増補版・表参道が燃えた日・4
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増補版・表参道が燃えた日 (編集者, 2009/11/9 8:11)
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編集者
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子供たちに語り継ぐ
本間敬之の孫(浅賀和子の長女) 松本 名保子
昨年「表参道が燃えた日」が朝日新聞の記事になり、早速本を求めました。そしてまた今年も善光寺での法要の件の記事が目にとまり、母に申しましたら、行きたいとの希望でしたので、私も一緒に参加させていただきました。
以前から五月の命日近くになりますと、同潤会アパートから神宮前小学校、穏田橋のあたりをめぐり、墨田区の慰霊堂をお参りするのが私の父と母の常だったようで、私も何度か一緒にまわったこともございました。
もう二十数年前に亡くなった祖父本間敬之は、晩年、近所の子供たちを集めては葛飾で書道塾を開いておりましたので、日曜日には私も通っていました。祖父はお習字に朱の筆を入れながら、祖父にとっては七人の子供、私にとっては会ったこともない七人の叔(伯)父、叔(伯)母のこと、戦争のこと、青山の空襲の日のことを色々と話をしてくれました。
「東京大空襲・戦災誌」に載せていただいた詩も本になる前に読んだ記憶があります。たぶん私が中学生の頃だと思います。
祖父は「せめてもの救いは、子供たちがはぐれることなく、一緒に同じ場所で亡くなったこと。房子伯母さんは、大空襲の日の様子、留守を守っていて命を落とした子らのことを私に告げるためのように、約一週間生きていてくれた気がしてならない」と私に言ったことがとても印象に残っています。
以前の母は、戦争の話はするものの、むしろ当時の記憶は消してしまいたい、思い出すのもつらいという気持ちが強かったようです。病気も含めて九人の子供のうち七人の子供と妻を亡くした祖父は、穏やかながらも厳しい口調で、命の大切さ、戦争のむごさ、平和の大切さを私達、次の世代に生きる者へ伝えてくれました。
私の父も四万温泉へ疎開した、当時の滝野川区の疎開児童でした。昔から、終戦記念日、広島・長崎の原爆の日の三日間は、必ず食卓に「すいとん」が用意され、我が家も含め、今も毎年続いています。「ほたるの墓」や「うしろの正面だあれ」のビデオをすり切れるまで観ていた子供達も大きくなりました。この子供達が、いずれ次の世代へ語り継いでくれる事を願っています。