特殊潜航艇「海龍」・第二章 その5
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特殊潜航艇「海龍」・はじめに (編集者, 2007/4/6 9:38)
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特殊潜航艇「海龍」・第二章 その1 (編集者, 2007/4/7 7:34)
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特殊潜航艇「海龍」・第二章 その2 (編集者, 2007/4/8 7:34)
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特殊潜航艇「海龍」・第二章 その3 (編集者, 2007/4/9 7:52)
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特殊潜航艇「海龍」・第二章 その4 (編集者, 2007/4/10 8:04)
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特殊潜航艇「海龍」・第二章 その5 (編集者, 2007/4/11 8:17)
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特殊潜航艇「海龍」・第三章 その1 (編集者, 2007/4/12 7:37)
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特殊潜航艇「海龍」・第三章 その2 (編集者, 2007/4/13 8:31)
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特殊潜航艇「海龍」・第三章 その3 (編集者, 2007/4/14 7:10)
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特殊潜航艇「海龍」・第四章 その1 (編集者, 2007/4/15 7:52)
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特殊潜航艇「海龍」・第四章 その2 (編集者, 2007/4/16 7:10)
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特殊潜航艇「海龍」・第四章 その3 (編集者, 2007/4/17 10:11)
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特殊潜航艇「海龍」・第四章 その4 (編集者, 2007/4/18 8:54)
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特殊潜航艇「海龍」・第四章 その5 (編集者, 2007/4/19 7:45)
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特殊潜航艇「海龍」・第四章 その6 (編集者, 2007/4/20 8:05)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298

(13) 殴られた話――――――――――――――――――――
戦後は、軍隊というと殴られた話しが多く、それが軍隊というものを「非人権的」なものとする口実にされている向きもあるが、私は予備学生の基礎教育5カ月間に、殴られたことは一度もない。
将校教育であったからというのも理由の一つに挙げられるであろうし、古年兵というか、同居している先輩がいなかった事も、その理由に上げられると思う。
大学在学中に海軍に1年いたのだが、海軍ゼミにいたようなもので、良い勉強をさせて貰ったと感謝している。(海軍の良いところだけを学んできたのかも知れないが)
だから戦後の海軍映画で、殴る教官、威張る司令を強調している場面を見ると、軍隊を悪く書かないと映画が売れない時代なのだなと思う。
戦後、占領軍最高司令官のマッカーサーが、「日本の軍隊の悪口を書け」と命令したものだから、マスコミも致し方ない。マスコミは戦争中は日本の軍隊に逆らえなかったし、戦後はマッカーサーに逆らえなかった。今は中国に逆らえないようだ。
(14) 予備学生の教育期間――――――――――――――――
予備学生の基礎教育期間は、記録を見ると、1期=6カ月、2期=6カ月、3期=4カ月、4期=5.5カ月、5期=5カ月で、3期だけが短いが、これは昭和18年12月10日に、学徒出陣による1万7千名もの大量の人員が、海軍に流れ込んだため、兵舎を空けるために繰り上げ卒業になったのではないかと推測する。
(15) 海軍予備学生の基礎教育終了に当たって―――――――
昭和20年2月20日頃、基礎教育終了の直前だった。海軍報道班の少尉だか中尉の人を中心に、各分隊から2名計12名が集められて、基礎教育を振り返っての座談会が開かれた。
その時、学校の後輩に宛てた手紙の形式で、海軍の感想を書いてくれと依頼された。どう使われるのか知らないが、私にすれば、基礎教育卒業生代表の「謝辞」の積もりで書いた。
1時間くらいで一気呵成に書き上げたが、以下がそれである。旧かな使いのまま掲載する。
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「実践することとみつけたり」
林 君
月日の経つのは早いものだ。君とあの「日高見」の学び舎で別れの言葉を交した時には、積乱雲の上に燃ゆるやうな太陽が輝いてゐた。
「翼の林」は君の声に和して、微風と共に、濃緑の唇から、別れの言葉を囁いてくれた。あの時の俺は未だ制服を着けた大学生で、海軍については何も知らず、ただ報国の決意に燃えて海軍に身を投ぜんとする、謂はヾ戦闘力の可能的存在でしかなかった。
あの時から六ケ月。俺は、俺が立派な海軍指揮官としての実力を身につけた事を君に報せ得る事を心から誇に思っている。
入隊当時、よく軍人精神を涵養《かんよう=少しずつ養い育てる》すべし、と教へられた。然し、精神を心と同意義に解釈する我々学生にとって、軍人精神を涵養せよと言う課題は、精神修養といふ大きな、而も掴み難い課題と思へて悩んだ。
然しながら、諸種の訓練はいふ迄もなく、起床より就寝まで、否、就寝中と雖、教官の指導の侭に生活して、一月二月と経つうちに、次第に軍人精神の何たるかが、朧げながら分って来た。
「軍人精神とは実践することとみつけたり」これが俺の体得した解答だった。勿論、他にもいろいろとあるであらう。だが、俺が六ケ月の激しい訓練の中から自ら体得したものはこれである。
軍人精神とは、所謂、いふ所の精神ではない。軍人精神とは「実践」である。「行」である。具体的な「はたらき」こそ軍人精神である。実行する所に最大の価値がある。実力の無い者が大言壮語《大げさな事を偉そうに言う》する時、俺達はその者を評して「軍人精神が入って居らぬ」といふ。
然し実行を重んずるからと言って理論を軽視するのではない。君は海軍の「五分前の精神」といふ言葉を聞いた事があると思ふ。五分前には凡ゆる準備を完了し、時間になるや直ちに発動するのが五分前の精神である。
実行の完璧を期せんが為に周到なる準備を為し、計画を密にやる。これが五分前の精神である。
理論的頭脳の養成は海軍では頗る重要視せられる。実行を重んずるが故に、必然的に理論を尊重するのである。綿密なる計画と周到なる準備の上にこそ、完全なる実行を為し得るのである。
ここでは、理論と実行とは完全に一致している。知っている事は必ず行い、行ふ事は必ず知っている。これが軍人精神である。
俺がかう言っても、海軍の教育訓練を受けたことの無い君には、心からこの事を理解する事は困難であるかも知れない。体得せられたものは、体得に依ってのみ知り得る事であるから。
然し、君に分かって貰へなくても、俺としては君と別れてから六ケ月の間に得た貴重なものについて、君に語らないではゐられない。俺の感慨は、日本の全ての予備学生の気持ちに通ずるものだと思っている。俺は君を通じて、日本の総ての学生に予備学生の感慨を知らせたい。
武庫の峰々の淡雪も溶け、麗かな春の陽光が白亜の学舎に照り注いでゐる事と思ふ。「日高見」の丘を下った多くの学生は、皇国の安危を双肩に擔って、今第一線に敵と砲火を交へつゝある。俺も征く。君も続いて来い。
皇国三千年の歴史を綴る一文字一文字は我々の血潮を必要とし、われわれの若き魂を呼んでいるのだ。
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(16) 「大洋」昭和20年4月号――――――――――――――――
予備学生の基礎教育を終了するに当たり、後輩に何か書けというので書いた前項の「実践することとみつけたり」は、1時間くらいで書き上げて提出し、それがどう使われたのかは全く知らなかった。
戦後17年を経た昭和37年、私はある会社のコンピュータ課長をしていた。ある日、部下の一人(私より5歳くらい若い)が突然、課長とは戦前に会ったことがあると言い出した。私の方に彼の記憶はない。
翌日彼は1冊の雑誌を手に、意気揚々と現れ、この雑誌に覚えがありませんかという。文芸春秋社発行「大洋」昭和20年4月号、海軍予備学生・生徒特集、定価五十五銭。もちろん覚えはない。

ここですよ。彼が開いたページには、「予備学生の手紙」として、12編の手紙が掲載されてあり、その冒頭に私の文が載っている。
彼は当時中学生であり、その雑誌のグラビアに載っている戦闘機の写真が目的で購入したのだが、私の文章に感激して予科練を志願しようとしたのだそうだ。もし彼が志願していたら罪作りな文章だ。
17年前に文章を書いた男と、それを読んだ男が、それとは知らずに同じ会社、同じ課に勤める。この人とは前に会ったことがある。あれだ、あの雑誌だ。彼とは海軍の話をしたことはないのに、突然17年前の雑誌と私を結びつけてくれるとは不思議なことだし、不思議な縁だと思う。
それほどにまで鮮烈な印象を彼に与えていたのかと、改めて自分の文章に対面する。高揚した昭和20年当時の気持ちが蘇ってくるし、そのような環境で必死に生きていた自分を、いとおしく思う。
第1部 第2章 第5期兵科予備学生 終り
戦後は、軍隊というと殴られた話しが多く、それが軍隊というものを「非人権的」なものとする口実にされている向きもあるが、私は予備学生の基礎教育5カ月間に、殴られたことは一度もない。
将校教育であったからというのも理由の一つに挙げられるであろうし、古年兵というか、同居している先輩がいなかった事も、その理由に上げられると思う。
大学在学中に海軍に1年いたのだが、海軍ゼミにいたようなもので、良い勉強をさせて貰ったと感謝している。(海軍の良いところだけを学んできたのかも知れないが)
だから戦後の海軍映画で、殴る教官、威張る司令を強調している場面を見ると、軍隊を悪く書かないと映画が売れない時代なのだなと思う。
戦後、占領軍最高司令官のマッカーサーが、「日本の軍隊の悪口を書け」と命令したものだから、マスコミも致し方ない。マスコミは戦争中は日本の軍隊に逆らえなかったし、戦後はマッカーサーに逆らえなかった。今は中国に逆らえないようだ。
(14) 予備学生の教育期間――――――――――――――――
予備学生の基礎教育期間は、記録を見ると、1期=6カ月、2期=6カ月、3期=4カ月、4期=5.5カ月、5期=5カ月で、3期だけが短いが、これは昭和18年12月10日に、学徒出陣による1万7千名もの大量の人員が、海軍に流れ込んだため、兵舎を空けるために繰り上げ卒業になったのではないかと推測する。
(15) 海軍予備学生の基礎教育終了に当たって―――――――
昭和20年2月20日頃、基礎教育終了の直前だった。海軍報道班の少尉だか中尉の人を中心に、各分隊から2名計12名が集められて、基礎教育を振り返っての座談会が開かれた。
その時、学校の後輩に宛てた手紙の形式で、海軍の感想を書いてくれと依頼された。どう使われるのか知らないが、私にすれば、基礎教育卒業生代表の「謝辞」の積もりで書いた。
1時間くらいで一気呵成に書き上げたが、以下がそれである。旧かな使いのまま掲載する。
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「実践することとみつけたり」
林 君
月日の経つのは早いものだ。君とあの「日高見」の学び舎で別れの言葉を交した時には、積乱雲の上に燃ゆるやうな太陽が輝いてゐた。
「翼の林」は君の声に和して、微風と共に、濃緑の唇から、別れの言葉を囁いてくれた。あの時の俺は未だ制服を着けた大学生で、海軍については何も知らず、ただ報国の決意に燃えて海軍に身を投ぜんとする、謂はヾ戦闘力の可能的存在でしかなかった。
あの時から六ケ月。俺は、俺が立派な海軍指揮官としての実力を身につけた事を君に報せ得る事を心から誇に思っている。
入隊当時、よく軍人精神を涵養《かんよう=少しずつ養い育てる》すべし、と教へられた。然し、精神を心と同意義に解釈する我々学生にとって、軍人精神を涵養せよと言う課題は、精神修養といふ大きな、而も掴み難い課題と思へて悩んだ。
然しながら、諸種の訓練はいふ迄もなく、起床より就寝まで、否、就寝中と雖、教官の指導の侭に生活して、一月二月と経つうちに、次第に軍人精神の何たるかが、朧げながら分って来た。
「軍人精神とは実践することとみつけたり」これが俺の体得した解答だった。勿論、他にもいろいろとあるであらう。だが、俺が六ケ月の激しい訓練の中から自ら体得したものはこれである。
軍人精神とは、所謂、いふ所の精神ではない。軍人精神とは「実践」である。「行」である。具体的な「はたらき」こそ軍人精神である。実行する所に最大の価値がある。実力の無い者が大言壮語《大げさな事を偉そうに言う》する時、俺達はその者を評して「軍人精神が入って居らぬ」といふ。
然し実行を重んずるからと言って理論を軽視するのではない。君は海軍の「五分前の精神」といふ言葉を聞いた事があると思ふ。五分前には凡ゆる準備を完了し、時間になるや直ちに発動するのが五分前の精神である。
実行の完璧を期せんが為に周到なる準備を為し、計画を密にやる。これが五分前の精神である。
理論的頭脳の養成は海軍では頗る重要視せられる。実行を重んずるが故に、必然的に理論を尊重するのである。綿密なる計画と周到なる準備の上にこそ、完全なる実行を為し得るのである。
ここでは、理論と実行とは完全に一致している。知っている事は必ず行い、行ふ事は必ず知っている。これが軍人精神である。
俺がかう言っても、海軍の教育訓練を受けたことの無い君には、心からこの事を理解する事は困難であるかも知れない。体得せられたものは、体得に依ってのみ知り得る事であるから。
然し、君に分かって貰へなくても、俺としては君と別れてから六ケ月の間に得た貴重なものについて、君に語らないではゐられない。俺の感慨は、日本の全ての予備学生の気持ちに通ずるものだと思っている。俺は君を通じて、日本の総ての学生に予備学生の感慨を知らせたい。
武庫の峰々の淡雪も溶け、麗かな春の陽光が白亜の学舎に照り注いでゐる事と思ふ。「日高見」の丘を下った多くの学生は、皇国の安危を双肩に擔って、今第一線に敵と砲火を交へつゝある。俺も征く。君も続いて来い。
皇国三千年の歴史を綴る一文字一文字は我々の血潮を必要とし、われわれの若き魂を呼んでいるのだ。
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(16) 「大洋」昭和20年4月号――――――――――――――――
予備学生の基礎教育を終了するに当たり、後輩に何か書けというので書いた前項の「実践することとみつけたり」は、1時間くらいで書き上げて提出し、それがどう使われたのかは全く知らなかった。
戦後17年を経た昭和37年、私はある会社のコンピュータ課長をしていた。ある日、部下の一人(私より5歳くらい若い)が突然、課長とは戦前に会ったことがあると言い出した。私の方に彼の記憶はない。
翌日彼は1冊の雑誌を手に、意気揚々と現れ、この雑誌に覚えがありませんかという。文芸春秋社発行「大洋」昭和20年4月号、海軍予備学生・生徒特集、定価五十五銭。もちろん覚えはない。


ここですよ。彼が開いたページには、「予備学生の手紙」として、12編の手紙が掲載されてあり、その冒頭に私の文が載っている。
彼は当時中学生であり、その雑誌のグラビアに載っている戦闘機の写真が目的で購入したのだが、私の文章に感激して予科練を志願しようとしたのだそうだ。もし彼が志願していたら罪作りな文章だ。
17年前に文章を書いた男と、それを読んだ男が、それとは知らずに同じ会社、同じ課に勤める。この人とは前に会ったことがある。あれだ、あの雑誌だ。彼とは海軍の話をしたことはないのに、突然17年前の雑誌と私を結びつけてくれるとは不思議なことだし、不思議な縁だと思う。
それほどにまで鮮烈な印象を彼に与えていたのかと、改めて自分の文章に対面する。高揚した昭和20年当時の気持ちが蘇ってくるし、そのような環境で必死に生きていた自分を、いとおしく思う。
第1部 第2章 第5期兵科予備学生 終り