特殊潜航艇「海龍」・第三章 その3
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特殊潜航艇「海龍」・はじめに (編集者, 2007/4/6 9:38)
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特殊潜航艇「海龍」・第二章 その1 (編集者, 2007/4/7 7:34)
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特殊潜航艇「海龍」・第二章 その2 (編集者, 2007/4/8 7:34)
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特殊潜航艇「海龍」・第二章 その3 (編集者, 2007/4/9 7:52)
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特殊潜航艇「海龍」・第二章 その4 (編集者, 2007/4/10 8:04)
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特殊潜航艇「海龍」・第二章 その5 (編集者, 2007/4/11 8:17)
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特殊潜航艇「海龍」・第三章 その1 (編集者, 2007/4/12 7:37)
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特殊潜航艇「海龍」・第三章 その2 (編集者, 2007/4/13 8:31)
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特殊潜航艇「海龍」・第三章 その3 (編集者, 2007/4/14 7:10)
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特殊潜航艇「海龍」・第四章 その1 (編集者, 2007/4/15 7:52)
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特殊潜航艇「海龍」・第四章 その2 (編集者, 2007/4/16 7:10)
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特殊潜航艇「海龍」・第四章 その3 (編集者, 2007/4/17 10:11)
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特殊潜航艇「海龍」・第四章 その4 (編集者, 2007/4/18 8:54)
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特殊潜航艇「海龍」・第四章 その5 (編集者, 2007/4/19 7:45)
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特殊潜航艇「海龍」・第四章 その6 (編集者, 2007/4/20 8:05)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298

潜水学校(8)達着訓練――――――――――――――――――――――――
号令ばかりの畳の上の水練では船は動かせない。ダイハツ(上陸用舟艇)を使って、船を港へ着ける訓練をする。
船首を右へ回す号令は「おもーかーじ」、左へ回頭するのは「とーりかーじ」、舵を戻すのは「もどーせー」。前進は「ぜんしんびそーく」、後進は「こうしんびそーく」。止まれは「エンジンてーし」。
達着訓練の図

海上へ出てから、何故か私が一番先にやらされた。
「とーりかーじ」で船首を岸壁方向に向け、「もどーせー」。
船首が岸壁にぶつかる前に、「おもーかーじ」で船を岸壁と平行にし、「もどーせー」。
「エンジンてーし」。これで船が止まると思ったら、エッ船が止まらない。ブレーキは何処だと、もたもたしていると、船は正面岸壁にぶつかりそうになる。
見かねた教官が「こーしんびそーく」と号令する。そうだ後進をかければ、よかったのだ。それも、後進をかけるだけではなく、「とりかじいっぱーい」で船尾が岸壁に近づくようにする。船の「行き足」(惰性)が止まったところで「エンジンてーし」「もどーせー」で、無事着岸。
船が岸壁から1~2メートルも離れたところで岸壁と平行になってしまうと、幅寄せは自動車よりはるかに難しい。
他の学生がもたもたしているのを眺めながら、船の動きを体に覚えさせていく。達着ができなければ、何事も始まらない。
少し潮風に吹かれて海軍らしさを取り戻した。
潜水学校(9)マストの先でも持って帰れ―――――――――――――――
ある日、教官が面白いことを言った。
「諸君が武運拙くして、敵に沈められた時、マストの先っぽでもいいから、艇のかけらを持って帰れ」
記念にでもしろというのか。
「それを工廠へ持っていって、修理!と言え」
マンガじゃあるまいし、マストの先を持って帰れば、残りの船体からエンジンからを全部、再現して呉れるというのか。
海軍の歴史にこういう極端な事例は無いと思うが、元の船の何処かが残っていれば、修理の扱いになるというのも一理あると感心した。
マストの先しか残らないほどにやられて、自分の体が無事であることを期待するほうが難しいのだが。
潜水学校(10)蛟龍組と海龍組に分かれる――――――――――――――
特殊潜航艇には「甲標的」と「SS金物」の2系統があった。
「甲標的」は、太平洋戦争開始の昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に、既に5隻が参加しており、その後も太平洋戦争中いくつかの敵軍港への攻撃が行なわれ、遠く北方キスカ島に基地が設けられもしていた。
当初2人乗りであった「甲標的」は、改良されて5人乗りにまで大きくなっていたが、魚雷を大きくして人が乗るという構想から出発しているので、艇の操縦に魚雷の機構をそのまま引き継いだ所があり、潜航するのに「深度調節器」のハンドルを手で回して、深度を5メートルなり10メートルに設定すると、後は艇の深度調節機構によって、自動的に設定深度を保つという機構になっていた。
これに対して「SS金物」の方は、実戦に参加した経歴はないが、浮力をプラマイゼロにしておき、潜航するには操縦桿を前に倒せば、瞬時に潜没するという、いわば水中戦闘機の構想で作られていた。
昭和20年4月終りに、「甲標的」に行くのか、「SS金物」に行くのかを選ぶことになった。また、この頃「甲標的」、「SS金物」という開発名から、「蛟龍」、「海龍」という愛称に変更された。
「蛟龍」の訓練は、呉の倉橋島の大浦で行い、「海龍」は神奈川県の横須賀で行なうという事であったので、関東以北の出身者は「海龍」を選んだ様である。6対4の比率でで「蛟龍」の方が多かった。
私は家が神戸であったから、どちらでもよかったが、学生時代、学生航空隊で飛行機に乗っていたので、「海龍」の操縦装置に爆撃機「銀河」の操縦装置を流用しているというキャッチフレーズに惹かれて「海龍」にした。
潜水学校(11)辞世《じせい=この世にいとまごいする》―――――――――――――――――――――――
昭和20年4月30日、海龍組は柳井の潜水学校を後にして、横須賀へ向かうのであるが、その準備に追われている忙しいときに、どこからともなく、「辞世の歌」を作ろうという声が聞こえてきた。
「歌なんて作ったこと無いよ、誰か作れよ、真似するから」
「辞世だなんて、よせやい、まだ当分死なないよ」
「この忙しいときに、歌なんか作っていられるか」
ワイワイガヤガヤで、辞世の歌をしんみり考えている風情なんぞ全くない。
ガリ版刷りでB6版の大きさの「出陣賦」なるものが、出発の直前に配られてきたが、読みもしないで、荷物の中にしまいこんでしまった。
戦後数十年も経ってから、海軍の思い出を書こうという話しが起きて、「出陣賦」を取出した。
歌なぞ作ったことの無い連中なのに、結構、歌らしいものが揃っているのである。
戦後、「戦没学生の手記」なるものが出版されて、難しい事を考えながら死んでいったのがいると感心したのだが、我々の「出陣賦」も、なかなかどうして立派なものである。
日の本の 散りて甲斐ある 若桜 散るべきときに 潔く散りなむ
身はたとへ 水漬く屍と 果つるとも 永遠に守らむ 大和島根を
千よろずに わが日の本は 栄えなば 嵐に花の 散るも嬉しき
大君の 御楯となりて 吾行かむ 南の海に 敵を求めて
身はたとひ 怒涛の中に 果つるとも 海を静めん 大和男児は
出陣賦表紙

第3章 潜水学校 終り
号令ばかりの畳の上の水練では船は動かせない。ダイハツ(上陸用舟艇)を使って、船を港へ着ける訓練をする。
船首を右へ回す号令は「おもーかーじ」、左へ回頭するのは「とーりかーじ」、舵を戻すのは「もどーせー」。前進は「ぜんしんびそーく」、後進は「こうしんびそーく」。止まれは「エンジンてーし」。
達着訓練の図

海上へ出てから、何故か私が一番先にやらされた。
「とーりかーじ」で船首を岸壁方向に向け、「もどーせー」。
船首が岸壁にぶつかる前に、「おもーかーじ」で船を岸壁と平行にし、「もどーせー」。
「エンジンてーし」。これで船が止まると思ったら、エッ船が止まらない。ブレーキは何処だと、もたもたしていると、船は正面岸壁にぶつかりそうになる。
見かねた教官が「こーしんびそーく」と号令する。そうだ後進をかければ、よかったのだ。それも、後進をかけるだけではなく、「とりかじいっぱーい」で船尾が岸壁に近づくようにする。船の「行き足」(惰性)が止まったところで「エンジンてーし」「もどーせー」で、無事着岸。
船が岸壁から1~2メートルも離れたところで岸壁と平行になってしまうと、幅寄せは自動車よりはるかに難しい。
他の学生がもたもたしているのを眺めながら、船の動きを体に覚えさせていく。達着ができなければ、何事も始まらない。
少し潮風に吹かれて海軍らしさを取り戻した。
潜水学校(9)マストの先でも持って帰れ―――――――――――――――
ある日、教官が面白いことを言った。
「諸君が武運拙くして、敵に沈められた時、マストの先っぽでもいいから、艇のかけらを持って帰れ」
記念にでもしろというのか。
「それを工廠へ持っていって、修理!と言え」
マンガじゃあるまいし、マストの先を持って帰れば、残りの船体からエンジンからを全部、再現して呉れるというのか。
海軍の歴史にこういう極端な事例は無いと思うが、元の船の何処かが残っていれば、修理の扱いになるというのも一理あると感心した。
マストの先しか残らないほどにやられて、自分の体が無事であることを期待するほうが難しいのだが。
潜水学校(10)蛟龍組と海龍組に分かれる――――――――――――――
特殊潜航艇には「甲標的」と「SS金物」の2系統があった。
「甲標的」は、太平洋戦争開始の昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に、既に5隻が参加しており、その後も太平洋戦争中いくつかの敵軍港への攻撃が行なわれ、遠く北方キスカ島に基地が設けられもしていた。
当初2人乗りであった「甲標的」は、改良されて5人乗りにまで大きくなっていたが、魚雷を大きくして人が乗るという構想から出発しているので、艇の操縦に魚雷の機構をそのまま引き継いだ所があり、潜航するのに「深度調節器」のハンドルを手で回して、深度を5メートルなり10メートルに設定すると、後は艇の深度調節機構によって、自動的に設定深度を保つという機構になっていた。
これに対して「SS金物」の方は、実戦に参加した経歴はないが、浮力をプラマイゼロにしておき、潜航するには操縦桿を前に倒せば、瞬時に潜没するという、いわば水中戦闘機の構想で作られていた。
昭和20年4月終りに、「甲標的」に行くのか、「SS金物」に行くのかを選ぶことになった。また、この頃「甲標的」、「SS金物」という開発名から、「蛟龍」、「海龍」という愛称に変更された。
「蛟龍」の訓練は、呉の倉橋島の大浦で行い、「海龍」は神奈川県の横須賀で行なうという事であったので、関東以北の出身者は「海龍」を選んだ様である。6対4の比率でで「蛟龍」の方が多かった。
私は家が神戸であったから、どちらでもよかったが、学生時代、学生航空隊で飛行機に乗っていたので、「海龍」の操縦装置に爆撃機「銀河」の操縦装置を流用しているというキャッチフレーズに惹かれて「海龍」にした。
潜水学校(11)辞世《じせい=この世にいとまごいする》―――――――――――――――――――――――
昭和20年4月30日、海龍組は柳井の潜水学校を後にして、横須賀へ向かうのであるが、その準備に追われている忙しいときに、どこからともなく、「辞世の歌」を作ろうという声が聞こえてきた。
「歌なんて作ったこと無いよ、誰か作れよ、真似するから」
「辞世だなんて、よせやい、まだ当分死なないよ」
「この忙しいときに、歌なんか作っていられるか」
ワイワイガヤガヤで、辞世の歌をしんみり考えている風情なんぞ全くない。
ガリ版刷りでB6版の大きさの「出陣賦」なるものが、出発の直前に配られてきたが、読みもしないで、荷物の中にしまいこんでしまった。
戦後数十年も経ってから、海軍の思い出を書こうという話しが起きて、「出陣賦」を取出した。
歌なぞ作ったことの無い連中なのに、結構、歌らしいものが揃っているのである。
戦後、「戦没学生の手記」なるものが出版されて、難しい事を考えながら死んでいったのがいると感心したのだが、我々の「出陣賦」も、なかなかどうして立派なものである。
日の本の 散りて甲斐ある 若桜 散るべきときに 潔く散りなむ
身はたとへ 水漬く屍と 果つるとも 永遠に守らむ 大和島根を
千よろずに わが日の本は 栄えなば 嵐に花の 散るも嬉しき
大君の 御楯となりて 吾行かむ 南の海に 敵を求めて
身はたとひ 怒涛の中に 果つるとも 海を静めん 大和男児は
出陣賦表紙

第3章 潜水学校 終り