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我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 17

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通常 我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 17

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/4/26 6:20
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 船舶兵科の章 3

 昭和二十年三月十三日。午後十一時三十分発の夜行列車で、豊川に向け大阪駅を出発することにした。丁度「空襲警報」発令中で、大阪駅のスピーカーが「B29の大編隊が、二十三時三十分浪速到着の予定」と放送していたのを覚えている。列車は、丁度その時間に出発したのだが、空襲のせいか、京都駅で一時間程停車していた。翌朝、豊川に着いて海軍工廠の正門で面会を申し込み、一、二時間話をしただけで名残惜しかったが、すぐに大阪ヘトンボ返りした。大阪駅へ帰り着いたのは十四日の午後七時頃だったと思う。市電に乗ろうと思って、大阪駅前の安全地帯で待っていたが、待っても待っても、市電が来ない。仕方がないので地下鉄で難波へ出てそこから市電に乗ろうと思った。地下鉄のホームヘ階段を降りて行くと通路の両脇や踊り場などに、沢山の人達がゴロゴロと寝ている。おかしいなと思いながらも、難波駅に着いて地上へ出た。

 途端にビックリした。あたり一面何も無い。昨晩のB29の大空襲でやられたのだ。まだ燃え残りがチョロチョロと燃えている。市電の架線がクモの巣のように垂れ下がっている。無残にも焼死体があちこちに横たわっている。市電が骨格だけになった残骸を曝している。残っている建物といえば、鉄筋コンクリート造の南海高島屋・大劇・歌舞伎座と北の方に大丸・十合の建物だけであった。大阪駅前でいくら市電を待っても来ない筈だ。(この時の大空襲でやられたのは、堂島川以南で大阪駅周辺は被害がなかった。だから何とも思わず難波の地上に出たのだが、罹災地のド真ん中であった。地下鉄大阪駅の通路や踊り場に屯していた人達は皆、空襲で焼け出された人達だったのだと、その時気が付いたが迂閥な話である。)気を取り直して築港に向かって歩き出した。桜川のあたりでトラックをつかまえて乗せてもらい、旅館に帰り着くと幸いにも、旅館の並び一筋だけが焼け残っていた。奇跡としか言いようがない。同僚がみんな私の無事を喜んで呉れた。聞いて見ると大阪造船所は完全に破壊され、焼夷弾の直撃を受けて戦死した兵隊も相当数いたらしい。大阪指導班は焼け出され千歳町の商品倉庫に移ったので我々も行動を共にした。大阪大空襲から一日おいた十五日の夜、今度は神戸が空襲に遭った。私達のいる商品倉庫から大阪湾を隔てた向こうに神戸がある。今なら商店の照明やネオンなどで空も明るいけれども、当時は灯火管制であたり一面真っ暗である。その真っ暗な空の上の方から一筋の尾を曳いて火の玉が落ちてくる。それが途中でパァーと傘を開いて、しばらくすると下で火の手が上がる。その大の玉が何十発、何百発と落ちてくるのだから、空襲を受けている方はたまったものではない。その人達には誠に失礼極まる言葉であるが、対岸の火災で、まるで花火を見るように奇麗であった。しかし、どうしようもない苛立たしさと、逃げ惑っている同胞のことを思うと、腹が立って仕方がなかった。

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