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「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・15

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通常 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・15

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/10 10:16
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
神州丸は無事だった

   少年兵輸送指揮官
   元村松生徒隊副官  鈴 木 宇三郎

 昭和十九年十一月十日午後急拠学校長に呼ばれ、生徒の教育中を急ぎ校長室に行くと今直ちに植原大尉と交代して南方要員の少年兵(昭和十八年十二月入校、昭和十九年十一月卒業の第十一期生)の輸送のため門司港に急行する様命令を受けて大急にて夏服に着換え十九時新潟発大阪行き急行列車に乗り門司港に向う。十二日朝門司港に到着、植原大尉殿は既に南方の新任地に出発した後であり、門司港には出港を待った船団が待機して居り、私は陸軍運輸部の指示により神州丸(同船には植原大尉の代りに東京少通校の中尉が乗船しあり同中尉と交代、同中尉は秋津丸に移乗す)に乗船した。神州丸には約一万余名の兵員が乗船していた。早速少年兵(通信、戦車重砲)を集め植原大尉の後任として着任した事を告げ、少年兵を掌握す。教え子達は泣かんばかりに喜び合う。

船内を一巡して神州丸最高輸送指揮官(氏名忘却、予備役の召集中佐で山形高等学校の配属将校と記憶する)に着任の申告し、其の指示を受け出航を待つ。十二日十八時○分、太陽が玄海灘の彼方に没する頃、船団は静かに動き始め、神州丸、秋津丸、摩耶山丸、以上三隻に少年兵は分乗、外に油槽船及び護衛艦が九州沿岸に沿い南下す。空は銀砂を撒き散らしたように快晴な夜空、海は波一つなく静かだった。十四日の夕刻、九州五島列島宇久島の影に仮泊す。

 十五日六時頃船団は航行を始める。私は少年兵を上甲板に集め皇居遥《よう》拝、君が代を奉唱し、日本内地とも暫しの別れを惜む。朝、食後船内にて休養、私も何時眠るともなく何時間眠ったか、不意に船内にて秋津丸撃沈との声に飛び起き上甲板に出て見ると、神州丸の左舷を航行中の秋津丸が敵潜水艦の攻撃を受け船体は既に右に傾むき重油は海上に流れ、兵員は皆海中に飛び込み救助を求めて大混乱に陥いっていた。我が護衛艦は必死に敵潜水艦を攻撃中であり、友軍機も亦海面すれすれに敵潜水艦を攻撃しつつあった。秋津丸は約五分間位にてその巨大な船体を海中に没した。時に十一時五十分なり。
 船団は敵潜水艦の攻撃を避けて進路を変更し北上、朝鮮の南端済州島に避難し、十六日、各船の集結を待って一日中船内にて休養す。

十七日早朝船団の態勢を整え上海に向い航行を開始した。昼間は大した事もなく船団は一路上海に向い航行、時々上空四、五千米にB二九の飛来を認めたるも何等の攻撃もなく、日没を迎えた十七時三〇分少年兵を上甲板に集め人員点呼及び敵潜水艦の攻撃を受けた場合の処置等の注意をし、特に今夜が一番危険な海域を航行するので全員救命胴衣着用船内に入るを禁じ全員上甲板に待機を命じ終るか終らんとする時、神州丸の右舷を航行中の摩耶山丸が黒煙に覆われ我が護衛艦の猛烈な砲撃が始まり、曳光弾が乱れ飛び爆雷の響き物凄さ摩耶山丸を覆った黒煙が消えた時にはその船体は既に海中に没していた。時に十八時二十分であった。神州丸は暗闇の中を全速力にて敵の攻撃を避け逃げるのみでありました。

  註 
  台湾高雄港に入港したとき、摩耶山丸に乗船し、撃沈後救助された将校の話に、十七日暗い波の間に間に「お母さん、お母さん」と呼ぶ声が聞こえたが、あの声は確かに少年兵の声であったと聞いた時は涙が出て泣けて仕方がありませんでした。
  村松少通校の生徒も約五十名余り海没したものと思われます。

神州丸は全速力で暗闇の大海原を航行していた。夜明けには揚子江河口に入るので安心と船員が語っていたので夜明けまでの時間の永い事、何時間経ったのか、突然右舷の目の前が真赤な火の手が上がり一面火の海と化し今まで咫尺《しせき》も弁ぜざる《注1》如き暗闇であったのが一変に真昼間の様に明るくなる。今迄私共も気付いていたが、神州丸の右舷に接す様に護衛の特設航空母艦が敵艦の魚雷攻撃を受け積載中の油や弾薬に誘発し物凄い音響と火花、この時はもう神州丸も駄目かと観念し只々心の裡で「南無妙法蓮華経」を唱え神仏の加護を祈り最悪の時の覚悟をなし、少年兵見守る神州丸は全速力(十八ノット)で航行しあり、船内は灯一つなく、誰れ一人としてセキする者もなく運命は只々船長に任すのみ、時に十七日二十四時の事なり。それから何時間経ったか、東の空が白じらと成って来た時、海水も亦茶褐色に変りつつあった。船員の叫ぶ声。「揚子江河口だ」 船内は急に騒々しくなり少年兵達の顔もやっと生気を取り戻したように明るく甲板を走る姿、今でも忘れられない程目に残って居ります。

 神州丸は何事もなかったかの様に快適なエンジンの音をたてて上海へ、上海へと走りつつあった。眼鏡を片手に船橋に立って居る船長の姿は神の様に尊く、今でも私の目に焼き付いて居ります。十一月十八日昼近く揚子江河口の島影に仮泊、船内では種々なデマが飛び南方行きは危険であるから全員上海に上陸とか、否強行突破で予定通り南方に行くとか、色々取り沙汰されて居たが、二十二日朝、船団は又航行開始、支那沿岸に沿い南下、二十七日夕刻台湾高雄港に入港、茲《ここ》に於て台湾軍要員は上陸、任地に向い出発した。その時の少年兵の嬉しそうな顔 (村松少通校の塚本軍曹が手を振って上陸して行く姿が目に残って居ります)その反面船内に残った少年兵の悲しそうなまた不安そうな顔は何時までも私の脳裡に残って居りました(摩耶山丸撃沈後救助された兵が神州丸に移乗して来ました。第二中隊白川上等兵より撃沈当時の模様を聞きました)。

 十一月三十日夕刻高雄港を出発、台湾最南端ガランピン沖に集結 (油槽船は別行動で一日早く出航す)した。神州丸の外に高雄港で合流した輸送船一隻が加り、二隻でバシー海峡《注2》を強行突破するのには護衛として馬公要塞より護衛艦六の外昼間は(夜明けと共に)台湾軍の航空機の大部分が空から護衛に当る事になった。成る程夜明けと共に友軍機がバシー海峡を海面すれすれに飛来し、海上には護衛艦も亦交互に躍進をして我が輸送を守り、バシー海峡を突破す。途中護衛艦が敵の潜水艦を早く発見しこれを撃沈する等の戦果を挙げ十二月一日夕、バシー海峡の一孤島の島影に仮泊する。十二月二日無事バシー海峡を突破、比島沿岸すれすれに南下、同日夜半リンガエン湾サンフェルナンド港に上陸、当地小学校校舎に宿営する。宿営中士気を鼓舞するため、毎朝夕全員を引率して市内を軍歌演習を兼ねて行進し、大いに士気の鼓舞に努めた。軍歌演習で市内を行進すると必ず兵站《へいたん=注3》部の二階の窓より顔を出して笑顔で迎えてくれた大尉参謀(仙台幼年学校教官から兵站部参謀として赴任せられた方、氏名忘却し申訳ない次第です)少年兵の事に付いては特別面倒を見て戴き忘れられず、誠に感謝に耐えない次第であります。同参謀の計らいで少年兵だけは汽車輸送でマニラに送って戴き他の部隊は全部マニラまで八〇里の道を炎暑と戦いつつ陸路を行軍で少年兵達より十四、五日遅れてマニラに到着した。少年兵達は十二月七日マニラに到着、各配属部隊より受領員が来ないのでマニラ中央競馬場に宿泊し受領員の到着を毎日首を長くして待つ。此の間十二月十五、十六、十七日の三日間はマニラに敵機の大空襲があり、マニラ防衛司令部の命に依り夜明け前にマニラ郊外に疎開、日没後に宿泊地に帰るのを三日間繰り返しており、此の間マニラ防衛司令部に命令受領や山下兵団司令部に連絡に行くやら、多忙な日を過ごしており、毎日の少年兵達の給養、特に健康状態に留意、幸いに一人の病人も出ず、一同至極元気旺盛であった。
 
  註 
  此の時はマニラの状況は事態急を告げ少年兵は鈴木大隊と名称を変えマニラ防衛司令部に編入マニラ最後の防衛に任ずる予定で予め其の陣地も定っておりました。

偶々《たまたま》、山下兵団司令部にて中台中佐参謀に再会した時は実に地獄で仏に会った様に嬉しく今でも忘れられない(中台参謀は私が陸軍歩兵学校に通信学生として入校した時の主任教官で卒業後村松少通校付に成ったのは中台参謀の御高庇《ごこうひ=おかげ》に依るものであります)。中台参謀の取り計らいで司令部付福富大尉に少年兵を引渡し下士官四名と共に十二月二十四日マニラ北方約一〇里クラクフイルド陸軍飛行場より軍用機に便乗台湾経由東京立川飛行場に十二月二十五日夕刻到着下士官四名は各所属学校に帰校せしめ私も亦村松陸軍少年通信兵学校に帰校任務を完了す。

(むらまつ第三号収載)

注1 咫尺=距離が非常に近いこと。
  咫尺も弁ぜざる如き=視界がきかず、ごく近いものもはっきり見分けがつかない

注2 バシー海峡=台湾とフィリピンとの間にある海峡。太平洋と南シナ海を結び、航路として重要

注3 兵站=戦闘部隊の後方にあって、人員・兵器・食糧などの前送・補給にあたり、また、後方連絡線の確保にあたる活動

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