鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 6
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鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ (編集者, 2012/10/26 7:59)
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秋津丸海難の顛末(追記) 岡田真一
間橋君の手記は実に克明で全くその通りです。
それに私の事を少し附記してみます。出航直前、輸送指揮官の変動があって秋津丸の指揮官だった村松の植原弘氏が急遽南方要員となった為、神州丸の指揮官だった私が秋津丸に移り、神州丸には村松から鈴木宇三郎大尉が着任という事がありました。11月13日出航はその通りで、途中伊万里湾で別紙の船団を組み海防艦6隻、空母神鷹からは2~3機が絶えず上空を守り実に堂々たる船団でした。
不穏の中の出航でしたから私共幹部は夜間不眠で見張り番となり、昼仮眠ですが、船内に入っては掌握出来ない関係から仮眠でも甲板上や階段脇で終始過ごしていたのが結果的には生残りにも結びつきました。尚運命的だったのは当日昼食の知らせに来た当番兵に「少々眠いから」と言って何時も一緒だった准尉に先に降りてもらったのですが、食堂からは生還出来ない状況でした。11時59分爆雷攻撃?かと思ったら、船員の「やられた」と言う声と共に船が傾き始め、更に爆音。階段下に退避々々と叫ぶ間もなく30度位の傾斜です。甲板の直ぐ上に間橋君同様私も生還のもととなった通称「あまがえる」(自動車エンジン搭載、ベニヤ製の特攻艇、5人位乗船が限度)が100隻程繋ぎ留めてあったのですが、見習士官が軍刀で切り離していました。既に30度くらいでしたが、私も2隻位切り降ろしたときには約45度、漸々の想いで右舷(高い方)に辿り着き縄梯子でゆっくり数を数えながら夢かと思いつつ脱出したものです。右舷に辿り着いた時甲板には人影もなしでした。船が沈む反対方向に早く離れるのが原則で泳ぎ始めたわけですが、長靴が重く仲々泳げません。厚着状態の上、軍刀を背負っており靴を脱ぐのに一苦労して、浮かび上がった頃、船は100m位先で殆ど横倒しでゆっくり進みつつ、没する処でした。
それから先は間橋君の記事と驚く位同じで救助されたのも翌昼頃であり、近くにいた筈ですが、海上で一夜明けた頃、見渡す限りの水平線にも船影は全く見えませんでした。結果的には真昼だったにも拘わらず3分の2の戦死者を出したのは、昼食時の混乱中で統制が取れなかったのも一因.. と思いますが、それよりも傾斜が早く、狭い通路が背嚢で塞がれ、脱出不可能のまま船と運命を共にされたのが殆どと思います。何とも悼ましい事で、今も私は生き残った者のみが味わう心の痛みを覚えつつ、自分を律して英霊に恥じない暮らしを心掛けています。(後略)