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「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・12

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通常 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・12

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/7 10:21
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 三、出陣、そして遭難

 当時わが国をめぐる戦況は、十九年五月頃までは、比島が南方作戦の基地としての機能を果たしていましたが、米軍の物量にものをいわせた強力な反撃により、日本軍は各地で玉砕や転進を余儀なくされ、このままでは西太平洋における米軍の攻撃を食い止めることは困難と、大本営は急ぎ南方総軍をマニラに移すなど進撃準備を始めました。しかし、米軍は逆に潜水艦による海上補給路の遮断作戦に出、これによってバシー海峡やマニラ湾口における日本の輸送船の沈没が相次ぎました。

 こうした厳しい状況を踏まえ、大本営は、当時、現存する精鋭部隊で最強といわれる「ヒ八十一輸送船団」を編成し、南方に向わせることにしました。即ち、第二十三師団を主力として通信、戦車、砲兵の、各繰上げ少年兵及び暁部隊の特幹を主軸とした水上特幹隊百隻とその基地隊員九百名、大砲などの兵器は全て新品を積載しました。船団指導艦・聖川丸、陸軍上陸母艦・摩耶山丸、吉備津丸、陸軍空母兼上陸母艦・秋津丸、神州丸の五隻(少年兵は秋津丸、摩耶山丸、神州丸の三隻に分乗)、ほかタンカー五隻、海軍護衛空母・神鷹、海防艦七隻、駆逐艦一隻、合計十九隻の船団を組み、十一月十三日七時に門司港を出発、途中回避しながら十二ノットで航行、目的地に向ったのです。そして、この少年兵の中に、東京校と村松校から繰上げ卒業で巣立っていった六百余名の少年通信兵が含まれていました。
 因みに、第二十三師団(旭兵団)は、昭和十四年のノモンハン事件で全滅した部隊であり、その後再編された後も関東軍の一部として北部満州の警備につきソ連軍の侵入に備えていましたが、戦局の急迫で急遽《きゅうきょ》レイテ島に転出することになったものです。

 しかし、この船団の行き先は正にこの世の地獄ともいうべき悲惨なものでした。それは、後年「悲劇のヒ八十一船団」とも称されたほどで、詳しい経緯は次の本田都男氏の「海難の詳報」でご覧の通り、先ず十五日十一時五十六分、五島列島沖で秋津丸が、その船倉に敵潜水艦クイーンフィッシュの魚雷を受け数分で沈没、次いで十七日十八時八分、摩耶山丸が東支那海で敵潜ピキューダに捕らえられて轟沈、更に同日二十三時三分、空母神鷹が敵潜スペードフィッシュの魚雷攻撃であっけなく沈没しました。同「詳報」では秋津丸、摩耶山丸両船の戦死者を五千二百三十三名と報じ、更に他の記録は神鷹において無傷であった艦上攻撃機十四機と九百四十八名の乗員は殆ど助からなかったと伝えています。また、この遭難で少年通信兵は秋津丸で九十二名、摩耶山丸で七十七名が海没しました(戦死者の数は引用した文献によって必ずしも同一ではありません、しかし現在ではその確認の方法も閉ざされています)。

 卒業の日から僅か十日後、三隻の輸送船に分乗(少年兵の輸送指揮官として、秋津丸には東京校の岡田真一氏が、神州丸には村松校の鈴木宇三郎氏が夫々分乗)して門司港を出航した直後に、待ち構えていた敵潜水艦に襲撃され、瞬く間に、五島列島沖或いは済州島沖で二隻が撃沈され、その多くは海の藻屑《もくず》と消えました。
 生き残った者の証言(後掲・鈴木氏ほか)によれば、夜の海中に投げ出された彼等は、始めのうちこそ漂流する木片に縋り力一杯軍歌を唄うなど必死に気力を奮い立たせていましたが、初冬の海は冷たく、一人、また一人、暗い波間に消えてゆき、或いは一瞬、母の幻影でも過ぎったものか、「お母アさーん」の声も聞こえたと、と伝えられています。―――彼等の年齢十七、八歳。猛訓練の成果も空しく、一発の電鍵も打つことなく散っていった無念さは如何許りだったでしょうか。

市岡光男氏の手記「海神(わだつみ)の声―耶山丸遭難直前までのメモ」は、摩耶山丸に乗船していた氏が、蚕棚のような超満員の船室で手帳に書き遺したもので、僚船・秋津丸の轟沈を目撃したのち、自らもまた、翌々日の自船の沈没によって海没しました。手帳は長崎の漁夫によって拾われ生家に届けられましたが、偶々《たまたま》、漂流物(雑嚢)のなかにあったため中味の文字が復元できたものです。
こうした中で、ひとり、神州丸だけが攻撃を免れ、辛うじて目的地のルソン島リンガエン湾サンフェルナンド港に上陸することが出来ました。この模様については、前掲のように村松から少年兵輸送指揮官として付き添った鈴木宇三郎氏が「神州丸は無事だった」の中で詳しく報告しています。
秋津丸や摩耶山丸の遭難者のうちで救助された者は、そのまま神州丸に移され南方に向い一部は台湾で下船、また、目的地に着いた者も、お互いの健闘を祈って別れましたが、その大半は再び会うことは出来ませんでした。辛うじて辿り着いた場所はジャングルであり、間断のない爆撃に晒されたほか探刻な飢餓やマラリアが待ち受けていました。この比島における戦況については、戦後数多くの十一期生によって生々しい記録が残されていますが、本誌では、その一つとして尾崎健一氏の「続フィリピン参戦記」を載せます。

更に少年兵の受難は続きます。このとき、残留した十一期生も翌二十年三月、修業期間を短縮して卒業し、支那、朝鮮、満州、樺太や内地など各地に配属されましたが、先発組の遭難など知る由もなく、とりわけ北方(満州、樺太など)に派遣された者は、その多くがソ連に抑留され、「異国の丘」の歌詞そのままに、酷寒の地シベリアでの何年にも亘る労苦に耐えねばならず、その少なからぬ者が皇国護持の尊い人柱として異郷の地に屍を曝《さら》しました(これについては井上隆晴氏が前書の中で「シベリア回顧」として綴っていますが、紙面の都合上、本誌では割愛します)。

ところで、私は現代の若者の皆様に、このように進んで死地に赴いていった少年達の心情を是非理解して頂きたいと強く願っています。
即ち、当時戦局は既に末期的様相を呈し始めていましたが、国民はそれを知る由もなく、反対に軍当局は負け戦による夥しい兵員の損耗の補充に躍起になっていました。少年兵の募集もその一つであり、このために新聞、ラジオ、映画等、あらゆる手段が動員されました。中学生活も、当初こそ、それなりの学園生活が残っていましたが、二年生も後半になると、配属将校による軍事訓練や銃剣術が目立ち始め、やがて週の半分ほどは近くの飛行場のモッコかつぎや勤労動員に駆り出される様になりました。そんな時、私達は、戦闘帽にゲートルを着け隊伍を組んで「赤い血潮の予科練の……」 の歌を唄いました。
確かに、私達は戦後「きけわだつみのこえ」などによって、当時の大学生や知識人の多くが今次大戦の正当性に疑問を抱き悩んでいたことを知りました。また、著名人の日記によっても一部の人々は既に厳しい戦局を捉え憂慮していたことが分りました。
しかし、当時、これら良識ある声は、厳しい言論統制の下にその殆どが掻き消され、何も知らされない一般大衆は、国策に迎合して戦争を賛美するマスコミの風潮に洗脳、調教され、総てが聖戦完遂の名の下に動員されていきました。
 そして、こうした背景の下に軍国少年に育っていった少年達は、純粋に神州の不滅を信じ、母国の急を救おうと昭和の白虎隊として勇躍志願出陣し、平和の礎として散ったのです。

 一方少年兵の心情について、十一期生の某氏は後年こう述懐しています。
 我々少年兵は、悩みも邪念も私欲もなく純情一路、生死についても深く考えず、人生についての理念もなかったと思います。天道に従って行動すべきだなどと、「国」の為にと志願したのです。「戦死するのだ」と思っていたことは真実です。――乗船する前、船舶司令参謀が「貴様ら、全員無事に目的地に上陸できると思うな。此処にいる者の半数でも上陸できたら作戦は概《おおむ》ね成功せるものと思う」と訓示、これを聞いていた隣の兵隊(少年兵ではなかった)が「俺っちらは紙切れ一枚で集まるものなぁ―糞たれどもが!」唾を吐きつつブツブツ言っていたことを思い出します。その時、少年兵の我々は誰となく「なあ、半分着いたら良いんだって…?」怖さを知らなかったし、この先何が起きるのか、判らないし、考えもしなかった。

 また、別の十一期生は、遭難時の救出をめぐって、漂流中、大きな筏《いかだ》が浮いていて、中央に聯隊旗を打ち立て、その回りを将校と下士官で守り、外側を兵士で固めているのが見えたので、泳いで行って手を懸けたところ「関東軍以外の者は近寄るな。筏に掴《つか》まってはいかん」と言って、掴まった手を軍靴で思いっきり踏みつけられた。痛みに堪らず手を離したが、諦めず再三手を懸けたが結果は同じで、他の将兵も同じようにあしらわれた。と証言しています。――ここにおいて私は、あらためて十一期生の一途さ、純粋さを思うとともに、如何に極限状態だったとはいえ、その純真な少年兵と現実の軍隊との落差の大きさに思わず言葉を失ってしまいます。

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