「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・18
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「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」 (編集者, 2009/2/8 9:23)
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編集者
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四、戦況は最終局面へ――終戦・復員
一方戦局は、二十年三月十一期生の残留組が卒業、出陣していった頃を境に、刻々急変化して行きました。即ち、三月十日の東京大空襲を皮切りに日本の主要都市は軒並みB二九の洗礼に晒され、村松も何時標的にされるか判らない状況に置かれていました。
四月一日、村松少通校では十一期生と入れ替わりに第十三期生八百名を迎えましたが、こうした状況を反映して、五月に入ると営庭のあちこちにタコツボ(一人用の塹壕)が掘られ、続いて愛宕山の中腹に通信機を格納する横穴式地下壕の構築作業が急ピッチで始まりました。全兵舎の天井撤去が行われたのもこの頃で、モウモウと舞い落ちる塵埃《じんあい》の山に、改めて軍都・村松の歴史の長さを感じさせられました。また、練兵場の一角、射撃場から菅名村にかけて軍用機発着用の滑走路の建設が始まり八月上旬完成しました。中隊によっては、全員疎開することになり、近村の国民学校の教室を借りて分宿生活を始めるものもあり、戦局の急迫はこうした形でも町民まで巻き込んで徐々にその姿を現しつつありました。
八月に入って、近くの村に露営を兼ねた演習に出かけていた私たちのもとに、突然帰校の命令が伝えられました。十五日正午、玉音による重大放送があるとのことで緊張して校庭に整列した私たちの耳に飛び込んできたのは――ラジオの雑音で確かとは聞き取れませんでしたが、戦いが終わったとのこと――戦局烈しき中で、なお一層奮起を求める放送と信じていたところ、正に晴天の霹靂《へきれき》、皆、茫《ほう》然自失、それからの数日間はどう過ごしたか記憶が定かではありません。
しかし、ややあって、中隊長がその心境を「退くも進むも一つ 大君の詔勅(みこと)の侭《まま》にわれは揺るがじ」と披瀝《ひれき》されるに及んで徐々に平静を取り戻して行きました。
それからというもの、連日、校庭内のあちこちで重要書類を焼く煙が立ち昇るなか、行事は二十八日の通信兵監の来校訓示、二十九日の復員式と続き、その後、生徒は高木校長の声涙下る訣別《けつべつ》の言葉を胸に、分配された毛布や衣類を背にして、夫々に帰郷して行きました。
――別れしなに交換し合ったお互いのノートには、どこにも「七生報国」「神州不滅」「臥薪嘗胆《がしんしょうたん=注1》」等の文字が躍っていました。
「或る区隊長の手紙」は、十三期生の区隊長だった青山正樹氏が、復員して行く生徒の父兄に宛てた書簡です。入校してまだ五カ月、訓育も緒に着いたばかりの教え子を、みすみす手放さなければならない氏の無念さと、その行く末を案じる父親のような心情が込められているように思われます。
ところで、こうした生徒達が立ち去った後の村松に一つの事件が持ち上がりました。それは、当時政府は終戦処理の一環として残った村松少通校の施設と通信機材の活用による逓信講習所の開設を目論み、現地では早速その準備に掛かっていたのですが、そこに突然、米軍の一個聯隊が進駐してきて武装解除を迫りその過程において通信機材が対象から外されていたことが発見され、これを悪質な隠匿行為と判定した米側は、生徒隊長以下の懸命の釈明にも耳を貸さず逆に学校幹部全員の村松町外への禁足を命じてきました。
ここにおいて、高木元校長(既にこの時点で、教育總監附となり秋田聯隊司令官の内命を受けていました)は、自分としては「赤穂開城《注2》」を念頭に進めて来たが、事ここに至っては直接出向き説明するほか策はないと判断、米側の聯隊長に面会を求めました。
元々、高木校長は荘子の「至誠而不動者未之有也(至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり)」を座右の銘にしておられ、偶々これを行動に移されたわけで、「通信機材を逓信講習所に委譲したのは教育総監の命によるもので、その実施を命じたのは校長であった私である。従って、それが不法というのであれば責任は総て私にあり、この場合私は如何なる処分も甘受する。その代わり幹部の禁足は解除して欲しい」と。
そして、黙ってこれを聞き終えた聯隊長は、直ぐ態度を改め(自分が大佐だったため、少将である高木氏に対し)、将官に対する礼をもって遇するとともに、「事情はよく判りました。禁足は即刻解除します。閣下もご自由に赴任なさってください」と応じ、以後はお互いに歴戦の勇者とあって意気投合し、高木氏は後に記念にと自分の軍刀(備前長船勝光)を、ご令室がご母堂から譲られた藤色綸子《りんず=絹織物》の帯を裁断して作られた刀袋に収め、同聯隊長に贈ったと伝えられています。――まことに、ラグビーのノーサイドの場面にも似て爽やかな話ではありませんか。
注1 臥薪嘗胆=復讐(ふくしゅう)を心に誓って辛苦すること
注2 赤穂開城=忠臣蔵においての開城(降伏して城や要塞を敵に明け渡す)のように
一方戦局は、二十年三月十一期生の残留組が卒業、出陣していった頃を境に、刻々急変化して行きました。即ち、三月十日の東京大空襲を皮切りに日本の主要都市は軒並みB二九の洗礼に晒され、村松も何時標的にされるか判らない状況に置かれていました。
四月一日、村松少通校では十一期生と入れ替わりに第十三期生八百名を迎えましたが、こうした状況を反映して、五月に入ると営庭のあちこちにタコツボ(一人用の塹壕)が掘られ、続いて愛宕山の中腹に通信機を格納する横穴式地下壕の構築作業が急ピッチで始まりました。全兵舎の天井撤去が行われたのもこの頃で、モウモウと舞い落ちる塵埃《じんあい》の山に、改めて軍都・村松の歴史の長さを感じさせられました。また、練兵場の一角、射撃場から菅名村にかけて軍用機発着用の滑走路の建設が始まり八月上旬完成しました。中隊によっては、全員疎開することになり、近村の国民学校の教室を借りて分宿生活を始めるものもあり、戦局の急迫はこうした形でも町民まで巻き込んで徐々にその姿を現しつつありました。
八月に入って、近くの村に露営を兼ねた演習に出かけていた私たちのもとに、突然帰校の命令が伝えられました。十五日正午、玉音による重大放送があるとのことで緊張して校庭に整列した私たちの耳に飛び込んできたのは――ラジオの雑音で確かとは聞き取れませんでしたが、戦いが終わったとのこと――戦局烈しき中で、なお一層奮起を求める放送と信じていたところ、正に晴天の霹靂《へきれき》、皆、茫《ほう》然自失、それからの数日間はどう過ごしたか記憶が定かではありません。
しかし、ややあって、中隊長がその心境を「退くも進むも一つ 大君の詔勅(みこと)の侭《まま》にわれは揺るがじ」と披瀝《ひれき》されるに及んで徐々に平静を取り戻して行きました。
それからというもの、連日、校庭内のあちこちで重要書類を焼く煙が立ち昇るなか、行事は二十八日の通信兵監の来校訓示、二十九日の復員式と続き、その後、生徒は高木校長の声涙下る訣別《けつべつ》の言葉を胸に、分配された毛布や衣類を背にして、夫々に帰郷して行きました。
――別れしなに交換し合ったお互いのノートには、どこにも「七生報国」「神州不滅」「臥薪嘗胆《がしんしょうたん=注1》」等の文字が躍っていました。
「或る区隊長の手紙」は、十三期生の区隊長だった青山正樹氏が、復員して行く生徒の父兄に宛てた書簡です。入校してまだ五カ月、訓育も緒に着いたばかりの教え子を、みすみす手放さなければならない氏の無念さと、その行く末を案じる父親のような心情が込められているように思われます。
ところで、こうした生徒達が立ち去った後の村松に一つの事件が持ち上がりました。それは、当時政府は終戦処理の一環として残った村松少通校の施設と通信機材の活用による逓信講習所の開設を目論み、現地では早速その準備に掛かっていたのですが、そこに突然、米軍の一個聯隊が進駐してきて武装解除を迫りその過程において通信機材が対象から外されていたことが発見され、これを悪質な隠匿行為と判定した米側は、生徒隊長以下の懸命の釈明にも耳を貸さず逆に学校幹部全員の村松町外への禁足を命じてきました。
ここにおいて、高木元校長(既にこの時点で、教育總監附となり秋田聯隊司令官の内命を受けていました)は、自分としては「赤穂開城《注2》」を念頭に進めて来たが、事ここに至っては直接出向き説明するほか策はないと判断、米側の聯隊長に面会を求めました。
元々、高木校長は荘子の「至誠而不動者未之有也(至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり)」を座右の銘にしておられ、偶々これを行動に移されたわけで、「通信機材を逓信講習所に委譲したのは教育総監の命によるもので、その実施を命じたのは校長であった私である。従って、それが不法というのであれば責任は総て私にあり、この場合私は如何なる処分も甘受する。その代わり幹部の禁足は解除して欲しい」と。
そして、黙ってこれを聞き終えた聯隊長は、直ぐ態度を改め(自分が大佐だったため、少将である高木氏に対し)、将官に対する礼をもって遇するとともに、「事情はよく判りました。禁足は即刻解除します。閣下もご自由に赴任なさってください」と応じ、以後はお互いに歴戦の勇者とあって意気投合し、高木氏は後に記念にと自分の軍刀(備前長船勝光)を、ご令室がご母堂から譲られた藤色綸子《りんず=絹織物》の帯を裁断して作られた刀袋に収め、同聯隊長に贈ったと伝えられています。――まことに、ラグビーのノーサイドの場面にも似て爽やかな話ではありませんか。
注1 臥薪嘗胆=復讐(ふくしゅう)を心に誓って辛苦すること
注2 赤穂開城=忠臣蔵においての開城(降伏して城や要塞を敵に明け渡す)のように