増補版・表参道が燃えた日
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投稿日時 2009/11/9 8:11
編集者
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はじめに
先に、掲載させていただきました「表参道が燃えた日」の「増補版」が発行されました。
こちらも、掲載の許可をいただいていますので掲載いたします。
メロウ伝承館 スタッフ
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増補版発行にあたって
昨年二月に初版を発行しました本書は、予想を超える反響を呼びました。戦災によって受けた衝撃が、いまだに多くの人の心に深く刻まれていることを物語っています。
毎年五月二十五日に行われている青山、善光寺での戦災犠牲者の法要には、新聞報道の影響もあってか、今年は大勢の方が参加されました。法要のあとの懇談の場で、初めて参加された一人の男性から、「私は疎開先で、空襲で母と姉が行方不明になったという連絡を受けた。その時亡くなった人の遺体はどこにいったのか、知っている方がいたら教えて欲しい」という悲痛な訴えがありました。その後この男性から「当時、父は外地にあり、子供であった私と弟が母の言いつけで一足先に疎開したため、女、子供を置いて男が先に逃げたという結果になり、今でも後悔の念にさいなまれ、大きな重荷となって私の心を塞いでいます。二人は生きたまま火に追われて焼き殺されたという事実を想像することを、私の心は拒否してしまいます。」というFAXをいただきました。
戦後六十四年を経た今日でもこうした思いを抱えた方が何人もおられ、戦災体験を語ることを拒まれています。一方、誰にも話せなかった痛烈な恐怖の思い出を話すことはつらいけれども、事実を伝えることが、愚かな殺戮を再び繰返さないことになるならばと手記を寄せられたかたもいらっしゃいます。
このたびの増刷にあたっては、新たに寄稿していただいた八人のかたの体験記を加え、増補版といたしました。掲載したかたは原宿一丁目、二丁目で罹災されたかたが多く、三篇は、表参道のすぐ北方の新道の貯水池周辺での惨状の話です。
初版と同じように多くの方のご協力をいただき、穂積和夫様には挿絵を描いていただきました。厚くお礼を申し上げます。
二〇〇九年八月
「表参道が燃えた日」編集委員会
編集者
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増補
四人の児を失って 本間 敬之
本間敬之さんは五月二十五日の空襲で、二人の娘、二人の息子を失いました。この詩は亡き娘房子さん(当時十七歳、陸軍軍医学校渋谷分室勤務)を通して語らせた詩からの抜萃です。
(編集委員会)
越えてまたまた二五日よる
空襲警報人びとの
寝つきの夢を驚かし
鳴りも終わらぬそのうちに
前にも増した大編隊
あとからあとからやってくる
前の日残った町々を
目標にしてものすごく
投弾すればおりもおり
強まる風にあおられて
見る見る火炎は猛烈に
舐るがように建てものの
大小とわず焼きはらう
被災都民の老若は
命からがら逃げまどう
残忍あくなき編隊は
それらの人の群れにまで
追いかけ追いかけ撃ちまくる
死者重傷者数しれず
付近に住まうわが家には
父さん留守に姉さんが
二人の弟かばいつつ
一生懸命防空に
尽くしていること気にかかり
室長どのにおゆるし得
火炎の中を駆けつけて
助力の功の甲斐もなく
家財は焼かれ力つき
姉弟三人手をとりて
穏田橋にたどりつき
渡る間もなく火の海に
とりまかれつつ斃れゆく
姿かすかに見るうちに
私も半身やけどして
柱にもたれだんだんと
はやる気力も尽きはてて
死をまつばかりとなりました
この時寮友出羽さんと
沢山さんのお二人が
火炎おかして私の
身の上あんじ応援に
駆けつけて直ぐ私をば
校にはこんで親切な
お手当てのため寝食も
忘れてお看護頂いた
おかげをもって一命を
一時なりとも助けられ
死んだ姉弟三人の
健気な最後の有様を
親しく父に告げ得たは
不幸中にも有がたい
なおその前に私は
穏田川に落ちこんで
危くおぼれかけた時
飯野お姉さんといま一人
見知らぬ他のおじさんに
お助け頂きましたこと
共に忘れぬうつし世の
尽きぬ喜び感謝です
ようやく二度まで皆さまの
貴い愛のお助けを
受けて何らのお報いも
叶わずついに六月の
一〇日の夕べ息たえて
天のみ国に入りました
ああうつし世にありし時
お勤め浅い私を
ほんとの妹どうように
多くの姉さま兄さまや
分室長どのまで
チャコチャコと
わが娘のようにいたわりて
ご指導下されましたこと
永遠に忘れぬ何よりの
貴い記念となりました
終戦一〇年いまとなり
改めての感謝をば
ささげて更に皆さまと
お国の栄えを祈ります
この惨酷の戦いが
二度と世界のどこにでも
おこらぬように念じます
科学の進歩はよいけれど
原水爆とかいう武器で
むりな戦争はじめたら
貴いわれ等の犠牲まで
水泡に帰しそのうえに
世界のどこの国々も
人の伝えぬ忌わしい
地獄の底となりましょう
どうか皆さまお力を
合わせて悪い人びとの
考え改め神さまの
正しいみ旨に導いて
みんな仲よく睦みあい
平和な世界ができるよう
ひたすらお祈りいたします
さらば皆さまさようなら
昭和四六年五月三〇日、
父、本間敬之しるす
(渋谷区穏田二丁目)
編集者
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姉、兄、弟を憶う
本間敬之の五女 浅賀 和子
「東京大空襲・戦災誌」に掲載された父敬之の詩を読みながら、涙が再びとまりませんでした。〝再び〟というのは、この本の発刊間もなく、まだ存命していた父に見せられて読んだ時にも、空襲で逃げ惑いながら亡くなっていった兄弟のことを思いながら、涙々…でした。
私は、当時神宮前小学校四年生で静岡に集団疎開していましたが、B らしき戦隊が東京方面へ向かう姿を遠くに見送りながら、まさか東京が、しかも自分の家族の住むあたりが火の海になっているとは全く知らずにおりました。
その日、父敬之は長男の結婚式で秋田に行っており難を逃れたのですが、青山方面の空襲の報を聞いて、翌日、とるものもとりあえず帰京いたしました。前年母が亡くなっておりましたので、年の離れた姉たちが家をきりもりしておりました。家に残っていた姉幹子が小さい子供たちの母親がわりでした。房子姉の負傷、幹子をはじめとする三人の死亡は、おそらく町内会のご近所の方々から聞いたのだと思います。同じ町内で二十五日の大空襲で亡くなったのは、確か我が家だけと聞いています。
父はすぐに現場とされる場所に行ったらしいのですが、あったのは幼子の手首、足首で、他の部分は片付けられたあとでした。それらを拾い、自分で作った小さな木箱に入れ、新潟のお墓に納めました。その時の父の気持はいかばかりであったかと思います。兄雄二郎は中学入学ということで、一緒に疎開していた静岡から戻ってきてこの空襲に遭って亡くなりました。一年あとに生まれていたら、疎開先から戻ることなく一緒に助かっていたのにと思うと、運命はむごいものですね。
父はよほど淋しかったのか、私もすぐに静岡の疎開先から東京に呼び戻されました。姉や兄たちが亡くなったという現場を訪ねますと、見慣れたピン留めと道路のアスファルトに焼けついていた少しの髪の毛を見つけました。アスファルトには三人の遺体から出たと思われる油じみがしっかりと三つ付いていました。その情景は今でも忘れられません。ピン留めと髪の毛も父の手作りのお骨の箱に納めました。
ご近所のかたから父が聞いた話によりますと、空襲警報が鳴って、隣り組の方々が避難しようとしていた時、我が家はもうすでに火がついていて、燃え始めていた本を懸命に三人で消火していたそうです。父が日頃から大切にしていた本だから、父が留守の間に燃やしては…と必死だったのでしょう。「本間さん!もう逃げなさい 」と町会の方々が声をかけてくれたらしいのですが…。本の火を消していたことで逃げるのが遅れてしまったのでしょう。
「表参道が燃えた日」に書かれている粕壁直一様の文章の中の「親子の姿」というのは、まさしく我が家の姉たちの姿ではと思わずにはいられません。姉幹子が当時二十四歳ですから、幼い兄弟が子供のように映ったのかもしれません。
空襲があった頃、私は小学校四年生でした。戦争の恐怖は十分覚えているのですが、ひとつひとつの細かな記憶、お友達の名前のあたりになりますと、明確ではありません。思い出すのもつらい悲しい時代という事もあり、追求するのをあえて避けていました。でも青山の自分が住んでいたあたりを時折訪れたり、墨田区にある慰霊堂にはよく出かけます。
いずれ近いうちに、戦争を知っている世代が全くいなくなる時代が来ると思うと恐ろしい気がいたします。出来る限り、知っている限り、戦争の恐ろしさ、むごさを伝えていくのが私たちの使命かと思うようになった今日この頃です。
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子供たちに語り継ぐ
本間敬之の孫(浅賀和子の長女) 松本 名保子
昨年「表参道が燃えた日」が朝日新聞の記事になり、早速本を求めました。そしてまた今年も善光寺での法要の件の記事が目にとまり、母に申しましたら、行きたいとの希望でしたので、私も一緒に参加させていただきました。
以前から五月の命日近くになりますと、同潤会アパートから神宮前小学校、穏田橋のあたりをめぐり、墨田区の慰霊堂をお参りするのが私の父と母の常だったようで、私も何度か一緒にまわったこともございました。
もう二十数年前に亡くなった祖父本間敬之は、晩年、近所の子供たちを集めては葛飾で書道塾を開いておりましたので、日曜日には私も通っていました。祖父はお習字に朱の筆を入れながら、祖父にとっては七人の子供、私にとっては会ったこともない七人の叔(伯)父、叔(伯)母のこと、戦争のこと、青山の空襲の日のことを色々と話をしてくれました。
「東京大空襲・戦災誌」に載せていただいた詩も本になる前に読んだ記憶があります。たぶん私が中学生の頃だと思います。
祖父は「せめてもの救いは、子供たちがはぐれることなく、一緒に同じ場所で亡くなったこと。房子伯母さんは、大空襲の日の様子、留守を守っていて命を落とした子らのことを私に告げるためのように、約一週間生きていてくれた気がしてならない」と私に言ったことがとても印象に残っています。
以前の母は、戦争の話はするものの、むしろ当時の記憶は消してしまいたい、思い出すのもつらいという気持ちが強かったようです。病気も含めて九人の子供のうち七人の子供と妻を亡くした祖父は、穏やかながらも厳しい口調で、命の大切さ、戦争のむごさ、平和の大切さを私達、次の世代に生きる者へ伝えてくれました。
私の父も四万温泉へ疎開した、当時の滝野川区の疎開児童でした。昔から、終戦記念日、広島・長崎の原爆の日の三日間は、必ず食卓に「すいとん」が用意され、我が家も含め、今も毎年続いています。「ほたるの墓」や「うしろの正面だあれ」のビデオをすり切れるまで観ていた子供達も大きくなりました。この子供達が、いずれ次の世代へ語り継いでくれる事を願っています。
編集者
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五月二十五日の空襲の夜を伝える・その1
越 三千子
この手紙は、明治神宮表参道の近くに住んでいた越三千子さんが孫の越英夫さん宛てに出したものです。三千子さんは昭和二十年当時六十歳、英夫さんは新潟高校(旧制)在学中で、学徒動員のため富山の軍需工場で働いていました。その頃は郵便の規制や検閲もあって、郵便はなかなか届きませんでした。英夫さんは、父君達三氏が戦時中出向していた鉄鋼統制会に関連する工場に行っていましたので、手紙はまず達三氏に託され、そこから英夫さんの工場宛てに回送されるという特別なルートで届いたといわれます。何日位かかったかは不明です。事務用罫紙七枚の表裏にぎっしり、空襲の夜の状況が書かれています。
個人の私的な手紙だけれども何かの資料としてお役にたてばということで、英夫さんから編集委員会に送られてきました。英夫さんが子供や孫たちにも読めるようにと〔注〕を加え、わかりやすくワープロでうったものも同封されていました。
提供者の意向に添い承諾もいただいたので、本誌に掲載することにしました。
掲載にあたっては、原文をなるべく生かすように心がけましたが、仮名遣いは現代仮名遣いに改め、読みにくい漢字にはルビをふりました。注は〔 〕内に、英夫さんが記したものに編集者が補足しました。
(編集委員会)
差出人:東京都麹町区丸の内貳丁目貳拾番地壱
鐵鋼販賣統制會式會社
専務理事 越 達三
回送された手紙の外封筒
差出人:「護國第一〇五八工場」
編集者
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五月二十五日の空襲の夜を伝える・その2
六月六日 便箋を皆焼いてしまい節約を思い、妙な書き方をしました。
英夫さん、残念にも廿五日〔昭和二〇年五月二五日〕夜半、戦火のため原宿宅は全焼してしまいました。一同無事に立退(たちの)く事が出来ましたのが不幸中の幸で御座いました。どんなにかあなたが一同の安否をお気遣(きづか)いの事かと気に懸(かか)りながらおしらせの術(すべ)なく、今に打電をゆるさるるかとまちにまちましたが、今以て私用電報ゆるされずもっと早く一層手紙さし上げればよろしかったのにと申譯(もうしわけ)なく存じます。
同日、伊皿子(いさらご)家〔三井、英夫の祖父越英之介の本家〕もほんの一部事務所が残っただけにて全焼、永坂家〔三井〕も四月中頃先に主屋(おもや)全焼、又若夫婦(今は御当主)お宅〔門内〕が同日全焼、一本松家〔三井、伊皿子、永坂、一本松はいずれも町名〕も全焼、泉さん〔親戚〕は廿四日全焼、宮口〔親戚〕も穏田(おんでん)の家も、青葉の若夫婦のお宅も全焼〔穏田も青葉も表参道付近の町名〕、土肥(どひ)家〔親戚〕も全焼、松原さん〔親戚〕全焼、近しい親類にて実に明石家丈(だけ)残りました次第、実にその日の空襲は凄(すご)う御座いました。
御所(ごしょ)は、宮城も青山御所も皆御炎上、実に赤坂見附から渋谷迄全部焼野ヶ原に成りました。是(これ)では逃(のが)れる術(すべ)も無いとあきらめもよろしう御座いますが、越の地内だけにて焼夷弾実に三十発、伊藤病院〔越宅から表参道に出る角に今もある病院〕は四十発という有様、何ら防ぎようも御座いませんでした。生憎(あいにく)その夜の風速、一時は六、七十メートル、先年の大阪の暴風の風速以上にてまるで大旋風〔原文には龍風としてセンプウとふりがな〕、龍巻(たつまき)の中をもえひろがる中とて、消防も手の下しようもなく、自然にもえ止るのをまつのみでした。
となりに表参道がある故、逃げるに安心と皆信じて居(お)りましたのに、その表参道と元の三島に行く途中の玉屋工場前大通(熊野神社からかん状線〔環状線、現在の明治通り〕に通ずる道)の死者何千人、風上の伊藤病院、越宅のもえ出したのが一時半頃、それから風下の奥へ奥へと廣(ひろ)がった事とて青山通りからも東南風にてもえ下り環状線に行くにも川の橋は皆木橋とて火に成り、川に飛び込むか、熊野神社の方へ逃げるより道なく、貯水池〔防火用水池〕(道の真ん中の)にて死せる者小百人、あの通りに集まりし人数の内殆ど二人を余して全滅したとの事で御座います。表参道は、安田銀行〔現みずほ銀行、青山通りと表参道の角にある〕の建物が大丈夫とてその蔭(かげ)にて火を逃れんとした人々皆死に盡(つ)くしました。翌日、兵士がトラックにて二台運びてまだ運び切れず、あそこにて火葬にして二、三日はそのまま置いてありました。伊藤病院の角の壕(ごう)などギッシリ人にて埋まり皆そのまま死んで居(お)りました。日頃の想像も及ばぬ事で御座いました。
私共は地理に通じ、足手まといの無かりしが仕合わせでした。あの四十五群の隣組中、八十人の中から十人の行くえ不明(つまり死者)を出しましたが、皆罹災者が引き移って来たため土地不案内に手持ちの荷物を再び焼くまいとして自転車などにつけ、大方(おおかた)は安田銀行のかげが一番安全と過信した為(ため)にてあそこに自転車の焼けのこりが大変でしたよし。門の向こう角の平出という歯医者さん一家と若者の弟子さんと三、四人も安田銀行のかげに自転車が残り、全部焼死されました。ああいう道は油脂(ゆし)焼夷弾が流れて一面の火と成りましたので、勇気を出して其の中をつっきった人は助かりましたが、荷物や家族の足手まといのありし人は助かりませんでした。恐ろしい光景で御座いました。完く戦場に成(な)り、私共も戦ったわけですもの。
編集者
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五月二十五日の空襲の夜を伝える・その3
其の日、夜十時半か十一時かと思います。警報発令、数目標との事で風も強く皆充分に身ごしらえをしました。初(はじめ)は房総方面より入り、東南から一、二機ずつ入り、何(ど)うも遠からぬ頭上を通ります。焼夷弾のみにて火事も初は割りと遠く〔判読不能〕町とおぼしき方角の火の手ますます盛んに広がりますが、前日の空襲の火災は宮口さんの下道も海軍館〔戦後日本社会事業大学、現在は原宿警察署〕の後ろ、池田侯爵(こうしゃく)家ももえましたので其の日は遠いのでその後安心しましたものの、やがて静岡方面から入りましたのからますます頭上を通るように成り、皆地下室、防空壕から出たり入ったりして只只火を気を付けました。庭の壕に入って久美子〔英夫の妹〕と居りますと、一つ脇の下水の外にひどい音がしてザーザーズシンと壕の羽目が二、三枚飛びましたので、すはと折りを見定め出ますとたん、屋根の上にバラバラと火が落ちてきました。とたん、ママ〔徳子。英夫の母〕の声が〔判読不能〕にして焼夷弾落下々とさけびつづけました。ああしまったと、縁から半分は下の叩きに落としてあった鞄(かばん)の残りを引きずり下し、風呂敷包み迄もしや防空壕に入れるひまがあったらと頼みに行き、急ぎ並べ、家の中に飛び込み、声のする湯殿の口へ行きますと、裏の山田炭屋がもえ上がったところ、隣家堀田さん垣根からも火が見えます。風呂に一杯〔原文は一配〕の水をバケツにくんでは、きよ〔使用人〕に渡し、かけました。風下故これは防ぎさえすればコンクリートの塀故、延焼は大丈夫と思いました。ますます火が強く、風も吹きすさびますので、きよが、幾度か奥様もう駄目ですと申すのをはげまし運びつづけましたが、夢中の中にもザーザーズシンと音がしつづけますので家中を見廻(まわ)りますと、いつもの段梯子(だんばしご)の下(食堂の入口)に一尺五寸位の焼夷弾が落ち油が流れ、段の四、五段の所にもえ出して居ました。直(す)ぐバケツの水三、四杯運び消しとめました。又、中庭の縁の下が火を吹き始めました。是(これ)も横から縁の上からと、きよと水をかけつづけ消し止めましたが、内玄関の外にも火がもえ、電話室の裏にももえ出し次の洗面所〔使用人の洗面所〕の窓も、はや火がうつりました。もう手に及ばぬとかんねんはしたものの、又奥へ行きますと同時に、ザーザーズシンと頭の上にて凄(すご)い音がして思わず腹ばいに成ってしまいました。家が頑丈なので、二階にて焼夷弾が止(とま)ったと見えます。
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五月二十五日の空襲の夜を伝える・その4
隣家の二階に上がり、焼夷弾をつまみ出し消火に懸命になっていられた父上〔英夫の父達三〕もとんで来てもうだめだとさけび出しました。私も最後だと急ぎ未だ火のまわらぬ地下室に行き、例のおイハイ〔お位牌〕の箱を抱え、せめて地下室の食料丈(だけ)なりと助けたいと思い、戸を固く〆(し)め、上にはい上がりましたり、最後庭へ投げ出すやら、女中達にいつも申しつけました白米一斗の鞄(かばん)とかつぶしのかん、玉子の籠(かご)のうち、白米のかばんを庭に投げんとしましたが、はやバラの花壇に落ち火がもえ、ちらと自分の部屋の窓当りにも火が見えましたのでそのまま手に持ち表の座敷から庭に投げ、自分もいつも其處(そこ)にぬいで置く草履(ぞうり)をはいて庭に飛び下りんと走り行きましたがすっかり戸が〆(し)めあり、引けどサンが下りてあかず、がっかりしました。サンをあけ戸をあけんと後ろに気を付けますと、はやお佛壇(ぶつだん)の前の天井から火がドサン、ドサンと落ちて来ましたので、(定(さだ)めし二階は一面火になっておりましたでしょう)、もうおしまいとあたりに人影もないので、其のまま米はすてて、おいはい丈(だけ)かかえ裏の廊下から表玄関に出んとしますと、押入れにも煙りと火が吹き居(お)り、其處(そこ)で父上とぶつかり、一處(いっしょ)に表に飛び出しました。庭のさかえ〔堺〕の柴垣は一面の火に成っていました。先に縁の下に投げ下した鞄が誰か防空壕に入れたかいろいろ心にかかりましたが、見定める事が出来ません。参道迄行く道の魚屋、材木屋が盛んにもえ、通り抜けが其後むづかしいようでした。ようように抜け、参道に出て母上〔徳子〕と久美子ときよと一處(いっしょ)に成りほっとしました。其の時はまだ伊藤病院は煙だけ窓から出ていました。四十五群〔隣組〕の申合わせ通り代々木原〔現在の代々木公園一帯で、当時は陸軍の練兵場であった〕へ行きましょうとするには、アパート〔表参道に面した同潤会青山アパート、現在の表参道ヒルズ〕前から下迄油脂が流れ、一面ローソクの火のように点々と燃え上り通られませんので青山墓地へと急ぎました。
編集者
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五月二十五日の空襲の夜を伝える・その5
自分の家が早くもえ出したので、表通りもまだ火に成らず楽々と通りました。父上と母上は今しばし家の火を見定めてからと、一足先に私と久美子ときよと行きましたが、路々(みちみち)ザーザー・ズシンが頭上にするので幾度か道に臥しました。墓地の途中長谷病院はまだ平穏無事でした。父上と母上とてい〔使用人〕と墓地にて一緒に成り、かねての申合わせ通り宮口へと思いましたが、向うも同じ火の上った夜に、遠けれど伊皿子へと思い巡査に聞きましたが、とても遠くてむづかしい、此處(ここ)が一番安全地帯との事に此處にて夜を明かしました。
やがて長谷先生も、もう火が近く望みなければとてお見えになり、病人も先生のお宅のお墓の中に寝かせてありました。ますます風は樹木も飛ばんばかり強くなりますし、青山通りも一面火に成り、墓地の高台からは実に四方共あかあかと天を焦がすばかりにますます燃え広がり、どう成り行くかと心細く成りましたが、さしもの火も、はや焼き尽くし自然に止ってしまいました。
一応焼跡にと、群〔隣組〕の申合わせにて五時過ぎ家に帰りましたが、はや跡形も無く地下室だけが盛んに燃えて居りました。まず心にかかる防空壕はいかにと走り込みましたら、あの猛火の中に不思議と無事(ぶじ)事なきを得ました。まったく私の大切に抱えていた祖父上〔英之介〕、紀美子〔英夫の妹〕の御魂のおかげとふし拝みました。先に逃げるとたんママと久美にて全部投げ込み土をかけるひまもなく、戸の板を入口にのせただけにて袖垣の火の粉が戸に止まるのを消し止めた事とて、久美子は戸の丈(たけ)も足りず中が見えていた位とて駄目としきりに残念がっておりました。この荷物を失えばいかんとも致し難(がた)く、着た切りにて消火に懸命にて皆手に手にバケツ、桶をもちて逃げた有様、着物は水びたしでした事とて実に嬉しう御座いました。
さて、何處(どこ)へ落ち付いたものかと早速宮口へ父上行かれましたが、二軒共はや灰になり、もしや三島〔親戚〕が無事かと行かれました。会社の寮とて、私達も泊る資格もあります。無事という事を見定め其處(そこ)へ一(ひと)まず落ち付き、権守(ごんもり)〔使用人〕、ていもアパートが全焼しましたので来ました。権守を使者に伊皿子へやりましたらば、はや焼けたあとと申して帰りました。身寄りの無い人の心細さをつくづく察しが出来ました。是丈(これだけ)たくさんの親類が同時に家無しと成りますとは完(まった)く戦火ならでは無い事と、其の苛烈(かれつ)さを今更に思い知りました。
町会の事務員は焼夷弾にてうでを失いました。宅には二、三十発も、しかも大きな元の入れ物〔焼夷弾は何本かをまとめて一つの容器に入れて投下され、空中で容器がはずれ、ばらばらになって落下するようになっていたが、その容器のこと〕まで落ちて居りました。よくも一同の身に当りませんでした。
寮に五日居りまして開通をまち、江の島廻(まわ)りの電車にて罹災者(りさいしゃ)として鎌倉宅にたどりつきました。靖夫〔英夫の弟〕は写真〔英夫の姉恵美子の結婚写真〕の一部が出来ましたので二五日に使いに鎌倉にやり、そのまま空襲にて不通に成り帰られませんでした、居てくれたらば、も少し荷物がと思いますのはぐちで御座いましょう。自転車も全部焼けました。
明石家に当分本拠を置き私と久美子と鎌倉に暮らすでしょう。又お知らせ申します。安否のわかる迄の御不安御察し申します。くれぐれも御自愛祈ります。
救急袋其の夜出来上り、外(ほか)の品とよき便にと思いつつ、家と運命を共にしてしまいました。
三千子
編集者
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投稿数: 4298
山の手大空襲とその後
岸和田 長(ひさし)
戦争末期、アメリカ軍の空襲がはげしくなり、三月十日の大空襲のこともあって、東京のことを心配しておりました。私は昭和二十年五月二十五日は陸軍に入隊中で、当時は、愛媛県松山市連隊区司令部に勤務しておりました。
「ハハ コド モ三ニンシス」の電報は約一週間位おくれてきました。大変驚くと共にすぐに休暇をとり、二日がかりで上京しました。
渋谷駅から青山一丁目方面まですっかり焼け野原となっていました。早速、旧原宿二丁目一七〇の十番地の、酒屋の日野屋の横に入った長姉宅へ行きましたが、すべてが焼けており、焼けた家のあとに行先を書いた棒切れが立ててありました。
長姉夫婦(桜井利雄、晴野)には二男一女の子供がおり、夫は読売新聞社員で中国に出張していましたが、二十四日に帰国したばかりでした。
私は姉三人男一人の四人きょうだいで、父は、私が五歳の時に亡くなりました。昭和十八年十二月、私が入隊となったため、母は姉の家に同居させてもらいました。姉たちは国立の方に疎開していましたが、ちょうど義兄が中国から帰ったので、二十五日に原宿へもどって一家団欒の日だったのです。このたのしみが、全く悲しい運命とも言うべき日になってしまいました。
五月二十五日、姉夫婦は空襲がはげしくなったので、防空壕に土をかけるなどして母と子供三人を先に逃がしたのです。逃げる先は神宮球場にきめておきました。しかし焼夷弾が方々に落ちたため、逆方向の明治神宮の方に逃げました。逃げたその場所に止まっておれば助かったのですが…(あとで近所の助かった人々の話)。六十歳の母が三人の子をつれて、また、野球場の方へ逃げ出したのです。どんなにかひどい、苦しい、熱さの中で必死に逃げまわったのか、本当に、本当に涙が出る思いです。とうとう火にまかれて亡くなりました。
翌日、姉夫婦は四人を捜しましたが、近くの神社の池の中に、末娘の背負いひもが浮かんでいるのが見えました。その池から母と長男、末娘が発見されましたが、次男はついにわかりませんでした。長男は府立六中の一年生で、青南小学校で阿南陸軍大臣の息子さんと同級生でした。当時私は頭が真白になり、母や子どもを殺したアメリカ人を皆殺しにしてやると誓ったものです。
亡くなったのは五月二十六日と考えられ、四人の命日は五月二十六日となっています。四人は墨田区の東京都慰霊堂に合祀されております。私の母は四人の子持ちで未亡人となり、私たちを大変苦労して育ててくれました。私は親孝行を何もせずに母が亡くなり、大変ショックでした。
戦後、長姉夫婦は長く大昔から住んでいた原宿の土地にすっかり縁を切って、大阪へ転居しました。義兄は大阪読売新聞社に勤務し、その後奈良に家を建てました。姉は高齢出産でしたが一人娘が生まれ、空襲で亡くなった兄姉の名前をとって一穂(ひとほ)と名付けました。
亡兄 桜井浩 ひろしのひ
亡兄 桜井亨 とほるのと
亡姉 桜井香 かほりのほ
一穂ももう孫がいるおばあちゃんで、奈良市に健在です。私も孫娘がアメリカの大学を卒業してアメリカ青年と結婚しました。
戦後六十年も過ぎ、昭和の時代も終わり、今や平成二十年代。政治、経済、文化などすべてが新しい国となりました。
長姉夫妻もすでに亡く、私も八十七歳になりました。今の若い方々が知らない山の手大空襲などの悲惨な出来事が、現実にあったことを決して忘れないでほしいものです。
(大正十年十月三十一日生 渋谷区原宿二丁目)