平成も四半世紀を過ごしました、懐かしきは昭和の時代です
輝かしい青春時代 バリバリの仕事人間だった時。
国の内外を問わず企業出向の経験もおありですか?
お話し下さい・・・貴方の昭和
※ ご投稿は「メロウ伝承館」へ転載させていただくことがあります
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[No.3379]
Re: 防空壕の体験
投稿者:めぐみ
投稿日:2018/04/15(Sun) 20:40
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Panさん、 まやさん みなさん こんばんは。
> ツルハシとスコップだけですから作業が殆ど進まず、1m余り掘ったところ
> で終戦になりました。
私の近くでは防空壕は竹藪に掘りました、根っこが張ってるので崩れないとかの理由でした。
終戦後は農作物の貯蔵庫や子供のカクレンボのあそび場でした。
>
> その穴はサツマイモの冬季保存庫にもなったような気がします。
[No.3378]
Re: 学校給食の始まり
投稿者:めぐみ
投稿日:2018/04/15(Sun) 20:29
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夏子さん、みなさん、こんばんは。
>
> 同い年でも、住む地域が違えば、給食も違うものですね。
然り然り(^^♪、でも田舎暮らしには結構高級食だったなぁ〜、蛋白源はクジラのコマ切れ肉でしたよ。(^_-)-☆。あれでも美味かったっすね。\(^o^)/。
食器はアルマイトが主でしたね。時々カレーライスなんても出ましたっけ。
>
> 私の場合、小学校の給食とは、脱脂粉乳を溶いたものだけでした(^^ゞ
> これを嫌っている人もいましたが、私は全然嫌いではなく、時には余ったのを
> お代わりしたほどです。大好きと言うほどでもないけどね。
冷たくなると変に臭かった思い出アリですね。
> お弁当は教室で食べて、別に給食室に行って、係りのおばさんが、大きな
> 鍋をかき混ぜながら、アルマイトか何か、カネのボールについでくれるのを
> 飲みました。
>
> ごくたまに(年に1度か数年に1度くらい)郷土から移民された方々の寄付と
> いうことで、ぜんざいとかシチューとかふるまわれました。
>
> 後で考えれば、アメリカへ移民された方々は、例の強制収容所に入れられて
> いらした方々でしょうから、戦後と言えども裕福ではなかったはず。
> ありがたいことです。
>
> その他、学校給食には一切縁がありませんでした(^^ゞ
へぇー(@_@)ですね、高校では、弁当持参プラス購買部があってオカズやパン等売ってましたっけ。でもお金が不足でしたよ。(-_-)zzz。
[No.3377]
ララ物資と浅野七之助
投稿者:男爵
投稿日:2018/04/15(Sun) 17:50
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めぐみさん、Panさん、まやさん、夏子さん、みなさん、こんにちは。
> 同い年でも、住む地域が違えば、給食も違うものですね。
> 私の場合、小学校の給食とは、脱脂粉乳を溶いたものだけでした(^^ゞ
> これを嫌っている人もいましたが、私は全然嫌いではなく、時には余ったのを
> お代わりしたほどです。大好きと言うほどでもないけどね。
いまになると健康食品として勧める人もいますが....
> ごくたまに(年に1度か数年に1度くらい)郷土から移民された方々の寄付と
> いうことで、ぜんざいとかシチューとかふるまわれました。
> 後で考えれば、アメリカへ移民された方々は、例の強制収容所に入れられて
> いらした方々でしょうから、戦後と言えども裕福ではなかったはず。
> ありがたいことです。
もしかして、それは「ララ物資」といって
アメリカ人の好意というよりは
アメリカ在住の浅野七之助(あさの しちのすけ)たちの功績が大きかったのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E4%B8%83%E4%B9%8B%E5%8A%A9
太平洋戦争中、強制収容所に入れられ苦労した日系人たち。
財産も没収され悲惨だった。
浅野たちの努力で、戦後にアメリカ政府も謝罪しました。
[No.3376]
Re: 学校給食の始まり
投稿者:夏子
投稿日:2018/04/15(Sun) 10:26
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めぐみさん、みなさん、こんにちは。
>> その数年後に野菜と薪の持ちよりにより生徒の父兄がおかづを調理する様になりました。それが高学年迄でした、中学になると学校の庭の隅にパン焼き施設が出来ました。
> それが完全給食の始まりだったかな?脱脂粉乳の配給もありました、田舎の完全給食のスタートでした。あれは昭和30年頃だったような。
同い年でも、住む地域が違えば、給食も違うものですね。
私の場合、小学校の給食とは、脱脂粉乳を溶いたものだけでした(^^ゞ
これを嫌っている人もいましたが、私は全然嫌いではなく、時には余ったのを
お代わりしたほどです。大好きと言うほどでもないけどね。
お弁当は教室で食べて、別に給食室に行って、係りのおばさんが、大きな
鍋をかき混ぜながら、アルマイトか何か、カネのボールについでくれるのを
飲みました。
ごくたまに(年に1度か数年に1度くらい)郷土から移民された方々の寄付と
いうことで、ぜんざいとかシチューとかふるまわれました。
後で考えれば、アメリカへ移民された方々は、例の強制収容所に入れられて
いらした方々でしょうから、戦後と言えども裕福ではなかったはず。
ありがたいことです。
その他、学校給食には一切縁がありませんでした(^^ゞ
夏子
[No.3375]
Re: 学校給食の始まり
投稿者:まや
投稿日:2018/04/14(Sat) 11:52
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みなさん、お早うございます!
給食の続きです。
学校給食が始まったのは、まだ食糧難が続いていたころだったと思います。
小学校での給食は所によって違いがあったようですが、最初はコッペパン
だけだったのではないでしょうか。それから徐々に牛乳とかジャムとか、そ
の他に副食が加わっていったようでした。
私は今の高校生の年齢で親元を出て専門学校に行ったので、寮生活や自炊
生活の時期がありましたから、当時の学校給食が羨ましかった記憶がありま
す。全体的に食糧事情が悪い時期で、米穀通帳というのがあってお米を買う
のにそれをお米屋さんに持参しなければならなかったのを記憶しています。
そんなことから始まり、小学校では朝食を食べずに、あるいは弁当を持た
ずに登校してくる子たちもいたため、学校側で対応を迫られた結果、給食制
度が考えられたようです。
今では学校単位に給食センターが建てられ、学童用にそこで調理されたも
のがそれぞれの学校に運ばれているようですが、地方の学校で児童が少なく
なった所ではどうしているのでしょうねぇ?
まや
[No.3374]
Re: 学校給食の始まり
投稿者:まや
投稿日:2018/04/08(Sun) 20:18
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めぐみさん、Panさん & みなさん、今晩は!
> > 小学校の低学年の頃には未だ給食はありませんでした。
>
> もう少し年長の私たちは小中高の全学年を通じて給食は無いままでした。
そうですね、私も学校給食は未だ無い開始以前に小学校を終えた組です。
弁当を持って学校に行ったのでしょうが、その記憶はありません。
でも幼稚園時代、私は近所に三井炭鉱の鉱業所付属の保育園勤務の先生
がいらしたため、近所の子供たちの誘いにも乗らず、親の勧めにも従わず
に鉱業所の保育園に入園すると主張したのでした。親も頑固な私に負けて
炭鉱の保育園に通わせてくれることになったのでした。
保育園ですから、幼稚園と違って弁当を持参するのは当然・・・冬期は
真っ赤に燃える石炭ストーブの周りの大きな木製の防御枠にみんなの弁当
をぶら下げていたのを記憶しています。ですから昼食はホカホカでした。
学校給食開始より10数年前の石炭産業盛んなころの保育園の話でした。
まや
[No.3373]
Re: 学校給食の始まり
投稿者:Pan
投稿日:2018/04/08(Sun) 01:28
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めぐみさん、みなさん こんばんは。
> 小学校の低学年の頃には未だ給食はありませんでした。
もう少し年長の私たちは小中高の全学年を通じて給食は無いままでした。
みんな弁当持ちでしたからストーブの上に弁当箱を置いても2〜3人が
限度ですから置いたことはありません。
真冬はどうしたのかな? 思い出がありませんね。
薄く綿を入れた弁当袋に弁当箱を入れた覚えが微かにありますが、そん
な程度では何の足しにもなりませんね。
ストーブの燃料は、田舎の事ですから学校や村の所有する山へ全校生揃
って伐採に行き、担いで帰った事が何度もありました。
そんな時は勿論授業はありませんが、みんなその方が嬉しかったです。
***** Pan *****
[No.3372]
Re: 防空壕の体験
投稿者:Pan
投稿日:2018/04/06(Fri) 00:40
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まやさん みなさん こんばんは。
防空頭巾と言うのは比較的早くから作ったと思います。
私が最初に防空壕ではなく防空対策として体験したのは、押し入れの一部を
爆撃避難対策としたことです。
普通、押し入れは襖の扉ががあって内部が上下2段になっていますが、その
下側の一部を布団を放りだし、その中へ入り込むだけです。
これは隣組の寄り合いで定められ、担当者が出来栄えを見に回ってこられま
した。
それに続いて、部屋の真ん中部分の畳を2枚上げ、床板を切ってその部分の
地面を1m余り掘り上げました。
掘り上げた土はその周囲に盛り上げます。
これで近くに爆弾が落ちた時には爆風がいくらか防げるという触れ込みです。
実際に掘りましたが、なかなかの難事業でした。
確かにその中に潜んで両手で眼と耳を押さえていたら幾らかの爆風には耐え
られるかも知れませんが、逆に逃げ遅れて焼け死ぬ可能性も大きいと感じまし
た。
当時親子6人家族でしたから全員は入ることはできず、もう一つ掘るように
と言われましたが、その後何もしないままでした。
全くその防空壕を掘らない家もありましたが、特に非難された気配は無かっ
たですね。
緒戦のシンガポール陥落で、上級生の作った歌詞に音楽の先生が作曲された
歌を全校生徒が歌って学校の周りを旗行列しましたが、その歌は今も殆ど歌え
ます。
『如月の半ばなる今日 英国の牙城は墜ゆ 大御稜威天翔けりゆく
ああ今ぞ 世紀の記録 世紀の記録 シンガポール落ちぬ 万々歳』
小学校卒業と父の勤務先変更と同時に疎開を兼ねて郷里に引っ越ししそこの
中学校に入りましたが、そこでも戦局の悪化に伴って防空壕を掘るように命ぜ
られ、すぐ裏の山の斜面に隣家と共同で横穴を掘り始めました。
ツルハシとスコップだけですから作業が殆ど進まず、1m余り掘ったところ
で終戦になりました。
その穴はサツマイモの冬季保存庫にもなったような気がします。
***** Pan *****
[No.3371]
Re: 私のお風呂体験
投稿者:安房守
投稿日:2018/04/05(Thu) 20:39
[関連記事] URL:http://http-//awa.o.oo7.jp/ |
五右衛門桶の中に2、3人、洗い場に3、4人、毛が有るのないので大騒ぎでした。
> 夏子さん、 安房守さん、ツリーの皆さん、こんにちは。
>
> > 紅顔の美少年の頃ですものね。
>
> (⌒▽⌒)アハハ!厚顔&睾丸の?タマタマね(^^)/。
[No.3370]
学校給食の始まり
投稿者:めぐみ
投稿日:2018/04/05(Thu) 20:32
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こんばんは。
小学校の低学年の頃には未だ給食はありませんでした。
弁当箱を箪笥の様な段付の箱に数段並べ下からコタツの様に火種(木炭)を入れて温めました。下段の方は焦げ目も出来ましたっけ。
その数年後に野菜と薪の持ちよりにより生徒の父兄がおかづを調理する様になりました。それが高学年迄でした、中学になると学校の庭の隅にパン焼き施設が出来ました。
それが完全給食の始まりだったかな?脱脂粉乳の配給もありました、田舎の完全給食のスタートでした。あれは昭和30年頃だったような。
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