チョッパリの邑 (1) 椎野 公雄 <一部英訳あり>
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投稿日時 2007/4/28 7:38
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(まえがき)
昭和九年生まれの私も今年で七十二歳、そろそろ後がなくなって来つつある。五〇年近くサラリーマン生活を送っていた間は、仕事、仕事で、自分の過去など振り返る余裕など全くなかっが、ようやく自由な時間も少しは出て、五人の孫に囲まれながら、「さてこれから何かを」と考えているうちに、もともと好きな「写真」や「芝居」、或いは「旅行」を楽しむのもいいが、少しでも役に立つのであれば、自分が経験したものを次の世代に書き残してみようか、と思うようになった。
かといって、「自分史」などは大仰《たいぎょう》で私の性に合わない。
そこで、このところ何となく不安な状況になっている近隣の国、特に私が子供のころ終戦を挟んで過ごした「北朝鮮」での生活を何とか書いてみよう、さすれば或いは興味を持って読んで貰えるかも知れないと思い立って筆をとることにした。
ところが、[本文]や「あとがき」にも書いたように、この地域の歴史や太平洋戦争の資料はたくさんあるが、肝心の「現地生活の資料」が日記もなければ何もない。ただ、私のかすかな記憶の端々《はしばし》を手繰りながら、後に両親から断片的に聞いた話を繋《つな》ぎ合わせる作業を始めてみると、特に後半の八月十五日以降が凄《すざ》まじい日々だっただけに、当時のことがまるで昨日のことのように甦《よみがえ》ってきて、不思議なほどすらすらと筆が進んでくれた。
もとより、この記録は興味のある方だけに読んでいただくつもりで書き記したが、若し当時の三井軽金属のご関係者(父・良之助、母・ふみ、と同年代の方はご存命でないと思われるが)、またはご親族の方で、私の記憶違いにお気づきになった時は、是非ご叱正《しっせい》、ご訂正いただければ、大変有難いことと思う次第である。
なお、「本文」の朝鮮の歴史は、武田幸男氏編・「朝鮮史」、太平洋戦争については、河合敦氏著・「目からウロコの太平洋戦争」を主に参考とさせていただき、一部引用させて貰ったことを付け加えさせていただく。
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昭和十八年・朝鮮半島への旅立ち・その1
身体に伝わるかすかなエンジンの響きと、船側に砕《くだ》ける波しぶきの音が、外の暗さを一層引き立てるなか、慌しかった今朝からの汽車の旅と、さらに続く明日の旅を思いながら、二等船室のベッドの上で私は不安と期待を交錯させていた。
下関の港を夜中少し前に出た「興安丸」は一路釜山《プサン》に向けて順調に進んでいるらしい。
「今日は疲れたろう。明日もあることだから、早く寝なさい」と、父の声。
昭和十八年のこの頃には戦局もかなり思わしくない状況になって、日本近海にもアメリカの潜水艦が出没し始めており、「船舶の航行には哨戒機《しょうかいき》や艦船の護衛が付いてくれている」との情報も、かえって私たちの不安を掻《か》きたてる。
そんな様子を察してか、父が続ける
「海軍はちゃんと護ってくれるから大丈夫だよ」
四歳の弟は既にぐっすり寝込んで、起きているのは両親と姉、私の四人。
船が沈没するかも知れないという不安とともに「こんな時期に日本を離れ、見知らぬ外地で無事に生活できるのだろうか」、皆一様に同じことを考えているらしく、つい言葉も途切れがちになって、静かな船室にはエンジンと波しぶきだけが不気味に響いてくる。
思えば私たちのこの旅立ちはまことに急であったし、私自身が知ったのは七月末、学校も夏休みに入って間もない頃であった。
その年の春、父が三井鉱山串木野《くしきの=鹿児島県西部の市》鉱業所から神岡《かみおか=岐阜県北部》鉱業所に転勤になり、私も生まれて初めて転校を経験したばかり、ようやく山の生活にも慣れて戦時中とはいえ私たちは穏やかな毎日を送っていた。
九州の南端、暖かくのんびりした鹿児島県串木野で生まれ、小学校にあがった年の瀬に太平洋戦争が始まったが、初めのうちは毎日「勝った、勝った、また勝った」と日本全体が戦勝気分に沸いていた戦争も次第に様相が変わり、前年、つまり昭和十七年の四月にはB-25爆撃機十六機による本土空襲、六月になるとミッドウェー海戦での大敗北、そしてこの年の二月、ガダルカナル島《南太平洋ソロモン諸島》が陥落《かんらく》するなど急に悪い情報が多くなって、国民の気持ちの中にも少しずつ不安が生まれ始めていた時である。
「これからは、戦争に勝つためにも鉛と亜鉛《あえん》が重要なんだ」と父がいい、子供心に「そんなものか」と連れてこられた神岡だったが、私はこの町が気に入っていた。
岐阜県吉城郡神岡町は高山本線猪谷駅から神岡鉄道で三十分程入った山の中、そこに神岡鉱業所があり、会社から十分のところに社宅、学校(船津国民学校)があった。
神通川の上流に沿って北側に、日本有数の鉛・亜鉛を産出する鉱山、南側には街が開けて、とても山の中とは思えぬ賑《にぎ》わいを見せていた。
冬は雪に閉ざされ身勤きもとれないが、新緑から夏の間は天国に一変する。川には清流が流れ、鮎《あゆ》がよく獲れた。水泳を憶えたのもこの川である。
夏祭りには夜半まで四方の山に木霊《こだま》する笛・太鼓・鉦《かね》の音が心を浮き立たせた。
食べ物ではアケビや山葡萄《やまぶどう》など山の産物のほか、細長い富山西瓜も美味しかったし、イースト菌の香りが強く香ばしい食パンも、そろそろ手に入り難くなっていたバターを塗ると更に味わいが深まり、こんな美味しいものがあるのかとビックリしたものである。
そんな生活を送っていたある日、川遊びから帰ると、いつもより早く帰宅して来た父をまじえての夕食となって、唐突に父が切り出した。
「今日、今度朝鮮に出来た会社に行くように言われたので、皆もそのつもりで」。
母も初めて聞かされたようで「何時ですか。それにしても急な話だけど、場所は何処ですか」と問いかけると「行く所は北朝鮮の新義州《シンウィジュ》。向こうも急いでいるようだし、九月中旬までには着任しなければならないだろう」との答えである。
ここに来て未だ半年、ようやく落ち着いたばかりで、母が「急な話」というのも頷《うなづ》けることだ。
「アルミニウムを作る会社で、戦争には亜鉛と同じように大事なものだよ。ちょっと遠いけど社命だからな」
父も、「やむを得ないことだから我慢して付いて来てくれ」との言葉を飲み込みながら、私たちを納得させるように呟く。
もともと呑気《のんき》で太つ腹な母も、静かになった。
雰囲気を明るくさせるように「今は外の方がかえって安心かも知れないし、きっとよいところよ」母の言葉で父も安心したようであった。
身体に伝わるかすかなエンジンの響きと、船側に砕《くだ》ける波しぶきの音が、外の暗さを一層引き立てるなか、慌しかった今朝からの汽車の旅と、さらに続く明日の旅を思いながら、二等船室のベッドの上で私は不安と期待を交錯させていた。
下関の港を夜中少し前に出た「興安丸」は一路釜山《プサン》に向けて順調に進んでいるらしい。
「今日は疲れたろう。明日もあることだから、早く寝なさい」と、父の声。
昭和十八年のこの頃には戦局もかなり思わしくない状況になって、日本近海にもアメリカの潜水艦が出没し始めており、「船舶の航行には哨戒機《しょうかいき》や艦船の護衛が付いてくれている」との情報も、かえって私たちの不安を掻《か》きたてる。
そんな様子を察してか、父が続ける
「海軍はちゃんと護ってくれるから大丈夫だよ」
四歳の弟は既にぐっすり寝込んで、起きているのは両親と姉、私の四人。
船が沈没するかも知れないという不安とともに「こんな時期に日本を離れ、見知らぬ外地で無事に生活できるのだろうか」、皆一様に同じことを考えているらしく、つい言葉も途切れがちになって、静かな船室にはエンジンと波しぶきだけが不気味に響いてくる。
思えば私たちのこの旅立ちはまことに急であったし、私自身が知ったのは七月末、学校も夏休みに入って間もない頃であった。
その年の春、父が三井鉱山串木野《くしきの=鹿児島県西部の市》鉱業所から神岡《かみおか=岐阜県北部》鉱業所に転勤になり、私も生まれて初めて転校を経験したばかり、ようやく山の生活にも慣れて戦時中とはいえ私たちは穏やかな毎日を送っていた。
九州の南端、暖かくのんびりした鹿児島県串木野で生まれ、小学校にあがった年の瀬に太平洋戦争が始まったが、初めのうちは毎日「勝った、勝った、また勝った」と日本全体が戦勝気分に沸いていた戦争も次第に様相が変わり、前年、つまり昭和十七年の四月にはB-25爆撃機十六機による本土空襲、六月になるとミッドウェー海戦での大敗北、そしてこの年の二月、ガダルカナル島《南太平洋ソロモン諸島》が陥落《かんらく》するなど急に悪い情報が多くなって、国民の気持ちの中にも少しずつ不安が生まれ始めていた時である。
「これからは、戦争に勝つためにも鉛と亜鉛《あえん》が重要なんだ」と父がいい、子供心に「そんなものか」と連れてこられた神岡だったが、私はこの町が気に入っていた。
岐阜県吉城郡神岡町は高山本線猪谷駅から神岡鉄道で三十分程入った山の中、そこに神岡鉱業所があり、会社から十分のところに社宅、学校(船津国民学校)があった。
神通川の上流に沿って北側に、日本有数の鉛・亜鉛を産出する鉱山、南側には街が開けて、とても山の中とは思えぬ賑《にぎ》わいを見せていた。
冬は雪に閉ざされ身勤きもとれないが、新緑から夏の間は天国に一変する。川には清流が流れ、鮎《あゆ》がよく獲れた。水泳を憶えたのもこの川である。
夏祭りには夜半まで四方の山に木霊《こだま》する笛・太鼓・鉦《かね》の音が心を浮き立たせた。
食べ物ではアケビや山葡萄《やまぶどう》など山の産物のほか、細長い富山西瓜も美味しかったし、イースト菌の香りが強く香ばしい食パンも、そろそろ手に入り難くなっていたバターを塗ると更に味わいが深まり、こんな美味しいものがあるのかとビックリしたものである。
そんな生活を送っていたある日、川遊びから帰ると、いつもより早く帰宅して来た父をまじえての夕食となって、唐突に父が切り出した。
「今日、今度朝鮮に出来た会社に行くように言われたので、皆もそのつもりで」。
母も初めて聞かされたようで「何時ですか。それにしても急な話だけど、場所は何処ですか」と問いかけると「行く所は北朝鮮の新義州《シンウィジュ》。向こうも急いでいるようだし、九月中旬までには着任しなければならないだろう」との答えである。
ここに来て未だ半年、ようやく落ち着いたばかりで、母が「急な話」というのも頷《うなづ》けることだ。
「アルミニウムを作る会社で、戦争には亜鉛と同じように大事なものだよ。ちょっと遠いけど社命だからな」
父も、「やむを得ないことだから我慢して付いて来てくれ」との言葉を飲み込みながら、私たちを納得させるように呟く。
もともと呑気《のんき》で太つ腹な母も、静かになった。
雰囲気を明るくさせるように「今は外の方がかえって安心かも知れないし、きっとよいところよ」母の言葉で父も安心したようであった。
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出発が九月三日と決まると、あたふたと引越しの準備が始まった。
私にしてみれば、気に入ったこの地を離れるのは嫌だが、父の転勤とあれば仕方がない。
しからばこの際、残された一ケ月は折角の夏休みでもあるし精一杯楽しもうと、手伝いはそっちのけで、友達を誘っては川や山に出かける毎日となった。
私たちがこの地に来てからも、戦争は大本営《注1》発表の中身とは裏腹に日本軍不利の状況が続いており、四月には山本五十六《やまもといそろく》連合艦隊司令長官搭乗の飛行機がブーゲンビル島上空でアメリカ軍戦闘機に撃墜されて長官が死亡、日本軍が占領していたアリューシャン列島《注2》も、五月にアッツ島が玉砕《ぎょくさい》、そして引越しを間近に私が夏休みを楽しんでいた八月にはキスカ島も陥落して、アメリカ軍の勢力は、北は千島から南は中部太平洋地域に迫っていたのである。
しかし、毎日のように放送される大本営発表は、相変わらず「大日本帝国陸海軍は各方面において意気軒昂《=意気込みが盛ん》、敵に多大な損害を与えている」と報じ、私たちも一抹の不安はあっても「神国日本が敗けるわけはない」と信じていたし、少なくともこの山の町には、戦争は未だ遠くにあるという雰囲気があった。
そして、楽しかった夏休みもアツという間に過ぎて、出発の九月三日がやってきた。
その日は朝から快晴、私たちの旅立ちを祝福しているような絶好の日和《ひより》であった。
会社から手配して貰った車で先ず古川《=岐阜県飛騨》に出て、ここで1泊。
次の日、高山線で名古屋へ行き、東海道・山陽本線と繋がる急行に乗って下関まで来たあと関釜《かんぷ》連絡船に乗り、今こうしてその船の中にいる。
僅か半年という短い月日で大好きな神岡《かみおか》を離れることになったが、考えてみると、私たちにとっては一年で一番良い季節をこの地で過ごしたということだ。
短い時間ながら楽しかった日々が、つい昨日まであったことや、車で出発した時いつまでも手を振って見送ってくれた友達のこと、古川の旅館で「暫くは食べられないから良く味わっておきなさい」と食べさせられた鮎《あゆ》料理の美味しかったこと、そしてこの戦争の真っただ中、これから行く朝鮮・新義州《シンウイジュ》のことなど、色々と考えていると、なかなか眠れない。
船も外洋に出たのか、少し揺れが大きくなったなと思う頃、まだ起きている私を見て「もう寝ないといけないよ」母に促されて、ようやく眠りについた。
注1 大本営=戦時または事変の際に設置された最高の統帥機関第二次大戦後廃止
注2 アリューシャン列島= アメリカのアラスカ半島からロシアのカムチャッカ半島にかけて延びる列島
私にしてみれば、気に入ったこの地を離れるのは嫌だが、父の転勤とあれば仕方がない。
しからばこの際、残された一ケ月は折角の夏休みでもあるし精一杯楽しもうと、手伝いはそっちのけで、友達を誘っては川や山に出かける毎日となった。
私たちがこの地に来てからも、戦争は大本営《注1》発表の中身とは裏腹に日本軍不利の状況が続いており、四月には山本五十六《やまもといそろく》連合艦隊司令長官搭乗の飛行機がブーゲンビル島上空でアメリカ軍戦闘機に撃墜されて長官が死亡、日本軍が占領していたアリューシャン列島《注2》も、五月にアッツ島が玉砕《ぎょくさい》、そして引越しを間近に私が夏休みを楽しんでいた八月にはキスカ島も陥落して、アメリカ軍の勢力は、北は千島から南は中部太平洋地域に迫っていたのである。
しかし、毎日のように放送される大本営発表は、相変わらず「大日本帝国陸海軍は各方面において意気軒昂《=意気込みが盛ん》、敵に多大な損害を与えている」と報じ、私たちも一抹の不安はあっても「神国日本が敗けるわけはない」と信じていたし、少なくともこの山の町には、戦争は未だ遠くにあるという雰囲気があった。
そして、楽しかった夏休みもアツという間に過ぎて、出発の九月三日がやってきた。
その日は朝から快晴、私たちの旅立ちを祝福しているような絶好の日和《ひより》であった。
会社から手配して貰った車で先ず古川《=岐阜県飛騨》に出て、ここで1泊。
次の日、高山線で名古屋へ行き、東海道・山陽本線と繋がる急行に乗って下関まで来たあと関釜《かんぷ》連絡船に乗り、今こうしてその船の中にいる。
僅か半年という短い月日で大好きな神岡《かみおか》を離れることになったが、考えてみると、私たちにとっては一年で一番良い季節をこの地で過ごしたということだ。
短い時間ながら楽しかった日々が、つい昨日まであったことや、車で出発した時いつまでも手を振って見送ってくれた友達のこと、古川の旅館で「暫くは食べられないから良く味わっておきなさい」と食べさせられた鮎《あゆ》料理の美味しかったこと、そしてこの戦争の真っただ中、これから行く朝鮮・新義州《シンウイジュ》のことなど、色々と考えていると、なかなか眠れない。
船も外洋に出たのか、少し揺れが大きくなったなと思う頃、まだ起きている私を見て「もう寝ないといけないよ」母に促されて、ようやく眠りについた。
注1 大本営=戦時または事変の際に設置された最高の統帥機関第二次大戦後廃止
注2 アリューシャン列島= アメリカのアラスカ半島からロシアのカムチャッカ半島にかけて延びる列島
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半島への第一歩
目が覚めると白々と明けた窓の外に異国の港町の風景が飛び込んできた。
どうやら魚雷《注1》の攻撃も受けず無事に釜山《プサン》に到着したようである。
身支度を終えると弟の手をひいて生まれて始めての「外地」に降り立った。
こうして私たちの朝鮮での生活の第一歩が踏み出されたのであるが、ここから目的地の北朝鮮・新義州《シンウィジュ》までは一昼夜を要する汽車の旅が待っている。
乗り継ぎまでまだ小一時間あり、その間に洗面を済ませると、用意してきだ「おにぎり」でお腹を満たす。
当時、朝浜半鳥経由満州直行の特急列車は「興亜」と「光」の二本が運行されていたが、私たちの列車は「興亜」、乗り込むとすぐ発車した。
列車は内地のものと比べても遜色《そんしょく》なく綺麗《きれい》でゆったりしている。
父が説明してくれる。
「朝鮮は広軌だから幅が広いし揺れないんだよ」
走り始めた車内を見回すと日本人は私たちだけで他は皆見慣れぬ服装をした朝鮮人。
男は白っぽい上着に裾が広く足首を絞ったズボン、何人かは上着の上に黒や茶色のチョッキを着込み、老人は殆どと言っていいほど顎鬚《あごひげ》を生やしている。女は赤々緑の短い上着に裾の長いスカー卜を履いているが、これが後で知ったチマ・チョゴリと言う衣装。そして足には男女とも、つま先が上に尖《とが》ったゴム靴を履いているのがまことに奇妙である。
しかし港に降り立った時から気になっていたのが、その異臭。
なま臭く、甘く、また饐《す》えたような臭いがどうにも鼻について仕方がない。これも後から解るニンニクの臭い、半年もしないうちに慣れてしまうのだが、最初はどうにも耐えがたい香りであった。
また当時、朝鮮半島においては日本語教育も進められ、少なくとも車内放送は訛《なま》りのある日本語と朝鮮語であったが、彼ら同士の会話はすべて朝鮮語で何を話しているのかまったく解らない。
窓の外を見やると、木々の緑、山並みなど多少丸みを帯びてはいるが日本とあまり変わらない。しかし何となく風景が違うなと思ってよく見ると、その原因が家々の形や色にあることに気が付いた。
瓦屋根は一様に端がそりあがり、壁は白もしくは薄茶色の漆《しっ》くい塗りで、扉や桟には独特の模様をした飾り粋《わく》が組み込まれている。
道を歩く人々の服装も車内の人だちと同じで、女性の頭には篭《かご》や壷《つぼ》が載せられ、腰を左右に振って上手く重心をとっている。
★ こうした今まで見たことの無い風景や服装、聞いたこともない言葉、嗅いだことがない独特の臭いの中で、「本当に異国にやって来たんだな」、「これから、こんな土地でこんな人たちに囲まれて生活するんだな、しかし家族も一緒だし新義州に行けば日本人もいっぱい居ることだから心配することはない」と、自分で自分に言い聞かせながら、座席に静かに身を沈めているうちに眠気が襲ってきた。
二時間ほど眠ったろうか、周りが急に静かになったので目を覚ますと、汽車は何処かの駅に停まっている。
未だお腹は空いてないが喉が渇いていたので父に訴えると、父はホームの向こうにリンゴを篭に入れた物売りを見つけ、汽車を降りて買いに走る。しかし交渉が成立しないのか一向に戻る気配がなく、汽車が出てしまうのではないかと気を揉《も》むうちに、ようやく幾つか買い込んで来てホッとする。
駅名を見ると「太郎」(テグ)とある。これも後で知ったが、リンゴは有名な太郎リンゴ、小粒で硬く酸味は強いが、みずみずしくて喉を潤すには充分であった。
太郎を出た汽車は、さらに数時間、小白山脈を越え、大田(テジョン)を過ぎる頃から広々と開けた田園地帯を汽車は北へ向けてひた走り、首都・京城(ソウル)に着く頃にはもう陽も傾き夕闇が追っていた。
京城駅で弁当とマクワ瓜を仕入れて夜食を済ませる。汽車はさらに北上するが、周りはもう真っ暗。昨日からの汽車、船、汽車の旅、しかも子供心にも色々と気を遣ったせいか、ドッと疲れが出て、今度は猛烈《もうれつ》な眠気がやってきた。
「平壌」(ピョンヤン)~平壌~のアナウンスはかすか遠くに聞こえた気がするが、真夜中を過ぎる時間、すべて夢うつつで通り過ぎてしまう。
注1 魚雷=魚型水雷、水中を自走命中すれば爆発し破壊する
目が覚めると白々と明けた窓の外に異国の港町の風景が飛び込んできた。
どうやら魚雷《注1》の攻撃も受けず無事に釜山《プサン》に到着したようである。
身支度を終えると弟の手をひいて生まれて始めての「外地」に降り立った。
こうして私たちの朝鮮での生活の第一歩が踏み出されたのであるが、ここから目的地の北朝鮮・新義州《シンウィジュ》までは一昼夜を要する汽車の旅が待っている。
乗り継ぎまでまだ小一時間あり、その間に洗面を済ませると、用意してきだ「おにぎり」でお腹を満たす。
当時、朝浜半鳥経由満州直行の特急列車は「興亜」と「光」の二本が運行されていたが、私たちの列車は「興亜」、乗り込むとすぐ発車した。
列車は内地のものと比べても遜色《そんしょく》なく綺麗《きれい》でゆったりしている。
父が説明してくれる。
「朝鮮は広軌だから幅が広いし揺れないんだよ」
走り始めた車内を見回すと日本人は私たちだけで他は皆見慣れぬ服装をした朝鮮人。
男は白っぽい上着に裾が広く足首を絞ったズボン、何人かは上着の上に黒や茶色のチョッキを着込み、老人は殆どと言っていいほど顎鬚《あごひげ》を生やしている。女は赤々緑の短い上着に裾の長いスカー卜を履いているが、これが後で知ったチマ・チョゴリと言う衣装。そして足には男女とも、つま先が上に尖《とが》ったゴム靴を履いているのがまことに奇妙である。
しかし港に降り立った時から気になっていたのが、その異臭。
なま臭く、甘く、また饐《す》えたような臭いがどうにも鼻について仕方がない。これも後から解るニンニクの臭い、半年もしないうちに慣れてしまうのだが、最初はどうにも耐えがたい香りであった。
また当時、朝鮮半島においては日本語教育も進められ、少なくとも車内放送は訛《なま》りのある日本語と朝鮮語であったが、彼ら同士の会話はすべて朝鮮語で何を話しているのかまったく解らない。
窓の外を見やると、木々の緑、山並みなど多少丸みを帯びてはいるが日本とあまり変わらない。しかし何となく風景が違うなと思ってよく見ると、その原因が家々の形や色にあることに気が付いた。
瓦屋根は一様に端がそりあがり、壁は白もしくは薄茶色の漆《しっ》くい塗りで、扉や桟には独特の模様をした飾り粋《わく》が組み込まれている。
道を歩く人々の服装も車内の人だちと同じで、女性の頭には篭《かご》や壷《つぼ》が載せられ、腰を左右に振って上手く重心をとっている。
★ こうした今まで見たことの無い風景や服装、聞いたこともない言葉、嗅いだことがない独特の臭いの中で、「本当に異国にやって来たんだな」、「これから、こんな土地でこんな人たちに囲まれて生活するんだな、しかし家族も一緒だし新義州に行けば日本人もいっぱい居ることだから心配することはない」と、自分で自分に言い聞かせながら、座席に静かに身を沈めているうちに眠気が襲ってきた。
二時間ほど眠ったろうか、周りが急に静かになったので目を覚ますと、汽車は何処かの駅に停まっている。
未だお腹は空いてないが喉が渇いていたので父に訴えると、父はホームの向こうにリンゴを篭に入れた物売りを見つけ、汽車を降りて買いに走る。しかし交渉が成立しないのか一向に戻る気配がなく、汽車が出てしまうのではないかと気を揉《も》むうちに、ようやく幾つか買い込んで来てホッとする。
駅名を見ると「太郎」(テグ)とある。これも後で知ったが、リンゴは有名な太郎リンゴ、小粒で硬く酸味は強いが、みずみずしくて喉を潤すには充分であった。
太郎を出た汽車は、さらに数時間、小白山脈を越え、大田(テジョン)を過ぎる頃から広々と開けた田園地帯を汽車は北へ向けてひた走り、首都・京城(ソウル)に着く頃にはもう陽も傾き夕闇が追っていた。
京城駅で弁当とマクワ瓜を仕入れて夜食を済ませる。汽車はさらに北上するが、周りはもう真っ暗。昨日からの汽車、船、汽車の旅、しかも子供心にも色々と気を遣ったせいか、ドッと疲れが出て、今度は猛烈《もうれつ》な眠気がやってきた。
「平壌」(ピョンヤン)~平壌~のアナウンスはかすか遠くに聞こえた気がするが、真夜中を過ぎる時間、すべて夢うつつで通り過ぎてしまう。
注1 魚雷=魚型水雷、水中を自走命中すれば爆発し破壊する
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初めて見る鴨緑江
「もう新義州よ、起きなさい」母に起こされた時には、車窓から朝の太陽が明るく射し込んでいた。
満州まで行くのだろうか、席を離れない半分ほどの人たちを残して下車。外に出ると、夏服の私たちには涼しすぎるほどの陽気であるが、疲れた身体には心地よい。
「さあ着いたぞ、ここが朝鮮半島の最北端、街の北を流れる鴨緑江《おうりょっこう》を渡れば満州だよ」プラットホームを歩きながら、両手に荷物を持った父が説明してくれる。
二日がかりの旅行で疲れた様子の母も「やはり遠かったわね」、そして「でも、もう少しだから頑張りましょう」と我々子供たちを励ましてくれる。
汽車はこれから先まだ続く旅に備えて、燃料の石炭と水の補給のため暫く停車するらしい。
駅舎は古いが、大きくて、旅客の数も相当なもので賑《にぎ》やかである。
ようやく改札口にたどり着くと、会社の人が現地人の”朴”さんを伴《ともな》って出迎えてくれた。
「総務課の原口と申します。ようこそ、いらっしやいました。お疲れになったでしょう」、「車を用意してありますので、お休みいただく旅館まで早速ご案内いたします」
二日ぶりながら、日本語を聞いて、何となくホッとさせられる。
朴さんも、少し訛《なまり》りはあるが流暢《りゅうちょう》な日本語で「さあ、荷物をこちらに」と言って、皆の荷物を受け取り、手際よく車に積み込んでくれた。
着いた宿は純日本式の旅館。ここで一泊して工場のある北中面・南楊子には明日移動することになっているという。
「では朝食をお取りいただいて、一体みなさったら、市内や鴨緑江のあたりをご案内いたしますが如何でしょう?」と原口さん。
「よろしくお願いいたします」父が答えると、原口さんは気をきかせて座をはずし、私たち家族だけでの食事となった。
旅の疲れであまり食欲もないが、一通り箸をつけると畳の上にゴロリと横だわって手足を伸ばすと、三日間、椅子と固いベッドで縮こまっていた身体が一気に解放された感じで心地よく、そのまま眠り込んでしまった。
「さあ、出かけましょうか」
原口さんの声で起こされて、新義州《シンウィジュ》の街の見物へ。
「街なかは大して見るものもありませんから、先ず河へ行ってみましょう」と案内された所が、父から聞いていた朝鮮半島と満州の開を流れる鴨緑江である。
半島と大陸を分ける河川は、この半島最長の鴨緑江(アムノッカン・七九〇キロ)のほかに豆満江(トウマンガン)があるが、両江ともに半島最高峰の白頭山(ペクトウサン・二七四四メートル)を分水嶺《ぶんすいれい》として流れ出で、鴨緑江は西南に流れて黄海に達し、豆満江は東北に下って日本海に入っている。
川幅はどの位あるのか。遠く対岸の満州・安東(現・丹東)が霞んで見えるから、少なくともニキロや三キロはあると思われ、眼下にはあまり綺麗《きれい》とはいえない水が右から左へ滔々《とうとう》と流れて恐ろしいようだ。
説明によると、上流にダムが出来て水量も大分少なくなったし、近頃ではよほど寒くならない限り凍ることもないとのこと。
河には満州を繋ぐ鉄道も敷かれた大きな橋がかかり、舗道を人も渡れるようになっている。
「橋の真中に検問所があり、そこまでは行けますから行ってみましょう」原口さんに促《うなが》されて歩いてみる。
二十分ほど歩くと、検問所に着いた。そこには監視の朝鮮人・警察官数人がいて物々しいが、見物のみと聞いて、もの珍し気にこちらの様子を窺《うかが》い見るだけで何のお咎《とが》めもない。
この検問、地図では朝鮮も満州も赤く塗られた日本の領土なのに、と不思議な気がしたが、当時、行政区画の異なる二つの地域間には、あまり厳しくはないものの、人・物資の移動、特に人的資源の管理に制限が加えられ自由に行き来することはできなかった。
暫く、対岸の様子や検問の状況を見物して引き返してきたが、往復小一時間かかった計算からすると、川幅はやはりニキロ以上はあったのではないかと思われる。
街へとって返し、薄汚い街並みや往来する人々の様子を見ながら、昨日車窓から見た風景や、奇妙な服装を身に纏《まと》い不可解な言葉を喋《しゃべ》る人たちの中に今自分が居ること、そして釜山《プサン》からこちらずっと嗅《か》がされ続けた臭いが常に周りにある「現実」を、否応も無く受け入れなければならないことを、改めて思い知らされていた。
「もう新義州よ、起きなさい」母に起こされた時には、車窓から朝の太陽が明るく射し込んでいた。
満州まで行くのだろうか、席を離れない半分ほどの人たちを残して下車。外に出ると、夏服の私たちには涼しすぎるほどの陽気であるが、疲れた身体には心地よい。
「さあ着いたぞ、ここが朝鮮半島の最北端、街の北を流れる鴨緑江《おうりょっこう》を渡れば満州だよ」プラットホームを歩きながら、両手に荷物を持った父が説明してくれる。
二日がかりの旅行で疲れた様子の母も「やはり遠かったわね」、そして「でも、もう少しだから頑張りましょう」と我々子供たちを励ましてくれる。
汽車はこれから先まだ続く旅に備えて、燃料の石炭と水の補給のため暫く停車するらしい。
駅舎は古いが、大きくて、旅客の数も相当なもので賑《にぎ》やかである。
ようやく改札口にたどり着くと、会社の人が現地人の”朴”さんを伴《ともな》って出迎えてくれた。
「総務課の原口と申します。ようこそ、いらっしやいました。お疲れになったでしょう」、「車を用意してありますので、お休みいただく旅館まで早速ご案内いたします」
二日ぶりながら、日本語を聞いて、何となくホッとさせられる。
朴さんも、少し訛《なまり》りはあるが流暢《りゅうちょう》な日本語で「さあ、荷物をこちらに」と言って、皆の荷物を受け取り、手際よく車に積み込んでくれた。
着いた宿は純日本式の旅館。ここで一泊して工場のある北中面・南楊子には明日移動することになっているという。
「では朝食をお取りいただいて、一体みなさったら、市内や鴨緑江のあたりをご案内いたしますが如何でしょう?」と原口さん。
「よろしくお願いいたします」父が答えると、原口さんは気をきかせて座をはずし、私たち家族だけでの食事となった。
旅の疲れであまり食欲もないが、一通り箸をつけると畳の上にゴロリと横だわって手足を伸ばすと、三日間、椅子と固いベッドで縮こまっていた身体が一気に解放された感じで心地よく、そのまま眠り込んでしまった。
「さあ、出かけましょうか」
原口さんの声で起こされて、新義州《シンウィジュ》の街の見物へ。
「街なかは大して見るものもありませんから、先ず河へ行ってみましょう」と案内された所が、父から聞いていた朝鮮半島と満州の開を流れる鴨緑江である。
半島と大陸を分ける河川は、この半島最長の鴨緑江(アムノッカン・七九〇キロ)のほかに豆満江(トウマンガン)があるが、両江ともに半島最高峰の白頭山(ペクトウサン・二七四四メートル)を分水嶺《ぶんすいれい》として流れ出で、鴨緑江は西南に流れて黄海に達し、豆満江は東北に下って日本海に入っている。
川幅はどの位あるのか。遠く対岸の満州・安東(現・丹東)が霞んで見えるから、少なくともニキロや三キロはあると思われ、眼下にはあまり綺麗《きれい》とはいえない水が右から左へ滔々《とうとう》と流れて恐ろしいようだ。
説明によると、上流にダムが出来て水量も大分少なくなったし、近頃ではよほど寒くならない限り凍ることもないとのこと。
河には満州を繋ぐ鉄道も敷かれた大きな橋がかかり、舗道を人も渡れるようになっている。
「橋の真中に検問所があり、そこまでは行けますから行ってみましょう」原口さんに促《うなが》されて歩いてみる。
二十分ほど歩くと、検問所に着いた。そこには監視の朝鮮人・警察官数人がいて物々しいが、見物のみと聞いて、もの珍し気にこちらの様子を窺《うかが》い見るだけで何のお咎《とが》めもない。
この検問、地図では朝鮮も満州も赤く塗られた日本の領土なのに、と不思議な気がしたが、当時、行政区画の異なる二つの地域間には、あまり厳しくはないものの、人・物資の移動、特に人的資源の管理に制限が加えられ自由に行き来することはできなかった。
暫く、対岸の様子や検問の状況を見物して引き返してきたが、往復小一時間かかった計算からすると、川幅はやはりニキロ以上はあったのではないかと思われる。
街へとって返し、薄汚い街並みや往来する人々の様子を見ながら、昨日車窓から見た風景や、奇妙な服装を身に纏《まと》い不可解な言葉を喋《しゃべ》る人たちの中に今自分が居ること、そして釜山《プサン》からこちらずっと嗅《か》がされ続けた臭いが常に周りにある「現実」を、否応も無く受け入れなければならないことを、改めて思い知らされていた。
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父の工場のある北中面へ
新義州《シンウィジュ》の宿で一泊、翌日いよいよ目的地である北中面・元峰洞南楊市に向かった。
北中面・南楊市は新義州から多獅島線に乗り約一時間、黄海へ向けて走ったところにあり、昼前には現地に到着した。
正式な地名は、朝鮮平安北道龍川郡北中面元峰洞南楊市とまことに長たらしい。
この地名について、「道」は十五世紀初頭、朝鮮王朝になって出来上がった制度といわれ、当時は京畿《キョンギ》・忠清《チュンチョン》・慶尚《キョンサン》・全羅《チョルナ》・黄海《ファンヘ》・江原《カンウォン》・咸鏡《ハムギョン》・平安《ピョンアン》の八道であったものが十九世紀末期に夫々南・北に分割されて数は倍になった。またこの「八道」(パルド)は朝鮮を意味する愛称となったし、現地でいう「パルド」の呼称は各道の雅号《がごう》として愛用されていた。
各「道」は幾つかの「郡」から構成され、日本内地の「県」は規模では「道」に、行政感覚からすると「郡」に近い。またこの「郡」は幾つかの「邑」や「面」からなり、これが日本の町に相当した。
さらにこの下に多くの「里」や「洞」があって、これらはまた幾つかの村落(マウル)を含んでいた。
また因《ちなみ》みに、朝鮮の南北の総延長距離は約一〇〇〇キロ、古くは「三千里」と数えられて、国土の愛称でもあった。つまり、私たちは「三千里」の果て、「平安・北」パルドの「北中」という町に着いたのである。そして、この町の一角に父が勤めることになった東洋軽金属楊市工場があった。
東洋軽金属株式会社は、太平洋戦争が始まった直後の昭和十六年十二月十二日、既に三井鉱山の子会社であった東洋アルミニウム(株)が日本曹達《ソーダ》系の西鮮化学の事業を統合・継承する形で設立された会社(資本金・四五〇〇万円、会長・林新作、本店・京城府)で、当時朝鮮における三井系最大の金属工業会社であった。
前身の東洋アルミニウム(株)は、昭和十三年十二月十日に三井鉱山と南洋アルミニウム鉱業などとの共同出資によって設立され(資本金・二〇〇〇万円、本店・東京)、アルミナ製造は三井鉱山・三池工場、アルミニウム電解は同社・梅原工場で行うことになっていた。しかし昭和十五年、南洋アルミニウム鉱業のパラオ産ボーキサイト《アルミナ及びアルミニュウムの重要な原料》の増産を見込んで、より大規模な新工場の建設計画を立て、工場は豊富低廉な電力が得られる朝鮮に設置することになったが、この朝鮮進出は当時の軍部の思惑にも応えるものでもあった。
一方の斎館化学(昭和十四年十二月設立、資本金・三〇〇〇万円、社長・中野友礼)は多獅島工場(平安北道龍川郡府羅面元城洞所在、アルミナ、アルミニウム電解工場)を建設中であったが、日曹コンツェルンでは主要企業の経営悪化から傘下企業の大整理を企図しており、軍・朝鮮総督府は東洋アルミニウムに事業の継承を斡旋し、東洋アルミ側もこれを受けて新会社が設立されたという経緯があった。
こうしてできた東洋軽金属であるが、アルミナ製造は三池工場(アルミナ年産四万トン目標)で、またアルミニウム電解の方は多獅島工場ではなく、新たに楊市工場を設け、ここに設備を移すとともに、朝鮮鴨緑江水力発電(株)から電力供給を受けて年産二万トン規模のアルミニウムを生産することを目標とした。しかし工場建設が遅延したため、三池・場市両工場とも操業開始は、この年つまり昭和十八年にずれ込み、場市工場はようやく五月に動き始めたばかりであった。
工場には、日本人関係者約一〇〇人が派遣されたが、家族を入れると三〇〇人以上になったと思われる。すべての日本人が職員として工場の管理・運営にあたり、現地朝鮮人は一部を除き工員として作業に従事させられた。
私達が到着した時には日本人の約九割は既に現地入りし、生産もようやく軌道に乗り始めて、街には活気があふれていた。
新義州《シンウィジュ》の宿で一泊、翌日いよいよ目的地である北中面・元峰洞南楊市に向かった。
北中面・南楊市は新義州から多獅島線に乗り約一時間、黄海へ向けて走ったところにあり、昼前には現地に到着した。
正式な地名は、朝鮮平安北道龍川郡北中面元峰洞南楊市とまことに長たらしい。
この地名について、「道」は十五世紀初頭、朝鮮王朝になって出来上がった制度といわれ、当時は京畿《キョンギ》・忠清《チュンチョン》・慶尚《キョンサン》・全羅《チョルナ》・黄海《ファンヘ》・江原《カンウォン》・咸鏡《ハムギョン》・平安《ピョンアン》の八道であったものが十九世紀末期に夫々南・北に分割されて数は倍になった。またこの「八道」(パルド)は朝鮮を意味する愛称となったし、現地でいう「パルド」の呼称は各道の雅号《がごう》として愛用されていた。
各「道」は幾つかの「郡」から構成され、日本内地の「県」は規模では「道」に、行政感覚からすると「郡」に近い。またこの「郡」は幾つかの「邑」や「面」からなり、これが日本の町に相当した。
さらにこの下に多くの「里」や「洞」があって、これらはまた幾つかの村落(マウル)を含んでいた。
また因《ちなみ》みに、朝鮮の南北の総延長距離は約一〇〇〇キロ、古くは「三千里」と数えられて、国土の愛称でもあった。つまり、私たちは「三千里」の果て、「平安・北」パルドの「北中」という町に着いたのである。そして、この町の一角に父が勤めることになった東洋軽金属楊市工場があった。
東洋軽金属株式会社は、太平洋戦争が始まった直後の昭和十六年十二月十二日、既に三井鉱山の子会社であった東洋アルミニウム(株)が日本曹達《ソーダ》系の西鮮化学の事業を統合・継承する形で設立された会社(資本金・四五〇〇万円、会長・林新作、本店・京城府)で、当時朝鮮における三井系最大の金属工業会社であった。
前身の東洋アルミニウム(株)は、昭和十三年十二月十日に三井鉱山と南洋アルミニウム鉱業などとの共同出資によって設立され(資本金・二〇〇〇万円、本店・東京)、アルミナ製造は三井鉱山・三池工場、アルミニウム電解は同社・梅原工場で行うことになっていた。しかし昭和十五年、南洋アルミニウム鉱業のパラオ産ボーキサイト《アルミナ及びアルミニュウムの重要な原料》の増産を見込んで、より大規模な新工場の建設計画を立て、工場は豊富低廉な電力が得られる朝鮮に設置することになったが、この朝鮮進出は当時の軍部の思惑にも応えるものでもあった。
一方の斎館化学(昭和十四年十二月設立、資本金・三〇〇〇万円、社長・中野友礼)は多獅島工場(平安北道龍川郡府羅面元城洞所在、アルミナ、アルミニウム電解工場)を建設中であったが、日曹コンツェルンでは主要企業の経営悪化から傘下企業の大整理を企図しており、軍・朝鮮総督府は東洋アルミニウムに事業の継承を斡旋し、東洋アルミ側もこれを受けて新会社が設立されたという経緯があった。
こうしてできた東洋軽金属であるが、アルミナ製造は三池工場(アルミナ年産四万トン目標)で、またアルミニウム電解の方は多獅島工場ではなく、新たに楊市工場を設け、ここに設備を移すとともに、朝鮮鴨緑江水力発電(株)から電力供給を受けて年産二万トン規模のアルミニウムを生産することを目標とした。しかし工場建設が遅延したため、三池・場市両工場とも操業開始は、この年つまり昭和十八年にずれ込み、場市工場はようやく五月に動き始めたばかりであった。
工場には、日本人関係者約一〇〇人が派遣されたが、家族を入れると三〇〇人以上になったと思われる。すべての日本人が職員として工場の管理・運営にあたり、現地朝鮮人は一部を除き工員として作業に従事させられた。
私達が到着した時には日本人の約九割は既に現地入りし、生産もようやく軌道に乗り始めて、街には活気があふれていた。
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いよいよ始まる酷寒の地の生活
北中駅に着くと、同行の原口さんの案内で早速社宅に向かう。
楊市工場では、日本人は工場から百へ少し離れた職員社宅に、現地朝鮮人は工場の反対側にある工員社宅に居住していたが、資材課長として着任した父の社宅は、職員社宅の区画の入り口に近い北東の高台にあって、何処に行くにも便利であった。
家は木造モルタル造りで外見は洋風の一戸建て、家の中は二つの和室(八畳、六畳)とオンドル部屋(六畳)に、台所、トイレなどが付く立派なものであった。
オンドルとは冬の寒さ対策として、床はコンクリートにリノリウム張り、台所側から薪、または練炭を焚《た》いて、煙を床下に這わせる構造になった部屋のことである。
当然、煙は煙突から出すので、冬場は各家の煙突から一日中煙が出ていた。
朝鮮でも最北端に位置するこの地の冬は、十月から翌年の四月頃まで、最も寒いときは気温も零下三〇度まで下がる酷寒である。春と秋は短く、夏が終わると冬支度、冬が明ければ夏支度とまことに慌《あわただ》しいが、それでも短くとも過ごしやすい季節はあって、農作物は米、麦、トウモロコシ、芋の類、或いは野菜もちやんと育って豊富であった。
私達が現地入りした九月は、秋も深まろうという時で朝晩は肌寒く、そろそろ冬の気配が感じられる頃であったが、それでも未だコートを着込むほどではなかった。
父は「会社に到着の報告をしてくる」といって、すぐ出かけていった。
内地から先に送り出していた家財道具一式は未だ到着しておらず、取りあえず生活するに最低限必要な道具として会社から借りてあった寝具や炊事道具などが置いてある、がらんとした部屋に、母・姉・私と弟の私たち四人は「あ-あ、疲れた」と手足を伸ばして横たわった。
三日に出発して、途中、旅館・船・汽車・旅館と四泊の長旅を終えて今日はもう七日、本当に、三千里を越えて遥々《はるばる》来たものとの実感が沸いてくる。
こうして私たちの外地・朝鮮での生活は始まったが、あとあと「持って来るんじやなかった」と嘆くことになる貨車一杯の家財も、一週間もしないうちに到着して、ようやく落ち着いた生活ができるようになった。
学校は、工場関係者子弟その他日本人のみを受け入れる小学校(国民学校)が社宅の傍に作られ、一学年二〇~三〇人、全校でも一五〇人ほどの小さな規模であったが、先生は内地からの派遣、または現地採用者であった。
また中学校になると、内地残留《=日本に残って》のケースもあって生徒数が少なかったから、新義州まで汽車通学を余儀なくされた。
国民学校は既に二学期に入っており、早速手続きを済ませて通うようになる。
校舎は新しかったが入学者数が予想を上回って手狭になったことから、増築のため一時期鴨緑《ヤールー》江河口の多獅島との間にある龍岩浦《ヨムアムポ》の学校と共同授業が行われ、汽車で通学することになった。しかし工事も二ケ月ばかりで終わったので、またすぐ元の校合に戻ってきた。
けれども、昭和二十年八月までほぼ二年あった学校生活、特に授業の内容をあまり記憶していないのは何故なのか、別に学校が嫌いだったわけでもなかったし、今もって不思議な気がしてならない。
ただ修身の時間がやたらに厳しかったこと、内地と違って「奉安殿《ほうあんでん》」が無かったから、毎朝、東南の方向を向き「宮城」遥拝《ようはい=遠くから拝む》をさせられたこと、始業式や旗日には、校長先生が恭しく捧《ささげ》げもってきた漆塗《うるしぬり》りの黒い箱から、「巻物」の教育勅語を取り出して読むのを、頭を下げて聞かされた。また勅語《ちょくご=天皇の言葉》は聞くだけでなく毎日のように暗誦《あんしょう》させられた。
「チンオモウニ・ワガコウソコウソウ・クニヲハジムルコト・コウエンニ・トクヲタツルコトシンコウナリ・ワガシンミン・ヨクチュウニ・ヨクコウニ・オクチョウココロヲイツニシテ・ヨヨソノビヲナセルハ・コレワガコクタイノセイカテ…ナンジシンミン・フボニコウニ・ケイテイニュウニ・フウフアイフシ・ホウュウアイシンジ…イッタンカンキュウアレバ・ギュウコウニホウジ…ケンケンフクョウシテ・ミナソノトクヲイツニセンコトヲ・コイネガウ:ギョメイギョジ」、当時意味は正確には解らなかったが今でもすらすら出てくるのは、当時の柔らかい頭に徹底的に叩き込まれたお陰であろう。
住んでいた北中面元峰洞南楊市は、工場ができるまでは静かな田園地帯であったと思われ、東南に低い山並みがあるだけで、ほかはどちらを見ても大きく開け、特に鴨緑江のかなた、西の大地に夕日が赤く沈む風景はこれが大陸といった風情で、少なくとも日本では到底お目にかかかれぬ壮大さがあった。
最初の頃は、街に買い物に出るのも心配で、日常何かと面倒をみてくれる朴さんに案内を頼んでいたが、次第に言葉や環境にも慣れてくると、友達や両親と出かけるようになった。勿論生活に必要な物品は殆ど社宅の中にある売店で買えるが、物珍しさも手伝って果物などは街で買ってきて食べることが多くなった。
特にマクワ瓜や西瓜などの果物、独特の味がする飴や餅などを買い食いするのが楽しみで、当然ながらそのような機会を通じて言葉も憶えることになる。とはいうものの、文法が解るわけでもないので聞き覚えた単語を並べるだけ。向こうもよほどの老人でない限り日本語が解るから結局チャンポンになってしまい、「アンニョン・ハセョ」、「コマスミダ」などの挨拶はいいとして、「マッカ・チョセョ、いくら?」、「高いよ、ナップンよ」、「飴、ハナ・チョセョ」などと、まことに不可思議な会語になっていた。
いずれにしても、こうして街に出たりしない限り、社宅と学校という日本人社会の中で隔離されて生活する時間の方が良かったので、結局最後まで正しい朝鮮語を億えることができなかったのは、今にして思えば誠に残念である。
昭和19年の春? 自宅玄関にて
父が撮影してくれた写真。後列左端・防寒帽が私。
北中駅に着くと、同行の原口さんの案内で早速社宅に向かう。
楊市工場では、日本人は工場から百へ少し離れた職員社宅に、現地朝鮮人は工場の反対側にある工員社宅に居住していたが、資材課長として着任した父の社宅は、職員社宅の区画の入り口に近い北東の高台にあって、何処に行くにも便利であった。
家は木造モルタル造りで外見は洋風の一戸建て、家の中は二つの和室(八畳、六畳)とオンドル部屋(六畳)に、台所、トイレなどが付く立派なものであった。
オンドルとは冬の寒さ対策として、床はコンクリートにリノリウム張り、台所側から薪、または練炭を焚《た》いて、煙を床下に這わせる構造になった部屋のことである。
当然、煙は煙突から出すので、冬場は各家の煙突から一日中煙が出ていた。
朝鮮でも最北端に位置するこの地の冬は、十月から翌年の四月頃まで、最も寒いときは気温も零下三〇度まで下がる酷寒である。春と秋は短く、夏が終わると冬支度、冬が明ければ夏支度とまことに慌《あわただ》しいが、それでも短くとも過ごしやすい季節はあって、農作物は米、麦、トウモロコシ、芋の類、或いは野菜もちやんと育って豊富であった。
私達が現地入りした九月は、秋も深まろうという時で朝晩は肌寒く、そろそろ冬の気配が感じられる頃であったが、それでも未だコートを着込むほどではなかった。
父は「会社に到着の報告をしてくる」といって、すぐ出かけていった。
内地から先に送り出していた家財道具一式は未だ到着しておらず、取りあえず生活するに最低限必要な道具として会社から借りてあった寝具や炊事道具などが置いてある、がらんとした部屋に、母・姉・私と弟の私たち四人は「あ-あ、疲れた」と手足を伸ばして横たわった。
三日に出発して、途中、旅館・船・汽車・旅館と四泊の長旅を終えて今日はもう七日、本当に、三千里を越えて遥々《はるばる》来たものとの実感が沸いてくる。
こうして私たちの外地・朝鮮での生活は始まったが、あとあと「持って来るんじやなかった」と嘆くことになる貨車一杯の家財も、一週間もしないうちに到着して、ようやく落ち着いた生活ができるようになった。
学校は、工場関係者子弟その他日本人のみを受け入れる小学校(国民学校)が社宅の傍に作られ、一学年二〇~三〇人、全校でも一五〇人ほどの小さな規模であったが、先生は内地からの派遣、または現地採用者であった。
また中学校になると、内地残留《=日本に残って》のケースもあって生徒数が少なかったから、新義州まで汽車通学を余儀なくされた。
国民学校は既に二学期に入っており、早速手続きを済ませて通うようになる。
校舎は新しかったが入学者数が予想を上回って手狭になったことから、増築のため一時期鴨緑《ヤールー》江河口の多獅島との間にある龍岩浦《ヨムアムポ》の学校と共同授業が行われ、汽車で通学することになった。しかし工事も二ケ月ばかりで終わったので、またすぐ元の校合に戻ってきた。
けれども、昭和二十年八月までほぼ二年あった学校生活、特に授業の内容をあまり記憶していないのは何故なのか、別に学校が嫌いだったわけでもなかったし、今もって不思議な気がしてならない。
ただ修身の時間がやたらに厳しかったこと、内地と違って「奉安殿《ほうあんでん》」が無かったから、毎朝、東南の方向を向き「宮城」遥拝《ようはい=遠くから拝む》をさせられたこと、始業式や旗日には、校長先生が恭しく捧《ささげ》げもってきた漆塗《うるしぬり》りの黒い箱から、「巻物」の教育勅語を取り出して読むのを、頭を下げて聞かされた。また勅語《ちょくご=天皇の言葉》は聞くだけでなく毎日のように暗誦《あんしょう》させられた。
「チンオモウニ・ワガコウソコウソウ・クニヲハジムルコト・コウエンニ・トクヲタツルコトシンコウナリ・ワガシンミン・ヨクチュウニ・ヨクコウニ・オクチョウココロヲイツニシテ・ヨヨソノビヲナセルハ・コレワガコクタイノセイカテ…ナンジシンミン・フボニコウニ・ケイテイニュウニ・フウフアイフシ・ホウュウアイシンジ…イッタンカンキュウアレバ・ギュウコウニホウジ…ケンケンフクョウシテ・ミナソノトクヲイツニセンコトヲ・コイネガウ:ギョメイギョジ」、当時意味は正確には解らなかったが今でもすらすら出てくるのは、当時の柔らかい頭に徹底的に叩き込まれたお陰であろう。
住んでいた北中面元峰洞南楊市は、工場ができるまでは静かな田園地帯であったと思われ、東南に低い山並みがあるだけで、ほかはどちらを見ても大きく開け、特に鴨緑江のかなた、西の大地に夕日が赤く沈む風景はこれが大陸といった風情で、少なくとも日本では到底お目にかかかれぬ壮大さがあった。
最初の頃は、街に買い物に出るのも心配で、日常何かと面倒をみてくれる朴さんに案内を頼んでいたが、次第に言葉や環境にも慣れてくると、友達や両親と出かけるようになった。勿論生活に必要な物品は殆ど社宅の中にある売店で買えるが、物珍しさも手伝って果物などは街で買ってきて食べることが多くなった。
特にマクワ瓜や西瓜などの果物、独特の味がする飴や餅などを買い食いするのが楽しみで、当然ながらそのような機会を通じて言葉も憶えることになる。とはいうものの、文法が解るわけでもないので聞き覚えた単語を並べるだけ。向こうもよほどの老人でない限り日本語が解るから結局チャンポンになってしまい、「アンニョン・ハセョ」、「コマスミダ」などの挨拶はいいとして、「マッカ・チョセョ、いくら?」、「高いよ、ナップンよ」、「飴、ハナ・チョセョ」などと、まことに不可思議な会語になっていた。
いずれにしても、こうして街に出たりしない限り、社宅と学校という日本人社会の中で隔離されて生活する時間の方が良かったので、結局最後まで正しい朝鮮語を億えることができなかったのは、今にして思えば誠に残念である。
昭和19年の春? 自宅玄関にて
父が撮影してくれた写真。後列左端・防寒帽が私。
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キムチ
九月も末になると、冷たい北西の風が吹き始め、長く寒い冬の走りがやってきた。
朴さんが「そろそろキムチ漬けなくては」といって白菜、大根、葱《ねぎ》、などの野菜に、グチ、烏賊《いか》、牡蠣《かき》、小海老、アミなどの魚介類、そして真っ赤な粉唐辛子《こなとうがらし》をいっぱい買ってきてくれて、キムチ作りが始まった。
朝鮮では、このキムチが食卓には欠かせない食べ物、自前で作るから当然のことながら家毎に味が違う。
朴さんは、「牡蠣《かき》とアミを入れなけれパ美味しくないよ」、「一冬分作るから甕《かめ》三つは必要ね」といいながら、「こうやって作るんタ」と先ず自分で最初の甕半分ほどを漬け込み、あとは母と私たち子供が、見よう見真似で作業し半日がかりでようやく漬け終えた。
「さあ、これを地中に埋めるんタ。ポク穴掘って」朴さんに指示されるままに甕《かめ》がすっぽり入る穴を三つ庭先に堀り、これを埋め込んで完成。
「きっと美味しいよ」と彼も満足げであった。
作ったキムチは一ケ月もすると食べられるようになったが、凍りついた土を掘って取り出したキムチは氷がついてシヤキシヤキと音がして、何とも言えぬ味わいになっていた。
こうして北朝鮮の冬が始まったが、十月には氷が張り、一月から二月の真冬には寒風も手伝って零下三〇度にもなる酷寒、翌年三月までは冷蔵庫の中で生活していると言ったらいいだろうか。南国・鹿児島で生まれ育ち、神岡でもその寒さを経験しなかった身には、この最初の一年は堪《た》えた。
十一月も末、やがて師走を迎えようという頃になると、寒風が肌に突き刺さるように吹き始め、気温も次第に下がって零下一〇度を超す日が多くなってきた。
家の周りの水溜りや池はもとより道路も固く凍《い》てついて、朝の登校には重たい防寒靴が滑らないように、一歩一歩気をつけて歩かなければならない。
とにかくその寒さは尋常《じんじょう》ではなく、学校の行き返りは勿論、冬場の外出には、靴のほかにも綿の入った上着に毛皮の帽子、ドーナツのような形をした耳覆い、それに手袋は必需品で、外気に触れているところは顔だけという物々しい姿になる。
また外から帰って、つい手袋を取ってドアノブを握ると最悪の事態となる。その時は暫《しばらく》くジッと握ったまま体温で金属が温まるまで持っていなければならない。
最初のうちは、「そんなこと」と思いながら随分失敗もしたが、だんだん慣れて危険を回避する術を憶え不手際も減っていった。
しかし外はどんなに寒くても、家の中に入るとオンドルもあって暖かく、何とか普通の生活は保たれる仕組みができていた。生活の知恵とは良く言ったものである。とはいえ、オンドル部屋以外の朝晩の室温は零下まで下がり、朝起きての仕事は先ずお湯を沸かし、凍りついて水の出なくなった水道にこれを掛けること。顔を洗おうと思って下手に洗面器に触ろうものなら手に付いて離れなくなる。指一本でも持ち上げることができた。
次がトイレ。汚い話だが、汲み取り式の便所は排泄《はいせつ》したものが日に日に積もって、あたかも鍾乳洞《しょうにゅうどう》の石筍《せきじゅん=鍾乳洞の床上にできたたけのこ状の突起物》のように育ち、次第にわが身に追ってくる。頃合をみて外から棒で突っついて壊さなければならないが、男の仕事としてよくやらされたものだ。壊した汚物《おぶつ》は掻《か》きだして篭《かご》に入れ、裏の畠に肥料として持って運ぶ。しかし不思議なもので凍った汚物は臭いがなく、楽しくはないが決して苦痛ではなかった。
九月も末になると、冷たい北西の風が吹き始め、長く寒い冬の走りがやってきた。
朴さんが「そろそろキムチ漬けなくては」といって白菜、大根、葱《ねぎ》、などの野菜に、グチ、烏賊《いか》、牡蠣《かき》、小海老、アミなどの魚介類、そして真っ赤な粉唐辛子《こなとうがらし》をいっぱい買ってきてくれて、キムチ作りが始まった。
朝鮮では、このキムチが食卓には欠かせない食べ物、自前で作るから当然のことながら家毎に味が違う。
朴さんは、「牡蠣《かき》とアミを入れなけれパ美味しくないよ」、「一冬分作るから甕《かめ》三つは必要ね」といいながら、「こうやって作るんタ」と先ず自分で最初の甕半分ほどを漬け込み、あとは母と私たち子供が、見よう見真似で作業し半日がかりでようやく漬け終えた。
「さあ、これを地中に埋めるんタ。ポク穴掘って」朴さんに指示されるままに甕《かめ》がすっぽり入る穴を三つ庭先に堀り、これを埋め込んで完成。
「きっと美味しいよ」と彼も満足げであった。
作ったキムチは一ケ月もすると食べられるようになったが、凍りついた土を掘って取り出したキムチは氷がついてシヤキシヤキと音がして、何とも言えぬ味わいになっていた。
こうして北朝鮮の冬が始まったが、十月には氷が張り、一月から二月の真冬には寒風も手伝って零下三〇度にもなる酷寒、翌年三月までは冷蔵庫の中で生活していると言ったらいいだろうか。南国・鹿児島で生まれ育ち、神岡でもその寒さを経験しなかった身には、この最初の一年は堪《た》えた。
十一月も末、やがて師走を迎えようという頃になると、寒風が肌に突き刺さるように吹き始め、気温も次第に下がって零下一〇度を超す日が多くなってきた。
家の周りの水溜りや池はもとより道路も固く凍《い》てついて、朝の登校には重たい防寒靴が滑らないように、一歩一歩気をつけて歩かなければならない。
とにかくその寒さは尋常《じんじょう》ではなく、学校の行き返りは勿論、冬場の外出には、靴のほかにも綿の入った上着に毛皮の帽子、ドーナツのような形をした耳覆い、それに手袋は必需品で、外気に触れているところは顔だけという物々しい姿になる。
また外から帰って、つい手袋を取ってドアノブを握ると最悪の事態となる。その時は暫《しばらく》くジッと握ったまま体温で金属が温まるまで持っていなければならない。
最初のうちは、「そんなこと」と思いながら随分失敗もしたが、だんだん慣れて危険を回避する術を憶え不手際も減っていった。
しかし外はどんなに寒くても、家の中に入るとオンドルもあって暖かく、何とか普通の生活は保たれる仕組みができていた。生活の知恵とは良く言ったものである。とはいえ、オンドル部屋以外の朝晩の室温は零下まで下がり、朝起きての仕事は先ずお湯を沸かし、凍りついて水の出なくなった水道にこれを掛けること。顔を洗おうと思って下手に洗面器に触ろうものなら手に付いて離れなくなる。指一本でも持ち上げることができた。
次がトイレ。汚い話だが、汲み取り式の便所は排泄《はいせつ》したものが日に日に積もって、あたかも鍾乳洞《しょうにゅうどう》の石筍《せきじゅん=鍾乳洞の床上にできたたけのこ状の突起物》のように育ち、次第にわが身に追ってくる。頃合をみて外から棒で突っついて壊さなければならないが、男の仕事としてよくやらされたものだ。壊した汚物《おぶつ》は掻《か》きだして篭《かご》に入れ、裏の畠に肥料として持って運ぶ。しかし不思議なもので凍った汚物は臭いがなく、楽しくはないが決して苦痛ではなかった。
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9
初めて迎える半島の正月
寒さに向かってスタートしたこの地の生活も三ケ月が過ぎて、朝鮮での初めての正月がやってきた。
その頃、南太平洋での戦争もギルバート諸島(タラワ・マキン島)がアメリカ軍に占領され、次いでマーシャル諸島の日本軍は全滅、トラック諸島《現チューク諸島》にあった日本連合艦隊司令部も西のパラオに拠点を移すなど、後退一途であったが、ラジオで聞く大本営発表は、いつも「我が方の損害軽微」、「帝国陸海軍は戦力を結集して敵を撃退」と報ずるばかり。
父の工場も、操業開始後まもなく戦局悪化に伴い南洋からの原料・ボーキサイトが不足したため、効率の悪い瀝頁クリンカーヘ原料転換を余儀なくされるなどの理由もあって、アルミニウムの汲み出し量が予定を大きく下回っていた。
勿論、父もそんなことを家族に告げることもなかったから、私たちは戦争も工場も順調と受け取って、のんびりした毎日を送っていたのである。
その頃の日本内地では、戦争が激化する中で物資の不足が日立ち、既に太平洋戦争の初期から実施されていた経済統制も更に厳しくなって、食糧や衣料など生活物資の配給も物によっては遅配になったり、手に入り難いものは「代用品」を食べたり使ったりしていたが、ここ朝鮮では配給制度はあったものの物資は比較的潤沢《じゅんたく=十分ゆとりのある》で、正月の食卓にはいつも通り、母手作りの雑煮やおせち料理が並んだ。ただ一つ違ったのはキムチが一品加わったことであった。
「おめでとう。こうして朝鮮で正月を祝うとは思わなかったけど、みな元気で新年を迎えることができて何よりだ」
父の正月恒例の一声も、感慨深げである。
「この四月から、満智子は新義州の女学校、公雄も四年生になるな。みな頑張って勉強するように」、そして「こんなご馳走が食べられるのは、戦地で戦っている兵隊さんのお陰だ」。
それまでは「兵隊さん」と「お百姓さん」だったが、それもやはり不安な戦況がいわせていたのかも知れなかった。
「でも、この鶏肉は美味いな」。
父が言う鶏とは、ここに来てすぐ小屋を作って飼い始めた鶏で、正月月に二羽、私が生まれて初めて絞《し》めたものである。
勿論、牛も豚も多少なら手に入り、朝鮮人が好んで食べる犬も朴さんに頼めば何とかなるが、蛋白源としては鶏が最も手ごろで美味しいから、社宅でもあちこちで飼われていた。
他所で見憶えた方法でやった結果が上手くいったのを、父が誉《ほ》めてくれたのである。
そして鶏係りはその後もずっと私の役回りとなったが、ある時は絞めて包丁を入れた途端に走りだし、その後はつくづく殺生は嫌だと思いながらも、食べるためには仕方がないと鶏に因果を含めながら「作業」するよりなかった。
鶏ばかりでなく、「お前は男だからお母さんをちゃんと手伝うんだよ」と父に言われ、家の中の力仕事や、春・秋の畑仕事はよくやらされたが、これが後々大変役に立つことなど、その時は知る由もなかったのである。
初めて迎える半島の正月
寒さに向かってスタートしたこの地の生活も三ケ月が過ぎて、朝鮮での初めての正月がやってきた。
その頃、南太平洋での戦争もギルバート諸島(タラワ・マキン島)がアメリカ軍に占領され、次いでマーシャル諸島の日本軍は全滅、トラック諸島《現チューク諸島》にあった日本連合艦隊司令部も西のパラオに拠点を移すなど、後退一途であったが、ラジオで聞く大本営発表は、いつも「我が方の損害軽微」、「帝国陸海軍は戦力を結集して敵を撃退」と報ずるばかり。
父の工場も、操業開始後まもなく戦局悪化に伴い南洋からの原料・ボーキサイトが不足したため、効率の悪い瀝頁クリンカーヘ原料転換を余儀なくされるなどの理由もあって、アルミニウムの汲み出し量が予定を大きく下回っていた。
勿論、父もそんなことを家族に告げることもなかったから、私たちは戦争も工場も順調と受け取って、のんびりした毎日を送っていたのである。
その頃の日本内地では、戦争が激化する中で物資の不足が日立ち、既に太平洋戦争の初期から実施されていた経済統制も更に厳しくなって、食糧や衣料など生活物資の配給も物によっては遅配になったり、手に入り難いものは「代用品」を食べたり使ったりしていたが、ここ朝鮮では配給制度はあったものの物資は比較的潤沢《じゅんたく=十分ゆとりのある》で、正月の食卓にはいつも通り、母手作りの雑煮やおせち料理が並んだ。ただ一つ違ったのはキムチが一品加わったことであった。
「おめでとう。こうして朝鮮で正月を祝うとは思わなかったけど、みな元気で新年を迎えることができて何よりだ」
父の正月恒例の一声も、感慨深げである。
「この四月から、満智子は新義州の女学校、公雄も四年生になるな。みな頑張って勉強するように」、そして「こんなご馳走が食べられるのは、戦地で戦っている兵隊さんのお陰だ」。
それまでは「兵隊さん」と「お百姓さん」だったが、それもやはり不安な戦況がいわせていたのかも知れなかった。
「でも、この鶏肉は美味いな」。
父が言う鶏とは、ここに来てすぐ小屋を作って飼い始めた鶏で、正月月に二羽、私が生まれて初めて絞《し》めたものである。
勿論、牛も豚も多少なら手に入り、朝鮮人が好んで食べる犬も朴さんに頼めば何とかなるが、蛋白源としては鶏が最も手ごろで美味しいから、社宅でもあちこちで飼われていた。
他所で見憶えた方法でやった結果が上手くいったのを、父が誉《ほ》めてくれたのである。
そして鶏係りはその後もずっと私の役回りとなったが、ある時は絞めて包丁を入れた途端に走りだし、その後はつくづく殺生は嫌だと思いながらも、食べるためには仕方がないと鶏に因果を含めながら「作業」するよりなかった。
鶏ばかりでなく、「お前は男だからお母さんをちゃんと手伝うんだよ」と父に言われ、家の中の力仕事や、春・秋の畑仕事はよくやらされたが、これが後々大変役に立つことなど、その時は知る由もなかったのである。
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10
朝鮮の遊び
家の手伝いをしながらも、私とて遊び盛りの子供である。
特に冬場は畑仕事がないから、寒さにさえ慣れてくれば外で思いっきり遊ぶことができた。
氷の世界ですることは一つ、ただただ滑ることである。といってもスケートの経験はまったくないし、靴も未だ買って貰えなかったので、自分で作ったソリを道具にして滑るよりない。
ソリは大きな下駄《げた》状で、上に座って両手にストックを持って漕《こ》ぐ。下駄の歯にあたる部分には、最初、太い電線を二本打ち付けて這《は》わせたが、どうしてもエッジが効かず横滑りしてしまう。そこで父に頼んで、歯になるようなL字型の鉄片を二本、工場で探してきて貰い、その先を鑢《やすり》で丸くして取り付けたところ上等なソリが出来上がった。ストックは五〇センチほどの棒の先に五寸釘をうまく挟み込んで作ったものである。
しばらくは、こうして作った自家製の道具を抱え、毎日のように隣の宮島君など、友達数人と一緒に出かけては氷滑りに精を出していたが、やはりスケートでないと物足りなってくる。
父に二度、三度頼むと、ようやくズックのスケート靴を買ってくれた。
早速、喜び勇んで出かけたものの、歯が長く細いロング・スケートは氷の上に立つだけでも難しい。
三、四日難渋した或る日、スッと立って滑れる夢をみた。翌朝玄関前の用水桶の氷に登ってみると、不思議なことに易々と立てるではないか。それからというもの、スケートで明け暮れる毎日になって腕もめきめき上達していった。
こうして冬はもっぱらスケートであるが、家の周りは開けて遊び場所には困らない。
鬼ごっこ、陣取り合戦、缶けり、パチンコ、竹馬など内地でもよくやったクラシックな遊びは勿論のこと、戦時中の遊びとして流行った潜水艦ごっこ、また朝鮮特有の紐《ひも》の長いブランコや両端に立って飛び跳ねるシーソー、それにチェギ、モッパイ、トッキなどと、することは山ほどあって、どれもが面白く、学校から帰ると家の仕事がない限り日が暮れるまで、時間を惜しんで遊んだものである。
チェギとは穴の開いた硬貨二~三枚を重ね、鶏の尻尾の羽をちょうど羽子板の羽根のように何枚か紐で結わえ付け、足を内側に曲げながら踵《かかと》の横で蹴《け》り上げ、何回できるかを競う遊び。上手くなると曲芸のように足の各部を使って何十回も続けることができる。
ちょうどサッカーのリフティングと同じで、今にして思うと朝鮮人・韓国人がサッカーに強いのも、ニンニクや人参によって強化される体力ばかりでなく、子供の頃からこうした足技を身につける機会が多いせいなのかと頷《うなず》けるのである。
モッパイとは大型のパチンコといえるもので、一.五メートルほどの紐の中央部に網状の部分を作って石を載せ、紐の片方を手首に結わえ付けて、もう片方を離しながら挺子《てこ》の原理で石を投げる。かなり遠くまで石は飛ぶし、上手くなると木の上の鳥も落とせる代物である。
またトッキは一〇~二〇センチの棒の両先を斜めに切り落とし、地面の上に置いて、切り落した端を五〇センチほどの棒で軽く叩き、跳ね上がったものを更に打って遠くに飛ばす競技で、距離を競ったり、野球のように一定の場所を何回打って回ってくるかを争うもの。
竹馬も長いものは数メートルに及ぶといった具合だし、シーソーやブランコにしても、朝鮮人の遊戯《ゆうぎ》はどれもが空高く飛んだり跳ねだり飛ばしたりと、何とも不思議なものばかりだが、やり始めたら面白くて止められない。お陰で身体のバランス感覚は格段に良くなったし、集中力も高まった
のではないだろうか。
朝鮮の遊び
家の手伝いをしながらも、私とて遊び盛りの子供である。
特に冬場は畑仕事がないから、寒さにさえ慣れてくれば外で思いっきり遊ぶことができた。
氷の世界ですることは一つ、ただただ滑ることである。といってもスケートの経験はまったくないし、靴も未だ買って貰えなかったので、自分で作ったソリを道具にして滑るよりない。
ソリは大きな下駄《げた》状で、上に座って両手にストックを持って漕《こ》ぐ。下駄の歯にあたる部分には、最初、太い電線を二本打ち付けて這《は》わせたが、どうしてもエッジが効かず横滑りしてしまう。そこで父に頼んで、歯になるようなL字型の鉄片を二本、工場で探してきて貰い、その先を鑢《やすり》で丸くして取り付けたところ上等なソリが出来上がった。ストックは五〇センチほどの棒の先に五寸釘をうまく挟み込んで作ったものである。
しばらくは、こうして作った自家製の道具を抱え、毎日のように隣の宮島君など、友達数人と一緒に出かけては氷滑りに精を出していたが、やはりスケートでないと物足りなってくる。
父に二度、三度頼むと、ようやくズックのスケート靴を買ってくれた。
早速、喜び勇んで出かけたものの、歯が長く細いロング・スケートは氷の上に立つだけでも難しい。
三、四日難渋した或る日、スッと立って滑れる夢をみた。翌朝玄関前の用水桶の氷に登ってみると、不思議なことに易々と立てるではないか。それからというもの、スケートで明け暮れる毎日になって腕もめきめき上達していった。
こうして冬はもっぱらスケートであるが、家の周りは開けて遊び場所には困らない。
鬼ごっこ、陣取り合戦、缶けり、パチンコ、竹馬など内地でもよくやったクラシックな遊びは勿論のこと、戦時中の遊びとして流行った潜水艦ごっこ、また朝鮮特有の紐《ひも》の長いブランコや両端に立って飛び跳ねるシーソー、それにチェギ、モッパイ、トッキなどと、することは山ほどあって、どれもが面白く、学校から帰ると家の仕事がない限り日が暮れるまで、時間を惜しんで遊んだものである。
チェギとは穴の開いた硬貨二~三枚を重ね、鶏の尻尾の羽をちょうど羽子板の羽根のように何枚か紐で結わえ付け、足を内側に曲げながら踵《かかと》の横で蹴《け》り上げ、何回できるかを競う遊び。上手くなると曲芸のように足の各部を使って何十回も続けることができる。
ちょうどサッカーのリフティングと同じで、今にして思うと朝鮮人・韓国人がサッカーに強いのも、ニンニクや人参によって強化される体力ばかりでなく、子供の頃からこうした足技を身につける機会が多いせいなのかと頷《うなず》けるのである。
モッパイとは大型のパチンコといえるもので、一.五メートルほどの紐の中央部に網状の部分を作って石を載せ、紐の片方を手首に結わえ付けて、もう片方を離しながら挺子《てこ》の原理で石を投げる。かなり遠くまで石は飛ぶし、上手くなると木の上の鳥も落とせる代物である。
またトッキは一〇~二〇センチの棒の両先を斜めに切り落とし、地面の上に置いて、切り落した端を五〇センチほどの棒で軽く叩き、跳ね上がったものを更に打って遠くに飛ばす競技で、距離を競ったり、野球のように一定の場所を何回打って回ってくるかを争うもの。
竹馬も長いものは数メートルに及ぶといった具合だし、シーソーやブランコにしても、朝鮮人の遊戯《ゆうぎ》はどれもが空高く飛んだり跳ねだり飛ばしたりと、何とも不思議なものばかりだが、やり始めたら面白くて止められない。お陰で身体のバランス感覚は格段に良くなったし、集中力も高まった
のではないだろうか。
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