鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 2
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鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ (編集者, 2012/10/26 7:59)
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11期生の繰上げ卒業と、その背景など
昭和19年11月、それまで少年通信兵は修業期間2か年の予定で教育を受けていましたが、急迫した戦局の要請を受けてこれを短縮、東京、村松両校合わせて600余名が繰上げ卒業を命じられ、陸軍兵長として勇躍出陣することになり、このうちの一部(東京校の台湾軍要員と村松校の特殊情報要員)を除く大部分の卒業生は、護衛艦の厳重な警護のもとに南方に向かいました。
これは、19年秋、フイリピンに於ける攻防が今次大戦の天王山と目されるに至って、大本営が同地で苦戦中の我が軍を増援するため、当時我が国の最精鋭兵力であった関東軍の大量動員と派遣を断行し、その一環として少年兵にも繰上げ卒業が命じられたものです。
しかし、当時、同地域に向かつた船団が無傷のまま目的地に着いたことは殆どなく、このため輸送には最強と思われる「ヒ81船団」を編成しましたが、同船団は後年、「悲劇の船団」と評されたように、その末路は余りにも無惨でした。
即ち、同船団は、第23師団(師団長・西山中将)を主力に、通信、戦車、砲兵の各少年兵学校繰上げ卒業生及び暁部隊の特幹を主軸とした水上特幹隊1個戦隊100隻(秋津丸甲板上に固縛)と、その基地隊員900名、大砲などの兵器は総て新品を搭載し、これを船団指導艦・聖川丸、陸軍上陸母艦・摩耶山丸、吉備津丸、陸軍空母兼上陸母艦・秋津丸、神州丸の5隻(少年兵は秋津丸、摩耶山丸、神州丸の3隻に分乗)、他にタンカー5隻、以下海軍護衛空母・神鷹(97式艦攻14機搭載)、海防艦7隻、駆逐艦1隻の合計19隻の船団を組み、11月13日7時)、門司港を出発、途中回避しながら12ノットで航行、目的地に向かいましたが、先ず15日11時56分、秋津丸が敵潜の魚雷を受け沈没、次いで17日18時8分、摩耶山丸が同じく敵潜により撃沈され、続いて護衛の神鷹も撃沈されました。因みに、この時の遭難者は秋津丸・2046名、摩耶山丸・3187名で、神鷹の乗務員948名もその殆どが艦と運命を共にしたと伝えられています。
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では、先ず、最初に撃沈された秋津丸に乗船し、奇跡的に救助された間橋国司氏(村松少通校・11期生)の手記を掲載します。