平成も四半世紀を過ごしました、懐かしきは昭和の時代です
輝かしい青春時代 バリバリの仕事人間だった時。
国の内外を問わず企業出向の経験もおありですか?
お話し下さい・・・貴方の昭和
※ ご投稿は「メロウ伝承館」へ転載させていただくことがあります
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[No.2503]
進駐軍放送
投稿者:マーチャン
投稿日:2015/09/03(Thu) 08:46
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1945年9月2日東京湾の戦艦ミズーリ号上で、重光葵さん他が、降伏文書への署名して、正式に「この戦争に負けました」ということを内外に公表したのですね。
もっとも、マッカーサー氏は8月30日に、厚木に空から舞い降りてきていましたが。
そして、9月23日、進駐軍放送(WVTR,のちFENと改称) 《Far East Network》米軍極東放送網が放送を開始しました。
安物の「並4球」のラジオでは、NHK第一はなんとか聴けても、NHK第二は、聞き取りにくい。
しかし「This is the Far East Network, an affiliate of the Armed Forces Radio Service.」という声は、毎度毎度、耳にタコが出来るほど聞かされました。
結構はっきり聞こえました。とにかく「分離」ができないラジオでは絶えず、これが耳に入ってくるのです。
当時の都々逸にも
(最初の部分は忘れました)「並4球」の悲しさよ ジャズが歌舞伎に 乗ってくる
というのがあったくらいです。
Z-Rock などと称するアメリカ音楽がよく流れてきました。
クラシック音楽は、滅多にやらない。やるときは交響楽全曲をやらずに「一楽章だけ」。
日本の伝統工芸や風俗習慣の放送もありました。
当時、普通の人には「占領軍の持ち込んだもの」に対する拒否感は少なく、素直に「新しい時代」を感じ取っていたような気がします。
熱心に聴いた方ではありませんが、忘れられない思い出です。
[No.2502]
Re: 夏がくれば思い出す
投稿者:唐辛子紋次郎
投稿日:2015/08/25(Tue) 21:29
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> 「夏の思い出」が1949年、NHKで放送されました。
まだまだ、ハイキングどころではない、終戦直後、
あの歌を聴きながら「しゃくなげ色にたそがれる」遠い尾瀬に思いを馳せました。> 江間章子さん作詞・中田喜直作曲 名コンビでしたね。
いまでも、蒸し暑くて寝苦しい夜、あの歌を口ずさんでいます。
合唱コンクールでも、よく歌われましたね。
当時は、何もなかった時代ですが、こんな素晴らしい歌を残してくれていたのですね。
「夏の思い出」の作詞者、江間章子さんといえば、メロウ倶楽部がメロウフォーラムだったころ、粗骨さんという方がおられて、アメリカの作家、ワシントン・アーヴィングの「アルハンブラ物語」が話題になった時、これはどうしても、江間さんの訳でなければダメだと強調されたのです。
あっしは、ほかにも訳書があるし、すでに馬場久吉さん(岩波文庫)の訳書で読んでいたので、この方を推奨したのですが、ゼッタイに譲られませんでした。
それで、江間章子さんの名前が、粗骨さんのお名前とともに、忘れられない思い出になりました。
[No.2501]
Re: 夏がくれば思い出す
投稿者:男爵
投稿日:2015/08/21(Fri) 07:35
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マーチャン
> 「夏の思い出」が1949年、NHKで放送されました。
> まだまだ、ハイキングどころではない、終戦直後、
> あの歌を聴きながら「しゃくなげ色にたそがれる」遠い尾瀬に思いを馳せました。
> 江間章子さん作詞・中田喜直作曲 名コンビでしたね。
> いまでも、蒸し暑くて寝苦しい夜、あの歌を口ずさんでいます。
江間章子は
大正2年(1913年)に 新潟県高田市(現上越市)で生まれました。
高田は、北陸新幹線の上越妙高駅で乗り換えてすぐです。
父親は軍人でした。
高田には第13師団があったのです。
ところが彼女が幼いとき父が亡くなったので
母親の実家のある岩手の平舘村(現岩手県八幡平市平舘)に移住したのです。
この「夏の思い出」はNHKラジオ歌謡で発表されたものですが
依頼があってつくったのか、彼女の売り込みだったのか、さだかでないようです。
そのとき、知り合いに誘われて、初めて尾瀬に行ったとき
ミズバショウを見て、「あっ、ベコの舌だ」と心の中で叫んだそうです。
幼い頃に、八幡平(はちまんたい)のふもとで毎年見た花だったから。
江間章子は
平成7年(1995年)に 岩手県西根町(現・八幡平市)の名誉町民第1号となりました。
蛇足
高田には第13師団があったのです。
オーストリアのレルヒ少佐が高田で
1911年(明治44年)1月12日に
スキー技術を伝授したことが、日本での本格的なスキー普及の第一歩とされています。
これにちなみ、1月12日が「スキーの日」とされているのです。
[No.2500]
Re: 出てこい、ニミッツ、マッカーサー
投稿者:昴
投稿日:2015/08/20(Thu) 21:05
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さんらく亭さん、ご無沙汰しております。みなさん、こんばんは。割り込みで失礼します。
この比島決戦の歌、実は今年3月7日にBS朝日で放映された「日輪の遺産」の中で、「いざこいニミッツ、マッカーサー」
と歌われていてオヤと思いました。この作品は2011年8月封切り原作浅田次郎、佐々部清監督、主演堺雅人で当時は全
然知りませんでした。たまたま放映日のテレビ欄か何かで興味を覚え録ってあったモノです。そして別件で古関裕而
作曲集を図書館で借りた折、この歌が載っていて確かめました。ではまた。 昴
[No.2499]
夏がくれば思い出す
投稿者:マーチャン
投稿日:2015/08/20(Thu) 16:29
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「夏の思い出」が1949年、NHKで放送されました。
まだまだ、ハイキングどころではない、終戦直後、
あの歌を聴きながら「しゃくなげ色にたそがれる」遠い尾瀬に思いを馳せました。
江間章子さん作詞・中田喜直作曲 名コンビでしたね。
いまでも、蒸し暑くて寝苦しい夜、あの歌を口ずさんでいます。
もう一つ「泉のほとり」もいいですね。「水よ 水よ きれいな水よ」という
この歌は「夏の思い出」が初夏の歌とすれば、こちらは「初秋」の歌ですが
一服の清涼剤のように感じます。
作詞 深尾須磨子 作曲 橋本国彦」
どちらも格調高いのに、親しみやすい歌です。
合唱コンクールでも、よく歌われましたね。
当時は、何もなかった時代ですが、こんな素晴らしい歌を残してくれていたのですね。
[No.2498]
Re: お宝?
投稿者:Pan
投稿日:2015/08/19(Wed) 11:43
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めぐみさん、みなさん こんにちは。
> 炭火裁縫鏝が在ったことを思い出し探してると多分昭和10年ごろのカメラが出てきました。検索すると下記サイトと同じカメラの様です。
>
> http://ranzosha.web.fc2.com/d005semilyra.html
>
> まぁ〜我が家のは痛んでますが古い事は確かです、私がこのカメラで昭和36年ごろ撮った東京タワーの写真も出てきました。年代に多少のズレはあるかな?
懐かしいですね。
ジャバラ式でスプリングカメラと言うのでしょうか?
私の記憶にある最も古い型式のカメラもそれで、父の持ち物で
したが、私の生まれた頃からほぼ20歳の頃まで、一番長い間お
世話になったカメラです。
ドイツ製のバルダックス"Baldax"と言いました。
フイルムはブローニー版の半裁で、レンズは F=4.5 でした。
Googleの画像検索したらワンサと出て来ます。
大きくなってからは、時々父に借りて持ち出しました。
昭和29年に北海道旅行に行った時は、初めてカラーフイルムと
言う物を一本だけ買って行き、摩周湖で初めて撮した記憶がありま
す。
その後ジャバラの角に小さな穴が開き、光が漏れるようになり
ましたが、姑息にもジャバラに絆創膏を張って使った事を覚えて
います。
しかしその後は、やはり父の持ち物のライカ判を借りるように
なったので、そのバルダックスは記憶から消えています。
捨てた記憶は無いのですが、探しても出てくる見込みはありま
せんね。
惜しい気がします。
自分のカメラを初めて買ったのはオリンパス・ペンが出たとき
でした。 昭和34年頃だったかな?
これは公私ともに徹底的に使いました。
フイルムも映画用の缶に入った物を買い、暗室で切り分けてパ
トローネンに入れ替えました。
現像、引き延ばしなども全部自分でやりましたが、設備は当時
勤務いていた会社の物です。
***** Pan *****
[No.2497]
Re: 8月15日/NHK
投稿者:ザックス
投稿日:2015/08/18(Tue) 11:35
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寒梅さん こんにちは。
> 再放送 "終戦" 知られざる7日間
>
> 総合テレビ2015年8月28日(金)午前1時30分〜2時28分 (27日の深夜)
お知らせ、有難うございました。
観てない方は録画してご覧いただきたい所です。
戦争は始めるのは簡単でも終わらせるのは大変なんですね。
私は列強が続々植民地を作るのを傍観できずに、日本も真似をしたと見ています。
[No.2496]
Re: 8月15日/NHK
投稿者:寒梅
投稿日:2015/08/17(Mon) 17:07
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ザックスさんこんにちは。
"終戦" 知られざる7日間 ですね 台所に立ちながら見ました。
子供の立場での敗戦感と違って それは大人たち政治家・軍人たちの
在り様ですね、ながらではなくもう一度じっくり感じたいです。
再放送 "終戦" 知られざる7日間
総合テレビ2015年8月28日(金)午前1時30分〜2時28分 (27日の深夜)
寒梅
[No.2495]
Re: 8月15日/NHK
投稿者:ザックス
投稿日:2015/08/17(Mon) 11:14
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NHKのTV見ましたか。
日を追っての記録、迫力に満ちていました。
一部には徹底抗戦を主張した軍人もいたようですが、
よくぞ無事に1週間を終えたものだと感慨溢れるものがありました。
再放映があればいいですね。見逃した人のために。
[No.2494]
Re: 8月15日
投稿者:まや
投稿日:2015/08/16(Sun) 23:16
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YKOMAさん、寒梅さん & みなさん、今晩は!
> > 8月15日ですね。もう70年前を記憶している方は少ないのです、私は
> > 被害者意識でずうっと過ごしてきました。加害者側でもあったのですね。
> > 今日は反省の言葉がめだちます。
> > 反省を強制されても相手に不信をいだくだけですけどね、
>
> そうですねえ。人それぞれの思いがあるでしょう。
私には世の中が静かになった日という感想です。朝学校に行くと「今日は玉音放送
があるから・・・」と家に帰されました。その帰途、空が異様に青く、あたりが異様
に静かだったのを記憶しています。そして、正午の玉音放送がすんでから、私はまた
学校に行きました。
そうしたら、教頭の次席の先生が登校した生徒を一つの教室に集めて「これから学
校制度がどうなるか判らない。しかし、どんなことをしてでも皆の勉学は続けさせて
やる。」と言われ、漱石の「坊ちゃん」を読んでくださったのを記憶しています。
それから毎日、普通の授業が始まりました。福岡県では女学校は4年制でしたから
新制への変更のときに学制の変更に対処しなければなりませんでした。つまり、旧制
の女学校4年(福岡県と長崎県だけ女学校が4年制でした)で卒業するグループと、
新制高校の2年に進学するグループ、旧制の専門学校などに進学する少人数のグルー
プに分かれました。
そこに教科担当の熱心な先生がいらして「女学校4年卒業でも将来のために高校3
年卒業と同等の学力をつけてやる」とおっしゃって、午後は特別クラスに分け、進学
希望者には体育や家庭科などは卒業に必要な時間数だけは授業を受けさせ、あとは新
制大学受験に必要な高校3年までに教わるような内容の授業をして下さいました。
8月15日が過ぎてしばらくすると、男の先生方はゲートルを巻かなくなり、女の
先生方はだんだんにスカートや袴姿で登校なさるようになりました。私たち生徒はか
なり長いことモンペでした。
まや
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