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増補版・表参道が燃えた日・3

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通常 増補版・表参道が燃えた日・3

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/11/12 7:57
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 姉、兄、弟を憶う







    本間敬之の五女 浅賀 和子

 「東京大空襲・戦災誌」に掲載された父敬之の詩を読みながら、涙が再びとまりませんでした。〝再び〟というのは、この本の発刊間もなく、まだ存命していた父に見せられて読んだ時にも、空襲で逃げ惑いながら亡くなっていった兄弟のことを思いながら、涙々…でした。

 私は、当時神宮前小学校四年生で静岡に集団疎開していましたが、B らしき戦隊が東京方面へ向かう姿を遠くに見送りながら、まさか東京が、しかも自分の家族の住むあたりが火の海になっているとは全く知らずにおりました。

 その日、父敬之は長男の結婚式で秋田に行っており難を逃れたのですが、青山方面の空襲の報を聞いて、翌日、とるものもとりあえず帰京いたしました。前年母が亡くなっておりましたので、年の離れた姉たちが家をきりもりしておりました。家に残っていた姉幹子が小さい子供たちの母親がわりでした。房子姉の負傷、幹子をはじめとする三人の死亡は、おそらく町内会のご近所の方々から聞いたのだと思います。同じ町内で二十五日の大空襲で亡くなったのは、確か我が家だけと聞いています。

 父はすぐに現場とされる場所に行ったらしいのですが、あったのは幼子の手首、足首で、他の部分は片付けられたあとでした。それらを拾い、自分で作った小さな木箱に入れ、新潟のお墓に納めました。その時の父の気持はいかばかりであったかと思います。兄雄二郎は中学入学ということで、一緒に疎開していた静岡から戻ってきてこの空襲に遭って亡くなりました。一年あとに生まれていたら、疎開先から戻ることなく一緒に助かっていたのにと思うと、運命はむごいものですね。

 父はよほど淋しかったのか、私もすぐに静岡の疎開先から東京に呼び戻されました。姉や兄たちが亡くなったという現場を訪ねますと、見慣れたピン留めと道路のアスファルトに焼けついていた少しの髪の毛を見つけました。アスファルトには三人の遺体から出たと思われる油じみがしっかりと三つ付いていました。その情景は今でも忘れられません。ピン留めと髪の毛も父の手作りのお骨の箱に納めました。

 ご近所のかたから父が聞いた話によりますと、空襲警報が鳴って、隣り組の方々が避難しようとしていた時、我が家はもうすでに火がついていて、燃え始めていた本を懸命に三人で消火していたそうです。父が日頃から大切にしていた本だから、父が留守の間に燃やしては…と必死だったのでしょう。「本間さん!もう逃げなさい 」と町会の方々が声をかけてくれたらしいのですが…。本の火を消していたことで逃げるのが遅れてしまったのでしょう。

 「表参道が燃えた日」に書かれている粕壁直一様の文章の中の「親子の姿」というのは、まさしく我が家の姉たちの姿ではと思わずにはいられません。姉幹子が当時二十四歳ですから、幼い兄弟が子供のように映ったのかもしれません。

 空襲があった頃、私は小学校四年生でした。戦争の恐怖は十分覚えているのですが、ひとつひとつの細かな記憶、お友達の名前のあたりになりますと、明確ではありません。思い出すのもつらい悲しい時代という事もあり、追求するのをあえて避けていました。でも青山の自分が住んでいたあたりを時折訪れたり、墨田区にある慰霊堂にはよく出かけます。

 いずれ近いうちに、戦争を知っている世代が全くいなくなる時代が来ると思うと恐ろしい気がいたします。出来る限り、知っている限り、戦争の恐ろしさ、むごさを伝えていくのが私たちの使命かと思うようになった今日この頃です。

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