増補版・表参道が燃えた日・10
投稿ツリー
-
増補版・表参道が燃えた日 (編集者, 2009/11/9 8:11)
- 増補版・表参道が燃えた日・2 (編集者, 2009/11/10 7:34)
- 増補版・表参道が燃えた日・3 (編集者, 2009/11/12 7:57)
- 増補版・表参道が燃えた日・4 (編集者, 2009/11/13 8:14)
- 増補版・表参道が燃えた日・5 (編集者, 2009/11/14 21:46)
- 増補版・表参道が燃えた日・6 (編集者, 2009/11/16 8:18)
- 増補版・表参道が燃えた日・7 (編集者, 2009/11/17 8:29)
- 増補版・表参道が燃えた日・8 (編集者, 2009/11/18 7:51)
- 増補版・表参道が燃えた日・9 (編集者, 2009/11/19 8:40)
- 増補版・表参道が燃えた日・10 (編集者, 2009/11/20 8:28)
- 増補版・表参道が燃えた日・11 (編集者, 2009/11/24 8:08)
- 増補版・表参道が燃えた日・12 (編集者, 2009/11/24 8:10)
- 増補版・表参道が燃えた日・13 (編集者, 2009/11/24 8:12)
- 増補版・表参道が燃えた日・14 (編集者, 2009/11/24 8:13)
- 増補版・表参道が燃えた日・15 (編集者, 2009/11/25 8:14)
- 増補版・表参道が燃えた日・16 (編集者, 2009/11/26 7:55)
- 増補版・表参道が燃えた日・17 (編集者, 2009/11/27 7:17)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
山の手大空襲とその後
岸和田 長(ひさし)
戦争末期、アメリカ軍の空襲がはげしくなり、三月十日の大空襲のこともあって、東京のことを心配しておりました。私は昭和二十年五月二十五日は陸軍に入隊中で、当時は、愛媛県松山市連隊区司令部に勤務しておりました。
「ハハ コド モ三ニンシス」の電報は約一週間位おくれてきました。大変驚くと共にすぐに休暇をとり、二日がかりで上京しました。
渋谷駅から青山一丁目方面まですっかり焼け野原となっていました。早速、旧原宿二丁目一七〇の十番地の、酒屋の日野屋の横に入った長姉宅へ行きましたが、すべてが焼けており、焼けた家のあとに行先を書いた棒切れが立ててありました。
長姉夫婦(桜井利雄、晴野)には二男一女の子供がおり、夫は読売新聞社員で中国に出張していましたが、二十四日に帰国したばかりでした。
私は姉三人男一人の四人きょうだいで、父は、私が五歳の時に亡くなりました。昭和十八年十二月、私が入隊となったため、母は姉の家に同居させてもらいました。姉たちは国立の方に疎開していましたが、ちょうど義兄が中国から帰ったので、二十五日に原宿へもどって一家団欒の日だったのです。このたのしみが、全く悲しい運命とも言うべき日になってしまいました。
五月二十五日、姉夫婦は空襲がはげしくなったので、防空壕に土をかけるなどして母と子供三人を先に逃がしたのです。逃げる先は神宮球場にきめておきました。しかし焼夷弾が方々に落ちたため、逆方向の明治神宮の方に逃げました。逃げたその場所に止まっておれば助かったのですが…(あとで近所の助かった人々の話)。六十歳の母が三人の子をつれて、また、野球場の方へ逃げ出したのです。どんなにかひどい、苦しい、熱さの中で必死に逃げまわったのか、本当に、本当に涙が出る思いです。とうとう火にまかれて亡くなりました。
翌日、姉夫婦は四人を捜しましたが、近くの神社の池の中に、末娘の背負いひもが浮かんでいるのが見えました。その池から母と長男、末娘が発見されましたが、次男はついにわかりませんでした。長男は府立六中の一年生で、青南小学校で阿南陸軍大臣の息子さんと同級生でした。当時私は頭が真白になり、母や子どもを殺したアメリカ人を皆殺しにしてやると誓ったものです。
亡くなったのは五月二十六日と考えられ、四人の命日は五月二十六日となっています。四人は墨田区の東京都慰霊堂に合祀されております。私の母は四人の子持ちで未亡人となり、私たちを大変苦労して育ててくれました。私は親孝行を何もせずに母が亡くなり、大変ショックでした。
戦後、長姉夫婦は長く大昔から住んでいた原宿の土地にすっかり縁を切って、大阪へ転居しました。義兄は大阪読売新聞社に勤務し、その後奈良に家を建てました。姉は高齢出産でしたが一人娘が生まれ、空襲で亡くなった兄姉の名前をとって一穂(ひとほ)と名付けました。
亡兄 桜井浩 ひろしのひ
亡兄 桜井亨 とほるのと
亡姉 桜井香 かほりのほ
一穂ももう孫がいるおばあちゃんで、奈良市に健在です。私も孫娘がアメリカの大学を卒業してアメリカ青年と結婚しました。
戦後六十年も過ぎ、昭和の時代も終わり、今や平成二十年代。政治、経済、文化などすべてが新しい国となりました。
長姉夫妻もすでに亡く、私も八十七歳になりました。今の若い方々が知らない山の手大空襲などの悲惨な出来事が、現実にあったことを決して忘れないでほしいものです。
(大正十年十月三十一日生 渋谷区原宿二丁目)