特殊潜航艇「海龍」・第二章 その1
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特殊潜航艇「海龍」・はじめに (編集者, 2007/4/6 9:38)
- 特殊潜航艇「海龍」・第二章 その1 (編集者, 2007/4/7 7:34)
- 特殊潜航艇「海龍」・第二章 その2 (編集者, 2007/4/8 7:34)
- 特殊潜航艇「海龍」・第二章 その3 (編集者, 2007/4/9 7:52)
- 特殊潜航艇「海龍」・第二章 その4 (編集者, 2007/4/10 8:04)
- 特殊潜航艇「海龍」・第二章 その5 (編集者, 2007/4/11 8:17)
- 特殊潜航艇「海龍」・第三章 その1 (編集者, 2007/4/12 7:37)
- 特殊潜航艇「海龍」・第三章 その2 (編集者, 2007/4/13 8:31)
- 特殊潜航艇「海龍」・第三章 その3 (編集者, 2007/4/14 7:10)
- 特殊潜航艇「海龍」・第四章 その1 (編集者, 2007/4/15 7:52)
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特殊潜航艇「海龍」・第四章 その2 (編集者, 2007/4/16 7:10)
- 特殊潜航艇「海龍」・第四章 その3 (編集者, 2007/4/17 10:11)
- 特殊潜航艇「海龍」・第四章 その4 (編集者, 2007/4/18 8:54)
- 特殊潜航艇「海龍」・第四章 その5 (編集者, 2007/4/19 7:45)
- 特殊潜航艇「海龍」・第四章 その6 (編集者, 2007/4/20 8:05)
編集者
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投稿数: 4298
第2章 第5期兵科予備学生
目次
(1) 始めに
(2) ハンモック
(3) 大事な戦力を訓練で死なせはせぬ
(4) ホルゲン
(5) ベートーベンと寄席芸人
(6) 大学教育と海軍教育
(7) 技術で勝つより精神で勝て?
(8) 一番奇麗なところを見てもらう
(9) 整列は後列
(10) ワカッタモノハ ソトヘ デテヨロシイ
(11) あの飛行機、撃て
(12) 術科学校へ
(13) 殴られた話
(14) 予備学生の教育期間
(15) 海軍予備学生の基礎教育終了に当たって
(16) 「大洋」昭和20年4月号
目次終り
(1) 始めに―――――――――――――――――――――――
私は大正13年(1924年)の生まれで、昭和19年(1944年)秋、大学2年で海軍予備学生を志願した。翌昭和20年6月、少尉任官、敗戦の8月15日を私は横須賀の嵐部隊で、特殊潜航艇の訓練中に迎えた。
あの戦争が無ければ辿ったであろう自分の人生と、実際に辿った人生とは大きくかけ離れた。それで、「もし自分が近衛文麿《このえふみまろ=注1》だったら、もし東条英機《注2》だったら、あの戦争を阻止し得たか」と、何度も歴史を遡ってみた。
NIFTYに「戦前フォーラムFSENZEN」というのがあり、会員の集まりで若い人が「マンガやプラモデルから戦争に関心を持った」と言うのを聞くと、苦笑するというか、気持ち悪いというか、違和感を覚える。
戦前は、どういうものを食べていたか、とか、軍人の服装はどうであったか、とか、戦前に絡んだ小説やマンガを書く人には、こういった小道具の考証は必要であろう。だが、私にとって、戦前とは「戦争に至る道」であり、どうすれば戦争が避けられたかが、戦前を振り返る私の視点である。
何故、日本は戦争への道を歩んで行ったのか、他の選択肢はなかったのか。もしまた、日本が同じ様な場面に遭遇したときに、次の世代は、戦争ではなく、他の道を選んでくれるだろうか。
こういう願いを込めて海軍の思い出を記録している。
昭和19年(1944年)8月海軍入隊を前に
生きて還らぬかも知れぬ息子を
送る親の気持ちはどうであったか
(2) ハンモック《海軍用語=吊床》―――――――――――――――――――――
入隊すると真っ先に習うのが、ハンモックの吊り方、格納の仕方である。これが出来ないと、その晩から寝られない。
200人が一緒に生活する居住区(大部屋)の、高さ2メートル位の所に、梁が通っており、そこに頑丈な鉄のフックが取り付けてある。これにハンモックの頭についている環を、引っ掛けるのだが、背の低い者には難しい。
起床では、ハンモックから飛び降り、足の方のロープをゆるめ、ハンモック全体を脇の下に来るくらいに下ろす。就寝中は枕代わりに頭の下に敷いていたロープで、まず軽くハンモックを縛っていく。
次に全身の体重をかけてロープを強く引き、ハンモックを縛り上げる。この時、手の力だけでロープを引っ張ったのでは、ハンモックがふにゃふにゃになり、棚の上に上げようとしても、バラバラに解けてしまう。
身長150センチくらいの小さい学生がいたが、入隊初日、ハンモックと悪戦苦闘して、他の者が全員終わっているのに、まだ半分も出来ていない有り様であった。
平らなメガネをかけ、声も小さく、学究タイプで、アインシュタイン博士《ドイツの理論物理学者》を思わせる風貌。ハンモックで苦労さすよりも、研究室に残しておいたほうが、よっぽど日本の為になるという感じの男で、後年、高層気象に関して博士になった男だった。
教官から「なにを、もたもたしとるか」と叱られて、「ハイ、目下研究中であります」と答えて、居合わせた全員の笑いを誘った。
彼の研究とは、背の低さを補うために、机を踏み台に使うことだった。
巡検《じゅんけん=注3》後の居住区内で、ハンモックの下で雑談するとか、雑誌を読むことはなかった。見つからないようにハンモックの上で、岩波文庫くらい読んでいた男が居たかもしれないが、ほとんどの学生は昼間の疲れで、眠りたいの一心であった。
(3) 大事な戦力を訓練で死なせはせぬ―――――――――――――
昭和19年10月に海軍予備学生として武山に入隊して、1カ月くらい経った頃、武装駆け足の競技が12月始めに行われるとの予告があった。武山から葉山の長者ケ崎まで、約8キロの道を武装(小銃を担いで)して走るのだそうだ。区隊《くたい=軍隊編成の単位》ごと(約50名)の団体競技で、1名の脱落者も許さぬという。
鉄砲担いで歩くのが嫌で、海軍に来たのになんたること、と嘆いても遅い。早速、その夜から、区隊長を先頭に練習が始まった。毎夜、少しずつ距離を延ばし、速度を速めていく。
そうでなくても腹が減っているのに、こんな事をされたら死んでしまう、という声が仲間うちで囁かれた。
どこからその声が上に届いたのか知らないが、朝礼(1200名全員が集まる)で、学生隊長(少佐)が壇上から「諸君の中には、駆け足の訓練で死んでしまう、と言っている者がいるようだが、諸君は大事な戦力である。大事な戦力を訓練で死なすような事はせぬ」と述べた。
「そうか、ここにいる間は死なないんだ」という、なんか、家畜として飼育されているような、妙な安心感を覚えた。
戦後の人からすれば、軍隊で駆け足に不平など言えば、引っ張り出されて殴られる場面にならないと納得しないかもしれないが、事実は以上のとおりである。
駆足競技終了後の記念写真より
最前列向かって右端が筆者
注1 1937年から 三次の総理大臣を務めた
注2 陸軍大将で 1940年に陸軍大臣に 1941年には総理大臣を務めた
注3 兵舎内外その他の点検を 毎日就寝前行なわれ 点検後は「巡検おわり 煙草盆出せ」の号令で 就寝まで暫し自由時間があった
目次
(1) 始めに
(2) ハンモック
(3) 大事な戦力を訓練で死なせはせぬ
(4) ホルゲン
(5) ベートーベンと寄席芸人
(6) 大学教育と海軍教育
(7) 技術で勝つより精神で勝て?
(8) 一番奇麗なところを見てもらう
(9) 整列は後列
(10) ワカッタモノハ ソトヘ デテヨロシイ
(11) あの飛行機、撃て
(12) 術科学校へ
(13) 殴られた話
(14) 予備学生の教育期間
(15) 海軍予備学生の基礎教育終了に当たって
(16) 「大洋」昭和20年4月号
目次終り
(1) 始めに―――――――――――――――――――――――
私は大正13年(1924年)の生まれで、昭和19年(1944年)秋、大学2年で海軍予備学生を志願した。翌昭和20年6月、少尉任官、敗戦の8月15日を私は横須賀の嵐部隊で、特殊潜航艇の訓練中に迎えた。
あの戦争が無ければ辿ったであろう自分の人生と、実際に辿った人生とは大きくかけ離れた。それで、「もし自分が近衛文麿《このえふみまろ=注1》だったら、もし東条英機《注2》だったら、あの戦争を阻止し得たか」と、何度も歴史を遡ってみた。
NIFTYに「戦前フォーラムFSENZEN」というのがあり、会員の集まりで若い人が「マンガやプラモデルから戦争に関心を持った」と言うのを聞くと、苦笑するというか、気持ち悪いというか、違和感を覚える。
戦前は、どういうものを食べていたか、とか、軍人の服装はどうであったか、とか、戦前に絡んだ小説やマンガを書く人には、こういった小道具の考証は必要であろう。だが、私にとって、戦前とは「戦争に至る道」であり、どうすれば戦争が避けられたかが、戦前を振り返る私の視点である。
何故、日本は戦争への道を歩んで行ったのか、他の選択肢はなかったのか。もしまた、日本が同じ様な場面に遭遇したときに、次の世代は、戦争ではなく、他の道を選んでくれるだろうか。
こういう願いを込めて海軍の思い出を記録している。
昭和19年(1944年)8月海軍入隊を前に
生きて還らぬかも知れぬ息子を
送る親の気持ちはどうであったか
(2) ハンモック《海軍用語=吊床》―――――――――――――――――――――
入隊すると真っ先に習うのが、ハンモックの吊り方、格納の仕方である。これが出来ないと、その晩から寝られない。
200人が一緒に生活する居住区(大部屋)の、高さ2メートル位の所に、梁が通っており、そこに頑丈な鉄のフックが取り付けてある。これにハンモックの頭についている環を、引っ掛けるのだが、背の低い者には難しい。
起床では、ハンモックから飛び降り、足の方のロープをゆるめ、ハンモック全体を脇の下に来るくらいに下ろす。就寝中は枕代わりに頭の下に敷いていたロープで、まず軽くハンモックを縛っていく。
次に全身の体重をかけてロープを強く引き、ハンモックを縛り上げる。この時、手の力だけでロープを引っ張ったのでは、ハンモックがふにゃふにゃになり、棚の上に上げようとしても、バラバラに解けてしまう。
身長150センチくらいの小さい学生がいたが、入隊初日、ハンモックと悪戦苦闘して、他の者が全員終わっているのに、まだ半分も出来ていない有り様であった。
平らなメガネをかけ、声も小さく、学究タイプで、アインシュタイン博士《ドイツの理論物理学者》を思わせる風貌。ハンモックで苦労さすよりも、研究室に残しておいたほうが、よっぽど日本の為になるという感じの男で、後年、高層気象に関して博士になった男だった。
教官から「なにを、もたもたしとるか」と叱られて、「ハイ、目下研究中であります」と答えて、居合わせた全員の笑いを誘った。
彼の研究とは、背の低さを補うために、机を踏み台に使うことだった。
巡検《じゅんけん=注3》後の居住区内で、ハンモックの下で雑談するとか、雑誌を読むことはなかった。見つからないようにハンモックの上で、岩波文庫くらい読んでいた男が居たかもしれないが、ほとんどの学生は昼間の疲れで、眠りたいの一心であった。
(3) 大事な戦力を訓練で死なせはせぬ―――――――――――――
昭和19年10月に海軍予備学生として武山に入隊して、1カ月くらい経った頃、武装駆け足の競技が12月始めに行われるとの予告があった。武山から葉山の長者ケ崎まで、約8キロの道を武装(小銃を担いで)して走るのだそうだ。区隊《くたい=軍隊編成の単位》ごと(約50名)の団体競技で、1名の脱落者も許さぬという。
鉄砲担いで歩くのが嫌で、海軍に来たのになんたること、と嘆いても遅い。早速、その夜から、区隊長を先頭に練習が始まった。毎夜、少しずつ距離を延ばし、速度を速めていく。
そうでなくても腹が減っているのに、こんな事をされたら死んでしまう、という声が仲間うちで囁かれた。
どこからその声が上に届いたのか知らないが、朝礼(1200名全員が集まる)で、学生隊長(少佐)が壇上から「諸君の中には、駆け足の訓練で死んでしまう、と言っている者がいるようだが、諸君は大事な戦力である。大事な戦力を訓練で死なすような事はせぬ」と述べた。
「そうか、ここにいる間は死なないんだ」という、なんか、家畜として飼育されているような、妙な安心感を覚えた。
戦後の人からすれば、軍隊で駆け足に不平など言えば、引っ張り出されて殴られる場面にならないと納得しないかもしれないが、事実は以上のとおりである。
駆足競技終了後の記念写真より
最前列向かって右端が筆者
注1 1937年から 三次の総理大臣を務めた
注2 陸軍大将で 1940年に陸軍大臣に 1941年には総理大臣を務めた
注3 兵舎内外その他の点検を 毎日就寝前行なわれ 点検後は「巡検おわり 煙草盆出せ」の号令で 就寝まで暫し自由時間があった