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「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・17

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通常 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・17

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/12 8:22
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 戦死の公報と校長からの手紙

ところで、これら遭難(海難)の模様は、軍事機密として堅く秘匿され、長く公表されることはありませんでした。十九年十二月末、帰着した鈴木宇三郎氏から委細を聞かれた高木校長は、以来苦悶の日々を送られ、後年、「いかに軍の命令とはいえ、年端の行かない子供たちを繰上げ卒業させてまで出陣させたくなかった」と述懐されたと伝えられています。そして これらの事実は次のような形で遺族に届きました。(後掲の「追悼」に出てくる椎名恵太郎氏宛てのものを掲載します)。


 戦死の公報

  市町村役場経由
  村少通校弔第一四号ノ一〇三
     戦時死亡者生死不明者ノ件通報
  本籍 千葉県長生郡一宮町三三〇四番地ノ九ノ二号
                 陸軍伍長  椎 名 恵太郎
  右昭和十九年十一月十五日五島列島白瀬灯台二六〇度距離三四粁海面ニ於テ輸送船敵潜水艦ノ魚雷攻撃ニ依リ沈没シ生死不明トナリ昭和二十年七月二十日死体ヲ発見セザルモ戦死卜確認セラレ條候此段通告候也
  追テ市町村長ニ対スル死亡報告ハ戸籍法第百十九條ニ依リ處理可致候
    昭和廿年八月拾参日
           村松陸軍少年通信兵学校長  高 木 正 實
 椎 名 磯 松 殿


 校長からの手紙

 謹啓 戦局ノ様相日々苛烈ヲ加フルノ秋益々御敢闘ノ事卜拝察申上候
 今般突如御令息殿戦死ノ報ニ接セラレ皆々様ノ御驚卜御悲嘆如何バカリカト御心中ヲ察スル時申上クヘキ言葉モ無之候、顧レハ客年《かくねん=一昨年》十一月五日本校ヲ目出度卒業夫々外地部隊ニ配属ヲ命セラレ赴任ノ途ニ就カレ輸送船ニ依リ航行中十一月十五日東支那海方面ニ於テ突如敵潜水艦ノ攻撃ヲ受ケ直チニ対潜水艦攻撃ヲ敢行セルモ遂ニ海没シ惜クモ船卜運命ヲ共ニセラレタル次第ニ候然レ共生存幹部等ノ報告ニ依レハ御令息等ハ勇猛沈着克ク指挿官ノ命ニ従ヒ最後迄一糸紊《みだれ》サル行動ヲ取リ遺憾ナク本校ニ於ケル修養ノ実ヲ発揮シ天晴少年兵ノ亀鑑《きかん=模範》タル最後ヲ遂ケラレタルモノノ如ク候
 遭難後直チニ内報申上ケ度ク存シ候へ共遭難後救助セラレタルモノモ之有上司ニ於テ内地ハ勿論朝鮮支那南方各島嶼《とうしょ》等各方面ニ亘リ百方手段ヲ盡シ調査致シ居リ此ノ間一切ノ発表ヲ禁セラレアリ候処今般七月二十日戦死ト確認セラレタル次第ニ御座候何卒御諒承賜度候
 滅敵ノ意気ニ燃ユル精鋭無比ノ若武者ヲ輸送途上ニ於テ失ヒ候事本人及御遺族ノ御無念ハ勿論ノコト武人トシテノ育成ニ終始セシ本職以下全校職員ノ悲憤亦無限ニ候モ今ハ只万斛《ばんこく=はかりしれないほど》ノ怨ヲ呑ンテ後ニ続ク幾千ノ後輩卜共ニ復仇ノ念ヲ新タニシ以テ忠魂ニ答へン事ヲ期シ居リ候
                                                 
 茲ニ御令息ノ御戦死ノ概況ヲ御通報シ謹ミテ御冥福ヲ御祈リ申上候
 追而遺品交付等ニ関シテハ改メテ御連絡仕度又戦死確認ニ伴フ恩典受給手続等ニテ御不明ノ点ハ市町村役場聯隊区司令部等ニテ御世話仕ル筈ニ候へド必要アラバ何ナリト当校宛御照会相成度候
      昭和二十年八月六日
          村松陸軍少年通信兵学校長  
              陸 軍 少 将  高 木 正 實
椎 名 磯 松 殿



(付)少年通信兵の各期 地域別 戦没者数

 現在村松の慰霊碑に合祀されているのは八百十二柱ですが、ここに戦没者名簿に基づく「各期地域別戦没者数」を掲載します。上述の五島列島沖・済州島沖の遭難とその後の比島で十一期生がいかに多く戦没したかお分かりいただけると思います。



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