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「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・20

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通常 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・20

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/17 7:45
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 五.戦後二十周年記念の集いから慰霊碑建立まで

 戦後、社会が落ち着きを取り戻すとともに、全国各地で、かっての少通生活を懐かしみ、戦友愛の復活を望む声が澎湃《ほうはい》として沸きあがってきました。
 そして、昭和四十年八月十五日、村松で「戦後二十周年記念の集い」が開催されました。集った者は、元職員及び生徒の約六十名。――直ちに全国を十のブロックに分けた地区少通会と、それを総括する全国少通連合会の結成を決めるとともに、その連合会の力によって五年後を期し、東京、村松両少通校跡に「戦没者慰霊碑」と「記念碑」を建設することを申し合わせました。

 しかし、事態はそう容易に進捗しませんでした。東京少通校は既に校舎の総てが取り壊され、その跡に近代的な小、中、高校や公務員宿舎等が建設されるなど、文教住宅地区として面目を一新しており、今更其処にこの種の施設を建設することは当面望めないことが判ったからです。
 そこで連合会は対象を村松一本に絞り、綿密な事前調査と当局との折衝を繰り返した結果、四十四年二月に会長名を以て新潟県知事及び村松町町長宛に「この地に純真愛国の少年通信兵が誕生したことを記念し、その偉績を後世に継承するとともに殉国散華した数百烈士の英魂を鎮めるための慰霊碑を建立させてください」との陳情書を提出、これに対して村松町長から同年三月一日付を以て村松記念公園内の忠魂碑右隣りの土地十坪の使用許可が下りました。

 かくして、昭和四十五年十月、慰霊碑の除幕式と第一回慰霊祭が全国各地から参集したご遺族、生き残った職員、生徒等多数が見守るなか盛大かつ厳粛に挙行されました。「宿願を達成して」は、当日の喜びを前記の本川栄吉氏が綴ったものです。

 因みに、慰霊碑正面の「慰霊碑」の文字は高木正實校長、裏面の「建立趣旨」は渡邊利興少通連合会長の筆になるものです。その後、石灯籠《いしどうろう》の増設と建立文碑の設置を行い現容に至りました。また、碑内に納められている戦没者名簿は当初和紙に記載されていましたが、現在は永久保存に耐える金属板に替わっています。

 (注)「戦後二十周年記念の集い」の際に建設を申し合わせた「戦没者慰霊碑」と「学校跡記念碑」のうち、前者については、このようにして達成しましたが、後者についても、平成十六年に至り、村松町当局のご好意により学校正門および歩哨舎の復元ができました(上掲・吉田富忠氏の「軍都・村松の悼尾を飾る村松少通校」を参照)。

 また、少年通信兵の慰霊碑は、この村松碑のほか、九州・平戸島の鯛の鼻自然公園に「安らかに眠り給へ 陸軍少年通信兵の霊」と記した石碑(平戸島碑)が建立されています。これは、昭和五十年の第二回合同慰霊祭の席上、関係者から「ぜひ十一期生の遭難地点である五島列島方面にも慰霊碑を建立して欲しい」旨の声が挙がったことに拠るもので、その後、九州地区少通会有志が平戸市当局等と折衝を重ねた結果、まず五十一年に同地に木碑を建立、続いて五十九年に石碑に建て替えたものです。同碑は、現在も九州地区少通会ならびに地元ボランテア団体によって保守管理が行われ、毎年十月には定例の慰霊祭が営まれています。

 なお、地元ボランテア団体として当初から格別のご協力をお寄せくださった平戸市津吉老壮会の吉井孝美会長は碑の建立に際して少年兵を悼んで次の二首を遺《のこ》しておられます。

散華せし み霊らこたふ みしるしか 山雨しきりに われを濡らすも
若き血を 国に捧ぐと 海渡る 雄心なかば 水漬きませしか

(注)このように、平戸島碑は現在も地元の温かいご好意によって支えられていますが、長い歳月の中には、その方々の世代交替もあり、碑の由来等についての記憶も薄れてきましたので、これらを踏まえ、かつ、当方の感謝の気持ちをお伝えすべく刊行したのが、先の「西海の浪、穏やかに」です。

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