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南十字星の下で (5)ホベン

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通常 南十字星の下で (5)ホベン

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/7/20 7:33
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 南十字星の下で その9 97/04/04 07:28

 輸送船で (四)

 六泊七日の休暇が出たのである広島から長野県岡谷市までである、今のような新幹線と言ったような早い列車はなく、片道二十二時間の旅だった、それが今生の別れになったかも知れなかったのである、親類縁者会い尽きぬ話に花が咲いた、歓待されたのも束の間、野戦への出発点の宇品にもどったのだった。

 船団は相変わらず大海原をのたりのたりと進んでいる、何処を見ても青い空紺碧《こんぺき=少し黒味を帯びた青色》の海である、時々飛魚《とびうお》がすいすい飛んではまた着水して行く、甲板に降りるあわてものもいたりする、夜は真っ黒い水の中に蛍《ほたる》でも飛ぶようにキラキラと夜光虫が見え隠れする、これで戦争でも無ければなんと浮世を離れた世界を思わせるのだが。 広島での編成でこの船に乗ったのは二班だけだった、我が班は幹部候補の少尉で隣は横浜からの中尉の引率だった。やがて二班ではあるが行き先は違うらしいことが分かって来た、一班の人員は三十数名で構成されていた。

 隣の班は満州からの強者が多く、数人で通路に天幕をひいて数人で車座《=輪になって座ること》になってオイチョカブのお開帳《=賭博を始めること》である、厚紙に手書きのちゃちのカードでプレイするのだ、自分は元来勝負ごとが嫌いで囲碁、将棋、マージャン等は手を出したことすらなかったので、オイチョカブのルールすら分からなかったが、勝ち負けは単純で手持ちのカードが9なら勝ちで0なら負けである、数が少なければ、もう一枚とか言って、さらに配ってもらい勝負をつけるのである。

 本来は船内で賭博が許される筈《はず》が無いと思うが、輸送船内は無法地帯だった。賭《か》けるのはマッチ棒では面白くないらしく、兵隊の貰《もら》う小額の金だった、和歌山県のK上等兵は満州からの四年兵で博才《ばくさい=ばくちの才能》に長けていた、皆の金を巻き上げるんじゃないかと思われる程付に付いていた、隊長の中尉は威勢のいい人だったが横浜では、酒がはいるとよく軍刀で床をトントンと小突いては「貴様らぶった斬《ぎ》るぞ」なと怒鳴っていた、兵隊相手でもめったなことは言うものではないと思うのだが。この中尉どのも海千山千の古い兵隊にはてこずっているのか、何も言えないどころか、時々仲間になって金を巻き上げられていた。

 四国出身の中年の召集兵の中山一等兵は船が動き出すや否や船酔いで寝たきりの状態で、食事も殆ど《ほとんど》取らずに日に日に弱って行った、我々他に何の楽しみもない 初年兵はそんな人の手を付けない食事までも分け合って食べたものだ、また炊事場から時折貰《もら》うおこげは格好のオヤツになった。
 野戦ではこれから何が起こるのか、全く分からないのだが兵隊たちは自分の生い立ち、お国自慢の話、妻帯者は子自慢からはてはおのろけへと話は尽きないのである。
 なにしろ兵隊が多いのだから、洗濯、行水《ぎょうずい=水浴び》もままならぬ、チャンスは一度しか無かったと思う水の余裕が無いのだから仕方が無い。

 敵の潜水艦に脅えての明け暮れだった、出港後四週間が過ぎた頃だったか、頭上を何回も旋回していったのは、頼もしくも日本海軍の哨戒機《しょうかいき=敵を見張る任務の飛行機》のお出迎えだったのだ、翌朝長い船旅も無事に終わり、待望のパラオのコロール港に入港出来たのである。海軍から全船欠けることなく入港できたのは2,3ケ月ぶりとかで日本酒の差し入れがあった、船酔いで食事も取れなかった中山一等兵は担架で運ばれての下船だった。、


 南十字星の下で その10 97/04/05 07:17

 本島へ

 廃墟《はいきょ=荒れ果てた跡》と化した、と言うよりもむしろ焼け野が原になってそしてまだ黒焦げになってくすぶっているコロールの波止場を後にして装身具を付けて本島に移動することになった、しばらく歩き水道を渡し舟で渡ると本島である、湾内を見渡すと無残にもあちこちに六十数隻と言われる船が舳先《へさき》をあげたり、船腹を横たえたりして哀れにも其の残骸《ざんがい》をさらしていた。 湾内は水深が浅いから完全の沈没は免れたのであろうが、恐らく何百人かの死傷者が出たに違いない。

 本島の広さは東京都か、淡路島の大きさらしい、久しぶりの行軍で十数キロも歩いただろうか、小高い丘の上の一軒の廃屋にたどり着いた先住者は多分戦争が激しく成ってくるので引揚げたのだろうか、そこに駐屯することになった、日のよく当たる海の見渡せる良い場所だった。先のことは分からないがこれからは空襲もますます激しくなってくるだろう、そのころはまだ食料も不足ながらも何とかあったし、まあまあの生活はできた、たまには酒も出たりして宴会もした、夕食後には隊長の少尉どのによる士気を鼓舞する《=ふるいおこす》ための軍歌演習などやり、南十字星を仰ぎ乍《なが》ら声をかぎりに歌った。
”暁に祈る”

ああ あの顔であの声で
手柄頼むと妻や子が
ちぎれるほどに振った旗
遠い雲間にまた浮かぶ

 内地でなんとなく歌っていた時と違い、歌う程に涙ぐんだりして来た。少尉は滋賀県の人だった、自分と同年代位に思えた、威張るところがなく兵隊達も親近感を持って接することが出来た。  
 故郷へは初めは南海派遣軍で、2回目は濠北《ごうほく》派遣軍で軍事郵便を出したが、届いたか届かなかったか返事を受け取った人は居なかったようだ。そして1-2ケ月して敵機から目立たないようにジャングルに入るようになった。

 南の方の戦況も芳しくないとの情報が伝えられる最中、4月の下旬に待つこと久しかった満州チチハルからの精鋭の照部隊一個師団がパラオ防衛のため到着した、全員が現役のバリバリの戦闘部隊なのだ、なんと頼もしいことか、彼らもまた途中無事で入港できたのだ、この大船団は敵がやっきとなって後を追っていたものだったとか。51キロ離れたアンガウルに一個聯隊《れんたい=連隊》、30キロのペリリューに二個聯隊が配属されたとかだった。

 轟沈《ごうちん=瞬時に撃ち沈められる》された赤十字船

 この事件は当時は全く報道されなかたらしい重大事件だった。満州からの照部隊の輸送を無事果たした、貨客船”xx丸”は、(残念ながら船名は忘却)昭和十九年五月初旬の出来事だったと思う。
 船体に大きな赤十字マークを書き、戦争も日増しに激しくなる中で、戦禍を逃れて日本に引き上げるための婦女子3,500名を(正確の数字は不明)乗せ、コロールを出て間もなく敵の潜水艦より轟沈されたのである。
 今盛んに騒がれている阿波丸と同様に安全航行が国際的に保証されていながら無視された大事件であった。これは周りの兵隊たちを含めての意見だったが、照部隊のパラオ入港を阻止出来なかった敵の腹いせ的の行動だったかもしれないと、これは日本軍をも含め、勝たんがためには何をしても許されるのかとの問題を含んでいる、助けを求める事も出来ずに苦しみ、そしてやりきれぬ恨みを残して亡くなられた方々の冥福《めいふく》お祈りするとともに、事実は事実としてみ、後世に伝えるのも残された者の義務だとも思いこの機会に述べさせてもらうことにした。
 日本を出る時は心の片隅には南方に行けるのは何か旅行にでも出かけるような軽い気持ちがあったようだが、これを境に戦争とは恐ろしいものだとつくづくと感じるようになった。

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