@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

チョッパリの邑 (7) 椎野 公雄

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

編集者

通常 チョッパリの邑 (7) 椎野 公雄

msg#
depth:
1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/5/4 8:37
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 いよいよ始まる酷寒の地の生活

 北中駅に着くと、同行の原口さんの案内で早速社宅に向かう。
 楊市工場では、日本人は工場から百へ少し離れた職員社宅に、現地朝鮮人は工場の反対側にある工員社宅に居住していたが、資材課長として着任した父の社宅は、職員社宅の区画の入り口に近い北東の高台にあって、何処に行くにも便利であった。
 家は木造モルタル造りで外見は洋風の一戸建て、家の中は二つの和室(八畳、六畳)とオンドル部屋(六畳)に、台所、トイレなどが付く立派なものであった。
 オンドルとは冬の寒さ対策として、床はコンクリートにリノリウム張り、台所側から薪、または練炭を焚《た》いて、煙を床下に這わせる構造になった部屋のことである。
 当然、煙は煙突から出すので、冬場は各家の煙突から一日中煙が出ていた。
 朝鮮でも最北端に位置するこの地の冬は、十月から翌年の四月頃まで、最も寒いときは気温も零下三〇度まで下がる酷寒である。春と秋は短く、夏が終わると冬支度、冬が明ければ夏支度とまことに慌《あわただ》しいが、それでも短くとも過ごしやすい季節はあって、農作物は米、麦、トウモロコシ、芋の類、或いは野菜もちやんと育って豊富であった。
 私達が現地入りした九月は、秋も深まろうという時で朝晩は肌寒く、そろそろ冬の気配が感じられる頃であったが、それでも未だコートを着込むほどではなかった。
 父は「会社に到着の報告をしてくる」といって、すぐ出かけていった。
 内地から先に送り出していた家財道具一式は未だ到着しておらず、取りあえず生活するに最低限必要な道具として会社から借りてあった寝具や炊事道具などが置いてある、がらんとした部屋に、母・姉・私と弟の私たち四人は「あ-あ、疲れた」と手足を伸ばして横たわった。
 三日に出発して、途中、旅館・船・汽車・旅館と四泊の長旅を終えて今日はもう七日、本当に、三千里を越えて遥々《はるばる》来たものとの実感が沸いてくる。

 こうして私たちの外地・朝鮮での生活は始まったが、あとあと「持って来るんじやなかった」と嘆くことになる貨車一杯の家財も、一週間もしないうちに到着して、ようやく落ち着いた生活ができるようになった。
 学校は、工場関係者子弟その他日本人のみを受け入れる小学校(国民学校)が社宅の傍に作られ、一学年二〇~三〇人、全校でも一五〇人ほどの小さな規模であったが、先生は内地からの派遣、または現地採用者であった。
 また中学校になると、内地残留《=日本に残って》のケースもあって生徒数が少なかったから、新義州まで汽車通学を余儀なくされた。
 国民学校は既に二学期に入っており、早速手続きを済ませて通うようになる。
校舎は新しかったが入学者数が予想を上回って手狭になったことから、増築のため一時期鴨緑《ヤールー》江河口の多獅島との間にある龍岩浦《ヨムアムポ》の学校と共同授業が行われ、汽車で通学することになった。しかし工事も二ケ月ばかりで終わったので、またすぐ元の校合に戻ってきた。
 けれども、昭和二十年八月までほぼ二年あった学校生活、特に授業の内容をあまり記憶していないのは何故なのか、別に学校が嫌いだったわけでもなかったし、今もって不思議な気がしてならない。
 ただ修身の時間がやたらに厳しかったこと、内地と違って「奉安殿《ほうあんでん》」が無かったから、毎朝、東南の方向を向き「宮城」遥拝《ようはい=遠くから拝む》をさせられたこと、始業式や旗日には、校長先生が恭しく捧《ささげ》げもってきた漆塗《うるしぬり》りの黒い箱から、「巻物」の教育勅語を取り出して読むのを、頭を下げて聞かされた。また勅語《ちょくご=天皇の言葉》は聞くだけでなく毎日のように暗誦《あんしょう》させられた。
 「チンオモウニ・ワガコウソコウソウ・クニヲハジムルコト・コウエンニ・トクヲタツルコトシンコウナリ・ワガシンミン・ヨクチュウニ・ヨクコウニ・オクチョウココロヲイツニシテ・ヨヨソノビヲナセルハ・コレワガコクタイノセイカテ…ナンジシンミン・フボニコウニ・ケイテイニュウニ・フウフアイフシ・ホウュウアイシンジ…イッタンカンキュウアレバ・ギュウコウニホウジ…ケンケンフクョウシテ・ミナソノトクヲイツニセンコトヲ・コイネガウ:ギョメイギョジ」、当時意味は正確には解らなかったが今でもすらすら出てくるのは、当時の柔らかい頭に徹底的に叩き込まれたお陰であろう。

 住んでいた北中面元峰洞南楊市は、工場ができるまでは静かな田園地帯であったと思われ、東南に低い山並みがあるだけで、ほかはどちらを見ても大きく開け、特に鴨緑江のかなた、西の大地に夕日が赤く沈む風景はこれが大陸といった風情で、少なくとも日本では到底お目にかかかれぬ壮大さがあった。
 最初の頃は、街に買い物に出るのも心配で、日常何かと面倒をみてくれる朴さんに案内を頼んでいたが、次第に言葉や環境にも慣れてくると、友達や両親と出かけるようになった。勿論生活に必要な物品は殆ど社宅の中にある売店で買えるが、物珍しさも手伝って果物などは街で買ってきて食べることが多くなった。
 特にマクワ瓜や西瓜などの果物、独特の味がする飴や餅などを買い食いするのが楽しみで、当然ながらそのような機会を通じて言葉も憶えることになる。とはいうものの、文法が解るわけでもないので聞き覚えた単語を並べるだけ。向こうもよほどの老人でない限り日本語が解るから結局チャンポンになってしまい、「アンニョン・ハセョ」、「コマスミダ」などの挨拶はいいとして、「マッカ・チョセョ、いくら?」、「高いよ、ナップンよ」、「飴、ハナ・チョセョ」などと、まことに不可思議な会語になっていた。
 いずれにしても、こうして街に出たりしない限り、社宅と学校という日本人社会の中で隔離されて生活する時間の方が良かったので、結局最後まで正しい朝鮮語を億えることができなかったのは、今にして思えば誠に残念である。 

 昭和19年の春? 自宅玄関にて
 父が撮影してくれた写真。後列左端・防寒帽が私。

--
編集者 (代理投稿)

  条件検索へ