我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 18
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船舶兵科の章 3
三月二十日。「第三次機動艇乙種学生トシテ陸軍船舶練習部二分遣ヲ命ズ」
大阪造船所が壊滅したので、また広島で教育を受けることになったが、二度目なのであまり戸惑いはなかった。今度は皆実町あたりの富士見荘アパートに下宿することにした。時折、山本旅館の親戚の娘さんが遊びに来た。彼女はこの五ヶ月の間に結婚したそうだが、先方との折り合いが悪かったらしく、早くも離婚して帰って来ていた。焼棒杭に火が付きかけたが、やっぱり単なる話し相手だけに終わってしまった。今になって思えば、ちょっと残念な気もする。
富士見荘の親父さん夫婦は、若い時分アメリカに渡って働いていたが、戦争前に此方へ帰って富士見荘を経営して居られた。その親父さんが或る日、「緒方さん。内緒の話だがこの戦争勝てるだろうか」と言う。巷ではラジオが毎日勇壮な軍艦マーチを流していたが、敗勢は私等下級将校にもハッキリと感じられていたので返答に窮した。親父さんの話では、例えばアメリカの西海岸の近くに露天掘の鉄鉱山があり、毎日毎日貨車で何十台何百台となく、西海岸の製鉄所へ鉄鉱石を運び出しているが、一向に山の形が変わったように思わない。それ程物資の豊富なアメリカに対して、果たして資源の貧弱な日本に勝ち目が有るだろうか。というのであった。私は「成程物資では勝てないかも知れないが、精神力では日本人の方が強いと思う。勝てないかも知れないが、必ず敗けるとも思わない」と訳の解らない返事しか出来なかった。
五月一日。「第一中隊附」
五月十五日。「教育終了二付キ帰隊ヲ命ズ。同月同日第五中隊附」
六月七日。「陸機密第二一八号二依り海上輸送第三十大隊二転属ヲ命ズ」
櫛ヶ浜の原隊に帰ってしばらくした頃、右の転属命令が出た。新しい部隊を編成することになったのである。大隊長が誰なのか一番気になったので、部隊本部に問い合わせた処、何と大阪指導班の班長であった香川純一大尉であることが判った。
人情味のある温厚な人格の方なので大変嬉しかった。編成担任部隊は朝鮮羅南の部隊なので、羅南まで行かねばならない。
直ちに出発の準備に取り掛かった。編成基幹要員は我が機動輸送隊と海上駆逐隊の各補充隊から選抜された、将校・下士官兵、百五十名程であった。大阪で一緒だった小森和男少尉も基幹要員であった。
六月十日。我々基幹要員は櫛ヶ浜を出発して、その日の夜山口県の日本海に面する仙崎港から出帆。六月十一日朝釜山着。
すぐ京釜線に乗り京城(現在のソウル)に向かった。車窓から見る景色は内地とあまり変わらないが、ポプラの木がやたらに多いのに気が付いた。窓からポプラの木が消えることがない。それと川に橋がないし、水もない。やはり内地とは大分違うなと思った。その日の晩、京城駅に着いたが予定より二時間程も延着した。京城駅では我々の乗って来た列車に連絡して、羅南・清津方面行きの列車がおる筈だが、二時間も延着したのではとても待ってないだろう。とっくの昔に出発したのではないかと思っていた処、チャンと待っていて呉れたのには驚いた。私達は直ちにその列車に乗り換えて出発した。朝鮮半島を横切って日本海側に聳える金剛山の麓を通り過ぎる頃には、京城駅で失った二時間を取り返していたのには再び驚いた。
六月十三日。羅南のひと駅手前の鏡城という駅で降りて、我々の編成担任部隊である羅南師団の野砲兵聯隊に到着した。