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我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 15

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通常 我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 15

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/4/23 7:51
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 

 船舶兵科の章 1

 七月五日。

 「機動輸送隊補充隊二転属ヲ命ズ」とうとう私にも転属命令か出た。さて、命令を受けたものの、機動輸送隊とは如何なる兵科なのか。周囲の上官や同僚に聞いても誰も知らない。ただ[広島市宇品ノ陸軍船舶練習部二集合スペシ]とあるので、或は最近特に活躍している船舶兵かも知れないと思った。取り敢えず、各上官に申告を済ませて翌晩出発することにした。身の回りのものを将校行李にまとめ軍装を整えて、夜行列車で京都駅から出発した。京都駅には石川、長谷川両少尉が見送りに来てくれたと記憶している。他にも来て頂いた方が居られたかも知れないが、残念ながら覚えていない。
 こうして私は住み慣れた京都と別れを告げた。

 広島に来て判ったことは、機動輸送隊とはやはり船舶兵部隊で原隊は山口県徳山市櫛ヶ浜にあるということであった。

 七月十日。

  「第二次機動艇乙種学生トシテ陸軍船舶練習部二分遣ヲ命ズ」私は船舶兵に転科転属して自分の新しい原隊を一度も見ることなく、直接分遣地に来たわけである。船舶兵になったので、紺地に錨と鎖をあしらった船舶胸章を右胸に付けた。(右胸に胸章を付けるのは航空兵と船舶兵だけで、それだけ他の兵科と比較して危険で、死ぬ確率が多い)

 私は取り敢えず落着き先を大手町の山本旅館に決めた。山本旅館の親戚に年頃の奇麗な娘さんがいて、毎日のように手伝いに来ていた。何時ともなく仲良くなって毎日が楽しかった。本人も、母親も私との結婚を望んでいたらしいが、私は何時戦死するか分からない身なので、若い後家を作るような罪なことは出来ないと断り続けた。下宿の私の部屋で私の胸に顔を埋めて泣かれたのには弱ったが、心を鬼にして突き放した。(信じられないだろうが、本当の話である) 閑話休題。

 宇品の陸軍船舶練習部では、他の兵科から転属して来た下級将校達を集めて船舶関係の教育をしていた。船舶兵は新しく設けられた兵科で輸送船が主力であったが、航空母艦、潜水艦(マルユ)、高速駆逐艇、高速連絡艇、肉薄攻撃艇(マルレ)などの船も持っていた。

 さて、教育は甲板科と機関科とに別れていたが、どう間違われたのか私は機関科に配属となった。中学校、高等商業学校、捜索聯隊の乗馬隊という機械と全く縁のない道を歩んで来た私が(機械のことは皆目解らないのに)何故機関科に廻されたのかと不思議でならなかった。その当時捜索聯隊の兵科は、騎兵でも捜索兵でもなく「機甲兵」と称していた。だから私も船舶兵に転科するまでは陸軍(機甲兵)少尉であった。どうもそのあたりが機関科に廻された理由だろうと思う。

 船舶練習部での我々の教育は「SB艇」と称する上陸用舟艇の機関及び汽罐の基礎教育であった。基礎教育とはいってもこの教育か終了すればすぐにSB艇に乗船して戦場へ赴かなくてはならない。だから完全に機関及び汽罐をマスターして、運転し得る能力を付けなくてはならない。教官は佐官待遇の文官教官で、彼の話す言葉の中には、機械に関する専門用語がバンバン出てくる。「ノズル」なんて単語からもう解らない。だからチンプンカンプンで解る訳がないか、何とか解るように努力はしていた。

 註I SB艇とは、全長八〇・五米、全幅九・一米、総排水量八七〇噸、二五〇〇馬力タービンー基、最大戦速十八ノットの上陸用舟艇で、九五式軽戦車なら十四輛、九七式中戦車なら九輛、人員なら一個中隊を載せることか出来た。

 註2 上陸用舟艇にSS艇と称するものがあった。SB艇とほぼ同じ位の大きさで、SB艇のタービン機関搭載に対し、SS艇はディーゼル機関であった。また兵器や人員の載下方式は、SB艇が渡板を前方に倒して行うのに対して、SS艇のほうは艇の舶先が観音開きに開いて、中から渡板を出す方式であったが、もう既に建造を中止していた。

 期末が近づいた頃、実際にSB艇に乗船して、宇品から関門海峡を通過して、山口県の日本海側の萩港までの航海訓練があった。まだその頃は関門海峡は安全であった。海峡を通過して玄海灘に出た時分、日暮れと共に猛烈な時化に襲われた。

 ローリング、ピッチックの連続で、乗組員全員が完全にグロッキーとなった。それでも当直の学生達はヘドを吐きながらも舵輪にしがみ付いていたし、機関や罐を運転していた。私も何度かヘドを吐きにトイレに走ったが、トイレに行き着くまでが大変であった。艇が浪にもまれて波の頂上に上がり、下降するとき停止するその一瞬をとらえて移動して何かに掴まる。

 次の掴まる処を見付けておいて、またその一瞬間をとらえて走るというような状態であった。気分が悪かったので甲板下の兵員室に入って寝てしまった。夜がほのぼのと明け初める頃目を覚ました。海は相変わらず時化ていて、艇もローリング、ピッチックの繰り返しであったが、私は酔いも治まっていて空腹を覚えていたので、傍らに昨夜の皆の夕食が、手付かずで残っていたのを、二人分平らげてしまった。やがて萩港に入港。萩城や松下村塾などを見学した後、再びSB艇に乗船して「同じ航路を宇品へ帰った。玄海灘は相変わらず荒れていたが、昨夜程の高波ではなかった。関門海峡を通過して瀬戸内海へ入ると、艇の前方から大きな艦影が海峡を目指してこちらの方へ進んで来る。「神州丸(陸軍の空母でよく宇品の沖に停泊していた)が来るぞ」と誰かか叫んだ。艦影はだんだんと近づいて来る。よく見ると、何と海軍の正規空母(艦名不詳)であった。旗旅信号が上かっている。【ワレ只今ヨリ出航セントス】皆甲板に駆け上がり帽子を頭上で大きく振って見送った。

 どうか御無事で大戦果を…と祈らずにはいられなかった。宇品ではあまり海軍の大型艦を見たことがなかったので、大きな船は全部神州丸に見えるから滑稽である。井の中の蛙大海を知らずか。

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