特殊潜航艇「海龍」・はじめに
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- 特殊潜航艇「海龍」・はじめに (編集者, 2007/4/6 9:38)
- 特殊潜航艇「海龍」・第二章 その1 (編集者, 2007/4/7 7:34)
- 特殊潜航艇「海龍」・第二章 その2 (編集者, 2007/4/8 7:34)
- 特殊潜航艇「海龍」・第二章 その3 (編集者, 2007/4/9 7:52)
- 特殊潜航艇「海龍」・第二章 その4 (編集者, 2007/4/10 8:04)
- 特殊潜航艇「海龍」・第二章 その5 (編集者, 2007/4/11 8:17)
- 特殊潜航艇「海龍」・第三章 その1 (編集者, 2007/4/12 7:37)
- 特殊潜航艇「海龍」・第三章 その2 (編集者, 2007/4/13 8:31)
- 特殊潜航艇「海龍」・第三章 その3 (編集者, 2007/4/14 7:10)
- 特殊潜航艇「海龍」・第四章 その1 (編集者, 2007/4/15 7:52)
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投稿日時 2007/4/6 9:38
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
はじめに メロウ伝承館スタッフより
『特殊潜航艇「海龍」』は、河部 煕氏の下記ウェブサイトからの転載です。
ご関係の方々の年齢から、将来ウェブサイトの維持が困難になることも考えらるので、メロウ伝承館で預かって、後世に伝えして欲しいとのお申し出でにより転載するものです。
http://www.geocities.jp/kawabeh1924/kaigun/
------------------------------------------------
序文
● 海龍
1941年12月に太平洋戦争が始った時、私は旧制高校の2年生であったが、その3年後に自分自身が海軍軍人として、その戦争に参加するとは思っても見なかった。
1944年9月の大学2年修了時点で海軍予備学生《注1》となった。今から見ればもう戦争に勝ち目は無かったのだが、国民の戦闘意識はまだまだ高く、翌年8月15日に敗戦を迎えるという予兆《よちょう=まえぶれ》 は何処にも無かった。
海軍士官としての基礎教育を5カ月受けた後、1945年3月専門コースに分かれるのだが、私は特殊潜航艇《注2》を選んだ。他には魚雷艇、震洋《しんよう=注3》、陸戦、化兵《かへい=化学戦兵器科》、対空、電測、通信、特信(暗号解読)があった。この頃、もう海軍に、我々の乗るべき軍艦はなかった。
潜水学校で潜水艦の基礎知識と、特殊潜航艇の構造を2カ月学び、5月から横須賀基地で実際の艇に搭乗しての訓練中に8月15日の敗戦となった。
陸軍、海軍を問わずあの戦争に従軍した者は、既に70才を越え、当時を語れる者も少なくなった。まして特殊潜航艇に乗ったという経験を持っ生存者は少ない。
あの時あの場所にいた者として、記録を残すことが義務だと思って書き記す。
2001年02月25日
河部 煕
かわべひろむ
● 戦友会
私が関係しているいくつかの戦友会がある。
神奈川県武山海兵団で5カ月の海軍予備学生の基礎教育を受けた仲間との「武山五三会」、山口県柳井で2カ月の潜水艦教育を受けた「2士3班」の会、実施部隊である横須賀嵐部隊での仲間、それと海軍予備学生全体の会である。
これらの会の動き、といっても平成17年の今では、すでに活動を停止したものもあるし、動きが不活発なものもある。まだ動いているといっても、会員が80才を越え、後何年続けられるか
疑問である。
こういう会があったことを記録にとどめておく。
2005年1月9日
● 太平洋戦争への情念
太平洋戦争をどこかで止められなかったか。自分が開戦時の総理大臣だったら止められたか。その前の総理大臣だったらどうか。その前は、その前は、と歴史を遡ってみた。
歴史は1個人の力で動くものではない。たとえ最高権力者の天皇でも、歴史の動きを変えられない。
日本民族をして、あの戦争へ駆り立てたものは何か。戦後ずっとこの問題が頭から離れず考えていた。
戦後60年にしてようやく、これが日本民族の底辺に存在したものではなかったかと思えるものに出会えた。
2005年1月9日
● 特殊潜航艇海龍の感想
広島県江田島の元海軍兵学校(海上自衛隊幹部候補生学校)参考館横に展示されている海龍《かいりゅう=特殊潜航艇の別名》。この艇は筆者が柳井の潜水学校で教育を受けたときに使われた陸上教育用の艇だと思う。当時から外板がはずされており、艇内の操作を外から教官が指示できるようになっていた。
目 次
第1部 海軍予備学生 2001年02月25日公開
第1章 制度の始まり(工事中)
第2章 第5期兵科予備学生
第3章 潜水学校
第4章 横須賀嵐部隊
第2部 海龍 2001年04月27日公開
第1章 海龍開発の経緯
第2章 海龍の構造
第3章 海龍操縦守則
第4章 海龍艤装図
第5章 あの時代と海龍の開発
第6章 海龍要員の訓練(工事中)
第3部 戦友会 2005年1月8日追加
第1章 武山五三会
第2章 海龍の集い
海龍模型を靖国神社に奉納ー鎮魂歌
第3章 海軍予備学生顕彰式
第4部 太平洋戦争への情念
第1章 日本人を太平洋戦争に駆り立てたものは何か
第2章 日本人を憤慨させた差別事件
第3章 フランス人画家ビゴーの描いた明治の日本と日本人
第4章 「黄禍論」
第5章 蒋介石の「報恨以仁」
第5部 ワシントン体制の崩壊
第1章 「平和はいかに失われたか」マクマレー著
(「第一章」は工事中)
注1 1934年(昭和9年)に出来た旧海軍予備役将校制度 学生は旧制大学、大学予科、高等学校、専門学校卒業生から採用 一年間教育の後予備役少尉に任官する 尚一般兵科と飛行科があり 一般兵科は 昭和16年10月21日に制定された
注2 旧海軍が開発した超小型の攻撃用潜水艇
注3 艇首に250k爆弾を搭載し自動車用エンジンでの高速水上特攻艇
『特殊潜航艇「海龍」』は、河部 煕氏の下記ウェブサイトからの転載です。
ご関係の方々の年齢から、将来ウェブサイトの維持が困難になることも考えらるので、メロウ伝承館で預かって、後世に伝えして欲しいとのお申し出でにより転載するものです。
http://www.geocities.jp/kawabeh1924/kaigun/
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序文
● 海龍
1941年12月に太平洋戦争が始った時、私は旧制高校の2年生であったが、その3年後に自分自身が海軍軍人として、その戦争に参加するとは思っても見なかった。
1944年9月の大学2年修了時点で海軍予備学生《注1》となった。今から見ればもう戦争に勝ち目は無かったのだが、国民の戦闘意識はまだまだ高く、翌年8月15日に敗戦を迎えるという予兆《よちょう=まえぶれ》 は何処にも無かった。
海軍士官としての基礎教育を5カ月受けた後、1945年3月専門コースに分かれるのだが、私は特殊潜航艇《注2》を選んだ。他には魚雷艇、震洋《しんよう=注3》、陸戦、化兵《かへい=化学戦兵器科》、対空、電測、通信、特信(暗号解読)があった。この頃、もう海軍に、我々の乗るべき軍艦はなかった。
潜水学校で潜水艦の基礎知識と、特殊潜航艇の構造を2カ月学び、5月から横須賀基地で実際の艇に搭乗しての訓練中に8月15日の敗戦となった。
陸軍、海軍を問わずあの戦争に従軍した者は、既に70才を越え、当時を語れる者も少なくなった。まして特殊潜航艇に乗ったという経験を持っ生存者は少ない。
あの時あの場所にいた者として、記録を残すことが義務だと思って書き記す。
2001年02月25日
河部 煕
かわべひろむ
● 戦友会
私が関係しているいくつかの戦友会がある。
神奈川県武山海兵団で5カ月の海軍予備学生の基礎教育を受けた仲間との「武山五三会」、山口県柳井で2カ月の潜水艦教育を受けた「2士3班」の会、実施部隊である横須賀嵐部隊での仲間、それと海軍予備学生全体の会である。
これらの会の動き、といっても平成17年の今では、すでに活動を停止したものもあるし、動きが不活発なものもある。まだ動いているといっても、会員が80才を越え、後何年続けられるか
疑問である。
こういう会があったことを記録にとどめておく。
2005年1月9日
● 太平洋戦争への情念
太平洋戦争をどこかで止められなかったか。自分が開戦時の総理大臣だったら止められたか。その前の総理大臣だったらどうか。その前は、その前は、と歴史を遡ってみた。
歴史は1個人の力で動くものではない。たとえ最高権力者の天皇でも、歴史の動きを変えられない。
日本民族をして、あの戦争へ駆り立てたものは何か。戦後ずっとこの問題が頭から離れず考えていた。
戦後60年にしてようやく、これが日本民族の底辺に存在したものではなかったかと思えるものに出会えた。
2005年1月9日
● 特殊潜航艇海龍の感想
広島県江田島の元海軍兵学校(海上自衛隊幹部候補生学校)参考館横に展示されている海龍《かいりゅう=特殊潜航艇の別名》。この艇は筆者が柳井の潜水学校で教育を受けたときに使われた陸上教育用の艇だと思う。当時から外板がはずされており、艇内の操作を外から教官が指示できるようになっていた。
目 次
第1部 海軍予備学生 2001年02月25日公開
第1章 制度の始まり(工事中)
第2章 第5期兵科予備学生
第3章 潜水学校
第4章 横須賀嵐部隊
第2部 海龍 2001年04月27日公開
第1章 海龍開発の経緯
第2章 海龍の構造
第3章 海龍操縦守則
第4章 海龍艤装図
第5章 あの時代と海龍の開発
第6章 海龍要員の訓練(工事中)
第3部 戦友会 2005年1月8日追加
第1章 武山五三会
第2章 海龍の集い
海龍模型を靖国神社に奉納ー鎮魂歌
第3章 海軍予備学生顕彰式
第4部 太平洋戦争への情念
第1章 日本人を太平洋戦争に駆り立てたものは何か
第2章 日本人を憤慨させた差別事件
第3章 フランス人画家ビゴーの描いた明治の日本と日本人
第4章 「黄禍論」
第5章 蒋介石の「報恨以仁」
第5部 ワシントン体制の崩壊
第1章 「平和はいかに失われたか」マクマレー著
(「第一章」は工事中)
注1 1934年(昭和9年)に出来た旧海軍予備役将校制度 学生は旧制大学、大学予科、高等学校、専門学校卒業生から採用 一年間教育の後予備役少尉に任官する 尚一般兵科と飛行科があり 一般兵科は 昭和16年10月21日に制定された
注2 旧海軍が開発した超小型の攻撃用潜水艇
注3 艇首に250k爆弾を搭載し自動車用エンジンでの高速水上特攻艇
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
第2章 第5期兵科予備学生
目次
(1) 始めに
(2) ハンモック
(3) 大事な戦力を訓練で死なせはせぬ
(4) ホルゲン
(5) ベートーベンと寄席芸人
(6) 大学教育と海軍教育
(7) 技術で勝つより精神で勝て?
(8) 一番奇麗なところを見てもらう
(9) 整列は後列
(10) ワカッタモノハ ソトヘ デテヨロシイ
(11) あの飛行機、撃て
(12) 術科学校へ
(13) 殴られた話
(14) 予備学生の教育期間
(15) 海軍予備学生の基礎教育終了に当たって
(16) 「大洋」昭和20年4月号
目次終り
(1) 始めに―――――――――――――――――――――――
私は大正13年(1924年)の生まれで、昭和19年(1944年)秋、大学2年で海軍予備学生を志願した。翌昭和20年6月、少尉任官、敗戦の8月15日を私は横須賀の嵐部隊で、特殊潜航艇の訓練中に迎えた。
あの戦争が無ければ辿ったであろう自分の人生と、実際に辿った人生とは大きくかけ離れた。それで、「もし自分が近衛文麿《このえふみまろ=注1》だったら、もし東条英機《注2》だったら、あの戦争を阻止し得たか」と、何度も歴史を遡ってみた。
NIFTYに「戦前フォーラムFSENZEN」というのがあり、会員の集まりで若い人が「マンガやプラモデルから戦争に関心を持った」と言うのを聞くと、苦笑するというか、気持ち悪いというか、違和感を覚える。
戦前は、どういうものを食べていたか、とか、軍人の服装はどうであったか、とか、戦前に絡んだ小説やマンガを書く人には、こういった小道具の考証は必要であろう。だが、私にとって、戦前とは「戦争に至る道」であり、どうすれば戦争が避けられたかが、戦前を振り返る私の視点である。
何故、日本は戦争への道を歩んで行ったのか、他の選択肢はなかったのか。もしまた、日本が同じ様な場面に遭遇したときに、次の世代は、戦争ではなく、他の道を選んでくれるだろうか。
こういう願いを込めて海軍の思い出を記録している。
昭和19年(1944年)8月海軍入隊を前に
生きて還らぬかも知れぬ息子を
送る親の気持ちはどうであったか
(2) ハンモック《海軍用語=吊床》―――――――――――――――――――――
入隊すると真っ先に習うのが、ハンモックの吊り方、格納の仕方である。これが出来ないと、その晩から寝られない。
200人が一緒に生活する居住区(大部屋)の、高さ2メートル位の所に、梁が通っており、そこに頑丈な鉄のフックが取り付けてある。これにハンモックの頭についている環を、引っ掛けるのだが、背の低い者には難しい。
起床では、ハンモックから飛び降り、足の方のロープをゆるめ、ハンモック全体を脇の下に来るくらいに下ろす。就寝中は枕代わりに頭の下に敷いていたロープで、まず軽くハンモックを縛っていく。
次に全身の体重をかけてロープを強く引き、ハンモックを縛り上げる。この時、手の力だけでロープを引っ張ったのでは、ハンモックがふにゃふにゃになり、棚の上に上げようとしても、バラバラに解けてしまう。
身長150センチくらいの小さい学生がいたが、入隊初日、ハンモックと悪戦苦闘して、他の者が全員終わっているのに、まだ半分も出来ていない有り様であった。
平らなメガネをかけ、声も小さく、学究タイプで、アインシュタイン博士《ドイツの理論物理学者》を思わせる風貌。ハンモックで苦労さすよりも、研究室に残しておいたほうが、よっぽど日本の為になるという感じの男で、後年、高層気象に関して博士になった男だった。
教官から「なにを、もたもたしとるか」と叱られて、「ハイ、目下研究中であります」と答えて、居合わせた全員の笑いを誘った。
彼の研究とは、背の低さを補うために、机を踏み台に使うことだった。
巡検《じゅんけん=注3》後の居住区内で、ハンモックの下で雑談するとか、雑誌を読むことはなかった。見つからないようにハンモックの上で、岩波文庫くらい読んでいた男が居たかもしれないが、ほとんどの学生は昼間の疲れで、眠りたいの一心であった。
(3) 大事な戦力を訓練で死なせはせぬ―――――――――――――
昭和19年10月に海軍予備学生として武山に入隊して、1カ月くらい経った頃、武装駆け足の競技が12月始めに行われるとの予告があった。武山から葉山の長者ケ崎まで、約8キロの道を武装(小銃を担いで)して走るのだそうだ。区隊《くたい=軍隊編成の単位》ごと(約50名)の団体競技で、1名の脱落者も許さぬという。
鉄砲担いで歩くのが嫌で、海軍に来たのになんたること、と嘆いても遅い。早速、その夜から、区隊長を先頭に練習が始まった。毎夜、少しずつ距離を延ばし、速度を速めていく。
そうでなくても腹が減っているのに、こんな事をされたら死んでしまう、という声が仲間うちで囁かれた。
どこからその声が上に届いたのか知らないが、朝礼(1200名全員が集まる)で、学生隊長(少佐)が壇上から「諸君の中には、駆け足の訓練で死んでしまう、と言っている者がいるようだが、諸君は大事な戦力である。大事な戦力を訓練で死なすような事はせぬ」と述べた。
「そうか、ここにいる間は死なないんだ」という、なんか、家畜として飼育されているような、妙な安心感を覚えた。
戦後の人からすれば、軍隊で駆け足に不平など言えば、引っ張り出されて殴られる場面にならないと納得しないかもしれないが、事実は以上のとおりである。
駆足競技終了後の記念写真より
最前列向かって右端が筆者
注1 1937年から 三次の総理大臣を務めた
注2 陸軍大将で 1940年に陸軍大臣に 1941年には総理大臣を務めた
注3 兵舎内外その他の点検を 毎日就寝前行なわれ 点検後は「巡検おわり 煙草盆出せ」の号令で 就寝まで暫し自由時間があった
目次
(1) 始めに
(2) ハンモック
(3) 大事な戦力を訓練で死なせはせぬ
(4) ホルゲン
(5) ベートーベンと寄席芸人
(6) 大学教育と海軍教育
(7) 技術で勝つより精神で勝て?
(8) 一番奇麗なところを見てもらう
(9) 整列は後列
(10) ワカッタモノハ ソトヘ デテヨロシイ
(11) あの飛行機、撃て
(12) 術科学校へ
(13) 殴られた話
(14) 予備学生の教育期間
(15) 海軍予備学生の基礎教育終了に当たって
(16) 「大洋」昭和20年4月号
目次終り
(1) 始めに―――――――――――――――――――――――
私は大正13年(1924年)の生まれで、昭和19年(1944年)秋、大学2年で海軍予備学生を志願した。翌昭和20年6月、少尉任官、敗戦の8月15日を私は横須賀の嵐部隊で、特殊潜航艇の訓練中に迎えた。
あの戦争が無ければ辿ったであろう自分の人生と、実際に辿った人生とは大きくかけ離れた。それで、「もし自分が近衛文麿《このえふみまろ=注1》だったら、もし東条英機《注2》だったら、あの戦争を阻止し得たか」と、何度も歴史を遡ってみた。
NIFTYに「戦前フォーラムFSENZEN」というのがあり、会員の集まりで若い人が「マンガやプラモデルから戦争に関心を持った」と言うのを聞くと、苦笑するというか、気持ち悪いというか、違和感を覚える。
戦前は、どういうものを食べていたか、とか、軍人の服装はどうであったか、とか、戦前に絡んだ小説やマンガを書く人には、こういった小道具の考証は必要であろう。だが、私にとって、戦前とは「戦争に至る道」であり、どうすれば戦争が避けられたかが、戦前を振り返る私の視点である。
何故、日本は戦争への道を歩んで行ったのか、他の選択肢はなかったのか。もしまた、日本が同じ様な場面に遭遇したときに、次の世代は、戦争ではなく、他の道を選んでくれるだろうか。
こういう願いを込めて海軍の思い出を記録している。
昭和19年(1944年)8月海軍入隊を前に
生きて還らぬかも知れぬ息子を
送る親の気持ちはどうであったか
(2) ハンモック《海軍用語=吊床》―――――――――――――――――――――
入隊すると真っ先に習うのが、ハンモックの吊り方、格納の仕方である。これが出来ないと、その晩から寝られない。
200人が一緒に生活する居住区(大部屋)の、高さ2メートル位の所に、梁が通っており、そこに頑丈な鉄のフックが取り付けてある。これにハンモックの頭についている環を、引っ掛けるのだが、背の低い者には難しい。
起床では、ハンモックから飛び降り、足の方のロープをゆるめ、ハンモック全体を脇の下に来るくらいに下ろす。就寝中は枕代わりに頭の下に敷いていたロープで、まず軽くハンモックを縛っていく。
次に全身の体重をかけてロープを強く引き、ハンモックを縛り上げる。この時、手の力だけでロープを引っ張ったのでは、ハンモックがふにゃふにゃになり、棚の上に上げようとしても、バラバラに解けてしまう。
身長150センチくらいの小さい学生がいたが、入隊初日、ハンモックと悪戦苦闘して、他の者が全員終わっているのに、まだ半分も出来ていない有り様であった。
平らなメガネをかけ、声も小さく、学究タイプで、アインシュタイン博士《ドイツの理論物理学者》を思わせる風貌。ハンモックで苦労さすよりも、研究室に残しておいたほうが、よっぽど日本の為になるという感じの男で、後年、高層気象に関して博士になった男だった。
教官から「なにを、もたもたしとるか」と叱られて、「ハイ、目下研究中であります」と答えて、居合わせた全員の笑いを誘った。
彼の研究とは、背の低さを補うために、机を踏み台に使うことだった。
巡検《じゅんけん=注3》後の居住区内で、ハンモックの下で雑談するとか、雑誌を読むことはなかった。見つからないようにハンモックの上で、岩波文庫くらい読んでいた男が居たかもしれないが、ほとんどの学生は昼間の疲れで、眠りたいの一心であった。
(3) 大事な戦力を訓練で死なせはせぬ―――――――――――――
昭和19年10月に海軍予備学生として武山に入隊して、1カ月くらい経った頃、武装駆け足の競技が12月始めに行われるとの予告があった。武山から葉山の長者ケ崎まで、約8キロの道を武装(小銃を担いで)して走るのだそうだ。区隊《くたい=軍隊編成の単位》ごと(約50名)の団体競技で、1名の脱落者も許さぬという。
鉄砲担いで歩くのが嫌で、海軍に来たのになんたること、と嘆いても遅い。早速、その夜から、区隊長を先頭に練習が始まった。毎夜、少しずつ距離を延ばし、速度を速めていく。
そうでなくても腹が減っているのに、こんな事をされたら死んでしまう、という声が仲間うちで囁かれた。
どこからその声が上に届いたのか知らないが、朝礼(1200名全員が集まる)で、学生隊長(少佐)が壇上から「諸君の中には、駆け足の訓練で死んでしまう、と言っている者がいるようだが、諸君は大事な戦力である。大事な戦力を訓練で死なすような事はせぬ」と述べた。
「そうか、ここにいる間は死なないんだ」という、なんか、家畜として飼育されているような、妙な安心感を覚えた。
戦後の人からすれば、軍隊で駆け足に不平など言えば、引っ張り出されて殴られる場面にならないと納得しないかもしれないが、事実は以上のとおりである。
駆足競技終了後の記念写真より
最前列向かって右端が筆者
注1 1937年から 三次の総理大臣を務めた
注2 陸軍大将で 1940年に陸軍大臣に 1941年には総理大臣を務めた
注3 兵舎内外その他の点検を 毎日就寝前行なわれ 点検後は「巡検おわり 煙草盆出せ」の号令で 就寝まで暫し自由時間があった
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
(4) ホルゲン《ホルモン減退(造語》――――――――――――――――――――――
昭和19年10月から20年2月までの5カ月間で、モヤシのような身体の大学生を、短期間で将校らしい体格に仕立てようというのであるから、海軍体操《狭い艦内でも出来る体操》を始めとして、肉体を鍛練する教科が多かった。
体を動かすから食欲は旺盛なのに、与えられるのは、ギリギリのカロリー計算をしているのではないかと思われるくらい少なかった。全国から集まった1200名の予備学生の話題は、もっぱら食い物であり、寝るときには、せめて夢にでも食べる夢をみたいと思って寝た。
食事が少なかったのは、予備学生だけではなく、海軍兵学校《現役士官を養成する学校》の生徒も、海軍経理学校《主計科士官を養成する学校》の生徒も、腹が減ってしょうがなかった、という思い出の記録があるから、教育期間中はいずこも同じだったのだ。
さて、食事の時に出てくるお茶だが、ほうじ茶の出がらしのような色のお茶が配られる。不味くはないが、お茶の香りなぞ全くない。これが曲者なのである。
入隊して1カ月くらい経った頃であったか、外出が許可された。まず食い物探しである。満腹で帰隊する。
問題は翌朝である。起床時に「男性現象」《注》を感じるのである。振り返れば入隊以来、一度も感じていなかった。最初の外出の翌日は、偶然だろうと思っていたが、その後の外出でも、翌朝同じ現象があった。
戦後20年も経ってから、同期の仲間が集まったときに、この事が話題になり、「なんだ、貴様もか」と、原因は食事の時に飲まされたお茶が、ホルモン減退剤であったのであろう、という結論になった。
軍隊ってよく考えているね。無駄なエネルギーは一滴も消費させないようにしているのだから。
(5) ベートーベンと寄席芸人―――――――――――――――
慰問団が来るという知らせがあった。前線でもないのに慰問団が来るのかといぶかったが、とにかく来るらしい。
その日の朝、学生隊長から訓示があった。
学生隊長 日比野寛三少佐
「海豹士官行状記」(本人の著作)より
「予備学生諸君は、ベートーベンを聴かせると、フムと深刻な顔をして聴いておるが、寄席芸人だと、なんだこんな俗っぽいものと、相手にしない傾向がある」
「寄席芸人であろうと、彼等は一緒懸命に芸を磨き、今日は諸君に喜んでもらおうと、精一杯の芸を披露するのであるから、内容については諸君の期待するような高尚なものではないかもしれないが、彼らの努力、誠意に対しては、拍手を惜しんではならぬ」
「その拍手が、かれらの一層の舞台となって返ってくるのである」
海軍に入って、軍人が本職の人間から、まさかこういう話しを聞こうとは思わなかったが、当時の我々としては、ベートーベンの方が有り難かったのも事実であり、痛いところを突かれたと思った。
格納庫のような所での慰問の演芸に、盛大な拍手を贈ったのはいうまでもない。そして、学生隊長の訓示は、将来われわれが、部下を持ったときの指導への教訓として受け取った。
日比野少佐は「津村敏行」のペンネームで、戦争中から海軍を題材にした文章を発表している。彼の自伝とも言うべき「海豹(あざらし)士官行状記」によれば、子供の時からやんちゃ坊主で、海軍兵学校時代も退学処分に相当する事件を起こしている。こういうのを学生隊長に任命するのだから海軍は面白い。
注 性的興奮や自意識に関係なく 勃起する状態
昭和19年10月から20年2月までの5カ月間で、モヤシのような身体の大学生を、短期間で将校らしい体格に仕立てようというのであるから、海軍体操《狭い艦内でも出来る体操》を始めとして、肉体を鍛練する教科が多かった。
体を動かすから食欲は旺盛なのに、与えられるのは、ギリギリのカロリー計算をしているのではないかと思われるくらい少なかった。全国から集まった1200名の予備学生の話題は、もっぱら食い物であり、寝るときには、せめて夢にでも食べる夢をみたいと思って寝た。
食事が少なかったのは、予備学生だけではなく、海軍兵学校《現役士官を養成する学校》の生徒も、海軍経理学校《主計科士官を養成する学校》の生徒も、腹が減ってしょうがなかった、という思い出の記録があるから、教育期間中はいずこも同じだったのだ。
さて、食事の時に出てくるお茶だが、ほうじ茶の出がらしのような色のお茶が配られる。不味くはないが、お茶の香りなぞ全くない。これが曲者なのである。
入隊して1カ月くらい経った頃であったか、外出が許可された。まず食い物探しである。満腹で帰隊する。
問題は翌朝である。起床時に「男性現象」《注》を感じるのである。振り返れば入隊以来、一度も感じていなかった。最初の外出の翌日は、偶然だろうと思っていたが、その後の外出でも、翌朝同じ現象があった。
戦後20年も経ってから、同期の仲間が集まったときに、この事が話題になり、「なんだ、貴様もか」と、原因は食事の時に飲まされたお茶が、ホルモン減退剤であったのであろう、という結論になった。
軍隊ってよく考えているね。無駄なエネルギーは一滴も消費させないようにしているのだから。
(5) ベートーベンと寄席芸人―――――――――――――――
慰問団が来るという知らせがあった。前線でもないのに慰問団が来るのかといぶかったが、とにかく来るらしい。
その日の朝、学生隊長から訓示があった。
学生隊長 日比野寛三少佐
「海豹士官行状記」(本人の著作)より
「予備学生諸君は、ベートーベンを聴かせると、フムと深刻な顔をして聴いておるが、寄席芸人だと、なんだこんな俗っぽいものと、相手にしない傾向がある」
「寄席芸人であろうと、彼等は一緒懸命に芸を磨き、今日は諸君に喜んでもらおうと、精一杯の芸を披露するのであるから、内容については諸君の期待するような高尚なものではないかもしれないが、彼らの努力、誠意に対しては、拍手を惜しんではならぬ」
「その拍手が、かれらの一層の舞台となって返ってくるのである」
海軍に入って、軍人が本職の人間から、まさかこういう話しを聞こうとは思わなかったが、当時の我々としては、ベートーベンの方が有り難かったのも事実であり、痛いところを突かれたと思った。
格納庫のような所での慰問の演芸に、盛大な拍手を贈ったのはいうまでもない。そして、学生隊長の訓示は、将来われわれが、部下を持ったときの指導への教訓として受け取った。
日比野少佐は「津村敏行」のペンネームで、戦争中から海軍を題材にした文章を発表している。彼の自伝とも言うべき「海豹(あざらし)士官行状記」によれば、子供の時からやんちゃ坊主で、海軍兵学校時代も退学処分に相当する事件を起こしている。こういうのを学生隊長に任命するのだから海軍は面白い。
注 性的興奮や自意識に関係なく 勃起する状態
編集者
居住地: メロウ倶楽部
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(6) 大学教育と海軍教育―――――――――――――――――
私の場合、大学2年を終わった段階で海軍に行ったのであるから、批判精神が旺盛で、海軍のやり方というか教え方に、いちいち頭の中で批判したり、感心したりしていた。
予備学生になって間もない頃、洗濯の仕方を教わった。洗濯物を持って屋外の洗濯場に集合。教えてくれるのは下士官の教員である。日焼けした実直そうなオジサン。鬼でもなんでもない。
開口一番、「洗濯は、水と石鹸と空気である」と、のたもうた。石鹸の成分や、なぜ汚れが落ちるのか、などの講義があるものと期待していたのが、完全に外れた。
「洗濯物を水につける。石鹸をこすりつける。これだけではダメである。次に空気を混ぜる。これで汚れが落ちる」 当然、泡立ってくるが、泡を立てろとは言わない。空気を混ぜろという。
大学生としては科学的な説明が一切無いので、物足りないが、水兵に教えるには、これで充分なのである。むつかしい理屈は抜きにして、とにかく洗濯物が奇麗になりさえすればそれで良いのである。
大学ではこうはいかない。石鹸の歴史、成分、製法、民族間の比較などなどに言及しなければ、ゼミの先生から叱られる。
大学では、あらゆるものに疑いを持ち、批判することを学んできた。それが「空気を混ぜろ」という世界に放りこまれたのである。余計な理屈は要らない、目的を達するための動作が出来ればよい。
こうと分かれば、海軍生活も楽なものである。
(7) 技術で勝つより精神で勝て?―――――――――――――
5期一般兵科予備学生は、昭和19年10月入隊なのであるが、私はこれより先、第15期飛行科予備学生を志願して、8月に土浦航空隊で試験を受けた。聴力検査で落とされて、家へ帰されるのかと思ったら、連れていかれたのが、武山海兵団。同類が100人くらい居たと思う。読売巨人軍投手の、吉江英四郎もいた。
ある日、体育にバレーボールをすることになった。私は中学、高校、大学とバレー部のレギュラーであったから、プロ並みである。吉江のほかにも背が高くて、バレーをやっていたらしいのが、2、3人いた。
9人制のバレーであるが、4人もプロ級がいれば、素人の集団相手に負ける訳が無い。21対2、21対3で完勝である。終わっての教官の講評で、当然褒められるものと思って、ニコニコ顔を用意して待っていたら、これが違うのである。
「諸君が勝ったのは技術で勝ったので、本当に勝ったのではない」 エーッ、うそー。本当に勝つとはなんだい。
「小手先の技術が優れていただけで、敢闘精神がみられない」
そりゃそうでしょう。やっている間は、大学生に戻って遊んでいたんだもの。敢闘精神だなんて必要ない。だが、これだけの技術を身につけるには、8年間のトレーニングがあるのだ、口惜しければ「敢闘精神」とかやらで、ぶつかってこいよ、いつでも相手になってやるぜ、とは心に思っただけ。
この教官のことは50余年経った今でも、軽蔑している。ただ、彼のために弁護すれば、予備学生の基礎教育期間というのは、精神教育に重点をおいていたのだから、こういう発言もしょうがないか、と思う。
(8) 一番奇麗なところを見てもらう――――――――――――
昭和19年8月に、土浦崩れで武山海兵団に連れてこられたのは、今更国へ帰れないだろうという親心ではなく、10月に入ってくる1200名の予備学生の中核となる班長を準備するためであった。1班12名ないし13名の編成であるから、1200名に対しては約100名の班長を必要とする。
9月の終り近く、間もなく入隊してくる者のために、宿舎の掃除をさせられた。空き家になっていて、ほこりだらけの部屋の、床磨き、窓ガラス磨きに草臥れて、「もう、やめましょうよ」という意味で、教官に「こんなことしても、たいして奇麗になりませんね」と言った。
これに対する教官の返事が立派だった。 「たかだか兵舎だから、いくら磨いても金殿玉楼《きんでんぎょくろう=大変立派で美しい建物》というわけにはいかん。だが、兵舎は兵舎なりに、一番奇麗なところを見てもらうのだ」
参った。
初対面の相手に、わざわざ汚れた姿を見せることはない。「一番奇麗なところを見てもらう」とは、海軍で教わった「一番奇麗な」言葉である。
私の場合、大学2年を終わった段階で海軍に行ったのであるから、批判精神が旺盛で、海軍のやり方というか教え方に、いちいち頭の中で批判したり、感心したりしていた。
予備学生になって間もない頃、洗濯の仕方を教わった。洗濯物を持って屋外の洗濯場に集合。教えてくれるのは下士官の教員である。日焼けした実直そうなオジサン。鬼でもなんでもない。
開口一番、「洗濯は、水と石鹸と空気である」と、のたもうた。石鹸の成分や、なぜ汚れが落ちるのか、などの講義があるものと期待していたのが、完全に外れた。
「洗濯物を水につける。石鹸をこすりつける。これだけではダメである。次に空気を混ぜる。これで汚れが落ちる」 当然、泡立ってくるが、泡を立てろとは言わない。空気を混ぜろという。
大学生としては科学的な説明が一切無いので、物足りないが、水兵に教えるには、これで充分なのである。むつかしい理屈は抜きにして、とにかく洗濯物が奇麗になりさえすればそれで良いのである。
大学ではこうはいかない。石鹸の歴史、成分、製法、民族間の比較などなどに言及しなければ、ゼミの先生から叱られる。
大学では、あらゆるものに疑いを持ち、批判することを学んできた。それが「空気を混ぜろ」という世界に放りこまれたのである。余計な理屈は要らない、目的を達するための動作が出来ればよい。
こうと分かれば、海軍生活も楽なものである。
(7) 技術で勝つより精神で勝て?―――――――――――――
5期一般兵科予備学生は、昭和19年10月入隊なのであるが、私はこれより先、第15期飛行科予備学生を志願して、8月に土浦航空隊で試験を受けた。聴力検査で落とされて、家へ帰されるのかと思ったら、連れていかれたのが、武山海兵団。同類が100人くらい居たと思う。読売巨人軍投手の、吉江英四郎もいた。
ある日、体育にバレーボールをすることになった。私は中学、高校、大学とバレー部のレギュラーであったから、プロ並みである。吉江のほかにも背が高くて、バレーをやっていたらしいのが、2、3人いた。
9人制のバレーであるが、4人もプロ級がいれば、素人の集団相手に負ける訳が無い。21対2、21対3で完勝である。終わっての教官の講評で、当然褒められるものと思って、ニコニコ顔を用意して待っていたら、これが違うのである。
「諸君が勝ったのは技術で勝ったので、本当に勝ったのではない」 エーッ、うそー。本当に勝つとはなんだい。
「小手先の技術が優れていただけで、敢闘精神がみられない」
そりゃそうでしょう。やっている間は、大学生に戻って遊んでいたんだもの。敢闘精神だなんて必要ない。だが、これだけの技術を身につけるには、8年間のトレーニングがあるのだ、口惜しければ「敢闘精神」とかやらで、ぶつかってこいよ、いつでも相手になってやるぜ、とは心に思っただけ。
この教官のことは50余年経った今でも、軽蔑している。ただ、彼のために弁護すれば、予備学生の基礎教育期間というのは、精神教育に重点をおいていたのだから、こういう発言もしょうがないか、と思う。
(8) 一番奇麗なところを見てもらう――――――――――――
昭和19年8月に、土浦崩れで武山海兵団に連れてこられたのは、今更国へ帰れないだろうという親心ではなく、10月に入ってくる1200名の予備学生の中核となる班長を準備するためであった。1班12名ないし13名の編成であるから、1200名に対しては約100名の班長を必要とする。
9月の終り近く、間もなく入隊してくる者のために、宿舎の掃除をさせられた。空き家になっていて、ほこりだらけの部屋の、床磨き、窓ガラス磨きに草臥れて、「もう、やめましょうよ」という意味で、教官に「こんなことしても、たいして奇麗になりませんね」と言った。
これに対する教官の返事が立派だった。 「たかだか兵舎だから、いくら磨いても金殿玉楼《きんでんぎょくろう=大変立派で美しい建物》というわけにはいかん。だが、兵舎は兵舎なりに、一番奇麗なところを見てもらうのだ」
参った。
初対面の相手に、わざわざ汚れた姿を見せることはない。「一番奇麗なところを見てもらう」とは、海軍で教わった「一番奇麗な」言葉である。
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(9) 整列は後列―――――――――――――――――――――
基礎教育の課程の中に、38式《明治38年制定》歩兵銃を持っての陸戦教練があった。ほかの屋外教科(体操、カッター、銃剣術)と同じく、肉体強化のための科目で、本式の陸戦訓練ではないのだが、海軍の陸戦教育のレベルが低いのに驚いた。
兵曹長の教員が指導に当たるのだが、「海軍では去年から、軽機関銃を陸戦に使うことになった」という。
我々の年代の者は、中学生の頃から、学校教練《学校で行なう軍事訓練》で「軽機の位置、そこ。傘型散開、開け!」という訓練をやって来た。海軍はそれを、やっと去年から始めたという。
子供の頃、上海事変での海軍陸戦隊の勇猛ぶりを、新聞で見ていただけに、実態はこうなのか、10年は遅れとるで、と驚く。
教員の兵曹長よりも、こちらの方がはるかに手慣れている。勝手にどんどん教練を進めて行くのを、兵曹長は「皆さんは上手だねえ」と感心して見ているだけ。
休憩時間になると、兵曹長は小銃を手にもって「こんなもので戦争するようになったら海軍もおしまいだ」という。彼は砲術出身で、もしかしたら、陸奥、長門の40サンチ砲を動かしていたのかもしれない。
大砲が主力の海軍では、小銃なんて兵器の中に入らない。オモチャに等しい。
「皆さんはいいね。入ってすぐ兵曹長の上だもんね。私なんか、海軍に10年いて、やっとこれだもんね」
艦にいれば威張っていられるものを、予備学生の教育隊に配属されたばっかりに、若造にへいこらしなければならんので、この男くさっているのかもしれない。
「整列は後列、ホーサー《注》はエンド」という。なんだと聞くと海軍での要領だという。つまり整列するときは、後列にならんで、陰に隠れ、目立たないようにする。カッターを引揚げるときは、綱のエンドつまり端っこを持つ。そうすると一緒懸命に引っ張っているように見えて、実は力が入らない、エネルギーを消耗しない、というのである。
海軍に長くいるには、こういう要領も必要なのかと感心する。面白い男であった。
(10) ワカッタモノハ ソトヘ デテヨロシイ―――――――
兵曹長の教員から手旗と発光信号《電灯の点滅で信号を送る》(モールス信号)を習う。手旗は屋外で練習するが、発光信号は室内で、天井からぶら下げた裸電球の点滅を、瞬きせずに見詰めるのだから、目が乾いてくる。
「今日は試験をする」というので、緊張して裸電球を見詰める。
何人かの学生がニヤニヤしながら、黙って席を立って、教室(居住区)を離れていく。何じゃあれはと、いぶかっている内に、また10人ほどの学生が、席を離れる。
「コノシンゴウガ ワカッタモノハ ソトヘ デテ ヨロシイ」
3順目くらいで、やっと分かる。こちらもニヤニヤしながら、憐れな学生を尻目に外へ出る。
洒落たことをする兵曹長であった。
(11) あの飛行機、撃て!―――――――――――――――――
昭和20年2月16日、アメリカ軍の艦載機《空母に搭載された飛行機》が、我々のいる三浦半島の武山海兵団にも襲ってきた。戦後、記録を見ると、1200機の艦載機が、関東、静岡方面を波状攻撃《何回も繰り返し攻撃する》したとある。
B29による遠距離爆撃は前年から始まっていたが、艦載機が来たということは、空母が近くにいるということである。
対空戦闘の場合、誰が何の配置につくかは定められていた。私は対空機銃の銃座のそばにいた。
スマートな機首、まっすぐな翼のP51《米軍単座戦闘機(マスタング)》が2機編隊で突っ込んでくる。海兵出身の大尉が「あの飛行機、撃てー」と大声を張り上げる。こんな命令は海軍にはない。「撃ち方始め」のはずなのだがと思う。
敵の2機編隊は、素直には突っ込んで来ない。こちらの照準がついた頃、先頭の機が左へ待避して雁行《がんこう=雁が斜めに飛ぶ様》する。先頭になった機も数秒で、左へ待避する。先頭の機に照準を合わしていると、次々とかわされる。
高度50メートル位で飛び去る敵機の操縦席に、操縦士の顔が見える。ということは、風防を開けていたということか。畜生なめやがって。
ボカスカ機銃を撃って、その日は終わる。夕刻、司令部から「この勢いでタマを打つと、2日で無くなるから、節約するように」との指示が来る。
どこからともなく、今日飛んできたのはアメリカの予備学生だ」という話しが聞こえてくる。こちらも予備学生なのだが、ハテ。
アメリカの奴が日本本土を攻撃して来た。日本もアメリカ本土を襲っているのなら対等の殴り合いだが、太平洋という土俵のこちら側の俵にまで押し詰められている現状を、どうやってアメリカまで押し戻せというのだ。
(12) 術科学校へ――――――――――――――――――――
武山での教育は、兵科将校としての一般教養であり、専門的な教育は術科学校で行われる。昭和20年2月の始め頃、術科学校の希望を出すことになった。どういう兵科があるかについて、教官から説明があり、第1希望、第2希望まで書いて提出する。
教官の方には海軍省の方から割り当てがあり、それと各人からの希望、教官からみた適性等を考慮しながら決めていったのであろう。数日後に発表があった。
記録を見ると、第5期予備学生全体としての配属は、次のようになっている。
特殊潜航艇 18.1 %
マル4(震洋) 12.9 マル4とは爆装したモーターボート
魚雷艇 6.1 この組は後に特潜かマル4に回された
--------------------------------
小計 37.1 ここまでが、水中、水上特攻
対空 22.4
電測 9.2
通信 9.0
陸戦 6.4
気象 5.3
特信(暗号) 5.2
化兵 3.3
要務 2.1
--------------------------------
合計 100.0 %
マル4というのは、○のなかに四を書いて、マルヨンといっていたが、開発中の秘密兵器を海軍部内ではこう呼んでいた。他にマル6という人間魚雷があることも聞いていたが、募集はなかった。ただし、マル4か魚雷艇に配属になった者が、後にマル6に転属になった者はいる。
私は体力に自信がなかったから、陸戦はノーサンキュー。特殊潜航艇の操縦装置に、飛行機の操縦装置を転用していると聞いて、飛行予備学生を振られた恨みをここで晴らそうと、特殊潜航艇を志望した。
戦後になって、教官に聞いた話しでは、特攻にはなるべく一人息子を避ける配慮をしたとのことであったが、私は姉、妹に挟まれた男一人の家庭であった。
海軍術科学校にはつぎのものがあった。
1-1 横須賀海軍砲術学校
1-2 館山海軍砲術学校(陸戦)
2-1 海軍水雷学校
2-2 海軍機雷学校(昭和16年3月、久里浜。19年3月より海軍対潜学校)
2-3 臨時魚雷艇訓練所(「震洋」の訓練)
3 海軍潜水学校
4-1 横須賀海軍機関学校
4-2 大楠海軍機関学校
5-1 横須賀海軍通信学校
5-2 防府海軍通信学校
6 海軍航海学校
7-1 横須賀海軍工作学校
7-2 沼津海軍工作学校
8 海軍電測学校
9 海軍気象学校
注 船舶を岸壁に繋ぐロープを言うが 此処では短艇を引き揚げる作業を含む
基礎教育の課程の中に、38式《明治38年制定》歩兵銃を持っての陸戦教練があった。ほかの屋外教科(体操、カッター、銃剣術)と同じく、肉体強化のための科目で、本式の陸戦訓練ではないのだが、海軍の陸戦教育のレベルが低いのに驚いた。
兵曹長の教員が指導に当たるのだが、「海軍では去年から、軽機関銃を陸戦に使うことになった」という。
我々の年代の者は、中学生の頃から、学校教練《学校で行なう軍事訓練》で「軽機の位置、そこ。傘型散開、開け!」という訓練をやって来た。海軍はそれを、やっと去年から始めたという。
子供の頃、上海事変での海軍陸戦隊の勇猛ぶりを、新聞で見ていただけに、実態はこうなのか、10年は遅れとるで、と驚く。
教員の兵曹長よりも、こちらの方がはるかに手慣れている。勝手にどんどん教練を進めて行くのを、兵曹長は「皆さんは上手だねえ」と感心して見ているだけ。
休憩時間になると、兵曹長は小銃を手にもって「こんなもので戦争するようになったら海軍もおしまいだ」という。彼は砲術出身で、もしかしたら、陸奥、長門の40サンチ砲を動かしていたのかもしれない。
大砲が主力の海軍では、小銃なんて兵器の中に入らない。オモチャに等しい。
「皆さんはいいね。入ってすぐ兵曹長の上だもんね。私なんか、海軍に10年いて、やっとこれだもんね」
艦にいれば威張っていられるものを、予備学生の教育隊に配属されたばっかりに、若造にへいこらしなければならんので、この男くさっているのかもしれない。
「整列は後列、ホーサー《注》はエンド」という。なんだと聞くと海軍での要領だという。つまり整列するときは、後列にならんで、陰に隠れ、目立たないようにする。カッターを引揚げるときは、綱のエンドつまり端っこを持つ。そうすると一緒懸命に引っ張っているように見えて、実は力が入らない、エネルギーを消耗しない、というのである。
海軍に長くいるには、こういう要領も必要なのかと感心する。面白い男であった。
(10) ワカッタモノハ ソトヘ デテヨロシイ―――――――
兵曹長の教員から手旗と発光信号《電灯の点滅で信号を送る》(モールス信号)を習う。手旗は屋外で練習するが、発光信号は室内で、天井からぶら下げた裸電球の点滅を、瞬きせずに見詰めるのだから、目が乾いてくる。
「今日は試験をする」というので、緊張して裸電球を見詰める。
何人かの学生がニヤニヤしながら、黙って席を立って、教室(居住区)を離れていく。何じゃあれはと、いぶかっている内に、また10人ほどの学生が、席を離れる。
「コノシンゴウガ ワカッタモノハ ソトヘ デテ ヨロシイ」
3順目くらいで、やっと分かる。こちらもニヤニヤしながら、憐れな学生を尻目に外へ出る。
洒落たことをする兵曹長であった。
(11) あの飛行機、撃て!―――――――――――――――――
昭和20年2月16日、アメリカ軍の艦載機《空母に搭載された飛行機》が、我々のいる三浦半島の武山海兵団にも襲ってきた。戦後、記録を見ると、1200機の艦載機が、関東、静岡方面を波状攻撃《何回も繰り返し攻撃する》したとある。
B29による遠距離爆撃は前年から始まっていたが、艦載機が来たということは、空母が近くにいるということである。
対空戦闘の場合、誰が何の配置につくかは定められていた。私は対空機銃の銃座のそばにいた。
スマートな機首、まっすぐな翼のP51《米軍単座戦闘機(マスタング)》が2機編隊で突っ込んでくる。海兵出身の大尉が「あの飛行機、撃てー」と大声を張り上げる。こんな命令は海軍にはない。「撃ち方始め」のはずなのだがと思う。
敵の2機編隊は、素直には突っ込んで来ない。こちらの照準がついた頃、先頭の機が左へ待避して雁行《がんこう=雁が斜めに飛ぶ様》する。先頭になった機も数秒で、左へ待避する。先頭の機に照準を合わしていると、次々とかわされる。
高度50メートル位で飛び去る敵機の操縦席に、操縦士の顔が見える。ということは、風防を開けていたということか。畜生なめやがって。
ボカスカ機銃を撃って、その日は終わる。夕刻、司令部から「この勢いでタマを打つと、2日で無くなるから、節約するように」との指示が来る。
どこからともなく、今日飛んできたのはアメリカの予備学生だ」という話しが聞こえてくる。こちらも予備学生なのだが、ハテ。
アメリカの奴が日本本土を攻撃して来た。日本もアメリカ本土を襲っているのなら対等の殴り合いだが、太平洋という土俵のこちら側の俵にまで押し詰められている現状を、どうやってアメリカまで押し戻せというのだ。
(12) 術科学校へ――――――――――――――――――――
武山での教育は、兵科将校としての一般教養であり、専門的な教育は術科学校で行われる。昭和20年2月の始め頃、術科学校の希望を出すことになった。どういう兵科があるかについて、教官から説明があり、第1希望、第2希望まで書いて提出する。
教官の方には海軍省の方から割り当てがあり、それと各人からの希望、教官からみた適性等を考慮しながら決めていったのであろう。数日後に発表があった。
記録を見ると、第5期予備学生全体としての配属は、次のようになっている。
特殊潜航艇 18.1 %
マル4(震洋) 12.9 マル4とは爆装したモーターボート
魚雷艇 6.1 この組は後に特潜かマル4に回された
--------------------------------
小計 37.1 ここまでが、水中、水上特攻
対空 22.4
電測 9.2
通信 9.0
陸戦 6.4
気象 5.3
特信(暗号) 5.2
化兵 3.3
要務 2.1
--------------------------------
合計 100.0 %
マル4というのは、○のなかに四を書いて、マルヨンといっていたが、開発中の秘密兵器を海軍部内ではこう呼んでいた。他にマル6という人間魚雷があることも聞いていたが、募集はなかった。ただし、マル4か魚雷艇に配属になった者が、後にマル6に転属になった者はいる。
私は体力に自信がなかったから、陸戦はノーサンキュー。特殊潜航艇の操縦装置に、飛行機の操縦装置を転用していると聞いて、飛行予備学生を振られた恨みをここで晴らそうと、特殊潜航艇を志望した。
戦後になって、教官に聞いた話しでは、特攻にはなるべく一人息子を避ける配慮をしたとのことであったが、私は姉、妹に挟まれた男一人の家庭であった。
海軍術科学校にはつぎのものがあった。
1-1 横須賀海軍砲術学校
1-2 館山海軍砲術学校(陸戦)
2-1 海軍水雷学校
2-2 海軍機雷学校(昭和16年3月、久里浜。19年3月より海軍対潜学校)
2-3 臨時魚雷艇訓練所(「震洋」の訓練)
3 海軍潜水学校
4-1 横須賀海軍機関学校
4-2 大楠海軍機関学校
5-1 横須賀海軍通信学校
5-2 防府海軍通信学校
6 海軍航海学校
7-1 横須賀海軍工作学校
7-2 沼津海軍工作学校
8 海軍電測学校
9 海軍気象学校
注 船舶を岸壁に繋ぐロープを言うが 此処では短艇を引き揚げる作業を含む
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(13) 殴られた話――――――――――――――――――――
戦後は、軍隊というと殴られた話しが多く、それが軍隊というものを「非人権的」なものとする口実にされている向きもあるが、私は予備学生の基礎教育5カ月間に、殴られたことは一度もない。
将校教育であったからというのも理由の一つに挙げられるであろうし、古年兵というか、同居している先輩がいなかった事も、その理由に上げられると思う。
大学在学中に海軍に1年いたのだが、海軍ゼミにいたようなもので、良い勉強をさせて貰ったと感謝している。(海軍の良いところだけを学んできたのかも知れないが)
だから戦後の海軍映画で、殴る教官、威張る司令を強調している場面を見ると、軍隊を悪く書かないと映画が売れない時代なのだなと思う。
戦後、占領軍最高司令官のマッカーサーが、「日本の軍隊の悪口を書け」と命令したものだから、マスコミも致し方ない。マスコミは戦争中は日本の軍隊に逆らえなかったし、戦後はマッカーサーに逆らえなかった。今は中国に逆らえないようだ。
(14) 予備学生の教育期間――――――――――――――――
予備学生の基礎教育期間は、記録を見ると、1期=6カ月、2期=6カ月、3期=4カ月、4期=5.5カ月、5期=5カ月で、3期だけが短いが、これは昭和18年12月10日に、学徒出陣による1万7千名もの大量の人員が、海軍に流れ込んだため、兵舎を空けるために繰り上げ卒業になったのではないかと推測する。
(15) 海軍予備学生の基礎教育終了に当たって―――――――
昭和20年2月20日頃、基礎教育終了の直前だった。海軍報道班の少尉だか中尉の人を中心に、各分隊から2名計12名が集められて、基礎教育を振り返っての座談会が開かれた。
その時、学校の後輩に宛てた手紙の形式で、海軍の感想を書いてくれと依頼された。どう使われるのか知らないが、私にすれば、基礎教育卒業生代表の「謝辞」の積もりで書いた。
1時間くらいで一気呵成に書き上げたが、以下がそれである。旧かな使いのまま掲載する。
-----------------------------------
「実践することとみつけたり」
林 君
月日の経つのは早いものだ。君とあの「日高見」の学び舎で別れの言葉を交した時には、積乱雲の上に燃ゆるやうな太陽が輝いてゐた。
「翼の林」は君の声に和して、微風と共に、濃緑の唇から、別れの言葉を囁いてくれた。あの時の俺は未だ制服を着けた大学生で、海軍については何も知らず、ただ報国の決意に燃えて海軍に身を投ぜんとする、謂はヾ戦闘力の可能的存在でしかなかった。
あの時から六ケ月。俺は、俺が立派な海軍指揮官としての実力を身につけた事を君に報せ得る事を心から誇に思っている。
入隊当時、よく軍人精神を涵養《かんよう=少しずつ養い育てる》すべし、と教へられた。然し、精神を心と同意義に解釈する我々学生にとって、軍人精神を涵養せよと言う課題は、精神修養といふ大きな、而も掴み難い課題と思へて悩んだ。
然しながら、諸種の訓練はいふ迄もなく、起床より就寝まで、否、就寝中と雖、教官の指導の侭に生活して、一月二月と経つうちに、次第に軍人精神の何たるかが、朧げながら分って来た。
「軍人精神とは実践することとみつけたり」これが俺の体得した解答だった。勿論、他にもいろいろとあるであらう。だが、俺が六ケ月の激しい訓練の中から自ら体得したものはこれである。
軍人精神とは、所謂、いふ所の精神ではない。軍人精神とは「実践」である。「行」である。具体的な「はたらき」こそ軍人精神である。実行する所に最大の価値がある。実力の無い者が大言壮語《大げさな事を偉そうに言う》する時、俺達はその者を評して「軍人精神が入って居らぬ」といふ。
然し実行を重んずるからと言って理論を軽視するのではない。君は海軍の「五分前の精神」といふ言葉を聞いた事があると思ふ。五分前には凡ゆる準備を完了し、時間になるや直ちに発動するのが五分前の精神である。
実行の完璧を期せんが為に周到なる準備を為し、計画を密にやる。これが五分前の精神である。
理論的頭脳の養成は海軍では頗る重要視せられる。実行を重んずるが故に、必然的に理論を尊重するのである。綿密なる計画と周到なる準備の上にこそ、完全なる実行を為し得るのである。
ここでは、理論と実行とは完全に一致している。知っている事は必ず行い、行ふ事は必ず知っている。これが軍人精神である。
俺がかう言っても、海軍の教育訓練を受けたことの無い君には、心からこの事を理解する事は困難であるかも知れない。体得せられたものは、体得に依ってのみ知り得る事であるから。
然し、君に分かって貰へなくても、俺としては君と別れてから六ケ月の間に得た貴重なものについて、君に語らないではゐられない。俺の感慨は、日本の全ての予備学生の気持ちに通ずるものだと思っている。俺は君を通じて、日本の総ての学生に予備学生の感慨を知らせたい。
武庫の峰々の淡雪も溶け、麗かな春の陽光が白亜の学舎に照り注いでゐる事と思ふ。「日高見」の丘を下った多くの学生は、皇国の安危を双肩に擔って、今第一線に敵と砲火を交へつゝある。俺も征く。君も続いて来い。
皇国三千年の歴史を綴る一文字一文字は我々の血潮を必要とし、われわれの若き魂を呼んでいるのだ。
-----------------------------------
(16) 「大洋」昭和20年4月号――――――――――――――――
予備学生の基礎教育を終了するに当たり、後輩に何か書けというので書いた前項の「実践することとみつけたり」は、1時間くらいで書き上げて提出し、それがどう使われたのかは全く知らなかった。
戦後17年を経た昭和37年、私はある会社のコンピュータ課長をしていた。ある日、部下の一人(私より5歳くらい若い)が突然、課長とは戦前に会ったことがあると言い出した。私の方に彼の記憶はない。
翌日彼は1冊の雑誌を手に、意気揚々と現れ、この雑誌に覚えがありませんかという。文芸春秋社発行「大洋」昭和20年4月号、海軍予備学生・生徒特集、定価五十五銭。もちろん覚えはない。
ここですよ。彼が開いたページには、「予備学生の手紙」として、12編の手紙が掲載されてあり、その冒頭に私の文が載っている。
彼は当時中学生であり、その雑誌のグラビアに載っている戦闘機の写真が目的で購入したのだが、私の文章に感激して予科練を志願しようとしたのだそうだ。もし彼が志願していたら罪作りな文章だ。
17年前に文章を書いた男と、それを読んだ男が、それとは知らずに同じ会社、同じ課に勤める。この人とは前に会ったことがある。あれだ、あの雑誌だ。彼とは海軍の話をしたことはないのに、突然17年前の雑誌と私を結びつけてくれるとは不思議なことだし、不思議な縁だと思う。
それほどにまで鮮烈な印象を彼に与えていたのかと、改めて自分の文章に対面する。高揚した昭和20年当時の気持ちが蘇ってくるし、そのような環境で必死に生きていた自分を、いとおしく思う。
第1部 第2章 第5期兵科予備学生 終り
戦後は、軍隊というと殴られた話しが多く、それが軍隊というものを「非人権的」なものとする口実にされている向きもあるが、私は予備学生の基礎教育5カ月間に、殴られたことは一度もない。
将校教育であったからというのも理由の一つに挙げられるであろうし、古年兵というか、同居している先輩がいなかった事も、その理由に上げられると思う。
大学在学中に海軍に1年いたのだが、海軍ゼミにいたようなもので、良い勉強をさせて貰ったと感謝している。(海軍の良いところだけを学んできたのかも知れないが)
だから戦後の海軍映画で、殴る教官、威張る司令を強調している場面を見ると、軍隊を悪く書かないと映画が売れない時代なのだなと思う。
戦後、占領軍最高司令官のマッカーサーが、「日本の軍隊の悪口を書け」と命令したものだから、マスコミも致し方ない。マスコミは戦争中は日本の軍隊に逆らえなかったし、戦後はマッカーサーに逆らえなかった。今は中国に逆らえないようだ。
(14) 予備学生の教育期間――――――――――――――――
予備学生の基礎教育期間は、記録を見ると、1期=6カ月、2期=6カ月、3期=4カ月、4期=5.5カ月、5期=5カ月で、3期だけが短いが、これは昭和18年12月10日に、学徒出陣による1万7千名もの大量の人員が、海軍に流れ込んだため、兵舎を空けるために繰り上げ卒業になったのではないかと推測する。
(15) 海軍予備学生の基礎教育終了に当たって―――――――
昭和20年2月20日頃、基礎教育終了の直前だった。海軍報道班の少尉だか中尉の人を中心に、各分隊から2名計12名が集められて、基礎教育を振り返っての座談会が開かれた。
その時、学校の後輩に宛てた手紙の形式で、海軍の感想を書いてくれと依頼された。どう使われるのか知らないが、私にすれば、基礎教育卒業生代表の「謝辞」の積もりで書いた。
1時間くらいで一気呵成に書き上げたが、以下がそれである。旧かな使いのまま掲載する。
-----------------------------------
「実践することとみつけたり」
林 君
月日の経つのは早いものだ。君とあの「日高見」の学び舎で別れの言葉を交した時には、積乱雲の上に燃ゆるやうな太陽が輝いてゐた。
「翼の林」は君の声に和して、微風と共に、濃緑の唇から、別れの言葉を囁いてくれた。あの時の俺は未だ制服を着けた大学生で、海軍については何も知らず、ただ報国の決意に燃えて海軍に身を投ぜんとする、謂はヾ戦闘力の可能的存在でしかなかった。
あの時から六ケ月。俺は、俺が立派な海軍指揮官としての実力を身につけた事を君に報せ得る事を心から誇に思っている。
入隊当時、よく軍人精神を涵養《かんよう=少しずつ養い育てる》すべし、と教へられた。然し、精神を心と同意義に解釈する我々学生にとって、軍人精神を涵養せよと言う課題は、精神修養といふ大きな、而も掴み難い課題と思へて悩んだ。
然しながら、諸種の訓練はいふ迄もなく、起床より就寝まで、否、就寝中と雖、教官の指導の侭に生活して、一月二月と経つうちに、次第に軍人精神の何たるかが、朧げながら分って来た。
「軍人精神とは実践することとみつけたり」これが俺の体得した解答だった。勿論、他にもいろいろとあるであらう。だが、俺が六ケ月の激しい訓練の中から自ら体得したものはこれである。
軍人精神とは、所謂、いふ所の精神ではない。軍人精神とは「実践」である。「行」である。具体的な「はたらき」こそ軍人精神である。実行する所に最大の価値がある。実力の無い者が大言壮語《大げさな事を偉そうに言う》する時、俺達はその者を評して「軍人精神が入って居らぬ」といふ。
然し実行を重んずるからと言って理論を軽視するのではない。君は海軍の「五分前の精神」といふ言葉を聞いた事があると思ふ。五分前には凡ゆる準備を完了し、時間になるや直ちに発動するのが五分前の精神である。
実行の完璧を期せんが為に周到なる準備を為し、計画を密にやる。これが五分前の精神である。
理論的頭脳の養成は海軍では頗る重要視せられる。実行を重んずるが故に、必然的に理論を尊重するのである。綿密なる計画と周到なる準備の上にこそ、完全なる実行を為し得るのである。
ここでは、理論と実行とは完全に一致している。知っている事は必ず行い、行ふ事は必ず知っている。これが軍人精神である。
俺がかう言っても、海軍の教育訓練を受けたことの無い君には、心からこの事を理解する事は困難であるかも知れない。体得せられたものは、体得に依ってのみ知り得る事であるから。
然し、君に分かって貰へなくても、俺としては君と別れてから六ケ月の間に得た貴重なものについて、君に語らないではゐられない。俺の感慨は、日本の全ての予備学生の気持ちに通ずるものだと思っている。俺は君を通じて、日本の総ての学生に予備学生の感慨を知らせたい。
武庫の峰々の淡雪も溶け、麗かな春の陽光が白亜の学舎に照り注いでゐる事と思ふ。「日高見」の丘を下った多くの学生は、皇国の安危を双肩に擔って、今第一線に敵と砲火を交へつゝある。俺も征く。君も続いて来い。
皇国三千年の歴史を綴る一文字一文字は我々の血潮を必要とし、われわれの若き魂を呼んでいるのだ。
-----------------------------------
(16) 「大洋」昭和20年4月号――――――――――――――――
予備学生の基礎教育を終了するに当たり、後輩に何か書けというので書いた前項の「実践することとみつけたり」は、1時間くらいで書き上げて提出し、それがどう使われたのかは全く知らなかった。
戦後17年を経た昭和37年、私はある会社のコンピュータ課長をしていた。ある日、部下の一人(私より5歳くらい若い)が突然、課長とは戦前に会ったことがあると言い出した。私の方に彼の記憶はない。
翌日彼は1冊の雑誌を手に、意気揚々と現れ、この雑誌に覚えがありませんかという。文芸春秋社発行「大洋」昭和20年4月号、海軍予備学生・生徒特集、定価五十五銭。もちろん覚えはない。
ここですよ。彼が開いたページには、「予備学生の手紙」として、12編の手紙が掲載されてあり、その冒頭に私の文が載っている。
彼は当時中学生であり、その雑誌のグラビアに載っている戦闘機の写真が目的で購入したのだが、私の文章に感激して予科練を志願しようとしたのだそうだ。もし彼が志願していたら罪作りな文章だ。
17年前に文章を書いた男と、それを読んだ男が、それとは知らずに同じ会社、同じ課に勤める。この人とは前に会ったことがある。あれだ、あの雑誌だ。彼とは海軍の話をしたことはないのに、突然17年前の雑誌と私を結びつけてくれるとは不思議なことだし、不思議な縁だと思う。
それほどにまで鮮烈な印象を彼に与えていたのかと、改めて自分の文章に対面する。高揚した昭和20年当時の気持ちが蘇ってくるし、そのような環境で必死に生きていた自分を、いとおしく思う。
第1部 第2章 第5期兵科予備学生 終り
編集者
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第3章 潜水学校
(1)勝つ方法は自分で考えろ
(2)予科練の歌う「若鷲の歌」
(3)防空壕での煙草
(4)柳井分校へ
(5)SS金物と対面
(6)あんなもので勝てるか
(7)操縦訓練
(8)達着訓練
(9)マストの先でも持って帰れ
(10)蛟龍組と海龍組に分かれる
(11)辞世
潜水学校(1)勝つ方法は自分で考えろ―――――――――――――――――
昭和20年2月末、武山での海軍予備学生の基礎教育を終わって、広島県大竹の海軍潜水学校に向かう。
ここで、旅順で基礎教育を受けた予備学生、予備生徒と合流し、総勢340名が潜水艦に関する教育を受けることになる。教官は大尉1名、中尉2名のたった3名である。
潜水学校入校時の写真より
第1列向かって左端が筆者
教育は朝から夜9時過ぎまで、ほとんど座学で、屋外に出ての体育関係は、ほんの息抜き程度にしかやらない。階段教室での授業は、巡検《就寝前の兵舎内外の点検》時間になっても、おかまいなしに続けられた。
最初の講義で、大尉の教官は、黒板に大きな日本地図を掲げる。関門海峡、豊後水道、紀伊水道など、日本の海の出口に赤い点がいっぱい打ってある。海峡を護る帝国海軍の艦艇が、その赤点で示してあるのかと安心する。
「この赤い点は、敵潜水艦の所在を示す点である」。エーっ。日本全体が敵の潜水艦で取り囲まれているじゃないの。
「これから教えることは、我々がこうして負けたということしか教えられない。どうやって勝つかは、諸君が自分達で考えた貰いたい」
冗談じゃないよ。基礎教育を終わったばかりの我々に、どうやって勝つかが分かる訳がないだろ。
武山での教育は勝つための精神教育であったが、大竹での教育は負けたことの認識(戦訓)教育であり、その落差の激しさに、驚いた初日であった。
潜水学校(2)予科練の歌う「若鷲の歌」――――――――――――――――
潜水学校での我々の宿舎は、大竹海兵団の隅ッこにあった。
朝礼の時、我々は宿舎の前の整列位置に、駆け足ではあるが、個々に集まっていると、運動場の彼方から、予科練(正確には甲種飛行予科練習生)が、それぞれ自分達の宿舎の前から、4列縦隊の隊伍を組んで、行進してくる。こちらは草色の第3種軍装であるが、彼等は真っ白な作業衣である。
「わーかーい ちーしおーの よーかーれーんーのーー
なーなーつ ボータンは さーくらーに いーかーりー」
歌声とともに整列位置まで行進して来る千人以上の真っ白な服の集団は壮観である。
海軍内部で、こういう娑婆《しゃば=自由を謳歌できる世界》の歌は歌っていなかったが、この「若鷲の歌」は予科練を主題にした歌で、当時大流行していたので、志気高揚のため特別に許可していたのだろう。
ああ、彼等も乗る飛行機が無く、特殊潜航艇に回されたのかと思った。
いま記録を見ると、彼等は第14期で、1年間の基礎教程の終了(3月末)間近の連中であったようだ。
潜水学校(3)防空壕での煙草―――――――――――――――――――――
大竹の潜水学校では、3人の教官から潜水艦の構造、魚雷、天文航法《天体の位置を測り機体の位置を測定》、地文航法《地形や地上物体を観測し機体の位置を測る》、水中聴音器などを、朝から晩まで座学の連続で教わった。
なにしろ半年前までは、経済学、経営学、民法、商法、植民政策などを習っていた文科系学生が、基礎知識無しで学ぶのだから、教えるほうも教わるほうも大変である。
昭和20年3月17日か18日、潜水学校に行ってから2週間そこそこの時であるが、敵艦載機による呉空襲があった。
防空壕《敵機の攻撃から身を護る壕》に逃げ込んで、外を覗いていたら、陸軍機がやられて、防空壕から数百メートルの所に墜落した。
防空壕に待避していたのは1時間くらいであったろうか、壕から出てきたら昼食の時間であった。ところが、教官が「防空壕の中で煙草を吸っていた学生がいる」と怒りだした。
教官が3人でこちらが340人だから、殴っては来なかったが、ご機嫌斜めであった。
「防空壕に待避している間といえども、本来は授業中であり、教官の管轄、統制下だ」と言いたいのであろう。こちらにすれば「対空戦闘の配備があるわけではなし、することがないのだから、煙草くらい吸って何が悪い」と、教官の怒りを無視して昼食を始めた。
あとで、教官から「貴様達は集団で抵抗しおる」と言われた。
(1)勝つ方法は自分で考えろ
(2)予科練の歌う「若鷲の歌」
(3)防空壕での煙草
(4)柳井分校へ
(5)SS金物と対面
(6)あんなもので勝てるか
(7)操縦訓練
(8)達着訓練
(9)マストの先でも持って帰れ
(10)蛟龍組と海龍組に分かれる
(11)辞世
潜水学校(1)勝つ方法は自分で考えろ―――――――――――――――――
昭和20年2月末、武山での海軍予備学生の基礎教育を終わって、広島県大竹の海軍潜水学校に向かう。
ここで、旅順で基礎教育を受けた予備学生、予備生徒と合流し、総勢340名が潜水艦に関する教育を受けることになる。教官は大尉1名、中尉2名のたった3名である。
潜水学校入校時の写真より
第1列向かって左端が筆者
教育は朝から夜9時過ぎまで、ほとんど座学で、屋外に出ての体育関係は、ほんの息抜き程度にしかやらない。階段教室での授業は、巡検《就寝前の兵舎内外の点検》時間になっても、おかまいなしに続けられた。
最初の講義で、大尉の教官は、黒板に大きな日本地図を掲げる。関門海峡、豊後水道、紀伊水道など、日本の海の出口に赤い点がいっぱい打ってある。海峡を護る帝国海軍の艦艇が、その赤点で示してあるのかと安心する。
「この赤い点は、敵潜水艦の所在を示す点である」。エーっ。日本全体が敵の潜水艦で取り囲まれているじゃないの。
「これから教えることは、我々がこうして負けたということしか教えられない。どうやって勝つかは、諸君が自分達で考えた貰いたい」
冗談じゃないよ。基礎教育を終わったばかりの我々に、どうやって勝つかが分かる訳がないだろ。
武山での教育は勝つための精神教育であったが、大竹での教育は負けたことの認識(戦訓)教育であり、その落差の激しさに、驚いた初日であった。
潜水学校(2)予科練の歌う「若鷲の歌」――――――――――――――――
潜水学校での我々の宿舎は、大竹海兵団の隅ッこにあった。
朝礼の時、我々は宿舎の前の整列位置に、駆け足ではあるが、個々に集まっていると、運動場の彼方から、予科練(正確には甲種飛行予科練習生)が、それぞれ自分達の宿舎の前から、4列縦隊の隊伍を組んで、行進してくる。こちらは草色の第3種軍装であるが、彼等は真っ白な作業衣である。
「わーかーい ちーしおーの よーかーれーんーのーー
なーなーつ ボータンは さーくらーに いーかーりー」
歌声とともに整列位置まで行進して来る千人以上の真っ白な服の集団は壮観である。
海軍内部で、こういう娑婆《しゃば=自由を謳歌できる世界》の歌は歌っていなかったが、この「若鷲の歌」は予科練を主題にした歌で、当時大流行していたので、志気高揚のため特別に許可していたのだろう。
ああ、彼等も乗る飛行機が無く、特殊潜航艇に回されたのかと思った。
いま記録を見ると、彼等は第14期で、1年間の基礎教程の終了(3月末)間近の連中であったようだ。
潜水学校(3)防空壕での煙草―――――――――――――――――――――
大竹の潜水学校では、3人の教官から潜水艦の構造、魚雷、天文航法《天体の位置を測り機体の位置を測定》、地文航法《地形や地上物体を観測し機体の位置を測る》、水中聴音器などを、朝から晩まで座学の連続で教わった。
なにしろ半年前までは、経済学、経営学、民法、商法、植民政策などを習っていた文科系学生が、基礎知識無しで学ぶのだから、教えるほうも教わるほうも大変である。
昭和20年3月17日か18日、潜水学校に行ってから2週間そこそこの時であるが、敵艦載機による呉空襲があった。
防空壕《敵機の攻撃から身を護る壕》に逃げ込んで、外を覗いていたら、陸軍機がやられて、防空壕から数百メートルの所に墜落した。
防空壕に待避していたのは1時間くらいであったろうか、壕から出てきたら昼食の時間であった。ところが、教官が「防空壕の中で煙草を吸っていた学生がいる」と怒りだした。
教官が3人でこちらが340人だから、殴っては来なかったが、ご機嫌斜めであった。
「防空壕に待避している間といえども、本来は授業中であり、教官の管轄、統制下だ」と言いたいのであろう。こちらにすれば「対空戦闘の配備があるわけではなし、することがないのだから、煙草くらい吸って何が悪い」と、教官の怒りを無視して昼食を始めた。
あとで、教官から「貴様達は集団で抵抗しおる」と言われた。
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潜水学校(4)柳井分校へ―――――――――――――――――――――――
昭和20年3月31日、徴用《国家が強制的に取り立て使用する》した客船「宇和島丸」に学生全員が乗り込んで、平生(ひらお)にある潜水学校の柳井分校に引っ越すことになる。ここは特殊潜航艇搭乗員の訓練用に開設された分校である。
船を動かすのは本来の乗組員がやるが、同乗の予備学生も航海実習として、適当な役目を割り当てられる。
私は陸上の目標3カ所の方位を測定して、艦橋の海図に現在位置を記入する仕事を受け持つ。予定航路が書き込んであり、現在位置を記入すると、海流で流されているのが分かる。
瀬戸内海を南下、大畠瀬戸を通過し、長島と祝島の間を北上して平生に着く。
入港直前、右手の岸壁でクレーン船が、長さ15メートル、直径1メートルくらいの細長い白塗りの鉄管の様なものを吊り上げているのが見え、何か工事用の材料を吊り上げているのかと思った。
誰かが回天《かいてん=人間が魚雷に乗り操縦して敵艦に体当たりする特攻兵器》だと言った。その時は何故回天をクレーンで吊るしているのか分からなかったが、後年、戦記ものを読んで、人間魚雷「回天」の基地が隣にあり、遭難事故を起した回天を引揚げていたのかと、厳粛な気持ちになった。
呂号潜水艦による体験航海があり、100人ずつ交代で乗艦させてもらう。こんなに余計な人員を載せて、沈みはしないかと心配になる。約1時間、本職の軍人のきびきびした命令や動作に感心する。
潜水学校(5)SS金物と対面―――――――――――――――――――――
昭和20年4月、潜水学校柳井分校で、「SS金物」と対面する。
特殊潜航艇には「甲標的」と「SS金物」の2系統があって、昭和16年12月8日、真珠湾を攻撃した5隻の特殊潜航艇は「甲標的」である。
「甲標的」は魚雷を大きくしたような構造で、中に搭乗員2名と、艇首に魚雷2本が収まるように作られている。航続力は1000浬と長いが、潜水、浮上、回転等の運動能力に欠ける。
「SS金物」の方は、水中翼を設け、爆撃機「銀河」《海軍の双発陸上爆撃機》の操縦装置を使い、水中戦闘機をアイデアとして作られたので、潜航秒時が「甲標的」の60秒に対し「SS金物」は8秒である、といったように運動能力に優れているが、航続力は400浬と短い。魚雷2本を装備しているところは同じであるが、艇が小さいので艇の外に魚雷を抱える構造になっていた。
柳井の「SS金物」は、外板を肋骨状に剥がして、中が見えるようにしてあった。後年、江田島の海軍兵学校跡を訪れたとき、海上自衛隊参考館の横に、「SS金物」が展示してあったが、これも外板が剥がしてあったから、多分柳井の教育用艇が持ってこられたのであろうと、懐かしかった。
潜水学校(6)あんなもので勝てるか――――――――――――――――――
柳井の潜水学校で対面したSS金物は、海岸の砂の上に、木の架台に載せられて横たわっていた。
教官は直径40センチのハッチ《蓋付きの昇降口》から艇の中に入り、教本片手に艇の前部へ這っていく。教官も初めてSS金物を見るらしく、我々学生への説明はほったらかしで、中の機械を点検していた。その日は何の説明もなかったが(教官自身が理解していない)、その後の講義は、もっぱらこの艇の前で行なわれた。
数日後、5隻の「甲標的」が、出撃途上で柳井に寄港し、その出港を我々学生全員が見送った。飛行服を着た搭乗員2人が艇の上に立っているが、足元から下の艇本体は水中なので見えない。見えるのは搭乗員と同じくらいの高さの司令塔だけで、水をほそぼそとかき分けて進んで行く様子は、勇壮でもなんでもない。
「あんなもので勝てるか」と、私の側で見送っていた教官がつぶやいた。
40人乗り、50人乗りの本物の潜水艦に乗っていた教官にすれば、5人乗りの甲標的なんて、オモチャであろう。
SS金物はさらに少ない2人乗りである。私達予備学生に与えられている使命は、この艇でアメリカと戦うことなのだ。教官の方は「あんなもので勝てるか」でも、こちらは「こんなものででも勝たなきゃいかん」のである。
潜水学校(7)操縦訓練――――――――――――――――――――――――
海岸の砂の上に置いてある教育用のSS金物に、学生が1人ずつ乗り込んで操縦訓練を行なう。艇が動かないのであるから、出航、潜水、浮上、帰航の場面を想定して、号令をかけ、所定の操作を行なう。
「航走準備」の号令をかける。号令はこの一言だが、することは一杯ある。
1 全般の監督。
2 吸・排気弁の作動を検査し、後閉鎖する。
3 特眼鏡(潜望鏡のこと)の昇降作動を検査する。
4 エンジンクラッチを切り、スクリュークラッチを入れ、冷却水弁を閉鎖する。
5 エンジン冷却水の満水を確認。
6 エンジン潤滑油量の確認。
7 .....
などなど13項目のチェックがある。
艇付はハッチ閉鎖の確認など、8項目の点検を終れば、「航走準備よし」と返事をする。
「後進用意」「後進最微速」で、艇は後方に動きだす。
私の番になる。ハッチから艇の中に潜り込み、「航走準備」と高らかに号令をかける。13項目のチェックだが、最初からスラスラ行く訳が無い。忘れていると教官から指摘が来る。
いよいよ出航。自動車のようにバックで車庫に入れてあったという前提で、「前進用意」「前進最微速」と号令したら、教官から「待て、どういう状態に艇は係留されていたのか」「ハイ、バックで入れてありました」「バカ、そんなことは無い」。
フーン、車と船とは違うんだ。
艇長席を右斜め後ろから見る
昭和20年3月31日、徴用《国家が強制的に取り立て使用する》した客船「宇和島丸」に学生全員が乗り込んで、平生(ひらお)にある潜水学校の柳井分校に引っ越すことになる。ここは特殊潜航艇搭乗員の訓練用に開設された分校である。
船を動かすのは本来の乗組員がやるが、同乗の予備学生も航海実習として、適当な役目を割り当てられる。
私は陸上の目標3カ所の方位を測定して、艦橋の海図に現在位置を記入する仕事を受け持つ。予定航路が書き込んであり、現在位置を記入すると、海流で流されているのが分かる。
瀬戸内海を南下、大畠瀬戸を通過し、長島と祝島の間を北上して平生に着く。
入港直前、右手の岸壁でクレーン船が、長さ15メートル、直径1メートルくらいの細長い白塗りの鉄管の様なものを吊り上げているのが見え、何か工事用の材料を吊り上げているのかと思った。
誰かが回天《かいてん=人間が魚雷に乗り操縦して敵艦に体当たりする特攻兵器》だと言った。その時は何故回天をクレーンで吊るしているのか分からなかったが、後年、戦記ものを読んで、人間魚雷「回天」の基地が隣にあり、遭難事故を起した回天を引揚げていたのかと、厳粛な気持ちになった。
呂号潜水艦による体験航海があり、100人ずつ交代で乗艦させてもらう。こんなに余計な人員を載せて、沈みはしないかと心配になる。約1時間、本職の軍人のきびきびした命令や動作に感心する。
潜水学校(5)SS金物と対面―――――――――――――――――――――
昭和20年4月、潜水学校柳井分校で、「SS金物」と対面する。
特殊潜航艇には「甲標的」と「SS金物」の2系統があって、昭和16年12月8日、真珠湾を攻撃した5隻の特殊潜航艇は「甲標的」である。
「甲標的」は魚雷を大きくしたような構造で、中に搭乗員2名と、艇首に魚雷2本が収まるように作られている。航続力は1000浬と長いが、潜水、浮上、回転等の運動能力に欠ける。
「SS金物」の方は、水中翼を設け、爆撃機「銀河」《海軍の双発陸上爆撃機》の操縦装置を使い、水中戦闘機をアイデアとして作られたので、潜航秒時が「甲標的」の60秒に対し「SS金物」は8秒である、といったように運動能力に優れているが、航続力は400浬と短い。魚雷2本を装備しているところは同じであるが、艇が小さいので艇の外に魚雷を抱える構造になっていた。
柳井の「SS金物」は、外板を肋骨状に剥がして、中が見えるようにしてあった。後年、江田島の海軍兵学校跡を訪れたとき、海上自衛隊参考館の横に、「SS金物」が展示してあったが、これも外板が剥がしてあったから、多分柳井の教育用艇が持ってこられたのであろうと、懐かしかった。
潜水学校(6)あんなもので勝てるか――――――――――――――――――
柳井の潜水学校で対面したSS金物は、海岸の砂の上に、木の架台に載せられて横たわっていた。
教官は直径40センチのハッチ《蓋付きの昇降口》から艇の中に入り、教本片手に艇の前部へ這っていく。教官も初めてSS金物を見るらしく、我々学生への説明はほったらかしで、中の機械を点検していた。その日は何の説明もなかったが(教官自身が理解していない)、その後の講義は、もっぱらこの艇の前で行なわれた。
数日後、5隻の「甲標的」が、出撃途上で柳井に寄港し、その出港を我々学生全員が見送った。飛行服を着た搭乗員2人が艇の上に立っているが、足元から下の艇本体は水中なので見えない。見えるのは搭乗員と同じくらいの高さの司令塔だけで、水をほそぼそとかき分けて進んで行く様子は、勇壮でもなんでもない。
「あんなもので勝てるか」と、私の側で見送っていた教官がつぶやいた。
40人乗り、50人乗りの本物の潜水艦に乗っていた教官にすれば、5人乗りの甲標的なんて、オモチャであろう。
SS金物はさらに少ない2人乗りである。私達予備学生に与えられている使命は、この艇でアメリカと戦うことなのだ。教官の方は「あんなもので勝てるか」でも、こちらは「こんなものででも勝たなきゃいかん」のである。
潜水学校(7)操縦訓練――――――――――――――――――――――――
海岸の砂の上に置いてある教育用のSS金物に、学生が1人ずつ乗り込んで操縦訓練を行なう。艇が動かないのであるから、出航、潜水、浮上、帰航の場面を想定して、号令をかけ、所定の操作を行なう。
「航走準備」の号令をかける。号令はこの一言だが、することは一杯ある。
1 全般の監督。
2 吸・排気弁の作動を検査し、後閉鎖する。
3 特眼鏡(潜望鏡のこと)の昇降作動を検査する。
4 エンジンクラッチを切り、スクリュークラッチを入れ、冷却水弁を閉鎖する。
5 エンジン冷却水の満水を確認。
6 エンジン潤滑油量の確認。
7 .....
などなど13項目のチェックがある。
艇付はハッチ閉鎖の確認など、8項目の点検を終れば、「航走準備よし」と返事をする。
「後進用意」「後進最微速」で、艇は後方に動きだす。
私の番になる。ハッチから艇の中に潜り込み、「航走準備」と高らかに号令をかける。13項目のチェックだが、最初からスラスラ行く訳が無い。忘れていると教官から指摘が来る。
いよいよ出航。自動車のようにバックで車庫に入れてあったという前提で、「前進用意」「前進最微速」と号令したら、教官から「待て、どういう状態に艇は係留されていたのか」「ハイ、バックで入れてありました」「バカ、そんなことは無い」。
フーン、車と船とは違うんだ。
艇長席を右斜め後ろから見る
編集者
居住地: メロウ倶楽部
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潜水学校(8)達着訓練――――――――――――――――――――――――
号令ばかりの畳の上の水練では船は動かせない。ダイハツ(上陸用舟艇)を使って、船を港へ着ける訓練をする。
船首を右へ回す号令は「おもーかーじ」、左へ回頭するのは「とーりかーじ」、舵を戻すのは「もどーせー」。前進は「ぜんしんびそーく」、後進は「こうしんびそーく」。止まれは「エンジンてーし」。
達着訓練の図
海上へ出てから、何故か私が一番先にやらされた。
「とーりかーじ」で船首を岸壁方向に向け、「もどーせー」。
船首が岸壁にぶつかる前に、「おもーかーじ」で船を岸壁と平行にし、「もどーせー」。
「エンジンてーし」。これで船が止まると思ったら、エッ船が止まらない。ブレーキは何処だと、もたもたしていると、船は正面岸壁にぶつかりそうになる。
見かねた教官が「こーしんびそーく」と号令する。そうだ後進をかければ、よかったのだ。それも、後進をかけるだけではなく、「とりかじいっぱーい」で船尾が岸壁に近づくようにする。船の「行き足」(惰性)が止まったところで「エンジンてーし」「もどーせー」で、無事着岸。
船が岸壁から1~2メートルも離れたところで岸壁と平行になってしまうと、幅寄せは自動車よりはるかに難しい。
他の学生がもたもたしているのを眺めながら、船の動きを体に覚えさせていく。達着ができなければ、何事も始まらない。
少し潮風に吹かれて海軍らしさを取り戻した。
潜水学校(9)マストの先でも持って帰れ―――――――――――――――
ある日、教官が面白いことを言った。
「諸君が武運拙くして、敵に沈められた時、マストの先っぽでもいいから、艇のかけらを持って帰れ」
記念にでもしろというのか。
「それを工廠へ持っていって、修理!と言え」
マンガじゃあるまいし、マストの先を持って帰れば、残りの船体からエンジンからを全部、再現して呉れるというのか。
海軍の歴史にこういう極端な事例は無いと思うが、元の船の何処かが残っていれば、修理の扱いになるというのも一理あると感心した。
マストの先しか残らないほどにやられて、自分の体が無事であることを期待するほうが難しいのだが。
潜水学校(10)蛟龍組と海龍組に分かれる――――――――――――――
特殊潜航艇には「甲標的」と「SS金物」の2系統があった。
「甲標的」は、太平洋戦争開始の昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に、既に5隻が参加しており、その後も太平洋戦争中いくつかの敵軍港への攻撃が行なわれ、遠く北方キスカ島に基地が設けられもしていた。
当初2人乗りであった「甲標的」は、改良されて5人乗りにまで大きくなっていたが、魚雷を大きくして人が乗るという構想から出発しているので、艇の操縦に魚雷の機構をそのまま引き継いだ所があり、潜航するのに「深度調節器」のハンドルを手で回して、深度を5メートルなり10メートルに設定すると、後は艇の深度調節機構によって、自動的に設定深度を保つという機構になっていた。
これに対して「SS金物」の方は、実戦に参加した経歴はないが、浮力をプラマイゼロにしておき、潜航するには操縦桿を前に倒せば、瞬時に潜没するという、いわば水中戦闘機の構想で作られていた。
昭和20年4月終りに、「甲標的」に行くのか、「SS金物」に行くのかを選ぶことになった。また、この頃「甲標的」、「SS金物」という開発名から、「蛟龍」、「海龍」という愛称に変更された。
「蛟龍」の訓練は、呉の倉橋島の大浦で行い、「海龍」は神奈川県の横須賀で行なうという事であったので、関東以北の出身者は「海龍」を選んだ様である。6対4の比率でで「蛟龍」の方が多かった。
私は家が神戸であったから、どちらでもよかったが、学生時代、学生航空隊で飛行機に乗っていたので、「海龍」の操縦装置に爆撃機「銀河」の操縦装置を流用しているというキャッチフレーズに惹かれて「海龍」にした。
潜水学校(11)辞世《じせい=この世にいとまごいする》―――――――――――――――――――――――
昭和20年4月30日、海龍組は柳井の潜水学校を後にして、横須賀へ向かうのであるが、その準備に追われている忙しいときに、どこからともなく、「辞世の歌」を作ろうという声が聞こえてきた。
「歌なんて作ったこと無いよ、誰か作れよ、真似するから」
「辞世だなんて、よせやい、まだ当分死なないよ」
「この忙しいときに、歌なんか作っていられるか」
ワイワイガヤガヤで、辞世の歌をしんみり考えている風情なんぞ全くない。
ガリ版刷りでB6版の大きさの「出陣賦」なるものが、出発の直前に配られてきたが、読みもしないで、荷物の中にしまいこんでしまった。
戦後数十年も経ってから、海軍の思い出を書こうという話しが起きて、「出陣賦」を取出した。
歌なぞ作ったことの無い連中なのに、結構、歌らしいものが揃っているのである。
戦後、「戦没学生の手記」なるものが出版されて、難しい事を考えながら死んでいったのがいると感心したのだが、我々の「出陣賦」も、なかなかどうして立派なものである。
日の本の 散りて甲斐ある 若桜 散るべきときに 潔く散りなむ
身はたとへ 水漬く屍と 果つるとも 永遠に守らむ 大和島根を
千よろずに わが日の本は 栄えなば 嵐に花の 散るも嬉しき
大君の 御楯となりて 吾行かむ 南の海に 敵を求めて
身はたとひ 怒涛の中に 果つるとも 海を静めん 大和男児は
出陣賦表紙
第3章 潜水学校 終り
号令ばかりの畳の上の水練では船は動かせない。ダイハツ(上陸用舟艇)を使って、船を港へ着ける訓練をする。
船首を右へ回す号令は「おもーかーじ」、左へ回頭するのは「とーりかーじ」、舵を戻すのは「もどーせー」。前進は「ぜんしんびそーく」、後進は「こうしんびそーく」。止まれは「エンジンてーし」。
達着訓練の図
海上へ出てから、何故か私が一番先にやらされた。
「とーりかーじ」で船首を岸壁方向に向け、「もどーせー」。
船首が岸壁にぶつかる前に、「おもーかーじ」で船を岸壁と平行にし、「もどーせー」。
「エンジンてーし」。これで船が止まると思ったら、エッ船が止まらない。ブレーキは何処だと、もたもたしていると、船は正面岸壁にぶつかりそうになる。
見かねた教官が「こーしんびそーく」と号令する。そうだ後進をかければ、よかったのだ。それも、後進をかけるだけではなく、「とりかじいっぱーい」で船尾が岸壁に近づくようにする。船の「行き足」(惰性)が止まったところで「エンジンてーし」「もどーせー」で、無事着岸。
船が岸壁から1~2メートルも離れたところで岸壁と平行になってしまうと、幅寄せは自動車よりはるかに難しい。
他の学生がもたもたしているのを眺めながら、船の動きを体に覚えさせていく。達着ができなければ、何事も始まらない。
少し潮風に吹かれて海軍らしさを取り戻した。
潜水学校(9)マストの先でも持って帰れ―――――――――――――――
ある日、教官が面白いことを言った。
「諸君が武運拙くして、敵に沈められた時、マストの先っぽでもいいから、艇のかけらを持って帰れ」
記念にでもしろというのか。
「それを工廠へ持っていって、修理!と言え」
マンガじゃあるまいし、マストの先を持って帰れば、残りの船体からエンジンからを全部、再現して呉れるというのか。
海軍の歴史にこういう極端な事例は無いと思うが、元の船の何処かが残っていれば、修理の扱いになるというのも一理あると感心した。
マストの先しか残らないほどにやられて、自分の体が無事であることを期待するほうが難しいのだが。
潜水学校(10)蛟龍組と海龍組に分かれる――――――――――――――
特殊潜航艇には「甲標的」と「SS金物」の2系統があった。
「甲標的」は、太平洋戦争開始の昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に、既に5隻が参加しており、その後も太平洋戦争中いくつかの敵軍港への攻撃が行なわれ、遠く北方キスカ島に基地が設けられもしていた。
当初2人乗りであった「甲標的」は、改良されて5人乗りにまで大きくなっていたが、魚雷を大きくして人が乗るという構想から出発しているので、艇の操縦に魚雷の機構をそのまま引き継いだ所があり、潜航するのに「深度調節器」のハンドルを手で回して、深度を5メートルなり10メートルに設定すると、後は艇の深度調節機構によって、自動的に設定深度を保つという機構になっていた。
これに対して「SS金物」の方は、実戦に参加した経歴はないが、浮力をプラマイゼロにしておき、潜航するには操縦桿を前に倒せば、瞬時に潜没するという、いわば水中戦闘機の構想で作られていた。
昭和20年4月終りに、「甲標的」に行くのか、「SS金物」に行くのかを選ぶことになった。また、この頃「甲標的」、「SS金物」という開発名から、「蛟龍」、「海龍」という愛称に変更された。
「蛟龍」の訓練は、呉の倉橋島の大浦で行い、「海龍」は神奈川県の横須賀で行なうという事であったので、関東以北の出身者は「海龍」を選んだ様である。6対4の比率でで「蛟龍」の方が多かった。
私は家が神戸であったから、どちらでもよかったが、学生時代、学生航空隊で飛行機に乗っていたので、「海龍」の操縦装置に爆撃機「銀河」の操縦装置を流用しているというキャッチフレーズに惹かれて「海龍」にした。
潜水学校(11)辞世《じせい=この世にいとまごいする》―――――――――――――――――――――――
昭和20年4月30日、海龍組は柳井の潜水学校を後にして、横須賀へ向かうのであるが、その準備に追われている忙しいときに、どこからともなく、「辞世の歌」を作ろうという声が聞こえてきた。
「歌なんて作ったこと無いよ、誰か作れよ、真似するから」
「辞世だなんて、よせやい、まだ当分死なないよ」
「この忙しいときに、歌なんか作っていられるか」
ワイワイガヤガヤで、辞世の歌をしんみり考えている風情なんぞ全くない。
ガリ版刷りでB6版の大きさの「出陣賦」なるものが、出発の直前に配られてきたが、読みもしないで、荷物の中にしまいこんでしまった。
戦後数十年も経ってから、海軍の思い出を書こうという話しが起きて、「出陣賦」を取出した。
歌なぞ作ったことの無い連中なのに、結構、歌らしいものが揃っているのである。
戦後、「戦没学生の手記」なるものが出版されて、難しい事を考えながら死んでいったのがいると感心したのだが、我々の「出陣賦」も、なかなかどうして立派なものである。
日の本の 散りて甲斐ある 若桜 散るべきときに 潔く散りなむ
身はたとへ 水漬く屍と 果つるとも 永遠に守らむ 大和島根を
千よろずに わが日の本は 栄えなば 嵐に花の 散るも嬉しき
大君の 御楯となりて 吾行かむ 南の海に 敵を求めて
身はたとひ 怒涛の中に 果つるとも 海を静めん 大和男児は
出陣賦表紙
第3章 潜水学校 終り
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第4章 横須賀嵐部隊
(1)道場での寝泊まり
(2)海軍兵学校74期
(3)穴から覗いて達着訓練
(4)6号ドックで海龍を造る
(5)海龍と魚雷発射
(6)艇付きとの「結婚」
(7)碇泊艇での訓練
(8)昭和20年6月1日少尉任官
(9)水上航走
(10)甲飛の殉職
(11)父からの手紙
(12)海軍の長髪
(13)潜航訓練と事故
(14)事故と搭乗停止
(15)頭部に爆薬を装備
(16)ぶつかれー
(17)これが連合艦隊なんだよ
(18)4期予備学生の沈没殉職
(19)外出禁止と記念艦「三笠」
(20)艇の沈降試験
(21)艦載機の襲撃と戦友の死
(22)横須賀に爆弾は落ちない
(23)夜光虫を敵艦隊と見誤る
(24)女を知らないで
(25)出撃計画
(26)熱線爆弾、ソ連参戦、日本降伏の放送
(27)大御心のままに
(28)早く帰れ
(1)道場での寝泊まり――――――――――――――――――
昭和20年5月1日、柳井の潜水学校を出発して広島で一泊の後、焼け野が原になった神戸、大阪に驚きながら東上、5期予備学生の海龍組120名が、横須賀の嵐部隊に到着する。
いよいよ実施部隊である。これまでの武山での基礎教育、大竹、柳井での潜水学校は、教育過程であったが、これからは本物の軍隊である。
門を入って行った我々の前に、軍帽の下に髪をぼうぼうに伸ばした搭乗服姿の男が現れて、「きさまらわー」と大声で気合を入れに来る。本物の部隊ともなると、あんなのが居るのだと感心する。
この男、海軍兵学校73期で、海兵仲間でも、はみ出しであったらしい。というのは、この男のほかには、服装の乱れた者はいなかったし、奇声を上げる者もいなかった。
周囲の建物は、横須賀航海学校の跡ということであったが、我々は柔剣道場に荷物を解いた。ここで寝泊まりするとのこと。えーっ。海軍というのは、何事も「5分前の精神」だから、もうちょっと我々を迎え入れる準備が出来ていてもいいのじゃないかと驚く。
柔道場の畳の上で寝て、剣道場の木の床の上で、食事と講義である。10日間ほど仮住まいの後で、学校の教室にベッドを置いて寝ることになった。
戦後、海龍の歴史を調べてみると、海龍760隻の量産と、乗員2000名、整備員3000名の養成が決まったのが、20年の4月、つまり我々が横須賀に来る直前であったのである。
いかに海軍とはいえ、こう突然では受け入れ態勢が出来ていなかったのも止むを得まい。
(2)海軍兵学校74期――――――――――――――――――
横須賀嵐部隊に到着後しばらくは、剣道場を教室として、学科の講義が行なわれた。この講義には海兵74期から海龍に来た約60名も同席した。
彼等は昭和17年12月兵学校入校、昭和20年3月卒業で、小中学校の学年でいうと、我々5期の予備学生より1年下級生であった。戦艦、巡洋艦に乗ることを夢見て海兵に入ったであろうに、豆潜水艇に回されて気の毒にと思った。
講義は電池、モーター、電気回路、通信機、転輪羅針儀など、技術的なものばかりで、文科系の我々にはむつかしい。大体そういうものが分からないから文科へ行ったのだから。
講義が終わった後、少しはそういうものが分かっている学生が、分からない学生に、補習授業を始めた。そうすると、海兵グループの中から、「なんだ、学生のくせに教官の真似なんかしおって」という声が聞こえてきた。
これを聞いて、「ハハーン、海兵では、教わるのは常に教官からであって、相互に研究しあうことをしないのだな、ゼミなんて無いのだな」と思った。
我々5期予備学生と彼ら海兵74期は、ほとんど同じ頃に少尉に任官する予定の、いわば同期の関係にあるのだが、交流は無かった。むしろ、お互いに「あいつら」という反目の感情が流れていたと思う。