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我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/4/18 6:40
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 騎兵学校の章 3

 七月か八月か日は覚えていないが、千葉県の白浜海岸へ、速射砲の実弾射撃演習に行った。演習とは名ばかりで、実際は海水浴であったか、射撃演習か名目なのだから、やらない訳にはいかない。速射砲を一の宮海岸の砂浜に海に向けて据付け、三、四百米程沖に浮かぶ目標的に実弾を発射した。この速射砲は故障が多いのか、或いは暴発弾が多いのか、発射する際は、測距手も射手も十米程後方に下がり、引き鉄にロープをつないで、それを引いて発射した。何とも不思議な実弾射撃演習であった。演習も終わってあとは水泳である。泳ぎの達者な者は白帽、暫くでも浮いていられる者は白赤のタングラ帽、金槌は赤帽であった。川口と私はまずまずの方(川口は抜群の運動神経の持ち主で、何をやらしても、私など足元にも及ばない程であった)だったので、ともに白帽をかぶった。一しきり泳いだあとすぐ側の川で黄色火薬の爆破実験をすることになり、区隊附下士官が五十糎立方位に梱包した黄色火薬を用意して川の中央に沈めた。川は、ほぼ私の背丈程の深さで、幅は河口なので三十米位はあったと思う。「危険だから皆、岸へ上がれ、爆発のあと魚が浮いたら飛び込んで拾へ」ということで、私達はあわてて川岸へ上がった。区隊附下士官がスイッチを入れた。大爆音と共に直径二米位の水柱が、二十米程の高さに真っ直ぐに上がった。子供の頃「少年倶楽部」などで、日露戦争の日本海海戦の挿絵があったが、その中で軍艦の周囲に上がっている水柱が真っ直ぐなのを不思議に思っていたが、全くその絵の通りなので、成程水中で爆発か起きると真っ直ぐ上に水柱か上がるのだと納得したことであった。さて北支中支の戦線で、池に手榴弾を投げ入れると、魚が一面に白い腹を見せて浮き上がるということを聞いていたので、目を皿のようにして水面を見ていたか、一向に一匹も浮いて来ない。不思議に思いなからしばらく待っていたけれども浮いて来ないので飛び込んで泳いでいると、背中や脚の方々で何かが触れる。手をやって見ると、大小の魚が浮力を失って水中を漂っている。失神しているのだろう。何匹も足の指で挟んだり手で掴み取ったりして、区隊附下士官が乗っている舟に投げ込んだ。その日の夕食にそれらの魚が、食卓に上がったのは言うまでもない。それにしても、何故魚が浮かなかったのか不思議でならない。

 また或る日。「緒方候補生、面会だぞ」と誰かが知らせてくれた。ハテナ?こんな処まで誰が面会に来てくれたのかな、と不審に思いながら面会所に行くと次兄か立っていた。久し振りだったので色々な話をしたと思うが、最後に軍刀を買ってやるからそのつもりでという。大変嬉しい話。やっぱり兄貴である。他人ではこんな嬉しい話はしてくれない。有難く感謝してご厚意に甘えることにした。後日東京へ出て九段のあたりで、細身の長い騎兵向きの軍刀買って貰った。沢山の軍刀の中から選び抜いて、とっても気に入って買い求めた銀いぶしの軍刀だったので、終戦になるまで私の腰から離れたことはなかった。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/4/20 7:34
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 騎兵学校の章 4

 十二月二日。「捜索第五十三聯隊補充隊二転属ヲ命ズ」この命令の意味がはっきり分からなかった(この時は既に私達の所属する第五十三師団に動員令が下っていたのだが、分遣中なのでそんなことは知るよしもない)のでいい加減に聞き流して置いた。十二月に入ると、大抵富士の裾野で期末演習かあって、その演習か終わると教育終了となり、見習士官になって所属部隊へ帰隊するのだという噂が流れた。こういう情報は誰が仕入れて来るのか分からないか、概ねその通りになるので、我々もその頃になると期末演習を心待ちすることになる。

 十二月下旬。期末演習の為、第一中隊全区隊の候補生か軍用トラック何合かを連ねて習志野を出発した。東京から横浜、小田原、箱根を過ぎてその日の夕方、西富士の猪ノ頭廠舎に入った。翌朝起床して東の空を仰ぐと雲一つない快晴の空に、富士はもう山の中腹まで雪を載いて聳えていた。廠舎から見る富士山はあまりにも近過ぎて、さして美しいとも思えない。富士山はやはり遠くから見るに限る。

 西富士では戦闘訓練で実弾を使用した。散開、匍匍前進の後、前方六〇〇米に射倒的が十四・五個横に並んでいる。私は狙撃銃(三八式歩兵銃に眼鏡が付いている)を持たされていたので、中隊長が「アレを撃て」「コレを撃て」と命ずるままにその射倒的を全部一発づつで倒した。「うまいナ」と中隊長が誉めてくれた。奈良中学以来の部活動の射撃がこの時役に立ったのである。しかも持っていた銃の性能か抜群に良かったからだった。あの狙撃銃は今でもあれば欲しいものの一つである。また演習の合間に曽我兄弟に由縁があるという音止めの滝や白糸の滝等を見学したのも思い出に残っている。

 やがて演習場は西富士から北富士の梨ヶ原演習場へと移った。我々は防禦軍で、第二区隊長の加藤大尉が仮設の中隊長となり、私は中隊附淮尉の役で、その夜は徹夜の演習であった。演習の目的、状況などは皆目分からないか取敢えず中隊長の傍に控えていた。その夜は滅法寒かった。恐らく零下七・八度、いやもっと寒かったかも知れない。陣地構築の為に円匙で蛸壷壕を掘るのであるが、普段、習志野原の演習などではロクスッポ壕を掘ったことのない連中が、寒さのあまりに掘るわ掘るわ、六尺以上も掘ったうえに御丁寧にも階段まで付けている。更に中隊長用・小隊長用、その他中隊附淮尉の壕までを掘っている。兎に角体を動かしていなければ凍ってしまう。耳がちぎれるかと思う程痛い。だから皆タオルで耳を隠すように頬かむりしている。畑を耕している百姓のおっさんそのままの姿だ。中隊長は凍てついた大地にドッカと腰を下ろして地図を広げている。私も仕方がないので、中隊長の傍であぐらをかいて座っていた。その後の状況は覚えていないが、あの寒さだけは忘れられない。

 やがて夜のとばりが徐々に上かって、攻撃軍と白兵戦になる手前で、西の空に状況中止の黒吊星(信号弾)が上がった。小さな落下傘を付け黒い煙の尾を引いて落ちてくる黒吊星を見たときは、今までの寒さなどは何処かへふっ飛んで、思わず万歳を叫びたい気持ちであった。それというのも、この黒吊星は陸軍騎兵学校に於ける総ての教育終了のしるしだったからである。後になって同期生達に聞いて見たが、誰に聞いてもあの黒吊星だけは忘れられないと言う。

 十二月二十八日。卒業式の日である。全候補生か校庭に整列。型通りの訓示の後、第一区隊の井上候補生に教育総監賞が授与され、我々には一枚の卒業証書か配られ卒業式は終わった。

 「教育終了二付キ原隊二復帰ヲ命ズ。同月同日陸軍曹長ノ階級二進メ陸軍兵科見習士官ヲ命ズ。同月同日将校勤務ヲ命ズ。同月同日第一中隊附」全員一斉に校舎へ飛び込んで、直ぐさま階級章を曹長に取り替えた。夢にまで見た憧れの見習士官である。被服、兵器など一切を返納して帰隊の準備は完了した。今夜一晩此処で寝るだけだ。馴染んだ南京虫とも今夜限りである。まあ今夜ぐらいは思う存分血を吸わせてやるか。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/4/21 6:46
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 見習士官の章 1

 翌朝。私達捜索第五十三聯隊の候補生七名は、一装の軍衣袴に私物の刀帯を着け私物の軍刀を腰にして、颯爽と陸軍騎兵学校を後にした。津田沼までの長い道程も今日は苦にならない。何時ともなく誰からともなく帰隊を一日延ばして、明日の晩にしようじゃないかと言い出した。こういう相談は即座にまとまる。誰も反対する者はない。寧ろそれを望んでいるのだ。

 誰もが一刻も早く新品見習士官の姿を家族に見せたいのである。明三十日午後十時、京阪電鉄「師団前」駅に集合、揃って帰隊しようということになった。私は京都駅から奈良電車で一目散に我が家へ帰った。正月前の忙しい一日だったけれども、のんびりした気分で一日を過ごし、約束の時間に約束の場所に集合した。そして七名打揃って意気揚々と我が聯隊の正門に向かった。正門歩哨が立て銃のまま、上体を十五度前へ傾けて敬礼をした。「敬礼が違う」と早速誰かが気合いを入れた。歩哨はあわてて捧げ銃の敬礼に変えた。

 何はさて置き週番司令に帰隊の申告をしなければならない。週番司令の山上副官の前に横一列に整列して、長谷川候補生が申告しようとした処で「待て」と並べ替えさせられて、私が代表で申告することになった。

  「陸軍兵科甲種幹部候補生緒方隆下五名ノ者ハ、幹部候補生集合教育ノ為、陸軍騎兵学校二分遣中ノ処、昭和十八年十二月二十八日、教育終了原隊復帰ヲ命ゼラレ、同月同日附ヲ以テ陸軍曹長ノ階級二進メラレ、陸軍兵科見習士官ヲ命ゼラレマシタ。ココニ謹ンデ申告致シマス」

 申告を終えた途端、「今まで何をして居たか」とデカイ雷が落ちた。五人は「アッ」と思った。そして呆気に取られた。何をしていたかは、とっくにお見通しであったのである。今までの意気揚々たる気分は、正に青菜に塩の如く、スゴスゴと週番司令室より退出したのであった。即ち我々の帰隊予定の日時、騎兵学校の卒業成績などは、我々よりも早く原隊に通報されていたのであった。最近になって各期の方々に聞いてみた処、殆んどの期は我々と同じく帰隊を一日延ばしたらしい。
 「皆考えることは同じなのだな」と笑い合ったことである。

 帰隊してみると、我々の元の原隊(捜索第五十三聯隊)は動員下令で既にこの兵営を出ていて、後は捜索第五十三聯隊の補充隊とな、ていた。十二月二日の転属命令の意味かようやくここで判明した。我々五名は浅井、桑原の二名が第二中隊附となり、川口、長谷川、私の三名が第一中隊に残った。補充隊長は内海東一中佐、第一中隊長は北浦一夫中尉、第二中隊長は福井良盈中尉で、第三中隊はもう無かった。我が第一中隊の中隊附は広田某少尉、上原義三少尉(現三宅義三氏)、私達の教官であった岡田隆夫少尉、竹村哲弥少尉、土田善丈少尉、森島達雄少尉、そこに私達新品見習士官三名が仲間入りしたわけである。下士官以下の顔ぶれも殆んど替わっていて、顔見知りの人といえば、昨年末満期除隊した私の四年兵岡田末次、浅部清の両氏が早くも召集で再入隊。三年兵では私達の助教であった浜口保吉、尾家利男、小堀和美、坂本健一、曾和清の五氏、二年兵では織戸清、佐々木鴻吉の両氏、そして同年兵では川島秀雄、中村実、藤井謙一、吉岡巌の四君が残留していた程度であった。それに第一次学徒出陣の新兵たちが、右胸に小さい日の丸のマークをつけて入隊して来ていた。その中には同志社高商時代の一年先輩の宮脇佑一氏や同級生の大西隆君(共に馬術部員であった)等の顔もあった。彼等はもうすぐ幹部候補生の試験があるので、夜になるとよく見習士宮室へ勉強をしに来た。私は不勉強で典範令などはあまり見たことはなかった。そんな暇がなかったからである。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/4/22 7:04
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 見習士官の章 2

 二日経つともう昭和十九年である。私は元旦早々から見習の週番士官として、正週番士官の上原少尉に付いて歩き、週番勤務のABCを教わった。この見習の勤務がその後の十数回の週番勤務の基礎となり、戸惑いすることなく無事に勤められたのも、この時手とり足とりして御指導下された上原少尉のお蔭だと、今でも感謝している。

 週番といえば、師団の二種巡察も面白かった。二種巡察は毎週の休日を師団所属の各聯隊が交替で勤めるので、二ヶ月に一回位の割合で私の聯隊に廻ってきた。私も在隊中二・三回巡察に出た。騎兵の巡察は歩兵や軸重兵、野砲兵、工兵などの兵科と違って乗馬で行うので格好が良かった。本町通りか師団街道を京都市内へ下士官兵を二名引率して、三騎で遠乗するのであるが、一般の人達の注目の的となり、この時ばかりは騎兵で良かったナと思ったものである。私の巡察には、いつも森島という応召兵がついて来てくれたのを覚えている。

 見習士官勤務中は補充兵の教育を受け持った。殆んどの兵が私よりも五・六歳以上年長で、国の為とはいいながら気の毒だなあと思った。新兵の時、私は図太かったので毎日殴られぬ日とてなかったが、その殴られる時の、気持のやるせなさが、イヤという程判っているので、私は絶対に兵を殴らないと誓っていたのだが、内務班での彼等か私の目の届かぬ処で、制裁を受けているかも知れないと思うと、年齢による体力的なハンディと共に気の毒だと思わずにはいられなかったのである。

 或る日。教育中の補充兵を引き連れて、直違橋通りの藤森神社のあたりを乗馬行進していると、前方から歩兵の一部隊がやって来るのに出会った。学徒出陣の兵隊らしく右胸に小さな日の丸のマークを付けていた。「歩調取れ、頭ア右」と号令をかけた取締兵らしい新兵の顔をみると、何と同志社高商時代の二年先輩で、しかも同じ射撃部で共に活躍した塩貝晶氏であったのには驚いた。彼は高商から大学に進学していたので、入隊が私より一年遅れ、先輩が後輩に敬礼しなければならないという軍隊独特の場面を生むことになったのである。軍隊は一日でも早く入隊した方が上官である。

 間もなく竹村少尉か何れかへ転属し、同僚の川口見習士官も航空通信に転属が決まって聯隊を去った。
 川口君は京都絵画専門学校出身。親父も日本画家である。学生時代は私と同じく射撃部で、大学高専大会などでよく顔を合わせた。それ以来の仲で、騎兵学校でも同じ区隊であったし、づっと私と同じ道をたどって来たのだが、ここで袂を別つことになった。そして彼は少尉に任官して間もなく、バシー海峡で輸送船と運命を共にして、永久に帰らぬ人となった。彼もまた面白い男で「何かアホラシイと言うても古兵から、こんなことアホラシイテ出来んかと言われること程、アホラシイことはないナ」などと言っては皆を笑わせたりした。騎兵学校から帰隊したとき、一番先に正門歩哨に気合を入れたのは、彼ではなかったか。

 見習士官は営内居住である。一日の教育が終わり明日の教育の準備か出来ると、京都の灯が恋しくなる。見習士官が外出する時は、中隊長に届け出るだけで許可を得る必要はない。この規則を最大限に利用することにした。虫歯の治療を理由に中隊長代理の広田少尉(北浦中隊長は病気で陸軍病院に入院していた)に届け出て毎日のように外出した。見習士官はよくもてたので多くの女の子と仲良くなった。今夜知り合った女の子を連れて河原町を歩いていると、昨晩知り合った女の子が向こうから来るので、あわてて回れ右したなんてことが度々あった。中には深草の聯隊まで面会に来てくれる女の子もいたが、あの地味なモンペの時代に、特に派手な真っ黒のワンピースで来てくれるのには、目立って閉口した。

 その他補充隊在隊中の思い出としては、滋賀県下へ二泊三日の演習行軍をしたこと。第一中隊(乗馬中隊)全員の行軍であったが、第一小隊長が森島少尉、第二小隊長が竹村少尉、そして第三小隊長が私、緒方見習士官の編成で行軍した。当時我々の聯隊にも乗馬が少なくなっていて、中隊全員が乗れるだけの乗馬がいなかったので、一個小隊が乗れるだけの乗馬を用意して、第一日は第一小隊が乗馬で、他の二個小隊は徒歩行軍、第二日は第二小隊が乗馬、他は徒歩行軍、第三日は第三小隊が乗馬、他は徒歩行軍と決められた。第一日、第二日は予定通りだったが、第三日になって、馬が相当疲労しているというので、急遽曳き馬で帰ることになった。結局、私の第三小隊は三日間徒歩行軍となった。

 その他では、饗庭野演習場に於ける滋賀県中等学校の合同演習に、応援派遣されたこと。派遣先は配属将校が私の聯隊の泉中尉である膳所工業であったと思う。この演習には他の聯隊からも見習士官が応援派遣されて来ていて、その中にはプロ野球のジャイアンツの中尾碩志もいた。

 昭和十九年七月一日。「任陸軍少尉。同月同日現役満期除隊ヲ命ズ。同月同日臨時召集」
 今まで着ていた官給品の衣袴を脱ぎ捨てて、新しい私物の橘祢、軍衣袴を着た。新品少尉の誕生である。上原少尉の処へ挨拶に伺うと「ウム、立派じゃ」とのたもうた。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/4/23 7:51
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 

 船舶兵科の章 1

 七月五日。

 「機動輸送隊補充隊二転属ヲ命ズ」とうとう私にも転属命令か出た。さて、命令を受けたものの、機動輸送隊とは如何なる兵科なのか。周囲の上官や同僚に聞いても誰も知らない。ただ[広島市宇品ノ陸軍船舶練習部二集合スペシ]とあるので、或は最近特に活躍している船舶兵かも知れないと思った。取り敢えず、各上官に申告を済ませて翌晩出発することにした。身の回りのものを将校行李にまとめ軍装を整えて、夜行列車で京都駅から出発した。京都駅には石川、長谷川両少尉が見送りに来てくれたと記憶している。他にも来て頂いた方が居られたかも知れないが、残念ながら覚えていない。
 こうして私は住み慣れた京都と別れを告げた。

 広島に来て判ったことは、機動輸送隊とはやはり船舶兵部隊で原隊は山口県徳山市櫛ヶ浜にあるということであった。

 七月十日。

  「第二次機動艇乙種学生トシテ陸軍船舶練習部二分遣ヲ命ズ」私は船舶兵に転科転属して自分の新しい原隊を一度も見ることなく、直接分遣地に来たわけである。船舶兵になったので、紺地に錨と鎖をあしらった船舶胸章を右胸に付けた。(右胸に胸章を付けるのは航空兵と船舶兵だけで、それだけ他の兵科と比較して危険で、死ぬ確率が多い)

 私は取り敢えず落着き先を大手町の山本旅館に決めた。山本旅館の親戚に年頃の奇麗な娘さんがいて、毎日のように手伝いに来ていた。何時ともなく仲良くなって毎日が楽しかった。本人も、母親も私との結婚を望んでいたらしいが、私は何時戦死するか分からない身なので、若い後家を作るような罪なことは出来ないと断り続けた。下宿の私の部屋で私の胸に顔を埋めて泣かれたのには弱ったが、心を鬼にして突き放した。(信じられないだろうが、本当の話である) 閑話休題。

 宇品の陸軍船舶練習部では、他の兵科から転属して来た下級将校達を集めて船舶関係の教育をしていた。船舶兵は新しく設けられた兵科で輸送船が主力であったが、航空母艦、潜水艦(マルユ)、高速駆逐艇、高速連絡艇、肉薄攻撃艇(マルレ)などの船も持っていた。

 さて、教育は甲板科と機関科とに別れていたが、どう間違われたのか私は機関科に配属となった。中学校、高等商業学校、捜索聯隊の乗馬隊という機械と全く縁のない道を歩んで来た私が(機械のことは皆目解らないのに)何故機関科に廻されたのかと不思議でならなかった。その当時捜索聯隊の兵科は、騎兵でも捜索兵でもなく「機甲兵」と称していた。だから私も船舶兵に転科するまでは陸軍(機甲兵)少尉であった。どうもそのあたりが機関科に廻された理由だろうと思う。

 船舶練習部での我々の教育は「SB艇」と称する上陸用舟艇の機関及び汽罐の基礎教育であった。基礎教育とはいってもこの教育か終了すればすぐにSB艇に乗船して戦場へ赴かなくてはならない。だから完全に機関及び汽罐をマスターして、運転し得る能力を付けなくてはならない。教官は佐官待遇の文官教官で、彼の話す言葉の中には、機械に関する専門用語がバンバン出てくる。「ノズル」なんて単語からもう解らない。だからチンプンカンプンで解る訳がないか、何とか解るように努力はしていた。

 註I SB艇とは、全長八〇・五米、全幅九・一米、総排水量八七〇噸、二五〇〇馬力タービンー基、最大戦速十八ノットの上陸用舟艇で、九五式軽戦車なら十四輛、九七式中戦車なら九輛、人員なら一個中隊を載せることか出来た。

 註2 上陸用舟艇にSS艇と称するものがあった。SB艇とほぼ同じ位の大きさで、SB艇のタービン機関搭載に対し、SS艇はディーゼル機関であった。また兵器や人員の載下方式は、SB艇が渡板を前方に倒して行うのに対して、SS艇のほうは艇の舶先が観音開きに開いて、中から渡板を出す方式であったが、もう既に建造を中止していた。

 期末が近づいた頃、実際にSB艇に乗船して、宇品から関門海峡を通過して、山口県の日本海側の萩港までの航海訓練があった。まだその頃は関門海峡は安全であった。海峡を通過して玄海灘に出た時分、日暮れと共に猛烈な時化に襲われた。

 ローリング、ピッチックの連続で、乗組員全員が完全にグロッキーとなった。それでも当直の学生達はヘドを吐きながらも舵輪にしがみ付いていたし、機関や罐を運転していた。私も何度かヘドを吐きにトイレに走ったが、トイレに行き着くまでが大変であった。艇が浪にもまれて波の頂上に上がり、下降するとき停止するその一瞬をとらえて移動して何かに掴まる。

 次の掴まる処を見付けておいて、またその一瞬間をとらえて走るというような状態であった。気分が悪かったので甲板下の兵員室に入って寝てしまった。夜がほのぼのと明け初める頃目を覚ました。海は相変わらず時化ていて、艇もローリング、ピッチックの繰り返しであったが、私は酔いも治まっていて空腹を覚えていたので、傍らに昨夜の皆の夕食が、手付かずで残っていたのを、二人分平らげてしまった。やがて萩港に入港。萩城や松下村塾などを見学した後、再びSB艇に乗船して「同じ航路を宇品へ帰った。玄海灘は相変わらず荒れていたが、昨夜程の高波ではなかった。関門海峡を通過して瀬戸内海へ入ると、艇の前方から大きな艦影が海峡を目指してこちらの方へ進んで来る。「神州丸(陸軍の空母でよく宇品の沖に停泊していた)が来るぞ」と誰かか叫んだ。艦影はだんだんと近づいて来る。よく見ると、何と海軍の正規空母(艦名不詳)であった。旗旅信号が上かっている。【ワレ只今ヨリ出航セントス】皆甲板に駆け上がり帽子を頭上で大きく振って見送った。

 どうか御無事で大戦果を…と祈らずにはいられなかった。宇品ではあまり海軍の大型艦を見たことがなかったので、大きな船は全部神州丸に見えるから滑稽である。井の中の蛙大海を知らずか。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 船舶兵科の章 2

 八月一日。「叙正八位」
 十月十目。「教育終了二付キ帰隊ヲ命ズ。同月同日本部勤務」
 
 教育が終わって、私のように成績の悪い者を艇に乗せても艇が動くわけはない。だから成績の良い者から乗艇して行った。後に聞いた話を綜合すると、出て征ったSB艇は殆ど沈められたらしい。私は成績不良のお蔭で原隊へ帰り、初めて自分の部隊を知った。部隊は徳山市の東約二粁の櫛ヶ浜に面して海上駆逐隊と向き合っていた。私は徳山市の、とある大衆食堂に下宿して毎日部隊へ通った。部隊では何もすることがないので、昼食を済ませて、日々命令が自分に関係がなければ下宿へ帰った。昼食と命令だけに部隊へ通う毎日が三ヶ月程続いた。部隊には私と同じように、何の用もなくてぶらぶらしている将校が沢山いた。

 十二月二十八日。「機動艇機関教育ノタメ、大阪指導班二分遣ヲ命ズ」毎日遊ばせて置くのは勿体ないから、大阪で勉強をして来い。ということだろう。退屈していたので、喜んで大阪へ飛んだ。

 港区の福崎に大阪造船所があり、そこでSB艇を造っていた。その造船工程を指導監督していたのが大阪指導班で、班長は香川純一大尉であった。申告を済ませ、私は築港の側の旅館を根城にして、私と同じ命令を貰った中・少尉連中五、六名と共に毎日大阪造船所へ通った。

 或る日、同僚の小森和男少尉が腹の激痛を訴えたので、近所の病院に担ぎ込んだ処、腸閉塞の診断ですぐ手術しなければ助からないという。輸血が必要なので彼と同じA型の血液の持ち主を探し廻った。同僚の中・少尉連中や、病院の看護婦、旅館の家族・仲居から近所の人まで、A型の血液を提供して貰った。私もA型なので病院で採血して貰つたが、丈夫だったので他の人よりも若干余分に採血して貰った。採血を終わって病院の玄関まで来た時、略帽を忘れたことに気が付いたので、あわてて採血室に取りに戻った。帽子を被って再び病院の玄関まで来たが、何だか腰が軽い。軍刀まで忘れていたのである。

 また採血室へ戻って軍刀を腰にして旅館まで帰った。旅館の方達が親切に生卵を二・三個呑ませて呉れた。礼を言って部屋へ戻り上衣を脱いだ処、襦袢を着ていなかった。お粗末な話である。採血も多量になると物忘れをするらしい。

 小森少尉は手術のお蔭で助かった。
 大阪指導班長の香川大尉と前記の小森少尉は、私の最後の部隊でまた一緒になるのだが、運命とは不思議なものである。

 ここで女の話。同志社高商在学中に、奈良で仲良くなった女の子がいた。美人ではないが愛敬のある顔をしていた。私が軍隊に入るので一時音信を絶っていたが、任官してから連絡を再開し宇品の陸軍船舶練習部にいるとき広島まで来てくれて約一ヶ月程一緒に暮らした。その彼女が女子挺身隊に徴用されて、愛知県豊川の海軍工廠にいる旨の知らせがあったので、暇を見て是非面会に行ってやろうと思っていた。なかなか暇が取れなかったか、何とか理由をつけて許可を得た。

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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 船舶兵科の章 3

 昭和二十年三月十三日。午後十一時三十分発の夜行列車で、豊川に向け大阪駅を出発することにした。丁度「空襲警報」発令中で、大阪駅のスピーカーが「B29の大編隊が、二十三時三十分浪速到着の予定」と放送していたのを覚えている。列車は、丁度その時間に出発したのだが、空襲のせいか、京都駅で一時間程停車していた。翌朝、豊川に着いて海軍工廠の正門で面会を申し込み、一、二時間話をしただけで名残惜しかったが、すぐに大阪ヘトンボ返りした。大阪駅へ帰り着いたのは十四日の午後七時頃だったと思う。市電に乗ろうと思って、大阪駅前の安全地帯で待っていたが、待っても待っても、市電が来ない。仕方がないので地下鉄で難波へ出てそこから市電に乗ろうと思った。地下鉄のホームヘ階段を降りて行くと通路の両脇や踊り場などに、沢山の人達がゴロゴロと寝ている。おかしいなと思いながらも、難波駅に着いて地上へ出た。

 途端にビックリした。あたり一面何も無い。昨晩のB29の大空襲でやられたのだ。まだ燃え残りがチョロチョロと燃えている。市電の架線がクモの巣のように垂れ下がっている。無残にも焼死体があちこちに横たわっている。市電が骨格だけになった残骸を曝している。残っている建物といえば、鉄筋コンクリート造の南海高島屋・大劇・歌舞伎座と北の方に大丸・十合の建物だけであった。大阪駅前でいくら市電を待っても来ない筈だ。(この時の大空襲でやられたのは、堂島川以南で大阪駅周辺は被害がなかった。だから何とも思わず難波の地上に出たのだが、罹災地のド真ん中であった。地下鉄大阪駅の通路や踊り場に屯していた人達は皆、空襲で焼け出された人達だったのだと、その時気が付いたが迂閥な話である。)気を取り直して築港に向かって歩き出した。桜川のあたりでトラックをつかまえて乗せてもらい、旅館に帰り着くと幸いにも、旅館の並び一筋だけが焼け残っていた。奇跡としか言いようがない。同僚がみんな私の無事を喜んで呉れた。聞いて見ると大阪造船所は完全に破壊され、焼夷弾の直撃を受けて戦死した兵隊も相当数いたらしい。大阪指導班は焼け出され千歳町の商品倉庫に移ったので我々も行動を共にした。大阪大空襲から一日おいた十五日の夜、今度は神戸が空襲に遭った。私達のいる商品倉庫から大阪湾を隔てた向こうに神戸がある。今なら商店の照明やネオンなどで空も明るいけれども、当時は灯火管制であたり一面真っ暗である。その真っ暗な空の上の方から一筋の尾を曳いて火の玉が落ちてくる。それが途中でパァーと傘を開いて、しばらくすると下で火の手が上がる。その大の玉が何十発、何百発と落ちてくるのだから、空襲を受けている方はたまったものではない。その人達には誠に失礼極まる言葉であるが、対岸の火災で、まるで花火を見るように奇麗であった。しかし、どうしようもない苛立たしさと、逃げ惑っている同胞のことを思うと、腹が立って仕方がなかった。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/4/27 9:55
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 船舶兵科の章 3

 三月二十日。「第三次機動艇乙種学生トシテ陸軍船舶練習部二分遣ヲ命ズ」  
 大阪造船所が壊滅したので、また広島で教育を受けることになったが、二度目なのであまり戸惑いはなかった。今度は皆実町あたりの富士見荘アパートに下宿することにした。時折、山本旅館の親戚の娘さんが遊びに来た。彼女はこの五ヶ月の間に結婚したそうだが、先方との折り合いが悪かったらしく、早くも離婚して帰って来ていた。焼棒杭に火が付きかけたが、やっぱり単なる話し相手だけに終わってしまった。今になって思えば、ちょっと残念な気もする。

 富士見荘の親父さん夫婦は、若い時分アメリカに渡って働いていたが、戦争前に此方へ帰って富士見荘を経営して居られた。その親父さんが或る日、「緒方さん。内緒の話だがこの戦争勝てるだろうか」と言う。巷ではラジオが毎日勇壮な軍艦マーチを流していたが、敗勢は私等下級将校にもハッキリと感じられていたので返答に窮した。親父さんの話では、例えばアメリカの西海岸の近くに露天掘の鉄鉱山があり、毎日毎日貨車で何十台何百台となく、西海岸の製鉄所へ鉄鉱石を運び出しているが、一向に山の形が変わったように思わない。それ程物資の豊富なアメリカに対して、果たして資源の貧弱な日本に勝ち目が有るだろうか。というのであった。私は「成程物資では勝てないかも知れないが、精神力では日本人の方が強いと思う。勝てないかも知れないが、必ず敗けるとも思わない」と訳の解らない返事しか出来なかった。

 五月一日。「第一中隊附」

 五月十五日。「教育終了二付キ帰隊ヲ命ズ。同月同日第五中隊附」

 六月七日。「陸機密第二一八号二依り海上輸送第三十大隊二転属ヲ命ズ」

 櫛ヶ浜の原隊に帰ってしばらくした頃、右の転属命令が出た。新しい部隊を編成することになったのである。大隊長が誰なのか一番気になったので、部隊本部に問い合わせた処、何と大阪指導班の班長であった香川純一大尉であることが判った。
 人情味のある温厚な人格の方なので大変嬉しかった。編成担任部隊は朝鮮羅南の部隊なので、羅南まで行かねばならない。
 直ちに出発の準備に取り掛かった。編成基幹要員は我が機動輸送隊と海上駆逐隊の各補充隊から選抜された、将校・下士官兵、百五十名程であった。大阪で一緒だった小森和男少尉も基幹要員であった。

 六月十日。我々基幹要員は櫛ヶ浜を出発して、その日の夜山口県の日本海に面する仙崎港から出帆。六月十一日朝釜山着。

 すぐ京釜線に乗り京城(現在のソウル)に向かった。車窓から見る景色は内地とあまり変わらないが、ポプラの木がやたらに多いのに気が付いた。窓からポプラの木が消えることがない。それと川に橋がないし、水もない。やはり内地とは大分違うなと思った。その日の晩、京城駅に着いたが予定より二時間程も延着した。京城駅では我々の乗って来た列車に連絡して、羅南・清津方面行きの列車がおる筈だが、二時間も延着したのではとても待ってないだろう。とっくの昔に出発したのではないかと思っていた処、チャンと待っていて呉れたのには驚いた。私達は直ちにその列車に乗り換えて出発した。朝鮮半島を横切って日本海側に聳える金剛山の麓を通り過ぎる頃には、京城駅で失った二時間を取り返していたのには再び驚いた。

 六月十三日。羅南のひと駅手前の鏡城という駅で降りて、我々の編成担任部隊である羅南師団の野砲兵聯隊に到着した。
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 中隊長の章 1

 六月十三日。「第四中隊附」
 到着して直ちに、聯隊幹部に「お世話になる」旨の御挨拶を済ませ、すぐ編成業務に取り掛かった。その日から一週間は目の廻る程の忙しさであった。羅南の師団司令部へ兵器の受領に行ったり、召集兵や入営兵の受入れをしたり、身上調書を整理したりして毎日を過ごした。営庭から見える白頭山の頂は、まだ雪が残っている。六月の中旬だというのに肌寒いので、セーターを着込んだ。北朝鮮は緯度が高いので大分内地とは気温が違う。

 六月二十日。「編成完結。同月同日。第四中隊長ヲ命ゼラル」
 海上輸送第三十大隊の幹部は次の通りであった。
  大隊長  香川純一大尉   副官  大谷剛一郎少尉
   本部中隊  長 千田清一郎少尉  
   本部附 副島 益雄見士  田中  江見士  伊藤田 豊見士 谷口 快男見士(経理)  安藤洲二郎見士(軍医)

   第一中隊  長 小倉 忠清少尉  中隊附 山本  実見士
   第二中隊  長 柳井 義正見士  中隊附 木戸 光彦見士
   第三中隊  長 小森 和男少尉  中隊附 三村 正三見士
   第四中隊  長 緒方  隆少尉  中隊附 鈴木健一郎見士
   第五中隊  長 松原 信定少尉  中隊附 野中 正義見士
   材料廠中隊  長 城戸 純彦少尉  中隊附 鈴木千賀治見士

 戦争末期、如何に下級将校が不足していたかが伺われるスタッフである。中隊長が見習士官とは恐れ入る。大谷、小倉各少尉は第七期、千田、城戸各少尉は第八期、小森、松原、私は第九期の幹部候補生、柳井見習士官は第十一期幹部候補生、その他の見習士官は全員、第十二期の幹部候補生であった。

 これより先、六月十五日。第十六方面軍の隷下に入った。第十六方面軍は本土決戦のために新設され九州地区を担当する方面軍で、軍司令官は横山勇陸軍中将であった。

 さて、編成を完結したとはいっても、小銃は十人に一挺。しかもその小銃たるや遊底覆・照尺板・木被・下帯顧環・床尾顧環・負い革等は全て省かれ、床尾板は木製。最も肝心な腔綾は無く、まるで散弾銃である。コンボ剣の鞘と水筒は竹製。
 何ともひどい装備で、これでは戦争に勝てないと思った。
 私の中隊は、私以下六十八名。現地召集者は全部日本人で、現地入営の新兵は全部朝鮮人であ。た。彼等は比較的早婚で新兵の半数以上は妻帯者であった。六月二十八日。中隊長会議があり、任地までの輸送計画を打ち合わせた。

 1、朝鮮の人は、朝鮮半島を離れる(自分の意志以外で)のを極端に嫌う。だから任地は鎮南浦と発表すること。(行先を釜山だと発表すれば、半島を離れることが察しられるので脱走する恐れがある。殊に新婚が多いのでその公算が大である)
 2、脱走兵を出さないことを最重点とすること。
 3、(以下略)
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 中隊長の章 2

 六月二十九日。いよいよ任地に向けて出発することになり、お世話になった野砲兵聯隊の聯隊長以下将校団にお礼を申し上げ、その見送りを受けて鏡城駅を出発した。半月前、私達基幹要員か来た同じ道を、今度は有蓋貨車で釜山に向かった。

 有蓋貨車は両側に一間位の鉄扉のついた出入口がおり、他には鉄格子の嵌った小さな窓が前後に一つ宛あるだけだったから両側の出入口を警戒しさえすれば脱走は出来ぬ筈であった。毎食事はその時間帯に停車する駅々に用意してあり、駅で全員下車して点呼、食事をして乗車前に点呼、そして乗車の繰返しであった。こうして釜山港に到着するまでに、この厳戒にも拘わらず各中隊共一・二名の脱走兵が出た。幸い私の中隊からは一名の脱走兵も出さなかったけれども、点呼・乗車・下車・点呼の間に居らなくなるのだから、何時どんな方法で脱走するのか(列車走行中にとしか考えられないのだが)実に不思議であった。

 七月二日釜山着。三日程釜山で過ごし、七月五日釜山港を出帆した。輸送船三隻が船団を組み、その前方を海軍の駆逐艦が蛇行しながら警戒して呉れた。玄海灘は静かだったが、敵の浮遊機雷が漂っていて不気味であった。(香川隊長の後日談であるが、我々部隊の基幹要員が櫛ヶ浜の原隊を出発する時、内地-釜山間の往復航海の安全性を参謀に尋ねた処、「マア七分三分だな」「七分安全ですか」「イヤその反対だ」つまり、日本海・玄海灘あたりは、敵の潜水艦がウヨウヨしていて、何時魚雷攻撃を受けても不思議ではない程、非常に危険であった。ということである。)

 斯くして幸運にも、敵の潜水艦の攻撃を受けることもなく、七月六日。佐賀県の唐津港に無事入港した。何かの都合で、そのまま輸送船上で二泊。七月八日。ようやく唐津に上陸した。内地の土を踏みしめた時の嬉しさ。たったの一ヶ月内地を離れただけなのに、「故郷」の有難さをしみじみと感じさせられたことであった。降り立った海岸の砂の上で四股を踏んで土の上に居ることを確かめた。上陸して唐津城趾で小休止をしていたとき、当番兵が「隊長殿、虱取りをさせて下さい」と言って来た。「何だ。貴様たち、虱をわかしているのか」「隊長殿も福絆を脱いで下さい」「ナニ、俺は虱など、わかして居らん」「イヤ、必ず居ります」ということで福絆を脱いだ処、襟の縫い目に虱の奴が一列縦隊にズラリと並んで居た。

 唐津に入って駐屯地が決まるまで、市内の民家にお世話になることになった。宿営は二日間だったが、この二日間に私の中隊から二名の脱走兵を出してしまった。唐津に着くまでは、脱走兵を出すまいと警戒の上に警戒を重ねて来たのだったが、やはり任地に着いたという安堵感の何処かに油断があったのだろう。二名共朝鮮人の兵隊であった。分厚い顛末書を憲兵隊へ提出して後始末をお願いした。やがて、駐屯地が唐津実業青年学校と決まったので、全員そちらに移った。

 我々海上輸送第三十大隊は、前述の如く本土決戦に備えて新設された第十六方面軍の直轄部隊で、兵器や兵員、糧株等の輸送が主な任務であった。しかし、肝心の輸送用の舟艇がまだ無いので、それを集めなくてはならない。十五、六噸の漁船を出来るだけ多く徴発するのが、各中隊長の仕事であった。
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