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我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 14

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通常 我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 14

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/4/22 7:04
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 見習士官の章 2

 二日経つともう昭和十九年である。私は元旦早々から見習の週番士官として、正週番士官の上原少尉に付いて歩き、週番勤務のABCを教わった。この見習の勤務がその後の十数回の週番勤務の基礎となり、戸惑いすることなく無事に勤められたのも、この時手とり足とりして御指導下された上原少尉のお蔭だと、今でも感謝している。

 週番といえば、師団の二種巡察も面白かった。二種巡察は毎週の休日を師団所属の各聯隊が交替で勤めるので、二ヶ月に一回位の割合で私の聯隊に廻ってきた。私も在隊中二・三回巡察に出た。騎兵の巡察は歩兵や軸重兵、野砲兵、工兵などの兵科と違って乗馬で行うので格好が良かった。本町通りか師団街道を京都市内へ下士官兵を二名引率して、三騎で遠乗するのであるが、一般の人達の注目の的となり、この時ばかりは騎兵で良かったナと思ったものである。私の巡察には、いつも森島という応召兵がついて来てくれたのを覚えている。

 見習士官勤務中は補充兵の教育を受け持った。殆んどの兵が私よりも五・六歳以上年長で、国の為とはいいながら気の毒だなあと思った。新兵の時、私は図太かったので毎日殴られぬ日とてなかったが、その殴られる時の、気持のやるせなさが、イヤという程判っているので、私は絶対に兵を殴らないと誓っていたのだが、内務班での彼等か私の目の届かぬ処で、制裁を受けているかも知れないと思うと、年齢による体力的なハンディと共に気の毒だと思わずにはいられなかったのである。

 或る日。教育中の補充兵を引き連れて、直違橋通りの藤森神社のあたりを乗馬行進していると、前方から歩兵の一部隊がやって来るのに出会った。学徒出陣の兵隊らしく右胸に小さな日の丸のマークを付けていた。「歩調取れ、頭ア右」と号令をかけた取締兵らしい新兵の顔をみると、何と同志社高商時代の二年先輩で、しかも同じ射撃部で共に活躍した塩貝晶氏であったのには驚いた。彼は高商から大学に進学していたので、入隊が私より一年遅れ、先輩が後輩に敬礼しなければならないという軍隊独特の場面を生むことになったのである。軍隊は一日でも早く入隊した方が上官である。

 間もなく竹村少尉か何れかへ転属し、同僚の川口見習士官も航空通信に転属が決まって聯隊を去った。
 川口君は京都絵画専門学校出身。親父も日本画家である。学生時代は私と同じく射撃部で、大学高専大会などでよく顔を合わせた。それ以来の仲で、騎兵学校でも同じ区隊であったし、づっと私と同じ道をたどって来たのだが、ここで袂を別つことになった。そして彼は少尉に任官して間もなく、バシー海峡で輸送船と運命を共にして、永久に帰らぬ人となった。彼もまた面白い男で「何かアホラシイと言うても古兵から、こんなことアホラシイテ出来んかと言われること程、アホラシイことはないナ」などと言っては皆を笑わせたりした。騎兵学校から帰隊したとき、一番先に正門歩哨に気合を入れたのは、彼ではなかったか。

 見習士官は営内居住である。一日の教育が終わり明日の教育の準備か出来ると、京都の灯が恋しくなる。見習士官が外出する時は、中隊長に届け出るだけで許可を得る必要はない。この規則を最大限に利用することにした。虫歯の治療を理由に中隊長代理の広田少尉(北浦中隊長は病気で陸軍病院に入院していた)に届け出て毎日のように外出した。見習士官はよくもてたので多くの女の子と仲良くなった。今夜知り合った女の子を連れて河原町を歩いていると、昨晩知り合った女の子が向こうから来るので、あわてて回れ右したなんてことが度々あった。中には深草の聯隊まで面会に来てくれる女の子もいたが、あの地味なモンペの時代に、特に派手な真っ黒のワンピースで来てくれるのには、目立って閉口した。

 その他補充隊在隊中の思い出としては、滋賀県下へ二泊三日の演習行軍をしたこと。第一中隊(乗馬中隊)全員の行軍であったが、第一小隊長が森島少尉、第二小隊長が竹村少尉、そして第三小隊長が私、緒方見習士官の編成で行軍した。当時我々の聯隊にも乗馬が少なくなっていて、中隊全員が乗れるだけの乗馬がいなかったので、一個小隊が乗れるだけの乗馬を用意して、第一日は第一小隊が乗馬で、他の二個小隊は徒歩行軍、第二日は第二小隊が乗馬、他は徒歩行軍、第三日は第三小隊が乗馬、他は徒歩行軍と決められた。第一日、第二日は予定通りだったが、第三日になって、馬が相当疲労しているというので、急遽曳き馬で帰ることになった。結局、私の第三小隊は三日間徒歩行軍となった。

 その他では、饗庭野演習場に於ける滋賀県中等学校の合同演習に、応援派遣されたこと。派遣先は配属将校が私の聯隊の泉中尉である膳所工業であったと思う。この演習には他の聯隊からも見習士官が応援派遣されて来ていて、その中にはプロ野球のジャイアンツの中尾碩志もいた。

 昭和十九年七月一日。「任陸軍少尉。同月同日現役満期除隊ヲ命ズ。同月同日臨時召集」
 今まで着ていた官給品の衣袴を脱ぎ捨てて、新しい私物の橘祢、軍衣袴を着た。新品少尉の誕生である。上原少尉の処へ挨拶に伺うと「ウム、立派じゃ」とのたもうた。

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