶ時は飛行機のようにきれいに飛ぶのでそう名づけられたのだろう。帰還後に調べたら ”オオミズナギドリ”のことだったらしい、指の間に膜があり水中深く潜り魚をとる事が出来る、ねぐらはジャングルンの5ー6メートルもの高さの木の洞(うろ)である、明け方に海に餌を取りに出かけるのだが指でつかまれないので飛び立つのが苦手で、一旦2ー3メートル落下する様な格好でやっと飛び立つのである。そして夕方巣にもどる時はまっすぐ自分の巣穴に戻る事ができる、そこを見定めて捕まえるのである。これは今の野鳥保護団体などの人から見ればとんでもない事と怒られるだろうが、50年以上も昔の事なので勘弁《かんべん》願いたい、梯子《はしご》などないから、つたかずら等を足がかりにして登って行って、巣穴に手を突っ込んで捕まえるのである、ギャーギャーと助けを求めるように鳴いて可哀相だったが、翼を交互に組ませて下に落とすのだ、これはそれほど大きな鳥ではないので大人数ではせいぜい汁のだしぐらいのものだった 実際とったのは2回ほどだった。
鳥の話のついでだが、山鳩がいた、隣の中隊の下士官が上空に敵機が来る時に爆音にかこつけて小銃で撃ったらしいが爆音に鳩が逃げるし、散弾でないから失敗だったらしい。
タバコの煙のリサイクル
自分は入隊前から喫煙の習慣は無かったので、タバコの配給がストップしても何も困らなかったが、これがニコチン中毒的の人には大変の事だったらしい、お茶の葉っぱを吸ったり、ちり紙をまいて吸ったり、蔦(つた)の葉っぱを干して吸ったりして、見るも哀れだった、たまに誰かが本当のタバコを手にいれると、皆で回しのみするのである、5ー6人で輪になって、半分程に切ったタバコをマッチ棒に突き刺し一口づつ吸うのである、ちょっと余計に吸うとお前もう次ぎにまわせよとか言って小突かれたりするのである。輪に入れなかった兵隊が、輪の上から金魚のように、人のはいた煙をパクパクと吸うのである、煙のリサイクルである、多分炭酸ガスも一緒に吸い込むことになる。今未成年者のような若い女の子が格好つけてスパスパと煙草を吸い半分ぐらいで投げ捨てて居るのを見ると、しきりにあの頃のみじめな時代を思い出すのである、世の中いい時代になったものだと思う反面、好きな煙草も吸えないで、死んで行った兵隊も居た事に思いをいたすのである。
水路で見かけた美女
船舶隊だったので班に一隻のダイハツ(上陸用舟艇)《しゅうてい=小舟》があった、これは多分横浜で造った物らしかった、元小型船舶の船長だった、吉田上等兵を艇長に、漁師あがりの山本一等兵が乗り込んでいた。そして使役の時はこのダイハツでコロールまで出かけた、海の水は澄んで真っ青で下が珊瑚礁《さんごしょう》で白いから船の下を横切る魚がハッキリ見えた、今の東京横浜の汚染された海しか見たことのない人には想像も出来無い事と思う、水路を半分も覆うようなマングローブの茂みは敵機に対して格好のカムフラージになっていた、その日も水路を下りコロールまで行った、帰りに水路に差し掛かった時、一隻のカヌーが下ってきた、恥ずかしそうに胸を隠すようにして乗っていた一人の美女とすれ違った、トップレスだと思った、漕《こ》いでいたのは多分父親だったろう、カナカ族とスペイン人の混血なのかも知れない、南欧的の風貌《ふうぼう》だった。
なんせ我々は半年以上も女性を目にする事も無い世界にいたのである、一同一瞬息をのんだ、パラオでは昭和初期まで女性は腰みのだけだったそうだが、その後ブラウス、を付けるようになったそうだ、トップレスに見えたのは、何か自分に見たいとの願望の様なものがあったのかも............とにかく目の保養にはなったが、なぜかわびしさだけが残った....
刺激が強すぎたのかも.........