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南十字星の下で (4) ホベン

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通常 南十字星の下で (4) ホベン

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/7/19 7:44
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 南十字星の下で その7 97/03/30 07:10

 輸送船で (二)


 入隊前の20の時、戦時中の徴用令《ちょうようれい=国民を強制的に一定の業務に付かせる令状》にひっかかり呉の海軍工廠《かいぐんこうしょう=艦船、兵器、弾薬などを製造、修理する海軍の機関》で2年間も機銃弾の信管《しんかん=起爆装置》をを造らされていた、夜勤、昼勤の2交代の繰り返しで労働を強いられて心身ともにくたびれ果てて徴兵検査の時は体重も48キキロと衰弱しきっていた、そして結果は第二乙種というひどいものだった。 金沢へ入隊したのは3ヶ月の教育招集だった、山砲《さんぽう=山地で使うため分解して運搬する大砲》隊は特に強健の体力が要求され、分解した砲身や砲架《ほうか=砲身を乗せる台》を三人で、特殊のヤットコの様なもので頭上より高く持ち上げて、馬の背中に結わえ付け、搬送したり、時には,ひ力搬送と言ってうまの背を借りずに兵隊だけで運ぶ様なことも有り大変だった、非力の自分には持ち挙げるのはせいぜい胸くらいまでしか持ち挙らずその点では砲兵は失格だった。

 3ケ月の教育が終わる頃、暁部隊への転属の話が出た,日ごろ何かと相談にのって呉れていた班長に、自分は呉の工廠には戻りたくない旨は言ってあったので、暁部隊への転属は願っても無い転身だと其の時点では思った。そして50人程が戦友らに見送られて横浜の駐屯地に向かったのである。横浜の門間(まかど)には東日本各地からの500人程が結集した。宿舎は横浜の富豪若尾侯爵《こうしゃく=貴族の階級》の別邸で、海を見渡せる小高い丘の上にあり、門など由緒ある仏閣のそれを思わせる程のものだった。一階は居間をぶち抜き、地階は三台ほどの玉突《ビリヤード》台を取り除いたあとに全員が寝泊まりしたのである。年取った召集兵と古参の二,三年兵が多い中自分と同じ位い若い兵隊は割合少なかった。横須賀に近いせいか陸軍の駐留は当時は非常に珍しいらしく大事にされた、古い兵隊には近所の娘さんと恋愛関係まで進んだ者もいたらしい。炊事場、洗面所など急ごしらえにバラックで建てられたものだった。

 任務は生麦の日産工場で製造していた、ベニヤ板の上陸用の舟艇《しゅうてい=小舟》製造のヘルパーのようなものだった。当時は戦争はたけなわで鉄の生産は追いつかず、ついにベニヤ板と接着剤で造る上陸用舟を考え出したものと思う。南方からきた直径1メートル以上もあるラワン材の丸太を船から下ろし、筏《いかだ》に組み水路を貯木池まで運び、2-3メートルに切断し、時間をかけて煮沸し、柔らかくして両端を固定して巨大の旋盤《せんばん=切削・孔あけなどの工作機械》のようなもので、干瓢(かんぴょう)でも剥《む》くように薄く削っていくのである。そして乾燥させて接着剤で張り合わせて仕上げ、船に仕上げていく一貫作業を当時やっていたのである。仕上がれば完全武装の兵隊を80人も乗せられるとのことだった、エンジンは日産のお家芸のダイハツを載せたものだった。今では技術も進み。ヨットから1,000トンもの船までベニヤで造れるほどになっているそうだが、その時はまだベニヤの船で大丈夫かなと言う危惧《きぐ=不安》のほうが大きかった。

 間門と生麦はかなり距離があるが、当時市電は通っていたが、朝晩の通勤は白の作業衣で飯盒《はんごう》の弁当持参の集団が電車に乗ったのか行軍したのかさえも今ではよく覚えていない、ただ覚えているのは、夕食後に初年兵は便所の裏に集合で、整列させられ満州から転属してきた教育係の古年兵の私的制裁で訳も無く殴られたことである。”お前らこのごろたるんでるぞ”とか”敬礼の仕方が悪いぞ”とかとにかくたいしたことでもないのに殴られるのである。いよいよ理由が無くなると“貴様《きさま=おまえ》このごろよくやるぞ、其の調子でやれ”とか言って、これまた殴られる。陳腐《ちんぷ=古くさい》な言葉だが烏《からす》の鳴かない日があっても初年兵の殴られない日はないのである、まれに初年兵集合の声が掛からない日があると、何か忘れちゃいませんか、といった感じだった。召集兵のN一等兵が”夕方の儀式が無いとなんだか落着かないね”ともらした。我々が入隊した頃から私的制裁はやらないようにとの通達が出ていたとは聞いていたが、余り守られていなかったと思う。

 ”初年兵教育とは殴ることなり”と心得ていた古兵が如何《いか》にはばをきかせていたことか、年月が経って多くの人の顔も名前も忘れた中であの古年兵の顔も名前もハッキリと覚えている。


 南十字星の下で その8 97/04/02 07:22

 輸送船で (三)

 特に辛かったのは対向ピンタだった、初年兵同士が2列に並ばされ相手を殴るのである、戦友同士特に仲の良い同士の場合がいやだった、目で謝り乍《なが》ら殴るのであるが、どうしても手加減をしてしまうのである、それが意地悪の古年兵にでも見つかると大変である、殴るとはこういうもだとお手本をやって見せてくれるのだ、それを又お手本通りにやる、つまり受け身の側は三回も殴られるのである、そしてこちらが殴られる側にまわるのである。

 いま中学生の陰湿ないじめ問題が持ち上がっているが、いじめの原点は我々日本人の心の片隅の何処《どこ》かに巣食って居り時々頭を持ち上げるらしい、そしてそれが子々孫々へと受け継がれていくのでは等と思うと空恐ろしくなる。普通原隊にでも居ると半年もすると、次々と新しい兵隊が入ってきて新兵も順次古兵になっていくのであるが自分の場合は後から入ってくる者は居なかった、したがって殴られどうしで人を殴るチャンスには恵まれなかった、かりに恵まれたとしても自分の性質ではそれは行使できなかったかもしれないが、誰にも恨まれ無くて済んだのだからそれはそれで良かったのかと思っている。

 軍隊生活ではよく物がなくなる、これをそのままにして置くと古兵や班長にこっぴどく怒られる、それはよそから頂いてきて穴埋めするのである、お願ひしてでは無い、黙って頂くのだ、これを軍隊用語で員数を付けると言う、言うまでもなく一般社会ではこれを盗みという、だが軍隊では黙認されるのだ、したがって一つ物が無くなると連鎖反応的に物が無くなるのである、ただしこれは官給品の紛失の場合で、私物となると話はまた別である、物を盗られる方が悪いのだ、罪人を一人つくることになるのだそうだ、この場合上記の対向ピンタになるのだ、したがってそれを避けるため、多くの場合泣き寝入りしてしまうのだ。

 たまの休みは初年兵は大変である、自分の衣類班長殿のシャツ等の洗濯である、それが乾く頃はまた盗難予防の見張りもしばしばだった。田舎からまだ健在だった母と弟が面会に来てくれたのも其の頃だった、場合によっては、それが最後の別れになったかもしれなかったのだが..........
 軍隊で何時までもただ飯を食わして置くはずがなかった、官費旅行《=戦地へ出発する》の時が徐々に近ずいて来たらしく、隊の中がざわついて来た、十一月末に広島に行く命令が出たのである。

 広島の暁部隊の本部と思われる処に全国からぞくぞくと兵隊が集まって来た、其の数はおよそ1500人程だったと思う。とりわけ四国,九州の出身者が多かった、満州からの三年兵、四年兵とか言う軍隊で言う神様的の兵隊から、召集令状で集められた子どもの2,3人も居るような気の毒そのものの様な人も何人か居たのである。 宿舎はかの有名な海軍兵学校のある江田島の対岸だった、2,3週間は江田島の船舶の修理工場に見学者のような格好で通った。波止場にはハワイ《=真珠湾攻撃》で使ったと思われる特殊潜航艇《とくしゅせんこうてい=魚雷を持って潜水艦や母艦から発進する小型舟艇》が展示してあった、今はもう秘密でもないだろうから言えるが、戦争末期の特攻隊《とっこうたい=特別攻撃隊》的の一旦発射されれば後には戻れない式のものだったらしい。

 そうこうするうち、上層部での編成替えはどんどん進みいよいよ発表の段階となったのである、金沢からの初年兵とは別れ別れになったが、幸いのことに横浜で同じ釜《かま》の飯を食べたG県出身の岩井二等兵とは同じ班になったこれは非常に嬉しかった、正確の数字は知る由もないが、編成は少なくとも三十班程には成ったものと思う。恐らくは北はアリューシャンから台湾、香港、シンガポール、南はマニラ、ニューギニヤ等に割り振られたのだ、武運つたなく戦死するか目出度く生還出来るかがこの時点で決まった様なものだったが、それは神のみが知る事だった、運、不運は俗に言う紙一重だったのだ。自分は運良く命長らえて生還できたので、住所の分かっていた金沢時代の戦友の消息を確かめたら、二人とも場所は不明だったが戦死していた。

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