鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ
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投稿日時 2012/10/26 7:59
編集者
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少通11期生 敢闘の記録
はじめに
この記録は、
メロウ伝承館へ掲載させていただくました「村松の庭訓を胸に」の、いわば続編ともいうべきもので、小冊子にまとめられたものを、発行責任者の大口光威様よりご寄贈いただき「メロウ伝承館」へ転載するようにとご依頼をいただいたため、転載するものです。
メロウ伝承館スタッフ
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目次
はじめに
写真村松慰霊碑と出陣式を前にして
11期生の繰上げ卒業と、その背景など
秋津丸遭難から救助されるまで村松11期間橋国司
秋津丸遭難の顛末(追記)少年兵輸送指揮官岡田真一
出陣に当たってのメモと遺書
メモ(抄)村松11期市岡光男
遺書東京11期寺井哲実
少年兵の戦争体験(付フィリピン参戦記・抜粋)
東京11期尾崎健一
終戦前夜、そしてシベリアヘ村松11期井上隆晴
慰霊碑等の建立
村松少通校・高木校長を偲んで村松11期岡本勝造
村松町民と少通生の心の交流
あとがき
はじめに
村松にお住いの皆様、或いはご関係の皆様、皆様は村松公園の一角にある「慰霊碑」の由来を何処までご存知でいらつしやいますか。
一一一其処には先の太平洋戦争で散華した陸軍少年通信兵812柱の御霊が祀られていますが、本誌はそのうちの過半数を占める11期生に纏わる物語です。即ち、陸軍少年通信兵は、昭和8年、生徒隊として1期生が誕生して以来、その期数は終戦までに13を数えましたが、そのうち、大戦末期の昭和18年に入校した11期生の最期が最も悲惨でした。特に戦局の急迫より繰上げ卒業させられた彼らは、3隻の輸送船に分乗して南方に向かう途中、うち2隻が敵潜水艦の魚雷攻撃によって相次いで沈没、幸うじてルソン島に辿り着いた1隻もまた、其処に待っていたのは「生き地獄」にも等しい飢えと悪疫との戦いでした。また、遅れて卒業した後発組も、満州、朝鮮、樺太等、外地に派遣された者の多くは、戦後も多年に互ってシベリア抑留の苦汁を強いられました。
純粋に祖国を信じ、その存亡の危機に臨んで進んで「昭和の白虎隊」の気概を持って国を護ろうとした彼ら一一一その年齢は15,6歳から19歳でした。
しかし一方、戦後67年、現在では戦争中のことなど、総て忘却の彼方に押しやられ、碑の由来を訊ねる方も殆ど見当たらなくなりました。
此処に於いて当時12期生だった私共は、彼ら先輩の辿ったこれらの史実を正しく後世に伝承すべく、先に「村松の庭訓を胸に平和の礎となった少年通信兵」と「西海の浪、穏やかに」の2誌を公にしましたが、本誌はこれに続く、生々しい実体験の記録です。
所詮、如何に装つても戦争とは残虐なもの。この点、元々本誌は私共に代つて村松碑をお守りくださる現地の皆様を対象に纏めたものではありますが、その他の方々でも、これをお読みくださることによって、戦争の実態をお知りになり、それが誰よりも平和を願いつつ散華された戦没先輩の「不戦への希い」の達成に繋がれば、これに過ぎる私共の喜びはありません。
平成24年秋元・村松陸軍少年通信兵学校
第12期生徒大口光威
第12期生徒佐藤嘉道
編集者
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11期生の繰上げ卒業と、その背景など
昭和19年11月、それまで少年通信兵は修業期間2か年の予定で教育を受けていましたが、急迫した戦局の要請を受けてこれを短縮、東京、村松両校合わせて600余名が繰上げ卒業を命じられ、陸軍兵長として勇躍出陣することになり、このうちの一部(東京校の台湾軍要員と村松校の特殊情報要員)を除く大部分の卒業生は、護衛艦の厳重な警護のもとに南方に向かいました。
これは、19年秋、フイリピンに於ける攻防が今次大戦の天王山と目されるに至って、大本営が同地で苦戦中の我が軍を増援するため、当時我が国の最精鋭兵力であった関東軍の大量動員と派遣を断行し、その一環として少年兵にも繰上げ卒業が命じられたものです。
しかし、当時、同地域に向かつた船団が無傷のまま目的地に着いたことは殆どなく、このため輸送には最強と思われる「ヒ81船団」を編成しましたが、同船団は後年、「悲劇の船団」と評されたように、その末路は余りにも無惨でした。
即ち、同船団は、第23師団(師団長・西山中将)を主力に、通信、戦車、砲兵の各少年兵学校繰上げ卒業生及び暁部隊の特幹を主軸とした水上特幹隊1個戦隊100隻(秋津丸甲板上に固縛)と、その基地隊員900名、大砲などの兵器は総て新品を搭載し、これを船団指導艦・聖川丸、陸軍上陸母艦・摩耶山丸、吉備津丸、陸軍空母兼上陸母艦・秋津丸、神州丸の5隻(少年兵は秋津丸、摩耶山丸、神州丸の3隻に分乗)、他にタンカー5隻、以下海軍護衛空母・神鷹(97式艦攻14機搭載)、海防艦7隻、駆逐艦1隻の合計19隻の船団を組み、11月13日7時)、門司港を出発、途中回避しながら12ノットで航行、目的地に向かいましたが、先ず15日11時56分、秋津丸が敵潜の魚雷を受け沈没、次いで17日18時8分、摩耶山丸が同じく敵潜により撃沈され、続いて護衛の神鷹も撃沈されました。因みに、この時の遭難者は秋津丸・2046名、摩耶山丸・3187名で、神鷹の乗務員948名もその殆どが艦と運命を共にしたと伝えられています。
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では、先ず、最初に撃沈された秋津丸に乗船し、奇跡的に救助された間橋国司氏(村松少通校・11期生)の手記を掲載します。
編集者
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秋津丸遭難から救助されるまで その1 間橋国司
昭和19年11月6日、南方要員として選抜された我々11期315名は、全校及び村松町民の歓呼の声に送られて上越線上野経由で一路乗船地門司に向かつた。2昼夜に亘る列車の旅は修学旅行の小学生のように、楽しさも加わり、車中での話題も村松の思い出話、家族、着任地等尽きることを知らなかつた。
8日門司着、9日夜半、闇にまぎれて静かに横たわる秋津丸に乗船を完了した。村松少通校からは1中隊6名、3中隊57名、4中隊25名の計88名であつた。
船中での憩いの場所は3段位に出来た蚕棚とでもいえるもので、更に幾層にも重なつていて、通路と言つても狭く頭が上に当たらぬ程度である。加えて完全軍装の我々の装具は狭いスペースを更に狭くした。通風が悪く数千名の将兵を収容した船内の熱気は凄く、まるで蒸し風呂に入っているようであった。
我々少通兵は全員下の階に位置し行動するにはある程度楽でもあつた。10名か15名が一つのグループになり、主力が3中隊で何かしら心強く感じた。
11月13日、愈々南方前線目指して輸送開始である。翌14日敵情不穏のため五島列島北端に退避、15日6時、再び航行は開始された。
その日の昼食にはぜんざいが出され、甘いものに永い間遠ざかつていた我々を大いに喜ばせた。食べ終わった私は余りの暑さに通路に出て一体みしていた時の事である。「ドカン!」という大きな音がしたと思ったら船が揺れ出した。これが最初の敵潜水艦の雷撃であった。しかし、はじめは船が島か浅瀬に突っ込んでしまったのではないかと思つた。我々は軍人でありながら勿論戦場に出た経験もなかったし、船団の周囲には数隻の海軍駆逐艦、航空母艦が護衛の任についていたからである。その安心さもあって、再度の雷撃により誰かが「大きな魚雷だ!!」と叫ぶ声によって初めて身の危険を感じた。思わず出日の方ヘスットンでいった。
船が急に傾き出し、出口までの15mか20mの距離さえ思うように進めなかった。
既にあっちの通路、こっちの出入り口には兵隊達が殺到し、叫ぶ声、怒鳴る声でこの世のものとは思えなかった。幸い脱出が早かった関係でデッキに早く出ることが出来たが入り口が幾つもあって船内が広ければ、被害も最少限度にとどめることが出来たのではないかと思う。
傾きかけたデッキは既に波に洗われ、其処を駈足で抜け夢中で海に飛び込んだ。
少しでも早く、少しでも遠くへと急いだ。もたついていたら沈む船の渦巻きに呑み込まれてしまうからである(もともと、私は静岡県御前崎の浜辺で育ち、小さい時から泳いでいたので泳ぎは達者だった。村松に入校するまで、父や兄と何時も家の小型船で漁に出て再三危険な目にもあっており、この経験が私の運命を左右させたと思う)。
威風堂々進んでいた輸送船団も、秋津丸轟沈の悲運を境として雲を散らすように退散してしまつた。
それまで無我夢中で泳いでいた私にも漸く他の戦友の安否を気遣う気持ちが出始めた。誰かそこらに戦友が泳いではいないだろうか、皆運良く脱出できたであろうか、ともかく一亥も早く助け出されることを願って、波間に見えるボートに向かって泳ぎだした。近くの方遠くの方から、救助された人達が乗っているであろう筏やボートから軍歌が聞こえてくる。時々味方駆逐艦の対潜爆雷が破裂する。
はらわたが引きずり出されてしまうのではないかと思うほどの激痛を感じる(この爆雷のため、漸く脱出できた人々の中には、腸や胃をネジ切られて死んで行った人が多数ある筈だ。私も、このため腸をやられて腸の一部が一回転しており復員後も数年間痛みを覚えた)。
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秋津丸遭難から救助されるまで その2 間橋国司
脱出してからどの位時間が経ったであろうか、漸く辿り着いたボートに救助を求めたが断られてしまった。既に相当数の人員が乗っていたためである。そして次ボートに向かって泳ぎだして間もなく「あまがえる」(注陸軍船舶隊が使用した特攻艇) の乗員にやっと引きずり上げて貰った。私は嬉し涙が頬を伝わった。「これで助かったんだ」と自分に言い聞かせながら何度もお礼を言った。今までの張りつめていた気持ちが「助かった!」という安心感からか、冷え切った身体に濡れた衣服が氷のように感じる。他の4人の手を借りながら脱いだ衣服を絞ってもらい、夕日を浴びて少しずつ温かさを感じた。総勢5人になった私達はお互いに元気づけ合いながら、軍歌を歌い救助船の来るのを待った。夕日が西の空に沈みかけ辺りが薄暗くなり始めた時、遠くに駆逐艦が見えた。点々と浮遊物に捉まって漂流している将兵を助け上げていた。エンジンの音があちこちで聞こえてくる。それはボート(アマガエル)の人達が駆逐艦めがけて走る快音である。我々も此の機を逃してはと特攻乗員の軍曹が一生懸命エンジンを掛けようとするが、全然掛る気配がない。秋津丸から降ろす時、機関のマグネットが浸水して点火しないのだ。刻々と辺りは暗くなって心は焦るばかり。他の乗員も駆逐艦とエンジンを交互に睨みつけながら手の施しようがなかった。駄目だった。ついにエンジンは掛らなかった。そして、辺リー面暗くなり洋上には救助をあきらめた駆逐艦が波の彼方に消えてしまった。万事窮す。絶望感は口にこそ出さなかったが、皆の顔にありありと出ている。他の遭難者の群れも暗闇のため全く分からなくなってしまつた。
しかし、明日がある、必ず来てくれるのだ、ともかく明朝まで待つのだ、と何度も何度も励まし合う。でも良かった5人なんだ、そう思うと少しずつ気力が湧いてくる。
静かだった海は段々と荒れ模様となり、ボートの船縁をピシャピシャ叩くようになった。白波が立ち始める夜半過ぎ一層風波は高まり、船は木の葉のように高く低く、波まかせの状態になり三角波も押し寄せてきた。ボートの中にも容赦なく波が入る。水垢を一生懸命汲み出す作業は続けられる。垂れ流す小便は股間に心地よい温もりを伝える。いい気持ちだった。一人の兵隊が「兵長殿!兵長殿 休んで下さい」と若い私に言ってくれた。いやいや、その言葉に甘んじていては浸水のため転覆するかも知れないのだ。皆が頑張った。飢えと寒さから睡魔が誘う。「オイ!眠っちや駄日だ。死ぬぞ」と声を掛け、また掛けながら単純な作業は続けられる。時々ウトウトした時、故郷の父母の顔が浮かび、「しっかりするんだ!」と励ましの声が聞こえるように思われた。だが、何としても気力は徐々に弱っていく。風波は依然として凪となる様子も無く何処へともなく流されて行く。
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秋津丸遭難から救助されるまで その2 間橋国司
時は朝を刻んだ。昨夜の時化(しけ)は、風が西に変わり空が晴れ渡っても、依然として白波を立てて吹きまくる。それでも待ちに待った朝を迎えた喜びが皆の顔に再び生気を取り戻してくれた。「今日は必ず助けに来てくれるぞ!」という信念があったのだろうか。反面、この大海に流されている木の葉を果たして捜し出してくれるだろうかという一抹の不安。一一一明るくなった水平線を十の日は射るように見つめる。
と、一人の兵隊が「見えたぞオーっ!救助船がみえたぞ!」と叫んだ。思わず一同万歳を叫ぶ。涙は頬を伝わり抱き合って泣いた。服を脱ぎ千切れるばかりに振る。身体が風と波のため飛んで行きそうだ。だが波間に見えた救助船は間もなく波間に消えた。もう駄日だと思ったらまた見えてきた。そんなことが三度三度(後で知ったことによると、他の遭難者の救助に右往左往していたらしい)。始めの発見から救助されるまでの長かったこと! まるで5年も10年も待っているような気がした。
やがて、海防艦が我々のボート目がけて突進してきた。出し得る限りの声で叫び腕も抜けよとばかり手を振る。水兵さん達が我々5人を艦上に引き上げてくれた。「生」の喜びをこの時こそ強く感じたことはなかった。
我々を「生」に導いてくれたボートはゆらりゆらりと波間に遠ざかっていく。
遭難して救助されるまで実に24時間余の苦闘はここに終わったのである。
艦には私達より先に助けられた兵隊達が沢山寝転んでいた。同期生も助かっているのではないかと捜したが、知っている顔は見当たらなかった。他の艦に助けられたことを祈らずにはいられなかった。身心共に疲れた身に温かい粥は何よりのご馳走であった。
多くの将兵を救助し、ひとまず五島列島福江港に入港した我々は、小学校を仮宿舎とし、村民の温かい愛の手によって、再び帝国軍人としての威厳を徐々に回復数していった。
数日後、村民と別れを惜しみながら再度海軍の船で佐世保に入り、陸軍の重砲兵隊の馬小屋を宿舎として藁を敷き一週間ばかり生活した。ここに収容された人達は僅か300名位で、5000名程乗船したと思われる秋津丸の主力は殆ど海没したのではなかろうか!
この生存者中、私を含めて5人の少年兵がいた。一週間の佐世保での生活は専ら休養と体力の回復だった。そして1週間後、再び南方行を命じられたのである。・・・・.. ° (後略)
(むらまつ誌より転載.. )
注
間橋氏は静岡県出身繰上げ卒業で南方要員として19年11月出陣、救助されたのちは、5人の仲間と共に、マニラ兵站部に出向し指示を受けるよう命令され、ブラジル丸に乗船、敵潜の脅威を潜り抜け数日後台湾のキールンに入港、更に魔のバシー海峡も無事通過、フイリピン・ピンポロ港に上陸しました。
また、この手記に関連し、同じ秋津丸に乗船されていた輸送指揮官の岡田真一氏は、つぎのように綴つて居られます。
編集者
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投稿数: 4298
秋津丸海難の顛末(追記) 岡田真一
間橋君の手記は実に克明で全くその通りです。
それに私の事を少し附記してみます。出航直前、輸送指揮官の変動があって秋津丸の指揮官だった村松の植原弘氏が急遽南方要員となった為、神州丸の指揮官だった私が秋津丸に移り、神州丸には村松から鈴木宇三郎大尉が着任という事がありました。11月13日出航はその通りで、途中伊万里湾で別紙の船団を組み海防艦6隻、空母神鷹からは2~3機が絶えず上空を守り実に堂々たる船団でした。
不穏の中の出航でしたから私共幹部は夜間不眠で見張り番となり、昼仮眠ですが、船内に入っては掌握出来ない関係から仮眠でも甲板上や階段脇で終始過ごしていたのが結果的には生残りにも結びつきました。尚運命的だったのは当日昼食の知らせに来た当番兵に「少々眠いから」と言って何時も一緒だった准尉に先に降りてもらったのですが、食堂からは生還出来ない状況でした。11時59分爆雷攻撃?かと思ったら、船員の「やられた」と言う声と共に船が傾き始め、更に爆音。階段下に退避々々と叫ぶ間もなく30度位の傾斜です。甲板の直ぐ上に間橋君同様私も生還のもととなった通称「あまがえる」(自動車エンジン搭載、ベニヤ製の特攻艇、5人位乗船が限度)が100隻程繋ぎ留めてあったのですが、見習士官が軍刀で切り離していました。既に30度くらいでしたが、私も2隻位切り降ろしたときには約45度、漸々の想いで右舷(高い方)に辿り着き縄梯子でゆっくり数を数えながら夢かと思いつつ脱出したものです。右舷に辿り着いた時甲板には人影もなしでした。船が沈む反対方向に早く離れるのが原則で泳ぎ始めたわけですが、長靴が重く仲々泳げません。厚着状態の上、軍刀を背負っており靴を脱ぐのに一苦労して、浮かび上がった頃、船は100m位先で殆ど横倒しでゆっくり進みつつ、没する処でした。
それから先は間橋君の記事と驚く位同じで救助されたのも翌昼頃であり、近くにいた筈ですが、海上で一夜明けた頃、見渡す限りの水平線にも船影は全く見えませんでした。結果的には真昼だったにも拘わらず3分の2の戦死者を出したのは、昼食時の混乱中で統制が取れなかったのも一因.. と思いますが、それよりも傾斜が早く、狭い通路が背嚢で塞がれ、脱出不可能のまま船と運命を共にされたのが殆どと思います。何とも悼ましい事で、今も私は生き残った者のみが味わう心の痛みを覚えつつ、自分を律して英霊に恥じない暮らしを心掛けています。(後略)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
注1 出航当時の各船の輸送指揮官は、秋津丸。
岡田中尉(東京少通校)、麻耶山丸。大沼大尉(少戦校)、
神州丸・鈴木大尉(村松少通校)でした。
注2 戦没11期生数は、繰上げ卒業者385名(秋津丸92、摩耶山77、
ルソン島212)、その他58名の439名で、
この数は慰霊碑に合祀されている太平洋戦争下で戦没された
少通兵812柱の54%に当たり、これによっても、
如何に11期生の犠牲が多かったかがお判り頂けると思います
(なお、この数については調査の方法によって若千の差が見られますが、
現在はこれを確かめる途は閉じられています。
不本意ではありますが、どうしても捜し出せない戦没者の
居られることは否定出来ません)。
編集者
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出陣に当たってのメモと遺書
因みに、摩耶山丸で遭難された市岡光男氏(村松校・11期)と寺井哲実氏(東京校11期)は、夫々、次の「メモ」或いは「遺書」を残しています。
メモ・抄(市岡光男氏)
(昭和19年11月16日、前日に僚船・秋津丸の轟沈を目撃した後で)心配していた夜も明け7時点呼、宮城と故郷を遥拝、軍人勅諭を奉唱し、昨日轟沈されし秋津丸に乗船せる友の姿を思い浮かべながら、これを記す。
我等の前途はまだまだこれ以上の苦しみのあることを銘記せねばなるまい。然し 我等決して死を怖れるものではない。軍人である以上、陛下の御為一命は鴻毛の軽きに比するが我等の任務なり。これを思うと、今や征途につく我等若武者が、しかも陸軍軍人が輸送船において敵の魚雷攻撃を受け一戦交え得ずしてあの狭い船室で水と闘いながら死んで行く。何と悲惨な事であろうか。戦友の無念の顔が一層我が日に浮かんで離れず、夜、朝鮮らしい所で停泊。(後略)注本メモは、長崎の漁夫が拾い生家に届けた手帳の中に記してあったメモの一節です。偶々、雑嚢の中にあったため中味を復元することが出来ました。
遺書(寺井哲矣氏)
拝啓 哲矣 本日命ニヨリ○○方面二向ヒマス
兼ネテヨリノ念願茲二叶ヒ、之二過グル悦ビナク、併シ乍ラ孝養一ツセズ不孝オ許シ下サイナレド君国二報ユルハ御両親様ノ志ヲ受継ギ、之忠孝両道ヲ全クスル事卜確信致シ居リマス
今日迄オ世話ニナリシ親戚、近所、町内、郵便局、知人友達ノ方々二宜敷ク申シテ下サイ弟妹達モ元気デ暮ス様二皆様ノ御健康フオ祈り致シマス千年仕えて尽きぬ忠と孝忠の始めに孝の終を委細は戦友島崎安夫君に依頼しあり。
尚、松尾の叔父様には特に宜敷く申し上げて下さい。遺髪、爪は後程送付さるべく、くれぐれもお体を大切に、御健康をお祈り致します。
昭和19年11月6日出陣の日 哲矣
注本遺書は、氏が卒業式の夜、家族あてに書き残したものです。
かくして、救助された将兵は残りの神州丸に収容され、再びルソン島を目指しましたが、辿り着いた先に待っていたのは餓えとマラリア等との戦いであり、間もなく圧倒的な物量を誇る敵の攻撃によって指揮命令系統が分断され、山岳地帯での彷徨が始まりました。
特に餓えは深刻で、其処には食糧を挟んでは友軍と雖も一瞬も気が許せない文字通りの「生き地獄」が現出され、病に侵され食糧も尽き果てた兵士は、終には白骨が並ぶ傍らで自決するなど、同地で散華された11期生は同島だけで212名に及んだと記録されています。
この模様を東京少通校11期生だった尾崎健一氏は、次のように生々しく綴っています。
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少年兵の戦争体験 その1 尾崎健一
私は先の太平洋戦争下、志願し、陸軍少年通信兵として、フィリピン・ルソン島で戦争体験をしました。
60余年も前のことですから、詳細については記憶も薄れていますが、以前「フィリピン参戦記」というタイトルで思い出を綴り戦友達(出身校である東京少通校の関係者及びご遺族)にお配りしたことがありますので、この記録を基に、自分が体験した事柄を赤裸々に纏めてみました。ご覧頂き、三度と戦争を起こさないために、「戦争は如何に悲惨なものであるか」を知って頂ければ幸いです。
昭和18年12月(その頃は戦争の真っただ中でした)、私は15歳でしたが東京都東村山にあった「東京陸軍少年通信兵学校」を志願して入校しました(この時、姉妹校として新潟県村松に「村松陸軍少年通信兵学校」が新設されました)。
少年通信兵学校の修業年限は2年で、軍人教育を受け通信技術を習得しましたが、急激な戦況悪化のため(山本五十六司令長官の戦死、アッツ島の玉砕、ガダルカナル島の撤退等、敗戦色が見え始めていた頃です)翌19年11月、在学中の私達11期生に対し修業年限を1年余り短縮し繰上げ卒業と南方派遣が命じられました。人数は、東京、村松両校とも、それぞれ300余名ずつが選抜され、私はその一人でした(階級は兵長でした)。
I 南方に向け出港、赴任途中の海難
卒業した翌日、東京の新橋から汽車で九州の門司に行き、其処で村松少通校からの315名と合流、更に少年戦車兵、少年砲兵、北満州から派遣された将兵達と3隻の輸送船(秋津丸、摩耶山丸、神州丸)に分乗しました。行き先がフィリピンであることは、軍の機密のため正式に発表はなかったのですが、「麻の産地」と聞かされたので分っていました(マニラ麻)。
輸送船団は輸送船が5隻、タンカーが5隻、護衛艦として航空母艦が1隻、海防艦が7隻、駆逐艦が1隻の合計19隻の大船団でした。当時としては最大、最強の輸送船団だと言われており、しかも護衛艦が多かったので、私達は少しも不安を感じることはなく勇躍して乗船しました。
ところが、門司を出航後、数日の内に、五島列島沖、済州島近く、さらに迂回して上海に向かう途中で、待ち構えていた米軍の潜水艦の魚雷攻撃を受け、あっという間に護衛の航空母艦を含む3隻の船が次々と撃沈されたのです。輸送船も2隻(秋津丸と摩耶山丸)が沈没し、任地に着かずして哀れにも東京、村松両校の同期生169名が海の藻屑と消えました。私が乗った神州丸は8,160トンの老朽船で、可なりのボロ船でした。敵は新鋭艦から狙ったのではないでしょぅか。
私の船は幸運にも被弾を免れて危機を脱し、輸送船の墓場と言われる台湾海峡、バシー海峡も無事に通過し、辛うじてフィリピン・ルソン島に到着して、上陸することが出来ました。その時、私は16歳でしたが、海外に行った兵士としては最年少であったのではないかと思います。
輸送船の中は各部隊の兵隊が乗り込み、超満員でした。
僅か畳1枚のところに10人程もギュウギュウに詰め込まれ、横になって寝ることも出来ず、膝を抱いて戦友達と背中をもたれ合って過ごしました。
しかも船室は換気が非常に悪く、40度近い蒸し風呂のような暑さの中、入浴は勿論のこと、下着の交換も全く出来ず、ルソン島に上陸するまでの約1か月間、必死に耐えました(今、考えると、これは人間扱いではなく、荷物扱いです)。沈没した他の輸送船も艦内の状況は、多分同様だろうと思いますが、脱出する出口もない船倉に詰め込まれたまま海没死した戦友の無念さを思うと、断腸の思いが致します。
私が子供の頃、家によく鼠が出ました。それを鼠捕り器で捕まえ、籠のまま近くの川に沈めて殺した記憶がありますが、輸送船の沈没による死亡は、それと全く同じ状態です。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
少年兵の戦争体験 その2 尾崎健一
2 ルソン島に上陸して
でも、無事でやっとルソン島に上陸することが出来た私達も決して幸運ではありませんでした。其処には更に恐ろしい地獄の戦場が待ち受けていたのです。
その頃、マニラの治安は非常に悪く、私達は配属先が決まるまで、一時的にマニラ競馬場を宿舎として待機していましたが、比較的近くにあった日本軍の航空基地が毎日のように米軍の空爆を受けており、その爆弾の炸裂音と、炎上する火柱が遠望され、初めて見る戦場のすさまじさに戦慄しました。制空権は既に完全に米軍に握られており、反撃する友軍機は1機も見たことはありません。
私はマニラの固定通信隊に配属され任務に就きましたが、1か月もしないうちに、状況悪化のため、マニラから部隊は撤退し、40 km程離れた東方の山岳地帯ヘ転進しました。各部隊の兵達もマニラからの戦火から逃れて来ており、山は大勢の兵士達で溢れていました。
私は仮設の送信所に勤務しましたが、発信する電波を敵に探知されて標的となり、連日物凄い空爆と砲撃を受けて通信機は破壊され、部隊はあっ!という間に壊滅しました。他の部隊も同様に戦死者が続出しました。辛うじて生き残った兵達は、命からがら散り散りに山奥に敗走したのです。20年2月初め頃であったと記憶しています。
「1に通信、2にラッパ、3に担架の大タルミ」と言われ、これが軍隊では定評になつていました(1は通信兵、2はラッパ兵、3は衛生兵)。これらは戦闘兵ではなく、危険の少ない後方基地に勤務するので、「楽な臆病者」と、さげすんだ言葉ですが、通信兵も送信所勤務の場合は、アンテナから電波を発信するので、敵の恰好の標的にされ、むしろ、真つ先に空爆、砲撃を受ける危険が多かったのです。
その時から食糧の補給は完全に途絶え、軍としての組織、機能も失われ事実上の部隊解散となりました。指揮、命令、状況説明等も一切無く、それに受信機もないので、戦況は皆目分りません。将校たちは真つ先に逃げました(自分の面倒を見てもらうために、部下の当番兵に食糧を持たせて逃げたのです)。私達下級兵士は取り残され、敵の攻撃から逃げながら飢えと戦い、山奥のジャングルを彷徨い、数人単位で逃げる敗残兵になったのです。食糧の分配は一切ありませんでした。上官、部下という階級制度も自然消滅し、たとえ山中で将校に出会つても敬礼もせず無視しました(私達はいち早く階級章をむしり取つたのですが、将校達は未練がましく着けている者が大半でした)。