「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・13
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海難の詳報 (抄)
(少通関係者以外の証言から)
十一期 本田 都男
陸軍の誇る「秋津丸」は、宇品港において陸軍海上挺身隊、第二〇戦隊の将兵及び、その使用する肉薄攻撃艇《注1》マルレ一〇四隻や爆雷を積載して三月四日夜同港を出港し下関を経て翌日朝鮮の釜山に入港、また僚船の摩耶山丸、神州丸等が、別途に釜山港に到着した。これらの輸送船は、共に釜山において北満のハイラルから到着していた第二十三師団(旭兵団)の将兵、兵器機材を満載して同日夜出帆し、十一月五日に下関に着き、やがて門司港に待機した。
一方比島方面軍の増強のため、弘前の師団で編成した部隊が、各駅でつぎつぎに兵員を加えつつ門司に到着した。こうした十一月九日頃に、少通校卒業者六四七名、少戦校卒業者二七〇名、少年重砲兵学校卒業者二五名が門司に到着したのである。南方戦線における戦力増強の命運をかけ「ヒ八一輸送船団」が編成された。
この頃、当時の輸送の危険な状況から部隊組織を分散して乗船する場合があった。少年通信兵、少年戦車兵、少年重砲兵の場合も三輸送船にそれぞれ分散して乗船する方針がとられた。少年戦車兵は秋津丸、摩耶山丸、神州丸にそれぞれ九〇名ずつ乗船した。
秋津丸は九,一八六総トンで日本海運所属であり旭兵団の歩兵第六四聯隊や前記のマレ一〇四隻を装備した海上挺身第二〇戦隊等二,五七六名であった。
摩耶山丸は九,四三三総トンで三井船舶所属であった。乗員数は第二三師団〈旭兵団〉司令部、野砲聯隊、その他船舶隊、船員を含め約四,五〇〇名とされている。
神州丸は八,一六〇総トンで陸軍省所属であり、これには旭兵団の歩兵第七二聯隊の一部とその他大小一四部隊六,四〇〇余名が乗船した。
十一月初旬以来、門司では連日船団会議がもたれ、慎重に輸送計画が練られていた。転進、派遣要員の乗船が済んだ船団は、その十一月十二日太陽が玄海に没する午後六時頃、静かに動き始めた。
少戦校の友利恵徳氏の手記は、神州丸における出発時の状況等について次のように述べている。
ブリッジから一人の将校が出てきて「今船が出る」と低い声で告げた。カラカラとアンカーを巻き上げる低い金属音がするだけで船は鐘を叩くでもない、汽笛を鳴らすこともなく、まったく無言のまま静かに進み出した。スクリューの回る感じさえしない。
船が走り出してびっくりした。高速の大船団ということは前日から聞いていたが、薄闇みの水平線に浮かぶ船影は飛行甲板のある空母二隻を交え(その内の一隻が秋津丸であることを後日知ることになる)延々と続き全部を数え切ることは出来なかった。日は全く暮れ、物の識別さえ難しくなりその上甲板の上に人が疎らとなった。
奈落の底はとは斯くやと思わせる暗鬱《あんうつ》たる暗い船底へ冷たい鉄格子を伝って降りていく、己の巣へ引き揚げてさてどのように割り込もうかと薄明かりの裸電球の下へ目を移すと甲板に上がる時の混雑程ではなく、身を横たえるだけの隙はあり、まるで狐に化かされたような思いを味わう。そのうち何時の間にか寝入ってしまった。
人のざわつきで目を覚ますと、どうやら夜が明け初めた様子で船はそれほど揺れていない。甲板では其処彼処に兵が三人、四人と身を寄せ合い、毛布にくるまっているではないか。道理で昨夜の私達は割り込むのにそれほど苦労をしなかったわけだ。甲板の人達も起き出す者あり船倉から上がって来る人ありで暫くの間に甲板は人が一杯になり、辺りはすっかり明るくなり十一月十三日の朝は明けた。
伊万里湾に入泊し出発を一日延期した「ヒ八一船団」は、翌十四日八時同湾を出港した。
接岸航行により、上海沖を目指し「の」の字を繰り返しつつ時速十二ノットで進撃を開始し、船団は三列縦隊を形成し、右側にみいり丸、ありた丸、橋立丸、中央は聖川丸、摩耶山丸、吉備津丸と続き左側に音羽丸、東亜丸、秋津丸、神州丸と続いた。
一万トン級の軍輸送船五隻と、タンカー五隻を合わせて十隻の輸送船に当時としては、異例ともいうべき空母、駆逐艦、海防艦九隻を配し十九隻の高速大船団であった。
明けて十一月十五日朝、私達が甲板に出て見ると船は既に動き出していた。今日は昨日より哨戒機の飛ぶ回数が多く、護衛艦の運動も若干大きくなったように見える。曇り空だが雲の切れ間があり鈍い太陽が時々顔を覗かせた。十一時頃食事を摂り食器洗いに船尾に出る。順番待ちしていよいよ私の番が来た。
正午頃であった。船尾左舷の端から二番目か三番の水道栓をひねるや否や、ダダーンと船を激しく揺るがす轟音が上がる。敵襲だ!輸送船のどれかに魚雷が当たったと思った。
私の右側にいた年輩の上等兵が右に向き直って「あれだ、秋津丸だ」と怒鳴った。私はそれまでどれが秋津丸で、どれが摩耶山丸か知らずにいた。隣人の指さす方向を見るとやや傾きかけた飛行甲板のある船が船尾が僅かに曲がった状態で進んでいる。更に約十秒から二十秒、凄じい水煙がその船の中央部辺りから天を沖し《注2》暫く間を置いて、ズダーンと前より更に大きな轟音が上がった。二発目の魚雷が止めを刺すよう命中したのだ。
神州丸は一層大きく突き飛ばされるような振動を感じた。その瞬間秋津丸を目の前にながら、これは神州丸に当たったのではないかと錯覚して、洗い場にいた人達も逃げ出すのが多かった。(船倉の部屋の中にいた人達は神州丸が被雷したと思い込み、先を争って甲板に出るため梯子に殺到し、狭い出入口は人が詰まり、転げ落ちる人も出るような大混雑を生じた。)
神州丸の左側を航行していた秋津丸の船尾は既に海に没し、それまで線として見えていた飛行甲板は線の幅が次第に大きくなり、徐々に左舷の方に傾いていく様子がハッキリ目に写った。それでも秋津丸は停らないで慣性で走っているようだ。やがて飛行甲板はスクリーンのように見え、船は真横になっていることを示していた。それから事態は急転回した。赤い船底の一部が見え、間もなく飛行甲板は見えなくなった。もう秋津丸は船底を上にして徐々に後部の方から海に入って行った。僅かに船首が水面上に突き出ていたが、それもスーッと見えなくなった。その間六乃至七分であったように思う。
約三時間も爆雷を放り続けながら逃げた神州丸は、漸く危機を脱し夕闇迫る済州島の陰に入り、一息ついたのであった。秋津丸より救助された兵員を収容したのは、翌早朝のことであった。
「秋津丸」に乗船した陸軍の海上挺身隊員(水上特攻隊員)の生存者の記録等をもとにして草戸寥太郎氏が執筆された「散華の海」及び駒宮真七郎氏の労作「輸送船史」の記述により「秋津丸」の被雷時の状況及び遭難の概要を記すと、凡そ次のようである。
十一時五〇分頃であった。左舷で警戒中の一船砲隊員が、白い雷跡が秋津丸めがけて突進してくるのを発見、直ちに機関砲で狙い撃ちしたがなかなか当たらず、慌ててブザーを押す。突然「プープー」とブザーが鳴った。目の前で起き上がった一等航海士の顔は真っ青であった。ブザーの音の二、三秒後に突然「ドカーン」と船中がひっくり返るような音がし、サロンの食器類は床下に叩き付けられた。一等航海士は飛び上がったと思うと、もう姿は見えなかった。サロンの前には海上挺身部隊の下士官や少年兵のいる大部屋があるが、ここにも数百人の兵や下士官が大混乱である。船内は停電で急に暗くなった。数秒の間をおいて、更にズドーン、ズドーンと連続して二発の魚雷攻撃を受け、それと同時に、船体はぐらっぐらっと大きく揺れ動き、棚から鉄帽や飯盒《はんごう》などが金属音を立てて落下し、船体はまたたく間に、左舷に傾斜した。出入口は、取るものも取りあえずといった姿で殺到した人々で塞がり、ひしめきあった。上甲板にいた海上挺身戦隊員は、直ちに肉薄攻撃艇(マルレ)を縛着したロープを軍刀で切りまくって、マルレを海上に落下させる。甲板に出た者は、次々に海面に飛び込む。実に悲惨極まる情景であったのである。
魚雷が命中したのは、船体後部の食料庫、弾薬庫付近であった。爆発の衝撃で上甲板の迫撃砲弾や船尾の弾薬、爆雷が次々に誘爆して死傷者が出る。さらに船体後部の三分の一が沈下した時、機関室が爆発し、船橋、通路から火災が発生するという連鎖反応を起こした。船体は刻々左舷に傾斜し、間もなく裏返し状態で全没したのである。時に昭和十九年(一九四四年)十一月十五日十一時五十八分頃であった。
被雷した秋津丸から脱出して次々に海上に飛び込んだ将兵は、その漂流がまた死闘だった。多くの将兵は十一月半ばの東支那海で、無念の涙をのんで大海原に消え去った。
秋津丸の乗員、二,五七六名の内遭難により二,〇四六名が戦死した。戦車学校関係者九〇名の内救助されて比島、沖縄、台湾へ赴任したと確認されている出身者は、僅か二五名に過ぎない。しかもその二三名までが比島、沖縄で壮烈な戦死を遂げて帰っていない。
悲惨、痛恨の極みである。
十一月十七日八時、前々日に秋津丸を失った船団は、再び態勢を整え、次の寄港地である中国杭州湾の船山列島を目指して、碇泊地の朝鮮珍島を出発した。その十八時十五分頃、突然轟然たる音響と共に、神州丸の右側を航行中の摩耶山丸が高々と黒煙をあげ、忽ち黒煙に覆われてしまう。続いてまた一発、摩耶山丸は機関部の中央と後部に、敵潜水艦の雷撃を受けたのである。護衛艦の猛烈な砲撃が始まり、曳光弾《えいこうだん=注3》が乱れ飛び、爆雷が物凄い響きをたてて爆発する。しかし間もなく黒煙の薄れた海上には、摩耶山丸の姿はなかった。
船体は忽ち横転して海中に没したのであった。時に十八時二十分。
この時すぐ側を航行していた神州丸は、どうであったろうか。前掲の「友利手記」は次のように記述されている。
船団は、大陸沿いに南下するらしいとの噂が流れ始める。一刻も早く大陸沿岸へ行ってくれと心中願いながら一十七日は無事に暮れる。夕食を済ませて、暫くした頃、突然の轟音と船が折れんばかりの激震にスワ神州丸も被雷と思い込み、船内は忽ちパニックに陥った。先々日の秋津丸の時も大変な混乱であったが、今度は前にも増した言いようの無い混乱で、狭い通路は昇降口の鉄格子へ殺到する人で、さながら折り重なった蟻の群れと云った感じである。私の周囲は数名の人が、片膝つきで逃げるのを諦めきった表情で眺めている。そのうち上の方から次第に静まり、被雷は神州丸ではなく、摩耶山丸が撃沈されたのである事がわかった。しかし、次は我々の神州丸かと、殆どの人が甲板に上がるような状況である。勿論私もその中の一人である。緊張で寒さもあまり感じない。陽は完全に暮れ、暗黒の海上を神州丸は爆雷を放り込みながら突っ走った。
摩耶山丸で遭難した少年重砲兵の藤森嘉美氏はその手記で次のように述べている。
同じ船団の一隻「摩耶山丸」から「秋津丸」の沈没を目撃している私には、いよいよ死地の戦場に出てきたという緊張と興奮で一杯だった。十一月十七日は、雲が低く垂れ、七 八mにも及ぶうねりのきつい海だった。夕方の五時頃突然、船内のスピーカーが鳴った。
「敵潜水艦群が接近しつつあり、全員退船の準備をせよ。」三保海岸での訓練を想起しながら、救命胴衣の紐を締め、編上靴の紐をゆるめる。上甲板のデッキにもたれ、暮れ行く海面を白波をけたてて船団を護衛する駆逐艦の掃海戦闘に視線を向けていた。その時突然、白い直線状のものが、わが船に直進してくるのが見えた。「魚雷だ!」と誰かが叫び続ける。船は大きく向きを変えたようだった。と、五〇〇mほど先に一mぐらいの棒状の物体が走る。潜望鏡である。また白い直線――。これで数本の魚雷を避けて、ホッとした瞬間、真っ赤な炎と轟音が起こり、私は甲板に叩きつけられた。二、三人が何回か回転しながら、絶壁のような船腹に沿って海中に飛び込んだ。私も反射的に飛び込まなければと、後を追った。海中から浮かびあがるのに、かなり時間がかかったように思われた。船から離れるために懸命に泳いだ。ふと後ろを振り向くと、船は赤黒い腹を出して山のようにそそり立っていた。門司港で城のように感じられた摩耶山丸も、今は船首か船尾をわずかに残していたが、それも魚雷を受けて数分後に姿を没していった。泳いでいる兵は、いつしか一ケ所に集まり、軍歌が始まった。しかし、うねりの高い海のなかで集団もいつしか離散して、軍歌も散り散りになり次第に聞かれなくなった。
何時間漂流したことだろう。と、波の背に上がったとき、人の話し声を聞いた。暗闇の中のボートからであった。死力を尽くして近寄ると、それは摩耶山丸から離れたダイハツ上陸用船艇である。寸余の隙間のないほど兵が乗っていた。私は身体の疲れを訴えて、ようやく引き揚げてもらった。
摩耶山丸の同期は誰も助かっていなかった。秋津丸から森下が助けられていたので、神州丸の五名と合わせて七名となった。出発のときは一五名だったのに残念でたまらない。
無念にも戦わずして海底に散った戦友の冥福を祈るほかなかった。遭難した摩耶山丸の乗船者は、既述のように各兵科は、この海難により三,一八七名が戦死したとされている。
船団は、摩耶山丸の遭難現場における敵潜水艦の襲撃を振り切って暗闇の大海原を全速力で航行を続ける。時計の針が二十四時を指した頃、突然轟音とともに右舷の目の前が真っ赤に染まり一面火の海と化した。
前掲の友利氏は、その手記で鬼気迫る空母神鷹の最後とその夜の恐怖を次のように述べている。
摩耶山丸遭難の数時間後、またまた轟音と激震――。今度は、多くの人がデッキにいるので、デッキは悲鳴ともつかない呻きが沸き上がる。三,〇〇〇m彼方で火の手が上り被雷は船団護衛の特設空母神鷹であることがわかりかけた途端、その中央付近より火山を思わせる凄い二本の巨大な火柱が天を冲《ちゅう》し、その轟音と激震が再び神州丸へ伝わった。紅蓮《ぐれん》の炎を上げる飛行甲板から飛行機の崩れ落ちる様が三,〇〇〇m位も離れた距離から目視出来る様相は、悲痛の叫びを上げつつのたうち廻るような感じで形容の仕様がない。苦しみのたうち廻る神鷹から花火で打ち上がるような光景が見られ、やがて我々の神州丸の近くへ何か落下するが、それはドラム缶とのことであった。
つまり燃料の入ったドラム缶が、火災によって爆発し空中高く舞い上がって落ちて来た訳である。神鷹は、三発か四発の魚雷を受けている筈なのに沈まない。辺りに大量に流れ出したと思われる燃料や油脂が盛んに火を吹き、巨大な火災に包まれた神鷹は、火焙《ひあぶ》りの刑に処された殉教者がなお権力に屈しまいとする姿にも似て、鬼気迫るものであった。
以上の如く、昭和十九年十一月、南方軍要員の海難について述べましたが、その後の戦況にしても比島、沖縄その他の各戦線においても多数の戦没者がありました。
如何に生き長がらえようとしても、己の運命を自分の努力で修正したり開拓することの出来ない、自助努力を封ぜられた状況が、私達の世代に課せられたものであったわけです。
注1 肉薄攻撃艇=陸軍が採用した特攻兵器で 陸軍海上挺身隊が使用する 四式肉薄攻撃艇で秘略称が〇に 二を入れた 「マルニ」で肉薄艇 或いは〇に レを入れた「マルレ」で 連絡艇という意味です 排水量1.5トンのベニヤ板製の舟艇で自動車用エンジンを搭載 後部に250k爆雷を装置しており体当たり攻撃用の舟艇
注2 天を沖し=空高くあがる
注3 曳光弾=弾道がわかるように光を発しながら飛ぶ弾
(少通関係者以外の証言から)
十一期 本田 都男
陸軍の誇る「秋津丸」は、宇品港において陸軍海上挺身隊、第二〇戦隊の将兵及び、その使用する肉薄攻撃艇《注1》マルレ一〇四隻や爆雷を積載して三月四日夜同港を出港し下関を経て翌日朝鮮の釜山に入港、また僚船の摩耶山丸、神州丸等が、別途に釜山港に到着した。これらの輸送船は、共に釜山において北満のハイラルから到着していた第二十三師団(旭兵団)の将兵、兵器機材を満載して同日夜出帆し、十一月五日に下関に着き、やがて門司港に待機した。
一方比島方面軍の増強のため、弘前の師団で編成した部隊が、各駅でつぎつぎに兵員を加えつつ門司に到着した。こうした十一月九日頃に、少通校卒業者六四七名、少戦校卒業者二七〇名、少年重砲兵学校卒業者二五名が門司に到着したのである。南方戦線における戦力増強の命運をかけ「ヒ八一輸送船団」が編成された。
この頃、当時の輸送の危険な状況から部隊組織を分散して乗船する場合があった。少年通信兵、少年戦車兵、少年重砲兵の場合も三輸送船にそれぞれ分散して乗船する方針がとられた。少年戦車兵は秋津丸、摩耶山丸、神州丸にそれぞれ九〇名ずつ乗船した。
秋津丸は九,一八六総トンで日本海運所属であり旭兵団の歩兵第六四聯隊や前記のマレ一〇四隻を装備した海上挺身第二〇戦隊等二,五七六名であった。
摩耶山丸は九,四三三総トンで三井船舶所属であった。乗員数は第二三師団〈旭兵団〉司令部、野砲聯隊、その他船舶隊、船員を含め約四,五〇〇名とされている。
神州丸は八,一六〇総トンで陸軍省所属であり、これには旭兵団の歩兵第七二聯隊の一部とその他大小一四部隊六,四〇〇余名が乗船した。
十一月初旬以来、門司では連日船団会議がもたれ、慎重に輸送計画が練られていた。転進、派遣要員の乗船が済んだ船団は、その十一月十二日太陽が玄海に没する午後六時頃、静かに動き始めた。
少戦校の友利恵徳氏の手記は、神州丸における出発時の状況等について次のように述べている。
ブリッジから一人の将校が出てきて「今船が出る」と低い声で告げた。カラカラとアンカーを巻き上げる低い金属音がするだけで船は鐘を叩くでもない、汽笛を鳴らすこともなく、まったく無言のまま静かに進み出した。スクリューの回る感じさえしない。
船が走り出してびっくりした。高速の大船団ということは前日から聞いていたが、薄闇みの水平線に浮かぶ船影は飛行甲板のある空母二隻を交え(その内の一隻が秋津丸であることを後日知ることになる)延々と続き全部を数え切ることは出来なかった。日は全く暮れ、物の識別さえ難しくなりその上甲板の上に人が疎らとなった。
奈落の底はとは斯くやと思わせる暗鬱《あんうつ》たる暗い船底へ冷たい鉄格子を伝って降りていく、己の巣へ引き揚げてさてどのように割り込もうかと薄明かりの裸電球の下へ目を移すと甲板に上がる時の混雑程ではなく、身を横たえるだけの隙はあり、まるで狐に化かされたような思いを味わう。そのうち何時の間にか寝入ってしまった。
人のざわつきで目を覚ますと、どうやら夜が明け初めた様子で船はそれほど揺れていない。甲板では其処彼処に兵が三人、四人と身を寄せ合い、毛布にくるまっているではないか。道理で昨夜の私達は割り込むのにそれほど苦労をしなかったわけだ。甲板の人達も起き出す者あり船倉から上がって来る人ありで暫くの間に甲板は人が一杯になり、辺りはすっかり明るくなり十一月十三日の朝は明けた。
伊万里湾に入泊し出発を一日延期した「ヒ八一船団」は、翌十四日八時同湾を出港した。
接岸航行により、上海沖を目指し「の」の字を繰り返しつつ時速十二ノットで進撃を開始し、船団は三列縦隊を形成し、右側にみいり丸、ありた丸、橋立丸、中央は聖川丸、摩耶山丸、吉備津丸と続き左側に音羽丸、東亜丸、秋津丸、神州丸と続いた。
一万トン級の軍輸送船五隻と、タンカー五隻を合わせて十隻の輸送船に当時としては、異例ともいうべき空母、駆逐艦、海防艦九隻を配し十九隻の高速大船団であった。
明けて十一月十五日朝、私達が甲板に出て見ると船は既に動き出していた。今日は昨日より哨戒機の飛ぶ回数が多く、護衛艦の運動も若干大きくなったように見える。曇り空だが雲の切れ間があり鈍い太陽が時々顔を覗かせた。十一時頃食事を摂り食器洗いに船尾に出る。順番待ちしていよいよ私の番が来た。
正午頃であった。船尾左舷の端から二番目か三番の水道栓をひねるや否や、ダダーンと船を激しく揺るがす轟音が上がる。敵襲だ!輸送船のどれかに魚雷が当たったと思った。
私の右側にいた年輩の上等兵が右に向き直って「あれだ、秋津丸だ」と怒鳴った。私はそれまでどれが秋津丸で、どれが摩耶山丸か知らずにいた。隣人の指さす方向を見るとやや傾きかけた飛行甲板のある船が船尾が僅かに曲がった状態で進んでいる。更に約十秒から二十秒、凄じい水煙がその船の中央部辺りから天を沖し《注2》暫く間を置いて、ズダーンと前より更に大きな轟音が上がった。二発目の魚雷が止めを刺すよう命中したのだ。
神州丸は一層大きく突き飛ばされるような振動を感じた。その瞬間秋津丸を目の前にながら、これは神州丸に当たったのではないかと錯覚して、洗い場にいた人達も逃げ出すのが多かった。(船倉の部屋の中にいた人達は神州丸が被雷したと思い込み、先を争って甲板に出るため梯子に殺到し、狭い出入口は人が詰まり、転げ落ちる人も出るような大混雑を生じた。)
神州丸の左側を航行していた秋津丸の船尾は既に海に没し、それまで線として見えていた飛行甲板は線の幅が次第に大きくなり、徐々に左舷の方に傾いていく様子がハッキリ目に写った。それでも秋津丸は停らないで慣性で走っているようだ。やがて飛行甲板はスクリーンのように見え、船は真横になっていることを示していた。それから事態は急転回した。赤い船底の一部が見え、間もなく飛行甲板は見えなくなった。もう秋津丸は船底を上にして徐々に後部の方から海に入って行った。僅かに船首が水面上に突き出ていたが、それもスーッと見えなくなった。その間六乃至七分であったように思う。
約三時間も爆雷を放り続けながら逃げた神州丸は、漸く危機を脱し夕闇迫る済州島の陰に入り、一息ついたのであった。秋津丸より救助された兵員を収容したのは、翌早朝のことであった。
「秋津丸」に乗船した陸軍の海上挺身隊員(水上特攻隊員)の生存者の記録等をもとにして草戸寥太郎氏が執筆された「散華の海」及び駒宮真七郎氏の労作「輸送船史」の記述により「秋津丸」の被雷時の状況及び遭難の概要を記すと、凡そ次のようである。
十一時五〇分頃であった。左舷で警戒中の一船砲隊員が、白い雷跡が秋津丸めがけて突進してくるのを発見、直ちに機関砲で狙い撃ちしたがなかなか当たらず、慌ててブザーを押す。突然「プープー」とブザーが鳴った。目の前で起き上がった一等航海士の顔は真っ青であった。ブザーの音の二、三秒後に突然「ドカーン」と船中がひっくり返るような音がし、サロンの食器類は床下に叩き付けられた。一等航海士は飛び上がったと思うと、もう姿は見えなかった。サロンの前には海上挺身部隊の下士官や少年兵のいる大部屋があるが、ここにも数百人の兵や下士官が大混乱である。船内は停電で急に暗くなった。数秒の間をおいて、更にズドーン、ズドーンと連続して二発の魚雷攻撃を受け、それと同時に、船体はぐらっぐらっと大きく揺れ動き、棚から鉄帽や飯盒《はんごう》などが金属音を立てて落下し、船体はまたたく間に、左舷に傾斜した。出入口は、取るものも取りあえずといった姿で殺到した人々で塞がり、ひしめきあった。上甲板にいた海上挺身戦隊員は、直ちに肉薄攻撃艇(マルレ)を縛着したロープを軍刀で切りまくって、マルレを海上に落下させる。甲板に出た者は、次々に海面に飛び込む。実に悲惨極まる情景であったのである。
魚雷が命中したのは、船体後部の食料庫、弾薬庫付近であった。爆発の衝撃で上甲板の迫撃砲弾や船尾の弾薬、爆雷が次々に誘爆して死傷者が出る。さらに船体後部の三分の一が沈下した時、機関室が爆発し、船橋、通路から火災が発生するという連鎖反応を起こした。船体は刻々左舷に傾斜し、間もなく裏返し状態で全没したのである。時に昭和十九年(一九四四年)十一月十五日十一時五十八分頃であった。
被雷した秋津丸から脱出して次々に海上に飛び込んだ将兵は、その漂流がまた死闘だった。多くの将兵は十一月半ばの東支那海で、無念の涙をのんで大海原に消え去った。
秋津丸の乗員、二,五七六名の内遭難により二,〇四六名が戦死した。戦車学校関係者九〇名の内救助されて比島、沖縄、台湾へ赴任したと確認されている出身者は、僅か二五名に過ぎない。しかもその二三名までが比島、沖縄で壮烈な戦死を遂げて帰っていない。
悲惨、痛恨の極みである。
十一月十七日八時、前々日に秋津丸を失った船団は、再び態勢を整え、次の寄港地である中国杭州湾の船山列島を目指して、碇泊地の朝鮮珍島を出発した。その十八時十五分頃、突然轟然たる音響と共に、神州丸の右側を航行中の摩耶山丸が高々と黒煙をあげ、忽ち黒煙に覆われてしまう。続いてまた一発、摩耶山丸は機関部の中央と後部に、敵潜水艦の雷撃を受けたのである。護衛艦の猛烈な砲撃が始まり、曳光弾《えいこうだん=注3》が乱れ飛び、爆雷が物凄い響きをたてて爆発する。しかし間もなく黒煙の薄れた海上には、摩耶山丸の姿はなかった。
船体は忽ち横転して海中に没したのであった。時に十八時二十分。
この時すぐ側を航行していた神州丸は、どうであったろうか。前掲の「友利手記」は次のように記述されている。
船団は、大陸沿いに南下するらしいとの噂が流れ始める。一刻も早く大陸沿岸へ行ってくれと心中願いながら一十七日は無事に暮れる。夕食を済ませて、暫くした頃、突然の轟音と船が折れんばかりの激震にスワ神州丸も被雷と思い込み、船内は忽ちパニックに陥った。先々日の秋津丸の時も大変な混乱であったが、今度は前にも増した言いようの無い混乱で、狭い通路は昇降口の鉄格子へ殺到する人で、さながら折り重なった蟻の群れと云った感じである。私の周囲は数名の人が、片膝つきで逃げるのを諦めきった表情で眺めている。そのうち上の方から次第に静まり、被雷は神州丸ではなく、摩耶山丸が撃沈されたのである事がわかった。しかし、次は我々の神州丸かと、殆どの人が甲板に上がるような状況である。勿論私もその中の一人である。緊張で寒さもあまり感じない。陽は完全に暮れ、暗黒の海上を神州丸は爆雷を放り込みながら突っ走った。
摩耶山丸で遭難した少年重砲兵の藤森嘉美氏はその手記で次のように述べている。
同じ船団の一隻「摩耶山丸」から「秋津丸」の沈没を目撃している私には、いよいよ死地の戦場に出てきたという緊張と興奮で一杯だった。十一月十七日は、雲が低く垂れ、七 八mにも及ぶうねりのきつい海だった。夕方の五時頃突然、船内のスピーカーが鳴った。
「敵潜水艦群が接近しつつあり、全員退船の準備をせよ。」三保海岸での訓練を想起しながら、救命胴衣の紐を締め、編上靴の紐をゆるめる。上甲板のデッキにもたれ、暮れ行く海面を白波をけたてて船団を護衛する駆逐艦の掃海戦闘に視線を向けていた。その時突然、白い直線状のものが、わが船に直進してくるのが見えた。「魚雷だ!」と誰かが叫び続ける。船は大きく向きを変えたようだった。と、五〇〇mほど先に一mぐらいの棒状の物体が走る。潜望鏡である。また白い直線――。これで数本の魚雷を避けて、ホッとした瞬間、真っ赤な炎と轟音が起こり、私は甲板に叩きつけられた。二、三人が何回か回転しながら、絶壁のような船腹に沿って海中に飛び込んだ。私も反射的に飛び込まなければと、後を追った。海中から浮かびあがるのに、かなり時間がかかったように思われた。船から離れるために懸命に泳いだ。ふと後ろを振り向くと、船は赤黒い腹を出して山のようにそそり立っていた。門司港で城のように感じられた摩耶山丸も、今は船首か船尾をわずかに残していたが、それも魚雷を受けて数分後に姿を没していった。泳いでいる兵は、いつしか一ケ所に集まり、軍歌が始まった。しかし、うねりの高い海のなかで集団もいつしか離散して、軍歌も散り散りになり次第に聞かれなくなった。
何時間漂流したことだろう。と、波の背に上がったとき、人の話し声を聞いた。暗闇の中のボートからであった。死力を尽くして近寄ると、それは摩耶山丸から離れたダイハツ上陸用船艇である。寸余の隙間のないほど兵が乗っていた。私は身体の疲れを訴えて、ようやく引き揚げてもらった。
摩耶山丸の同期は誰も助かっていなかった。秋津丸から森下が助けられていたので、神州丸の五名と合わせて七名となった。出発のときは一五名だったのに残念でたまらない。
無念にも戦わずして海底に散った戦友の冥福を祈るほかなかった。遭難した摩耶山丸の乗船者は、既述のように各兵科は、この海難により三,一八七名が戦死したとされている。
船団は、摩耶山丸の遭難現場における敵潜水艦の襲撃を振り切って暗闇の大海原を全速力で航行を続ける。時計の針が二十四時を指した頃、突然轟音とともに右舷の目の前が真っ赤に染まり一面火の海と化した。
前掲の友利氏は、その手記で鬼気迫る空母神鷹の最後とその夜の恐怖を次のように述べている。
摩耶山丸遭難の数時間後、またまた轟音と激震――。今度は、多くの人がデッキにいるので、デッキは悲鳴ともつかない呻きが沸き上がる。三,〇〇〇m彼方で火の手が上り被雷は船団護衛の特設空母神鷹であることがわかりかけた途端、その中央付近より火山を思わせる凄い二本の巨大な火柱が天を冲《ちゅう》し、その轟音と激震が再び神州丸へ伝わった。紅蓮《ぐれん》の炎を上げる飛行甲板から飛行機の崩れ落ちる様が三,〇〇〇m位も離れた距離から目視出来る様相は、悲痛の叫びを上げつつのたうち廻るような感じで形容の仕様がない。苦しみのたうち廻る神鷹から花火で打ち上がるような光景が見られ、やがて我々の神州丸の近くへ何か落下するが、それはドラム缶とのことであった。
つまり燃料の入ったドラム缶が、火災によって爆発し空中高く舞い上がって落ちて来た訳である。神鷹は、三発か四発の魚雷を受けている筈なのに沈まない。辺りに大量に流れ出したと思われる燃料や油脂が盛んに火を吹き、巨大な火災に包まれた神鷹は、火焙《ひあぶ》りの刑に処された殉教者がなお権力に屈しまいとする姿にも似て、鬼気迫るものであった。
以上の如く、昭和十九年十一月、南方軍要員の海難について述べましたが、その後の戦況にしても比島、沖縄その他の各戦線においても多数の戦没者がありました。
如何に生き長がらえようとしても、己の運命を自分の努力で修正したり開拓することの出来ない、自助努力を封ぜられた状況が、私達の世代に課せられたものであったわけです。
注1 肉薄攻撃艇=陸軍が採用した特攻兵器で 陸軍海上挺身隊が使用する 四式肉薄攻撃艇で秘略称が〇に 二を入れた 「マルニ」で肉薄艇 或いは〇に レを入れた「マルレ」で 連絡艇という意味です 排水量1.5トンのベニヤ板製の舟艇で自動車用エンジンを搭載 後部に250k爆雷を装置しており体当たり攻撃用の舟艇
注2 天を沖し=空高くあがる
注3 曳光弾=弾道がわかるように光を発しながら飛ぶ弾