増補版・表参道が燃えた日・6
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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五月二十五日の空襲の夜を伝える・その2
六月六日 便箋を皆焼いてしまい節約を思い、妙な書き方をしました。
英夫さん、残念にも廿五日〔昭和二〇年五月二五日〕夜半、戦火のため原宿宅は全焼してしまいました。一同無事に立退(たちの)く事が出来ましたのが不幸中の幸で御座いました。どんなにかあなたが一同の安否をお気遣(きづか)いの事かと気に懸(かか)りながらおしらせの術(すべ)なく、今に打電をゆるさるるかとまちにまちましたが、今以て私用電報ゆるされずもっと早く一層手紙さし上げればよろしかったのにと申譯(もうしわけ)なく存じます。
同日、伊皿子(いさらご)家〔三井、英夫の祖父越英之介の本家〕もほんの一部事務所が残っただけにて全焼、永坂家〔三井〕も四月中頃先に主屋(おもや)全焼、又若夫婦(今は御当主)お宅〔門内〕が同日全焼、一本松家〔三井、伊皿子、永坂、一本松はいずれも町名〕も全焼、泉さん〔親戚〕は廿四日全焼、宮口〔親戚〕も穏田(おんでん)の家も、青葉の若夫婦のお宅も全焼〔穏田も青葉も表参道付近の町名〕、土肥(どひ)家〔親戚〕も全焼、松原さん〔親戚〕全焼、近しい親類にて実に明石家丈(だけ)残りました次第、実にその日の空襲は凄(すご)う御座いました。
御所(ごしょ)は、宮城も青山御所も皆御炎上、実に赤坂見附から渋谷迄全部焼野ヶ原に成りました。是(これ)では逃(のが)れる術(すべ)も無いとあきらめもよろしう御座いますが、越の地内だけにて焼夷弾実に三十発、伊藤病院〔越宅から表参道に出る角に今もある病院〕は四十発という有様、何ら防ぎようも御座いませんでした。生憎(あいにく)その夜の風速、一時は六、七十メートル、先年の大阪の暴風の風速以上にてまるで大旋風〔原文には龍風としてセンプウとふりがな〕、龍巻(たつまき)の中をもえひろがる中とて、消防も手の下しようもなく、自然にもえ止るのをまつのみでした。
となりに表参道がある故、逃げるに安心と皆信じて居(お)りましたのに、その表参道と元の三島に行く途中の玉屋工場前大通(熊野神社からかん状線〔環状線、現在の明治通り〕に通ずる道)の死者何千人、風上の伊藤病院、越宅のもえ出したのが一時半頃、それから風下の奥へ奥へと廣(ひろ)がった事とて青山通りからも東南風にてもえ下り環状線に行くにも川の橋は皆木橋とて火に成り、川に飛び込むか、熊野神社の方へ逃げるより道なく、貯水池〔防火用水池〕(道の真ん中の)にて死せる者小百人、あの通りに集まりし人数の内殆ど二人を余して全滅したとの事で御座います。表参道は、安田銀行〔現みずほ銀行、青山通りと表参道の角にある〕の建物が大丈夫とてその蔭(かげ)にて火を逃れんとした人々皆死に盡(つ)くしました。翌日、兵士がトラックにて二台運びてまだ運び切れず、あそこにて火葬にして二、三日はそのまま置いてありました。伊藤病院の角の壕(ごう)などギッシリ人にて埋まり皆そのまま死んで居(お)りました。日頃の想像も及ばぬ事で御座いました。
私共は地理に通じ、足手まといの無かりしが仕合わせでした。あの四十五群の隣組中、八十人の中から十人の行くえ不明(つまり死者)を出しましたが、皆罹災者が引き移って来たため土地不案内に手持ちの荷物を再び焼くまいとして自転車などにつけ、大方(おおかた)は安田銀行のかげが一番安全と過信した為(ため)にてあそこに自転車の焼けのこりが大変でしたよし。門の向こう角の平出という歯医者さん一家と若者の弟子さんと三、四人も安田銀行のかげに自転車が残り、全部焼死されました。ああいう道は油脂(ゆし)焼夷弾が流れて一面の火と成りましたので、勇気を出して其の中をつっきった人は助かりましたが、荷物や家族の足手まといのありし人は助かりませんでした。恐ろしい光景で御座いました。完く戦場に成(な)り、私共も戦ったわけですもの。