我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 20
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我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 (編集者, 2013/4/5 7:48)
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中隊長の章 2
六月二十九日。いよいよ任地に向けて出発することになり、お世話になった野砲兵聯隊の聯隊長以下将校団にお礼を申し上げ、その見送りを受けて鏡城駅を出発した。半月前、私達基幹要員か来た同じ道を、今度は有蓋貨車で釜山に向かった。
有蓋貨車は両側に一間位の鉄扉のついた出入口がおり、他には鉄格子の嵌った小さな窓が前後に一つ宛あるだけだったから両側の出入口を警戒しさえすれば脱走は出来ぬ筈であった。毎食事はその時間帯に停車する駅々に用意してあり、駅で全員下車して点呼、食事をして乗車前に点呼、そして乗車の繰返しであった。こうして釜山港に到着するまでに、この厳戒にも拘わらず各中隊共一・二名の脱走兵が出た。幸い私の中隊からは一名の脱走兵も出さなかったけれども、点呼・乗車・下車・点呼の間に居らなくなるのだから、何時どんな方法で脱走するのか(列車走行中にとしか考えられないのだが)実に不思議であった。
七月二日釜山着。三日程釜山で過ごし、七月五日釜山港を出帆した。輸送船三隻が船団を組み、その前方を海軍の駆逐艦が蛇行しながら警戒して呉れた。玄海灘は静かだったが、敵の浮遊機雷が漂っていて不気味であった。(香川隊長の後日談であるが、我々部隊の基幹要員が櫛ヶ浜の原隊を出発する時、内地-釜山間の往復航海の安全性を参謀に尋ねた処、「マア七分三分だな」「七分安全ですか」「イヤその反対だ」つまり、日本海・玄海灘あたりは、敵の潜水艦がウヨウヨしていて、何時魚雷攻撃を受けても不思議ではない程、非常に危険であった。ということである。)
斯くして幸運にも、敵の潜水艦の攻撃を受けることもなく、七月六日。佐賀県の唐津港に無事入港した。何かの都合で、そのまま輸送船上で二泊。七月八日。ようやく唐津に上陸した。内地の土を踏みしめた時の嬉しさ。たったの一ヶ月内地を離れただけなのに、「故郷」の有難さをしみじみと感じさせられたことであった。降り立った海岸の砂の上で四股を踏んで土の上に居ることを確かめた。上陸して唐津城趾で小休止をしていたとき、当番兵が「隊長殿、虱取りをさせて下さい」と言って来た。「何だ。貴様たち、虱をわかしているのか」「隊長殿も福絆を脱いで下さい」「ナニ、俺は虱など、わかして居らん」「イヤ、必ず居ります」ということで福絆を脱いだ処、襟の縫い目に虱の奴が一列縦隊にズラリと並んで居た。
唐津に入って駐屯地が決まるまで、市内の民家にお世話になることになった。宿営は二日間だったが、この二日間に私の中隊から二名の脱走兵を出してしまった。唐津に着くまでは、脱走兵を出すまいと警戒の上に警戒を重ねて来たのだったが、やはり任地に着いたという安堵感の何処かに油断があったのだろう。二名共朝鮮人の兵隊であった。分厚い顛末書を憲兵隊へ提出して後始末をお願いした。やがて、駐屯地が唐津実業青年学校と決まったので、全員そちらに移った。
我々海上輸送第三十大隊は、前述の如く本土決戦に備えて新設された第十六方面軍の直轄部隊で、兵器や兵員、糧株等の輸送が主な任務であった。しかし、肝心の輸送用の舟艇がまだ無いので、それを集めなくてはならない。十五、六噸の漁船を出来るだけ多く徴発するのが、各中隊長の仕事であった。