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「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/6 8:12
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 この日記の最後に記されている十月一日の「月見の宴」は、参列した皆の心に強い感動を残したようです。

 学校に隣接した広大な練兵場の芝生の上に沢山の机が持ち込まれ、校長以下全幹部臨席のもと、課業を終え体操衣袴に身を包んだ生徒千六百名が整然と居並びました(後掲の「思い出の写真集」参照)。やがて、宴が進み、軍歌も「山紫に水清き」から「月下の陣」の斉唱に及びましたが、これを境に、皆の頬《ほお》が一様に濡れて行きました。
「われ、父母や兄弟を、思わざるにはあらねども、君に捧げし身にあれば………」自ら志願した途ではありましたが、故郷の家族を思い、来年この月をどこの戦場で迎えるかを想像した時、誰もが込み上げる感情を抑えることが出来なかったのです。
 事実、この宴が終った翌月の五日、このうち成績優秀な三百十五名に対して繰上げ卒業が命ぜられました。しかし、当時、卒業は即出陣を意味していました。
 その前夜並びに式当日の情景を、当時十二期生として見送る側として在籍していた私(大口)は、次のように記録し、また、日記(正手簿)の中で綴っています。

 消灯からどれほどか、ふと目を覚ましますと、何やら一つの黒い影がベットの一つ一つを覗き込む仕草を繰り返しているのが見えました。咄嗟《とっさ》に私は「あ、S指導生徒殿だ。明日の卒業を前に別れに来てくれたのだ」と気が付きました。―――そして翌朝、中隊玄関脇の黒板には「懐かしき一年生達よ。敢闘を祈る」のチョークの文字が躍っていました。
 当時、学校では入校したての生徒のために十一期生の中から選ばれた指導生徒が一ケ月間起居を共にしながら訓育に当たってくれていました。厳しい軍規の下の機敏な動作と心構えなど、馴れない私達にとって、彼はチョッビリ怖くはありましたが頼り甲斐のある兄貴のような存在でした。
 出陣式に望んだ彼らの顔は一様に紅潮していました。夏服に身を固め、真新しい兵長の襟章も誇らしげに、代表生徒の声が凛として校庭一杯に響き亘《わた》りました。

昭和十九年十一月五日 曇時々雨
第十一期生徒ノ卒業式アリ。
昭和十九年十一月五日、静カナ静カナ、人ノ心ヲ抉《えぐ》ルガ如キ軍楽隊ノ調べノ中ニ、我ガ村松陸軍少年通信兵学校第一回ノ卒業式ガ挙行セラレタ。天候ハ暗雲低ク垂レ込メ、小雨サへ混ッティタ。「陸軍生徒○○以下○○名ハ、十一月五日、卒業ヲ命ゼラレマシタ。是ニ謹ンデ申告致シマス」 卒業生代表殿ノ声ガ頼モシク響キ亘ッタ。卒業ハ即チ出陣ヲ意味スル。大東亜戦、今将ニ酣《たけなわ》ノ秋、日本ノ企画セル一大攻勢ノ中核神経卜成ルべク、三百余名ノ若武者ガ勇躍、卒業出陣スルノデアル。現在ノ戦局ハ、丁度、今日ノ天候ノ如ク暗澹トシテ居ル、然シナガラ、コレラ卒業生殿の力ニヨリ、明ルク、清ク、晴レ亘ルデアラウ。卒業生殿ノ力ハ国軍ニ如何ニ貢献スルデアラウカ。期間ハ一年ニ満タズト雖《いえど》モ実力、技術共ニ充実セル立派ナ国軍中堅デアル。
我等モ、卒業生殿ニ続キ、決戦ニ駆ケ参ズベク、今一層ノ努力ヲ為シ、本日ノ感激モ新タニ修技修養ニ邁進《まいしん》セン。
千万ノ軍ナリトモ言挙ゲセズ、トリテ来ヌべキ男トゾ思フ

  山紫に水清き

一、山紫に水清き
  七州の野に生まれたる
  われら五十の此の校に
  集いしことも夢なりや
二、燃ゆる血潮は殉国の
  赤き心を示すべく
  腕なる骨は日の本の
  基を囲むる材なりや
三、観よ干城の健児らよ
  己が雄飛の活舞台
  東にパナマの落成を
  西に自覚の革命旗
四、さもあればあれ若武者の
  猛き心のその中に
  優しきものは百日の
  あと名残らるる情かな   (以下略)

月下の陣

一、霜は軍営に満ち満ちて
  秋気清しと詠じける
  昔のことの偲ばるる
  月の光のさやけさよ
二、遠き山々近き川
  千里の景も一色に
  隈なく晴れて影もなし
  隈なく晴れて影もなし
五、ふりさけ見れば天の原
  月は故郷も変わるまじ
  親同胞はうち寄りて
  吾を案じて語るらん
六、吾れ父母や兄弟を
  思わざるにはあらねども
  君に捧げし身にあれば
  わが大君の敵国の
七、下らんまでは死を誓い
  屍は野辺に晒すとも
  故郷の方は見もやらず
  勇み勇みて戦わん     (三、四は略)



前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/7 10:21
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 三、出陣、そして遭難

 当時わが国をめぐる戦況は、十九年五月頃までは、比島が南方作戦の基地としての機能を果たしていましたが、米軍の物量にものをいわせた強力な反撃により、日本軍は各地で玉砕や転進を余儀なくされ、このままでは西太平洋における米軍の攻撃を食い止めることは困難と、大本営は急ぎ南方総軍をマニラに移すなど進撃準備を始めました。しかし、米軍は逆に潜水艦による海上補給路の遮断作戦に出、これによってバシー海峡やマニラ湾口における日本の輸送船の沈没が相次ぎました。

 こうした厳しい状況を踏まえ、大本営は、当時、現存する精鋭部隊で最強といわれる「ヒ八十一輸送船団」を編成し、南方に向わせることにしました。即ち、第二十三師団を主力として通信、戦車、砲兵の、各繰上げ少年兵及び暁部隊の特幹を主軸とした水上特幹隊百隻とその基地隊員九百名、大砲などの兵器は全て新品を積載しました。船団指導艦・聖川丸、陸軍上陸母艦・摩耶山丸、吉備津丸、陸軍空母兼上陸母艦・秋津丸、神州丸の五隻(少年兵は秋津丸、摩耶山丸、神州丸の三隻に分乗)、ほかタンカー五隻、海軍護衛空母・神鷹、海防艦七隻、駆逐艦一隻、合計十九隻の船団を組み、十一月十三日七時に門司港を出発、途中回避しながら十二ノットで航行、目的地に向ったのです。そして、この少年兵の中に、東京校と村松校から繰上げ卒業で巣立っていった六百余名の少年通信兵が含まれていました。
 因みに、第二十三師団(旭兵団)は、昭和十四年のノモンハン事件で全滅した部隊であり、その後再編された後も関東軍の一部として北部満州の警備につきソ連軍の侵入に備えていましたが、戦局の急迫で急遽《きゅうきょ》レイテ島に転出することになったものです。

 しかし、この船団の行き先は正にこの世の地獄ともいうべき悲惨なものでした。それは、後年「悲劇のヒ八十一船団」とも称されたほどで、詳しい経緯は次の本田都男氏の「海難の詳報」でご覧の通り、先ず十五日十一時五十六分、五島列島沖で秋津丸が、その船倉に敵潜水艦クイーンフィッシュの魚雷を受け数分で沈没、次いで十七日十八時八分、摩耶山丸が東支那海で敵潜ピキューダに捕らえられて轟沈、更に同日二十三時三分、空母神鷹が敵潜スペードフィッシュの魚雷攻撃であっけなく沈没しました。同「詳報」では秋津丸、摩耶山丸両船の戦死者を五千二百三十三名と報じ、更に他の記録は神鷹において無傷であった艦上攻撃機十四機と九百四十八名の乗員は殆ど助からなかったと伝えています。また、この遭難で少年通信兵は秋津丸で九十二名、摩耶山丸で七十七名が海没しました(戦死者の数は引用した文献によって必ずしも同一ではありません、しかし現在ではその確認の方法も閉ざされています)。

 卒業の日から僅か十日後、三隻の輸送船に分乗(少年兵の輸送指揮官として、秋津丸には東京校の岡田真一氏が、神州丸には村松校の鈴木宇三郎氏が夫々分乗)して門司港を出航した直後に、待ち構えていた敵潜水艦に襲撃され、瞬く間に、五島列島沖或いは済州島沖で二隻が撃沈され、その多くは海の藻屑《もくず》と消えました。
 生き残った者の証言(後掲・鈴木氏ほか)によれば、夜の海中に投げ出された彼等は、始めのうちこそ漂流する木片に縋り力一杯軍歌を唄うなど必死に気力を奮い立たせていましたが、初冬の海は冷たく、一人、また一人、暗い波間に消えてゆき、或いは一瞬、母の幻影でも過ぎったものか、「お母アさーん」の声も聞こえたと、と伝えられています。―――彼等の年齢十七、八歳。猛訓練の成果も空しく、一発の電鍵も打つことなく散っていった無念さは如何許りだったでしょうか。

市岡光男氏の手記「海神(わだつみ)の声―耶山丸遭難直前までのメモ」は、摩耶山丸に乗船していた氏が、蚕棚のような超満員の船室で手帳に書き遺したもので、僚船・秋津丸の轟沈を目撃したのち、自らもまた、翌々日の自船の沈没によって海没しました。手帳は長崎の漁夫によって拾われ生家に届けられましたが、偶々《たまたま》、漂流物(雑嚢)のなかにあったため中味の文字が復元できたものです。
こうした中で、ひとり、神州丸だけが攻撃を免れ、辛うじて目的地のルソン島リンガエン湾サンフェルナンド港に上陸することが出来ました。この模様については、前掲のように村松から少年兵輸送指揮官として付き添った鈴木宇三郎氏が「神州丸は無事だった」の中で詳しく報告しています。
秋津丸や摩耶山丸の遭難者のうちで救助された者は、そのまま神州丸に移され南方に向い一部は台湾で下船、また、目的地に着いた者も、お互いの健闘を祈って別れましたが、その大半は再び会うことは出来ませんでした。辛うじて辿り着いた場所はジャングルであり、間断のない爆撃に晒されたほか探刻な飢餓やマラリアが待ち受けていました。この比島における戦況については、戦後数多くの十一期生によって生々しい記録が残されていますが、本誌では、その一つとして尾崎健一氏の「続フィリピン参戦記」を載せます。

更に少年兵の受難は続きます。このとき、残留した十一期生も翌二十年三月、修業期間を短縮して卒業し、支那、朝鮮、満州、樺太や内地など各地に配属されましたが、先発組の遭難など知る由もなく、とりわけ北方(満州、樺太など)に派遣された者は、その多くがソ連に抑留され、「異国の丘」の歌詞そのままに、酷寒の地シベリアでの何年にも亘る労苦に耐えねばならず、その少なからぬ者が皇国護持の尊い人柱として異郷の地に屍を曝《さら》しました(これについては井上隆晴氏が前書の中で「シベリア回顧」として綴っていますが、紙面の都合上、本誌では割愛します)。

ところで、私は現代の若者の皆様に、このように進んで死地に赴いていった少年達の心情を是非理解して頂きたいと強く願っています。
即ち、当時戦局は既に末期的様相を呈し始めていましたが、国民はそれを知る由もなく、反対に軍当局は負け戦による夥しい兵員の損耗の補充に躍起になっていました。少年兵の募集もその一つであり、このために新聞、ラジオ、映画等、あらゆる手段が動員されました。中学生活も、当初こそ、それなりの学園生活が残っていましたが、二年生も後半になると、配属将校による軍事訓練や銃剣術が目立ち始め、やがて週の半分ほどは近くの飛行場のモッコかつぎや勤労動員に駆り出される様になりました。そんな時、私達は、戦闘帽にゲートルを着け隊伍を組んで「赤い血潮の予科練の……」 の歌を唄いました。
確かに、私達は戦後「きけわだつみのこえ」などによって、当時の大学生や知識人の多くが今次大戦の正当性に疑問を抱き悩んでいたことを知りました。また、著名人の日記によっても一部の人々は既に厳しい戦局を捉え憂慮していたことが分りました。
しかし、当時、これら良識ある声は、厳しい言論統制の下にその殆どが掻き消され、何も知らされない一般大衆は、国策に迎合して戦争を賛美するマスコミの風潮に洗脳、調教され、総てが聖戦完遂の名の下に動員されていきました。
 そして、こうした背景の下に軍国少年に育っていった少年達は、純粋に神州の不滅を信じ、母国の急を救おうと昭和の白虎隊として勇躍志願出陣し、平和の礎として散ったのです。

 一方少年兵の心情について、十一期生の某氏は後年こう述懐しています。
 我々少年兵は、悩みも邪念も私欲もなく純情一路、生死についても深く考えず、人生についての理念もなかったと思います。天道に従って行動すべきだなどと、「国」の為にと志願したのです。「戦死するのだ」と思っていたことは真実です。――乗船する前、船舶司令参謀が「貴様ら、全員無事に目的地に上陸できると思うな。此処にいる者の半数でも上陸できたら作戦は概《おおむ》ね成功せるものと思う」と訓示、これを聞いていた隣の兵隊(少年兵ではなかった)が「俺っちらは紙切れ一枚で集まるものなぁ―糞たれどもが!」唾を吐きつつブツブツ言っていたことを思い出します。その時、少年兵の我々は誰となく「なあ、半分着いたら良いんだって…?」怖さを知らなかったし、この先何が起きるのか、判らないし、考えもしなかった。

 また、別の十一期生は、遭難時の救出をめぐって、漂流中、大きな筏《いかだ》が浮いていて、中央に聯隊旗を打ち立て、その回りを将校と下士官で守り、外側を兵士で固めているのが見えたので、泳いで行って手を懸けたところ「関東軍以外の者は近寄るな。筏に掴《つか》まってはいかん」と言って、掴まった手を軍靴で思いっきり踏みつけられた。痛みに堪らず手を離したが、諦めず再三手を懸けたが結果は同じで、他の将兵も同じようにあしらわれた。と証言しています。――ここにおいて私は、あらためて十一期生の一途さ、純粋さを思うとともに、如何に極限状態だったとはいえ、その純真な少年兵と現実の軍隊との落差の大きさに思わず言葉を失ってしまいます。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/8 8:35
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
  海難の詳報 (抄)
    (少通関係者以外の証言から)

  十一期  本田 都男

 陸軍の誇る「秋津丸」は、宇品港において陸軍海上挺身隊、第二〇戦隊の将兵及び、その使用する肉薄攻撃艇《注1》マルレ一〇四隻や爆雷を積載して三月四日夜同港を出港し下関を経て翌日朝鮮の釜山に入港、また僚船の摩耶山丸、神州丸等が、別途に釜山港に到着した。これらの輸送船は、共に釜山において北満のハイラルから到着していた第二十三師団(旭兵団)の将兵、兵器機材を満載して同日夜出帆し、十一月五日に下関に着き、やがて門司港に待機した。

 一方比島方面軍の増強のため、弘前の師団で編成した部隊が、各駅でつぎつぎに兵員を加えつつ門司に到着した。こうした十一月九日頃に、少通校卒業者六四七名、少戦校卒業者二七〇名、少年重砲兵学校卒業者二五名が門司に到着したのである。南方戦線における戦力増強の命運をかけ「ヒ八一輸送船団」が編成された。

 この頃、当時の輸送の危険な状況から部隊組織を分散して乗船する場合があった。少年通信兵、少年戦車兵、少年重砲兵の場合も三輸送船にそれぞれ分散して乗船する方針がとられた。少年戦車兵は秋津丸、摩耶山丸、神州丸にそれぞれ九〇名ずつ乗船した。
 秋津丸は九,一八六総トンで日本海運所属であり旭兵団の歩兵第六四聯隊や前記のマレ一〇四隻を装備した海上挺身第二〇戦隊等二,五七六名であった。
 摩耶山丸は九,四三三総トンで三井船舶所属であった。乗員数は第二三師団〈旭兵団〉司令部、野砲聯隊、その他船舶隊、船員を含め約四,五〇〇名とされている。
 神州丸は八,一六〇総トンで陸軍省所属であり、これには旭兵団の歩兵第七二聯隊の一部とその他大小一四部隊六,四〇〇余名が乗船した。

 十一月初旬以来、門司では連日船団会議がもたれ、慎重に輸送計画が練られていた。転進、派遣要員の乗船が済んだ船団は、その十一月十二日太陽が玄海に没する午後六時頃、静かに動き始めた。

 少戦校の友利恵徳氏の手記は、神州丸における出発時の状況等について次のように述べている。
ブリッジから一人の将校が出てきて「今船が出る」と低い声で告げた。カラカラとアンカーを巻き上げる低い金属音がするだけで船は鐘を叩くでもない、汽笛を鳴らすこともなく、まったく無言のまま静かに進み出した。スクリューの回る感じさえしない。
 船が走り出してびっくりした。高速の大船団ということは前日から聞いていたが、薄闇みの水平線に浮かぶ船影は飛行甲板のある空母二隻を交え(その内の一隻が秋津丸であることを後日知ることになる)延々と続き全部を数え切ることは出来なかった。日は全く暮れ、物の識別さえ難しくなりその上甲板の上に人が疎らとなった。

 奈落の底はとは斯くやと思わせる暗鬱《あんうつ》たる暗い船底へ冷たい鉄格子を伝って降りていく、己の巣へ引き揚げてさてどのように割り込もうかと薄明かりの裸電球の下へ目を移すと甲板に上がる時の混雑程ではなく、身を横たえるだけの隙はあり、まるで狐に化かされたような思いを味わう。そのうち何時の間にか寝入ってしまった。
 人のざわつきで目を覚ますと、どうやら夜が明け初めた様子で船はそれほど揺れていない。甲板では其処彼処に兵が三人、四人と身を寄せ合い、毛布にくるまっているではないか。道理で昨夜の私達は割り込むのにそれほど苦労をしなかったわけだ。甲板の人達も起き出す者あり船倉から上がって来る人ありで暫くの間に甲板は人が一杯になり、辺りはすっかり明るくなり十一月十三日の朝は明けた。
 伊万里湾に入泊し出発を一日延期した「ヒ八一船団」は、翌十四日八時同湾を出港した。
接岸航行により、上海沖を目指し「の」の字を繰り返しつつ時速十二ノットで進撃を開始し、船団は三列縦隊を形成し、右側にみいり丸、ありた丸、橋立丸、中央は聖川丸、摩耶山丸、吉備津丸と続き左側に音羽丸、東亜丸、秋津丸、神州丸と続いた。
一万トン級の軍輸送船五隻と、タンカー五隻を合わせて十隻の輸送船に当時としては、異例ともいうべき空母、駆逐艦、海防艦九隻を配し十九隻の高速大船団であった。
 明けて十一月十五日朝、私達が甲板に出て見ると船は既に動き出していた。今日は昨日より哨戒機の飛ぶ回数が多く、護衛艦の運動も若干大きくなったように見える。曇り空だが雲の切れ間があり鈍い太陽が時々顔を覗かせた。十一時頃食事を摂り食器洗いに船尾に出る。順番待ちしていよいよ私の番が来た。

 正午頃であった。船尾左舷の端から二番目か三番の水道栓をひねるや否や、ダダーンと船を激しく揺るがす轟音が上がる。敵襲だ!輸送船のどれかに魚雷が当たったと思った。
私の右側にいた年輩の上等兵が右に向き直って「あれだ、秋津丸だ」と怒鳴った。私はそれまでどれが秋津丸で、どれが摩耶山丸か知らずにいた。隣人の指さす方向を見るとやや傾きかけた飛行甲板のある船が船尾が僅かに曲がった状態で進んでいる。更に約十秒から二十秒、凄じい水煙がその船の中央部辺りから天を沖し《注2》暫く間を置いて、ズダーンと前より更に大きな轟音が上がった。二発目の魚雷が止めを刺すよう命中したのだ。
 神州丸は一層大きく突き飛ばされるような振動を感じた。その瞬間秋津丸を目の前にながら、これは神州丸に当たったのではないかと錯覚して、洗い場にいた人達も逃げ出すのが多かった。(船倉の部屋の中にいた人達は神州丸が被雷したと思い込み、先を争って甲板に出るため梯子に殺到し、狭い出入口は人が詰まり、転げ落ちる人も出るような大混雑を生じた。)

 神州丸の左側を航行していた秋津丸の船尾は既に海に没し、それまで線として見えていた飛行甲板は線の幅が次第に大きくなり、徐々に左舷の方に傾いていく様子がハッキリ目に写った。それでも秋津丸は停らないで慣性で走っているようだ。やがて飛行甲板はスクリーンのように見え、船は真横になっていることを示していた。それから事態は急転回した。赤い船底の一部が見え、間もなく飛行甲板は見えなくなった。もう秋津丸は船底を上にして徐々に後部の方から海に入って行った。僅かに船首が水面上に突き出ていたが、それもスーッと見えなくなった。その間六乃至七分であったように思う。
 約三時間も爆雷を放り続けながら逃げた神州丸は、漸く危機を脱し夕闇迫る済州島の陰に入り、一息ついたのであった。秋津丸より救助された兵員を収容したのは、翌早朝のことであった。

 「秋津丸」に乗船した陸軍の海上挺身隊員(水上特攻隊員)の生存者の記録等をもとにして草戸寥太郎氏が執筆された「散華の海」及び駒宮真七郎氏の労作「輸送船史」の記述により「秋津丸」の被雷時の状況及び遭難の概要を記すと、凡そ次のようである。

 十一時五〇分頃であった。左舷で警戒中の一船砲隊員が、白い雷跡が秋津丸めがけて突進してくるのを発見、直ちに機関砲で狙い撃ちしたがなかなか当たらず、慌ててブザーを押す。突然「プープー」とブザーが鳴った。目の前で起き上がった一等航海士の顔は真っ青であった。ブザーの音の二、三秒後に突然「ドカーン」と船中がひっくり返るような音がし、サロンの食器類は床下に叩き付けられた。一等航海士は飛び上がったと思うと、もう姿は見えなかった。サロンの前には海上挺身部隊の下士官や少年兵のいる大部屋があるが、ここにも数百人の兵や下士官が大混乱である。船内は停電で急に暗くなった。数秒の間をおいて、更にズドーン、ズドーンと連続して二発の魚雷攻撃を受け、それと同時に、船体はぐらっぐらっと大きく揺れ動き、棚から鉄帽や飯盒《はんごう》などが金属音を立てて落下し、船体はまたたく間に、左舷に傾斜した。出入口は、取るものも取りあえずといった姿で殺到した人々で塞がり、ひしめきあった。上甲板にいた海上挺身戦隊員は、直ちに肉薄攻撃艇(マルレ)を縛着したロープを軍刀で切りまくって、マルレを海上に落下させる。甲板に出た者は、次々に海面に飛び込む。実に悲惨極まる情景であったのである。

 魚雷が命中したのは、船体後部の食料庫、弾薬庫付近であった。爆発の衝撃で上甲板の迫撃砲弾や船尾の弾薬、爆雷が次々に誘爆して死傷者が出る。さらに船体後部の三分の一が沈下した時、機関室が爆発し、船橋、通路から火災が発生するという連鎖反応を起こした。船体は刻々左舷に傾斜し、間もなく裏返し状態で全没したのである。時に昭和十九年(一九四四年)十一月十五日十一時五十八分頃であった。
 被雷した秋津丸から脱出して次々に海上に飛び込んだ将兵は、その漂流がまた死闘だった。多くの将兵は十一月半ばの東支那海で、無念の涙をのんで大海原に消え去った。
 秋津丸の乗員、二,五七六名の内遭難により二,〇四六名が戦死した。戦車学校関係者九〇名の内救助されて比島、沖縄、台湾へ赴任したと確認されている出身者は、僅か二五名に過ぎない。しかもその二三名までが比島、沖縄で壮烈な戦死を遂げて帰っていない。
悲惨、痛恨の極みである。

 十一月十七日八時、前々日に秋津丸を失った船団は、再び態勢を整え、次の寄港地である中国杭州湾の船山列島を目指して、碇泊地の朝鮮珍島を出発した。その十八時十五分頃、突然轟然たる音響と共に、神州丸の右側を航行中の摩耶山丸が高々と黒煙をあげ、忽ち黒煙に覆われてしまう。続いてまた一発、摩耶山丸は機関部の中央と後部に、敵潜水艦の雷撃を受けたのである。護衛艦の猛烈な砲撃が始まり、曳光弾《えいこうだん=注3》が乱れ飛び、爆雷が物凄い響きをたてて爆発する。しかし間もなく黒煙の薄れた海上には、摩耶山丸の姿はなかった。
船体は忽ち横転して海中に没したのであった。時に十八時二十分。

 この時すぐ側を航行していた神州丸は、どうであったろうか。前掲の「友利手記」は次のように記述されている。
 船団は、大陸沿いに南下するらしいとの噂が流れ始める。一刻も早く大陸沿岸へ行ってくれと心中願いながら一十七日は無事に暮れる。夕食を済ませて、暫くした頃、突然の轟音と船が折れんばかりの激震にスワ神州丸も被雷と思い込み、船内は忽ちパニックに陥った。先々日の秋津丸の時も大変な混乱であったが、今度は前にも増した言いようの無い混乱で、狭い通路は昇降口の鉄格子へ殺到する人で、さながら折り重なった蟻の群れと云った感じである。私の周囲は数名の人が、片膝つきで逃げるのを諦めきった表情で眺めている。そのうち上の方から次第に静まり、被雷は神州丸ではなく、摩耶山丸が撃沈されたのである事がわかった。しかし、次は我々の神州丸かと、殆どの人が甲板に上がるような状況である。勿論私もその中の一人である。緊張で寒さもあまり感じない。陽は完全に暮れ、暗黒の海上を神州丸は爆雷を放り込みながら突っ走った。

 摩耶山丸で遭難した少年重砲兵の藤森嘉美氏はその手記で次のように述べている。
 同じ船団の一隻「摩耶山丸」から「秋津丸」の沈没を目撃している私には、いよいよ死地の戦場に出てきたという緊張と興奮で一杯だった。十一月十七日は、雲が低く垂れ、七 八mにも及ぶうねりのきつい海だった。夕方の五時頃突然、船内のスピーカーが鳴った。
「敵潜水艦群が接近しつつあり、全員退船の準備をせよ。」三保海岸での訓練を想起しながら、救命胴衣の紐を締め、編上靴の紐をゆるめる。上甲板のデッキにもたれ、暮れ行く海面を白波をけたてて船団を護衛する駆逐艦の掃海戦闘に視線を向けていた。その時突然、白い直線状のものが、わが船に直進してくるのが見えた。「魚雷だ!」と誰かが叫び続ける。船は大きく向きを変えたようだった。と、五〇〇mほど先に一mぐらいの棒状の物体が走る。潜望鏡である。また白い直線――。これで数本の魚雷を避けて、ホッとした瞬間、真っ赤な炎と轟音が起こり、私は甲板に叩きつけられた。二、三人が何回か回転しながら、絶壁のような船腹に沿って海中に飛び込んだ。私も反射的に飛び込まなければと、後を追った。海中から浮かびあがるのに、かなり時間がかかったように思われた。船から離れるために懸命に泳いだ。ふと後ろを振り向くと、船は赤黒い腹を出して山のようにそそり立っていた。門司港で城のように感じられた摩耶山丸も、今は船首か船尾をわずかに残していたが、それも魚雷を受けて数分後に姿を没していった。泳いでいる兵は、いつしか一ケ所に集まり、軍歌が始まった。しかし、うねりの高い海のなかで集団もいつしか離散して、軍歌も散り散りになり次第に聞かれなくなった。

 何時間漂流したことだろう。と、波の背に上がったとき、人の話し声を聞いた。暗闇の中のボートからであった。死力を尽くして近寄ると、それは摩耶山丸から離れたダイハツ上陸用船艇である。寸余の隙間のないほど兵が乗っていた。私は身体の疲れを訴えて、ようやく引き揚げてもらった。
 摩耶山丸の同期は誰も助かっていなかった。秋津丸から森下が助けられていたので、神州丸の五名と合わせて七名となった。出発のときは一五名だったのに残念でたまらない。
無念にも戦わずして海底に散った戦友の冥福を祈るほかなかった。遭難した摩耶山丸の乗船者は、既述のように各兵科は、この海難により三,一八七名が戦死したとされている。
 船団は、摩耶山丸の遭難現場における敵潜水艦の襲撃を振り切って暗闇の大海原を全速力で航行を続ける。時計の針が二十四時を指した頃、突然轟音とともに右舷の目の前が真っ赤に染まり一面火の海と化した。

 前掲の友利氏は、その手記で鬼気迫る空母神鷹の最後とその夜の恐怖を次のように述べている。
 摩耶山丸遭難の数時間後、またまた轟音と激震――。今度は、多くの人がデッキにいるので、デッキは悲鳴ともつかない呻きが沸き上がる。三,〇〇〇m彼方で火の手が上り被雷は船団護衛の特設空母神鷹であることがわかりかけた途端、その中央付近より火山を思わせる凄い二本の巨大な火柱が天を冲《ちゅう》し、その轟音と激震が再び神州丸へ伝わった。紅蓮《ぐれん》の炎を上げる飛行甲板から飛行機の崩れ落ちる様が三,〇〇〇m位も離れた距離から目視出来る様相は、悲痛の叫びを上げつつのたうち廻るような感じで形容の仕様がない。苦しみのたうち廻る神鷹から花火で打ち上がるような光景が見られ、やがて我々の神州丸の近くへ何か落下するが、それはドラム缶とのことであった。
つまり燃料の入ったドラム缶が、火災によって爆発し空中高く舞い上がって落ちて来た訳である。神鷹は、三発か四発の魚雷を受けている筈なのに沈まない。辺りに大量に流れ出したと思われる燃料や油脂が盛んに火を吹き、巨大な火災に包まれた神鷹は、火焙《ひあぶ》りの刑に処された殉教者がなお権力に屈しまいとする姿にも似て、鬼気迫るものであった。

 以上の如く、昭和十九年十一月、南方軍要員の海難について述べましたが、その後の戦況にしても比島、沖縄その他の各戦線においても多数の戦没者がありました。
如何に生き長がらえようとしても、己の運命を自分の努力で修正したり開拓することの出来ない、自助努力を封ぜられた状況が、私達の世代に課せられたものであったわけです。

注1 肉薄攻撃艇=陸軍が採用した特攻兵器で 陸軍海上挺身隊が使用する 四式肉薄攻撃艇で秘略称が〇に 二を入れた 「マルニ」で肉薄艇 或いは〇に レを入れた「マルレ」で 連絡艇という意味です 排水量1.5トンのベニヤ板製の舟艇で自動車用エンジンを搭載 後部に250k爆雷を装置しており体当たり攻撃用の舟艇 

注2 天を沖し=空高くあがる
注3 曳光弾=弾道がわかるように光を発しながら飛ぶ弾

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/9 8:19
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
海神(わだつみ)の声
      摩耶山丸遭難直前までのメモ

         十一期  市岡 光男

昭和十九年十月二十三日 南方要員の命を受けて
 身はたとえ南の果てに埋《うず》むとも
           死して守らん 吾が神州を
  海征きて水漬く屍となりとても
           忘れ致さむ 父母の高恩

五日 卒業式後、兵長になって
  見せてやりたい この姿
           親の喜ぶ 顔見たし

六日
  十六時、村松少通校出発  十八時三十分村松発

七日
  十一時、品川駅発

八日
  二十一時、下関着  二十二時下関発

九日
  十七時門司発 沖にて一泊

十日
  早朝、門司港に帰港

十一日
  正午、空襲警報発令、輸送船内は超満員で蒸し暑く 呼吸も苦しい

十二日
  空襲警報発令

十三日
  十時四十分頃出港 同夕刻佐世保らしき港に入港

十四日
  早刻出港す 七時全員甲板に集り、宮城を拝み皇国の悠久と我らの前途を祈る 夜輸送船内で無心に眠る 戦友を見て この人達の明日は皇国の楯と散ると 誰が思うだろうか 本日の反省を記す
  一、向上心をもて 一、闘魂 一、礼儀正しく  夜某港で一泊 我れ十九時より対潜監視につく

十五日
  十二時十分我が方一隻轟沈さる(秋津丸)潜水潜情報 に拠れば和歌山南方洋上 海南島付近 五島列島西北 台湾 バシー海峡 比島近海に点々と敵潜水艦発見 の報を聞く 敵の戦意誠に侮り難し 又時局の重大さを痛感する 台湾は十二時半全軍爆撃されしや 誠に我らの前途多難なり

  秋津丸今将に沈まんとす! 戦友の顔瞼に浮びて放れず この仇誓って討たん 我ら少年兵二百五十名乗船しており 第三区隊の乗船者は次の通り 根岸桂作 南波実夫 中川政人 村田義男 野村菅義 黒川幸夫 青木朋治 坂口国義 藤林義夫 寺島銀一 夜は某港泊

十六日
  心配していた夜も明け七時点呼 宮城と故郷を遥《よう》拝 五ケ条(軍人勅諭)を  奉唱し一組と交替 直ちに  対潜勤務につく  考えてみると魚雷攻撃を受けた場合 轟沈であれば甲板上の者は直ちに海に飛び込めるか  船内の者は水に苦しみながら死なねばならぬのか 吾れ昨日秋津丸が轟沈されるに際していた友の苦しみを思い浮かべ乍らこれを記す 吾等の前途は まだまだこれ以上の苦しみのあることを銘記しなければならない  然し我らは決して死を怖れるものではない ただ輸送船で敵の魚雷攻撃を受け 一戦も交えずして死んでいくのは誠に残念である 我らの死に場所に到着するまで死んではならない 征途の途中で水と闘いながら死んでいった戦友の顔がわが目に浮かんで離れず 夜朝鮮らしい所で停泊

十七日
  八時出航 正午空襲警報 高射砲 機関砲鳴るも敵影を認めず
  遭難の注意
  秋津丸の遭難に際しての経験に拠ると 救助された者は五百五名 港にいる者を合わせると約千名なり これ程多く助かったのは 精神力の旺盛 飛び込むときは早く飛び込まないこと 船の傾く反対方向に飛び込むこと 竹などに捉って漂流している時は真ん中を持つこと 雑嚢と水筒は肩にかけずに帯剣に結び付けておく 一人だと志気が沈滞して気絶してしまうことがある 船から綱など投げられた場合は疲れているので両手及び身体を綱などに結びつけること

  少年兵二十一名助かる
  摩耶山丸九千四百トン 二十六ノット
  魚雷速度四十六ノット
  乗員五千人
                    (以下空白)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/10 10:16
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
神州丸は無事だった

   少年兵輸送指揮官
   元村松生徒隊副官  鈴 木 宇三郎

 昭和十九年十一月十日午後急拠学校長に呼ばれ、生徒の教育中を急ぎ校長室に行くと今直ちに植原大尉と交代して南方要員の少年兵(昭和十八年十二月入校、昭和十九年十一月卒業の第十一期生)の輸送のため門司港に急行する様命令を受けて大急にて夏服に着換え十九時新潟発大阪行き急行列車に乗り門司港に向う。十二日朝門司港に到着、植原大尉殿は既に南方の新任地に出発した後であり、門司港には出港を待った船団が待機して居り、私は陸軍運輸部の指示により神州丸(同船には植原大尉の代りに東京少通校の中尉が乗船しあり同中尉と交代、同中尉は秋津丸に移乗す)に乗船した。神州丸には約一万余名の兵員が乗船していた。早速少年兵(通信、戦車重砲)を集め植原大尉の後任として着任した事を告げ、少年兵を掌握す。教え子達は泣かんばかりに喜び合う。

船内を一巡して神州丸最高輸送指揮官(氏名忘却、予備役の召集中佐で山形高等学校の配属将校と記憶する)に着任の申告し、其の指示を受け出航を待つ。十二日十八時○分、太陽が玄海灘の彼方に没する頃、船団は静かに動き始め、神州丸、秋津丸、摩耶山丸、以上三隻に少年兵は分乗、外に油槽船及び護衛艦が九州沿岸に沿い南下す。空は銀砂を撒き散らしたように快晴な夜空、海は波一つなく静かだった。十四日の夕刻、九州五島列島宇久島の影に仮泊す。

 十五日六時頃船団は航行を始める。私は少年兵を上甲板に集め皇居遥《よう》拝、君が代を奉唱し、日本内地とも暫しの別れを惜む。朝、食後船内にて休養、私も何時眠るともなく何時間眠ったか、不意に船内にて秋津丸撃沈との声に飛び起き上甲板に出て見ると、神州丸の左舷を航行中の秋津丸が敵潜水艦の攻撃を受け船体は既に右に傾むき重油は海上に流れ、兵員は皆海中に飛び込み救助を求めて大混乱に陥いっていた。我が護衛艦は必死に敵潜水艦を攻撃中であり、友軍機も亦海面すれすれに敵潜水艦を攻撃しつつあった。秋津丸は約五分間位にてその巨大な船体を海中に没した。時に十一時五十分なり。
 船団は敵潜水艦の攻撃を避けて進路を変更し北上、朝鮮の南端済州島に避難し、十六日、各船の集結を待って一日中船内にて休養す。

十七日早朝船団の態勢を整え上海に向い航行を開始した。昼間は大した事もなく船団は一路上海に向い航行、時々上空四、五千米にB二九の飛来を認めたるも何等の攻撃もなく、日没を迎えた十七時三〇分少年兵を上甲板に集め人員点呼及び敵潜水艦の攻撃を受けた場合の処置等の注意をし、特に今夜が一番危険な海域を航行するので全員救命胴衣着用船内に入るを禁じ全員上甲板に待機を命じ終るか終らんとする時、神州丸の右舷を航行中の摩耶山丸が黒煙に覆われ我が護衛艦の猛烈な砲撃が始まり、曳光弾が乱れ飛び爆雷の響き物凄さ摩耶山丸を覆った黒煙が消えた時にはその船体は既に海中に没していた。時に十八時二十分であった。神州丸は暗闇の中を全速力にて敵の攻撃を避け逃げるのみでありました。

  註 
  台湾高雄港に入港したとき、摩耶山丸に乗船し、撃沈後救助された将校の話に、十七日暗い波の間に間に「お母さん、お母さん」と呼ぶ声が聞こえたが、あの声は確かに少年兵の声であったと聞いた時は涙が出て泣けて仕方がありませんでした。
  村松少通校の生徒も約五十名余り海没したものと思われます。

神州丸は全速力で暗闇の大海原を航行していた。夜明けには揚子江河口に入るので安心と船員が語っていたので夜明けまでの時間の永い事、何時間経ったのか、突然右舷の目の前が真赤な火の手が上がり一面火の海と化し今まで咫尺《しせき》も弁ぜざる《注1》如き暗闇であったのが一変に真昼間の様に明るくなる。今迄私共も気付いていたが、神州丸の右舷に接す様に護衛の特設航空母艦が敵艦の魚雷攻撃を受け積載中の油や弾薬に誘発し物凄い音響と火花、この時はもう神州丸も駄目かと観念し只々心の裡で「南無妙法蓮華経」を唱え神仏の加護を祈り最悪の時の覚悟をなし、少年兵見守る神州丸は全速力(十八ノット)で航行しあり、船内は灯一つなく、誰れ一人としてセキする者もなく運命は只々船長に任すのみ、時に十七日二十四時の事なり。それから何時間経ったか、東の空が白じらと成って来た時、海水も亦茶褐色に変りつつあった。船員の叫ぶ声。「揚子江河口だ」 船内は急に騒々しくなり少年兵達の顔もやっと生気を取り戻したように明るく甲板を走る姿、今でも忘れられない程目に残って居ります。

 神州丸は何事もなかったかの様に快適なエンジンの音をたてて上海へ、上海へと走りつつあった。眼鏡を片手に船橋に立って居る船長の姿は神の様に尊く、今でも私の目に焼き付いて居ります。十一月十八日昼近く揚子江河口の島影に仮泊、船内では種々なデマが飛び南方行きは危険であるから全員上海に上陸とか、否強行突破で予定通り南方に行くとか、色々取り沙汰されて居たが、二十二日朝、船団は又航行開始、支那沿岸に沿い南下、二十七日夕刻台湾高雄港に入港、茲《ここ》に於て台湾軍要員は上陸、任地に向い出発した。その時の少年兵の嬉しそうな顔 (村松少通校の塚本軍曹が手を振って上陸して行く姿が目に残って居ります)その反面船内に残った少年兵の悲しそうなまた不安そうな顔は何時までも私の脳裡に残って居りました(摩耶山丸撃沈後救助された兵が神州丸に移乗して来ました。第二中隊白川上等兵より撃沈当時の模様を聞きました)。

 十一月三十日夕刻高雄港を出発、台湾最南端ガランピン沖に集結 (油槽船は別行動で一日早く出航す)した。神州丸の外に高雄港で合流した輸送船一隻が加り、二隻でバシー海峡《注2》を強行突破するのには護衛として馬公要塞より護衛艦六の外昼間は(夜明けと共に)台湾軍の航空機の大部分が空から護衛に当る事になった。成る程夜明けと共に友軍機がバシー海峡を海面すれすれに飛来し、海上には護衛艦も亦交互に躍進をして我が輸送を守り、バシー海峡を突破す。途中護衛艦が敵の潜水艦を早く発見しこれを撃沈する等の戦果を挙げ十二月一日夕、バシー海峡の一孤島の島影に仮泊する。十二月二日無事バシー海峡を突破、比島沿岸すれすれに南下、同日夜半リンガエン湾サンフェルナンド港に上陸、当地小学校校舎に宿営する。宿営中士気を鼓舞するため、毎朝夕全員を引率して市内を軍歌演習を兼ねて行進し、大いに士気の鼓舞に努めた。軍歌演習で市内を行進すると必ず兵站《へいたん=注3》部の二階の窓より顔を出して笑顔で迎えてくれた大尉参謀(仙台幼年学校教官から兵站部参謀として赴任せられた方、氏名忘却し申訳ない次第です)少年兵の事に付いては特別面倒を見て戴き忘れられず、誠に感謝に耐えない次第であります。同参謀の計らいで少年兵だけは汽車輸送でマニラに送って戴き他の部隊は全部マニラまで八〇里の道を炎暑と戦いつつ陸路を行軍で少年兵達より十四、五日遅れてマニラに到着した。少年兵達は十二月七日マニラに到着、各配属部隊より受領員が来ないのでマニラ中央競馬場に宿泊し受領員の到着を毎日首を長くして待つ。此の間十二月十五、十六、十七日の三日間はマニラに敵機の大空襲があり、マニラ防衛司令部の命に依り夜明け前にマニラ郊外に疎開、日没後に宿泊地に帰るのを三日間繰り返しており、此の間マニラ防衛司令部に命令受領や山下兵団司令部に連絡に行くやら、多忙な日を過ごしており、毎日の少年兵達の給養、特に健康状態に留意、幸いに一人の病人も出ず、一同至極元気旺盛であった。
 
  註 
  此の時はマニラの状況は事態急を告げ少年兵は鈴木大隊と名称を変えマニラ防衛司令部に編入マニラ最後の防衛に任ずる予定で予め其の陣地も定っておりました。

偶々《たまたま》、山下兵団司令部にて中台中佐参謀に再会した時は実に地獄で仏に会った様に嬉しく今でも忘れられない(中台参謀は私が陸軍歩兵学校に通信学生として入校した時の主任教官で卒業後村松少通校付に成ったのは中台参謀の御高庇《ごこうひ=おかげ》に依るものであります)。中台参謀の取り計らいで司令部付福富大尉に少年兵を引渡し下士官四名と共に十二月二十四日マニラ北方約一〇里クラクフイルド陸軍飛行場より軍用機に便乗台湾経由東京立川飛行場に十二月二十五日夕刻到着下士官四名は各所属学校に帰校せしめ私も亦村松陸軍少年通信兵学校に帰校任務を完了す。

(むらまつ第三号収載)

注1 咫尺=距離が非常に近いこと。
  咫尺も弁ぜざる如き=視界がきかず、ごく近いものもはっきり見分けがつかない

注2 バシー海峡=台湾とフィリピンとの間にある海峡。太平洋と南シナ海を結び、航路として重要

注3 兵站=戦闘部隊の後方にあって、人員・兵器・食糧などの前送・補給にあたり、また、後方連絡線の確保にあたる活動

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/11 8:38
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 続フィリッピン参戦記
  ――同郷の戦友・西村嘉利君のこと――

           十一期  尾 崎 健 一

 二月下旬頃、私はモンタリバン河に添って上流へと山の斜面を一人で歩いていた。所用を済ませた帰りである。辺りの山は敵の砲爆撃によって樹木はなぎ倒されて裸同然の姿をさらしていた。
敵の一方的な攻撃を受け戦局はほとんど絶望的であった。
 この小さな山道は、敗退した大勢の将兵達によって、踏み固められて自然に出来たものであり、道端や下に見える河原には死亡(戦死、病死、衰弱死)した兵士の死体がところどころに横たわり、放置されていた。死後日の浅い死体には蝿と蛆が群っていたが、その哀れな敗残兵の屍は熱帯の灼熱の太陽に焼かれて腐敗するのが早く、瞬く間に干潤《ひから》びて白骨化した。所用のため死体の傍を通る度、肉体が崩れ始めて次第に骨が露出してゆく、その物理的変化の様子が否応なく目に入り敗残の戦場における無常をひしひしと感じたものである。私は小心であったので死骸を直視することが出来ず、怖くてその傍を通る時は、別の方向に目をそらせて、足早に遠ざかる様にしていた。

 その時、ふと前方の道をふさぐ様に一人の兵士が横たわっているのが見えた。今まで見かけなかった場所であったので〝新しい死体だな!″‥‥‥とぎょーとした。頭を山の斜面上方に向けて仰臥《ぎょうが》し、足は道に投げ出していた。気味悪さと恐ろしさに身体を固くして近づいた。そこを避けて迂回する道は無い。投げ出している足を跨がなければ通れない……と身構えた時、その身体が少し動いた。まだ生きている……と気付いてほっーとした。生きているのであれば怖くはない、と思い直して近くまで進み、突き出した足を跨ぎながらその兵の顔を横目で見て驚いた。その兵はまぎれもなく同期の西村嘉利君であった。
 〝西村― 〟私は思わず叫んだ、思いがけない山中での奇遇である。(西村嘉利君……同期同中隊で、しかも同県人であったので入校当時から親交があった。細面で色は白く、おっとりした柔和な性格でおよそ軍人タイプではなかった。ルソン島に来ている事は知っていたが、所属部隊が違っていたので、それまで会っていなかった)

 彼も私に気付き弱々しい笑みを一瞬浮かべたが、もう自分では起き上がることは出来ない様だった。上半身を抱き起こして〝しっかりしろ″と激励したが、彼は息も絶え絶えに〝俺はもう駄目だ ″……と繰り返した。消え入りそうな細い声で〝戦友達は先に行ってしまった ″……と言って淋しそうな顔をしたが、その言葉にたった一人だけ取り残された無念が込められているのを犇《ひし》と感じて胸が詰まる思いがした。〝俺と一緒に歩けないか? ″と誘い無理に腕を取って立ち上がらせよう……としたがとても無理だった。〝 このまま寝ているのが楽だ。動きたくない ″と彼はぼそぼそと呟いた。所用の帰りであったので私はその時食糧は何も持っていなかったが、たとえ有ったとしても食うことが出来たか疑問である。(食料が欠乏し、野生のバナナの幹の芯を主食にしていた頃である)
 動く力も殆ど無い彼の様子を見て『もうあまり長くもたないだろう』……と私は直感した。

 部隊は敵の猛攻を受けて壊滅し、僅かに生き残った兵は山の奥へと敗退四散したので、何処にも看護、救護を求めるすべはない。その時何人かの兵が通りかかったが、誰も声を掛ける者はなく一瞥《いちべつ》し無視して通り過ぎて行った。気休めの激励だけで何もしてやれないことが無念であった。日没が近かった。暫くの間彼の傍にいたが、暗くなる前にグループの戦友達のところに戻らなければならないので、心を鬼にして〝 頑張れよ ″……と激励し、後髪を引かれる思いで私は立ち上がった。〝さよなら ″は言わなかった。悲しい出会い、そして辛い別れであった。十米程歩いてから振り返ると彼はじっとこちらを見ているのがわかり、私は最後の別れをこめて手を振った。どんな思いで私の後姿を見送っていたのだろう。その時の情景は四十余年たった今でも鮮明に覚えている。思い出す度に心が痛む。
 彼と別れた後、更に敵の執拗《しつよう》な攻撃を受けて命からがら山奥(河上)に向って逃げたので、気にかかりながら河下の山道で別れた彼の安否に就いては、とうとう確かめることが出来なかった。その後、敵の追撃を受けながら辛うじて生き残った私達敗残兵には、恐るべき飢餓地獄が待ち受けており、当てもなく山中を徘徊《はいかい》しながら必死で餌を探して命をつないだ。〝今度こそもう駄目だ ″という土壇場に追いつめられたことも度々あり、筆舌に尽くし難い苦難に満ちた山中生活であったが、命運尽きず幸運にも生き残って終戦を迎え、昭和二十一年十一月故郷の土を踏むことが出来た。

 名古屋港に着きそこで幾許《いくばく》かの金を貰い、汽車を乗り継いで懐しい故郷の高知に帰着した。父は二十年七月に高知市が受けた空襲の時に防空壕で爆死した……と聞かされた。その頃家族(母と兄)は市内から二十~三十Km程離れた田舎の親戚を頼って疎開していた。そこは農家の納屋を応急的に改造した六畳一間の台所もない狭い仮住居であったが、ルソン島のジャングルには耐えた私にとっては、畳の上で寝られることは天国のように思え、何の不満も感じなかった。家族と共に暮らすことが出来、そして生きているだけで嬉しかった。
 食糧をはじめあらゆる物資の欠乏、インフレの昂進、就職難、金儲けの闇屋の横行、すべて暮らしにくい戦後の混乱期であったが、私にとって更に悪いことはフィリッピンから持ち帰ったマラリアの再発に悩まされて、就職することも出来ず焦燥の中で細々と暮らしていた。

 帰還してから約一ケ月程した年末のある日、突然背の高い中年の婦人が私を名指しで訪ねて来た。西村嘉利君のお母さんであった。(彼の家は南へ三十~四十Km程行った太平洋に面した漁村であったが、そのことはその時にお母さんから聞くまで、全く知らなかった)
 距離もかなり離れており、私が生還して疎開先の田舎の片隅でひっそり暮らしていることを、お母さんはどのようにして知り、訪ねてこられたのだろうか?そのことは聞き漏らしたので分からないが、子を思う母親の一念で何等かの情報を得て、必死で探し当てられたのではないだろうか。挨拶もそこそこ単刀直入に〝嘉利のことを知らないでしょうか? ″と真っ先に尋ねられた。突然の来訪に私は驚き、ご報告する心の準備が少しも出来ていなかった。
一瞬、山中で会った時の彼の姿、別れてから振り向いた時淋しそうに見送っていた彼の姿が浮かんだ。どの様にお知らせすればよいか……と思い悩んだ。
 必死に縋るような真剣な眼差しのお母さんを目の前にしては、どうしても本当のことが言えなかった。又自分だけ生きて帰ったことが申し訳なく、お母さんの顔を正視することが出来なかった。
 〝彼には二月下旬頃山の中で会った。敵の攻撃を受けて戦死者が続出していた頃であり、食料も欠乏し生き残った兵隊はみんな衰弱していた。山道で彼が一人で休憩しているときに偶然私は通りかかって会ったが、可成り疲労している様子だった。暫く話をして別れたのでその後のことは知らない ″やっとの思いで概略その様な内容のことを御報告した。〝きっと元気で帰ってきますよ ″……普通なら当然言うべき励ましの言葉も私としては白々しく思えてとても言えなかった。

 私は彼の最後を確認していない。でも多分あの場所で一人淋しく永遠の眠りに就いたに違いない。奇跡でも起きない限りそれ以外には考えられない……と思う。何故本当のことをお知らせしなかったのか……と何度も何度も自分を責めた。そして後悔しながらもその反面、それで良かった……と思う気持ちもあって未だに結論が出せない。〝嘉利は親孝行な優しい子でした ″とお母さんは淋しそうに述懐された。そして肩を落とし悄然《しょうぜん》と帰って行かれたが、その後姿を見送るのがとても辛く、友を亡くした痛実の想がぐっとこみ上げた。

 (平八・四-第七号抜粋)
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 戦死の公報と校長からの手紙

ところで、これら遭難(海難)の模様は、軍事機密として堅く秘匿され、長く公表されることはありませんでした。十九年十二月末、帰着した鈴木宇三郎氏から委細を聞かれた高木校長は、以来苦悶の日々を送られ、後年、「いかに軍の命令とはいえ、年端の行かない子供たちを繰上げ卒業させてまで出陣させたくなかった」と述懐されたと伝えられています。そして これらの事実は次のような形で遺族に届きました。(後掲の「追悼」に出てくる椎名恵太郎氏宛てのものを掲載します)。


 戦死の公報

  市町村役場経由
  村少通校弔第一四号ノ一〇三
     戦時死亡者生死不明者ノ件通報
  本籍 千葉県長生郡一宮町三三〇四番地ノ九ノ二号
                 陸軍伍長  椎 名 恵太郎
  右昭和十九年十一月十五日五島列島白瀬灯台二六〇度距離三四粁海面ニ於テ輸送船敵潜水艦ノ魚雷攻撃ニ依リ沈没シ生死不明トナリ昭和二十年七月二十日死体ヲ発見セザルモ戦死卜確認セラレ條候此段通告候也
  追テ市町村長ニ対スル死亡報告ハ戸籍法第百十九條ニ依リ處理可致候
    昭和廿年八月拾参日
           村松陸軍少年通信兵学校長  高 木 正 實
 椎 名 磯 松 殿


 校長からの手紙

 謹啓 戦局ノ様相日々苛烈ヲ加フルノ秋益々御敢闘ノ事卜拝察申上候
 今般突如御令息殿戦死ノ報ニ接セラレ皆々様ノ御驚卜御悲嘆如何バカリカト御心中ヲ察スル時申上クヘキ言葉モ無之候、顧レハ客年《かくねん=一昨年》十一月五日本校ヲ目出度卒業夫々外地部隊ニ配属ヲ命セラレ赴任ノ途ニ就カレ輸送船ニ依リ航行中十一月十五日東支那海方面ニ於テ突如敵潜水艦ノ攻撃ヲ受ケ直チニ対潜水艦攻撃ヲ敢行セルモ遂ニ海没シ惜クモ船卜運命ヲ共ニセラレタル次第ニ候然レ共生存幹部等ノ報告ニ依レハ御令息等ハ勇猛沈着克ク指挿官ノ命ニ従ヒ最後迄一糸紊《みだれ》サル行動ヲ取リ遺憾ナク本校ニ於ケル修養ノ実ヲ発揮シ天晴少年兵ノ亀鑑《きかん=模範》タル最後ヲ遂ケラレタルモノノ如ク候
 遭難後直チニ内報申上ケ度ク存シ候へ共遭難後救助セラレタルモノモ之有上司ニ於テ内地ハ勿論朝鮮支那南方各島嶼《とうしょ》等各方面ニ亘リ百方手段ヲ盡シ調査致シ居リ此ノ間一切ノ発表ヲ禁セラレアリ候処今般七月二十日戦死ト確認セラレタル次第ニ御座候何卒御諒承賜度候
 滅敵ノ意気ニ燃ユル精鋭無比ノ若武者ヲ輸送途上ニ於テ失ヒ候事本人及御遺族ノ御無念ハ勿論ノコト武人トシテノ育成ニ終始セシ本職以下全校職員ノ悲憤亦無限ニ候モ今ハ只万斛《ばんこく=はかりしれないほど》ノ怨ヲ呑ンテ後ニ続ク幾千ノ後輩卜共ニ復仇ノ念ヲ新タニシ以テ忠魂ニ答へン事ヲ期シ居リ候
                                                 
 茲ニ御令息ノ御戦死ノ概況ヲ御通報シ謹ミテ御冥福ヲ御祈リ申上候
 追而遺品交付等ニ関シテハ改メテ御連絡仕度又戦死確認ニ伴フ恩典受給手続等ニテ御不明ノ点ハ市町村役場聯隊区司令部等ニテ御世話仕ル筈ニ候へド必要アラバ何ナリト当校宛御照会相成度候
      昭和二十年八月六日
          村松陸軍少年通信兵学校長  
              陸 軍 少 将  高 木 正 實
椎 名 磯 松 殿



(付)少年通信兵の各期 地域別 戦没者数

 現在村松の慰霊碑に合祀されているのは八百十二柱ですが、ここに戦没者名簿に基づく「各期地域別戦没者数」を掲載します。上述の五島列島沖・済州島沖の遭難とその後の比島で十一期生がいかに多く戦没したかお分かりいただけると思います。



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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 四、戦況は最終局面へ――終戦・復員

 一方戦局は、二十年三月十一期生の残留組が卒業、出陣していった頃を境に、刻々急変化して行きました。即ち、三月十日の東京大空襲を皮切りに日本の主要都市は軒並みB二九の洗礼に晒され、村松も何時標的にされるか判らない状況に置かれていました。

 四月一日、村松少通校では十一期生と入れ替わりに第十三期生八百名を迎えましたが、こうした状況を反映して、五月に入ると営庭のあちこちにタコツボ(一人用の塹壕)が掘られ、続いて愛宕山の中腹に通信機を格納する横穴式地下壕の構築作業が急ピッチで始まりました。全兵舎の天井撤去が行われたのもこの頃で、モウモウと舞い落ちる塵埃《じんあい》の山に、改めて軍都・村松の歴史の長さを感じさせられました。また、練兵場の一角、射撃場から菅名村にかけて軍用機発着用の滑走路の建設が始まり八月上旬完成しました。中隊によっては、全員疎開することになり、近村の国民学校の教室を借りて分宿生活を始めるものもあり、戦局の急迫はこうした形でも町民まで巻き込んで徐々にその姿を現しつつありました。

 八月に入って、近くの村に露営を兼ねた演習に出かけていた私たちのもとに、突然帰校の命令が伝えられました。十五日正午、玉音による重大放送があるとのことで緊張して校庭に整列した私たちの耳に飛び込んできたのは――ラジオの雑音で確かとは聞き取れませんでしたが、戦いが終わったとのこと――戦局烈しき中で、なお一層奮起を求める放送と信じていたところ、正に晴天の霹靂《へきれき》、皆、茫《ほう》然自失、それからの数日間はどう過ごしたか記憶が定かではありません。
 しかし、ややあって、中隊長がその心境を「退くも進むも一つ 大君の詔勅(みこと)の侭《まま》にわれは揺るがじ」と披瀝《ひれき》されるに及んで徐々に平静を取り戻して行きました。

 それからというもの、連日、校庭内のあちこちで重要書類を焼く煙が立ち昇るなか、行事は二十八日の通信兵監の来校訓示、二十九日の復員式と続き、その後、生徒は高木校長の声涙下る訣別《けつべつ》の言葉を胸に、分配された毛布や衣類を背にして、夫々に帰郷して行きました。
――別れしなに交換し合ったお互いのノートには、どこにも「七生報国」「神州不滅」「臥薪嘗胆《がしんしょうたん=注1》」等の文字が躍っていました。

 「或る区隊長の手紙」は、十三期生の区隊長だった青山正樹氏が、復員して行く生徒の父兄に宛てた書簡です。入校してまだ五カ月、訓育も緒に着いたばかりの教え子を、みすみす手放さなければならない氏の無念さと、その行く末を案じる父親のような心情が込められているように思われます。

 ところで、こうした生徒達が立ち去った後の村松に一つの事件が持ち上がりました。それは、当時政府は終戦処理の一環として残った村松少通校の施設と通信機材の活用による逓信講習所の開設を目論み、現地では早速その準備に掛かっていたのですが、そこに突然、米軍の一個聯隊が進駐してきて武装解除を迫りその過程において通信機材が対象から外されていたことが発見され、これを悪質な隠匿行為と判定した米側は、生徒隊長以下の懸命の釈明にも耳を貸さず逆に学校幹部全員の村松町外への禁足を命じてきました。

 ここにおいて、高木元校長(既にこの時点で、教育總監附となり秋田聯隊司令官の内命を受けていました)は、自分としては「赤穂開城《注2》」を念頭に進めて来たが、事ここに至っては直接出向き説明するほか策はないと判断、米側の聯隊長に面会を求めました。
 元々、高木校長は荘子の「至誠而不動者未之有也(至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり)」を座右の銘にしておられ、偶々これを行動に移されたわけで、「通信機材を逓信講習所に委譲したのは教育総監の命によるもので、その実施を命じたのは校長であった私である。従って、それが不法というのであれば責任は総て私にあり、この場合私は如何なる処分も甘受する。その代わり幹部の禁足は解除して欲しい」と。
 そして、黙ってこれを聞き終えた聯隊長は、直ぐ態度を改め(自分が大佐だったため、少将である高木氏に対し)、将官に対する礼をもって遇するとともに、「事情はよく判りました。禁足は即刻解除します。閣下もご自由に赴任なさってください」と応じ、以後はお互いに歴戦の勇者とあって意気投合し、高木氏は後に記念にと自分の軍刀(備前長船勝光)を、ご令室がご母堂から譲られた藤色綸子《りんず=絹織物》の帯を裁断して作られた刀袋に収め、同聯隊長に贈ったと伝えられています。――まことに、ラグビーのノーサイドの場面にも似て爽やかな話ではありませんか。

注1 臥薪嘗胆=復讐(ふくしゅう)を心に誓って辛苦すること
注2 赤穂開城=忠臣蔵においての開城(降伏して城や要塞を敵に明け渡す)のように
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 或る区隊長の手紙

 教官  青 山 正 樹

 謹啓、残暑猶酷しき時候、御尊家御一統様益々御健勝の段奉賀候。
 聖戦茲に八歳の今日を迎へ、世界の情勢と戦局の推移とは必ずしも我に有利ならず、御聖断を以て休戦の已むなきに至りたる事一億同胞として洵に痛恨の極に御座候。之偏に我等臣民特に武器とる武人の努力の足らざる所、上は陛下に対し奉り下は一億の臣民、就中護国の華と散られし或は戦に傷つきたる数多くの勇士に対し、真に申訳けなく無念の情耐え難きもの有之候。軍は未だ決して戦に敗れたるに非ず、烈々たる必勝の信念に燃え本土決戦の必勝を期しありたる所、かくなれるは実に私情に於てやむにやまれぬ激情の覚ゆるを禁じ能はず候。然れども大命の下戦たるもの、いかでか大命により鉾《ほこ》を収めざるを得ん哉、之皇軍の本義にして又大詔の諭ゆる所、聖処に副い奉る道に御座候。中には休戦を潔よしとせず、或は無念の情抑へ難く軽挙妄動に趨《はし》るもの有之候も、之明確に皇軍の根本義に反するものに御座候。勿論身命を惜しまざるは武人の面目、いかで父祖にまみえんと思ふも無理なき事に候も、苟《いやし》くも聖旨を以て新な大道を示されたる今日、もはやこれ卑怯未練の振舞に外ならず、死は潔く平易なるもの、将来の生は耐え難きもの有之べくも、今や鴻毛《こうもう=注1》の軽きに比したる命を惜しみ、死に勝る努力を以て苔の如く生きるを要し永く永く生き永らへ最大の力を国家の再興への道に致すこそ真の臣道と被存候。今や皇軍の姿は地上より消え去らんとすれど、皇軍の魂は末々長く国民の胸に刻まれゆくべく、戦は敗れり、然れども唯皇国を護持し得たる事実を喜び、無念の情を報仇への努力に換え、此の魂を子々孫々に伝へて国家の再建を期すべきを強く愚信任候。

 御子息殿も国家危急の時、殉忠報国の赤誠《注2》に燃え、年若く軍人と相成られ候も、今かくなりて尊き志もならず、その痛憤の想ひ如何ばかりか拝察するに余りあるもの有之候。しかしてその修業中ばにして志破れ、家郷に帰る事になり申候も、此の僅か五ケ月間の軍隊教育は決して無為には御座なく、その心中には烈々たる軍人精神確乎として既に宿り居候。父祖より受け継ぎし我々日本人の血は優秀にして御両親様より承けし御子息様の血は優秀にて候。少しも御落胆遊ばす事なく此の子一人未だあらばと万腔《=満身》の信頼を御子息に懸けられ、末楽しく御家内睦まじく国家再建の新道を驀進《ばくしん》被下度存候。吾我が非才を尽して教へし事も全く空しく何の用にも立たざるに至れども、再び御両親様の許に抱かれて円満且健やかに生育を賜りたる時、其の魂は更に大きく躍動し必ずや国家の再興あるべきを期して確信仕候。
 お別れに臨み益々忠良なる日本臣民たるべき事と親への孝道を訓へ申候。之忠孝一本国家の将来を念じせめて生徒達に託する吾微中に御座候。
 今御両親様の御前に御返し申上候御子息殿の姿は、日夜皆々様の想像致せるあの凛々しい軍服姿には無之、襟の星章も腰の剣もなき洵《まこと》に哀れ淋しき姿には御座候へ共、その輝かしき眼は不屈の闘魂を訴へ、その心中には烈々たる日本精神が充溢《じゅういつ》せられ居候。校門を志空しく去りゆく生徒の後姿を拝み、吾思ひは悲しみと共に涙はつきず、今謹しみて御子息殿をお返し申上候。然れども何れ又晴れて捧ぐべき生命宜敷御生育の程偏にお願い申上候。
 かくなれば我等斎しく承詔必謹《注3》、忠良なる日本臣民としての面目を発揮し、上御聖旨に副ひ奉るのみに御座候。茲に教育間に諸種の御無礼をお詫び申上ぐると共に、神洲不滅を喜び、皇軍の再興を念じ、併せて御尊家の御繁栄と御一統様の御健勝をお祈り仕り、謹しみて御挨拶に代へ如斯御座候。
  
   敬具

        区 隊 長

 ご父兄各位殿
                 
(昭五五・一二―第二号収載)


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終戦に当り陸軍大臣より全将兵にあてた訓告

 茲に停戦講和の御聖断を拝す。全軍の将兵は烈々たる闘魂の下、或は万里の異域に勇戦敢闘し、或は皇土の防衛に満を持して準備を進めつつありし所、今や泣いて戈を収むるに至れり、皇国苦難の前途を思えば萬感極まりなし。
 至尊《しそん=天皇》亦深く此の間を精察せられ然も、尚大局のため非常の御決意を以て、大命を宣し給えり。
 全軍将兵は真に涙を呑み激情にただよることなく、又、冷厳なる事実に目を覆うことなく、冷静真摯《しんし=まじめに》一糸乱れざる統制の下、軍秩を維持し粛然たる軍容を正し、承勅必謹の一途に徹すべし。
 至尊は「汝等軍人の誠忠遺烈は、萬古国民の精体たるを信ず」との優諚《=天子のありがたい言葉》を垂れ給う、光栄何ものか之に加えん。
 全軍将兵宜しく此の光栄を体し、高き矜持《きんじ=プライド》をもて、千辛萬苦に克ち、忍び難きを忍び森厳たる皇軍の真姿を顕揚《=世間に評判をたかめる》すべし。

 昭和二十年八月十七日
                               陸軍大臣

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注1 鴻毛=非常に軽いもののたとえ。「命を―より軽いとみる風潮」
注2 殉忠報国の赤誠=国のために命を捧げることに、少しも嘘や偽りのない心
注3 承詔必謹=天皇の言葉(命令)をいただく際には、常に例外なく、かしこまった態度をとりなさい  
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 五.戦後二十周年記念の集いから慰霊碑建立まで

 戦後、社会が落ち着きを取り戻すとともに、全国各地で、かっての少通生活を懐かしみ、戦友愛の復活を望む声が澎湃《ほうはい》として沸きあがってきました。
 そして、昭和四十年八月十五日、村松で「戦後二十周年記念の集い」が開催されました。集った者は、元職員及び生徒の約六十名。――直ちに全国を十のブロックに分けた地区少通会と、それを総括する全国少通連合会の結成を決めるとともに、その連合会の力によって五年後を期し、東京、村松両少通校跡に「戦没者慰霊碑」と「記念碑」を建設することを申し合わせました。

 しかし、事態はそう容易に進捗しませんでした。東京少通校は既に校舎の総てが取り壊され、その跡に近代的な小、中、高校や公務員宿舎等が建設されるなど、文教住宅地区として面目を一新しており、今更其処にこの種の施設を建設することは当面望めないことが判ったからです。
 そこで連合会は対象を村松一本に絞り、綿密な事前調査と当局との折衝を繰り返した結果、四十四年二月に会長名を以て新潟県知事及び村松町町長宛に「この地に純真愛国の少年通信兵が誕生したことを記念し、その偉績を後世に継承するとともに殉国散華した数百烈士の英魂を鎮めるための慰霊碑を建立させてください」との陳情書を提出、これに対して村松町長から同年三月一日付を以て村松記念公園内の忠魂碑右隣りの土地十坪の使用許可が下りました。

 かくして、昭和四十五年十月、慰霊碑の除幕式と第一回慰霊祭が全国各地から参集したご遺族、生き残った職員、生徒等多数が見守るなか盛大かつ厳粛に挙行されました。「宿願を達成して」は、当日の喜びを前記の本川栄吉氏が綴ったものです。

 因みに、慰霊碑正面の「慰霊碑」の文字は高木正實校長、裏面の「建立趣旨」は渡邊利興少通連合会長の筆になるものです。その後、石灯籠《いしどうろう》の増設と建立文碑の設置を行い現容に至りました。また、碑内に納められている戦没者名簿は当初和紙に記載されていましたが、現在は永久保存に耐える金属板に替わっています。

 (注)「戦後二十周年記念の集い」の際に建設を申し合わせた「戦没者慰霊碑」と「学校跡記念碑」のうち、前者については、このようにして達成しましたが、後者についても、平成十六年に至り、村松町当局のご好意により学校正門および歩哨舎の復元ができました(上掲・吉田富忠氏の「軍都・村松の悼尾を飾る村松少通校」を参照)。

 また、少年通信兵の慰霊碑は、この村松碑のほか、九州・平戸島の鯛の鼻自然公園に「安らかに眠り給へ 陸軍少年通信兵の霊」と記した石碑(平戸島碑)が建立されています。これは、昭和五十年の第二回合同慰霊祭の席上、関係者から「ぜひ十一期生の遭難地点である五島列島方面にも慰霊碑を建立して欲しい」旨の声が挙がったことに拠るもので、その後、九州地区少通会有志が平戸市当局等と折衝を重ねた結果、まず五十一年に同地に木碑を建立、続いて五十九年に石碑に建て替えたものです。同碑は、現在も九州地区少通会ならびに地元ボランテア団体によって保守管理が行われ、毎年十月には定例の慰霊祭が営まれています。

 なお、地元ボランテア団体として当初から格別のご協力をお寄せくださった平戸市津吉老壮会の吉井孝美会長は碑の建立に際して少年兵を悼んで次の二首を遺《のこ》しておられます。

散華せし み霊らこたふ みしるしか 山雨しきりに われを濡らすも
若き血を 国に捧ぐと 海渡る 雄心なかば 水漬きませしか

(注)このように、平戸島碑は現在も地元の温かいご好意によって支えられていますが、長い歳月の中には、その方々の世代交替もあり、碑の由来等についての記憶も薄れてきましたので、これらを踏まえ、かつ、当方の感謝の気持ちをお伝えすべく刊行したのが、先の「西海の浪、穏やかに」です。
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