鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 8
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鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ (編集者, 2012/10/26 7:59)
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- 鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 32 (編集者, 2012/12/3 8:43)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
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出陣に当たってのメモと遺書
因みに、摩耶山丸で遭難された市岡光男氏(村松校・11期)と寺井哲実氏(東京校11期)は、夫々、次の「メモ」或いは「遺書」を残しています。
メモ・抄(市岡光男氏)
(昭和19年11月16日、前日に僚船・秋津丸の轟沈を目撃した後で)心配していた夜も明け7時点呼、宮城と故郷を遥拝、軍人勅諭を奉唱し、昨日轟沈されし秋津丸に乗船せる友の姿を思い浮かべながら、これを記す。
我等の前途はまだまだこれ以上の苦しみのあることを銘記せねばなるまい。然し 我等決して死を怖れるものではない。軍人である以上、陛下の御為一命は鴻毛の軽きに比するが我等の任務なり。これを思うと、今や征途につく我等若武者が、しかも陸軍軍人が輸送船において敵の魚雷攻撃を受け一戦交え得ずしてあの狭い船室で水と闘いながら死んで行く。何と悲惨な事であろうか。戦友の無念の顔が一層我が日に浮かんで離れず、夜、朝鮮らしい所で停泊。(後略)注本メモは、長崎の漁夫が拾い生家に届けた手帳の中に記してあったメモの一節です。偶々、雑嚢の中にあったため中味を復元することが出来ました。
遺書(寺井哲矣氏)
拝啓 哲矣 本日命ニヨリ○○方面二向ヒマス
兼ネテヨリノ念願茲二叶ヒ、之二過グル悦ビナク、併シ乍ラ孝養一ツセズ不孝オ許シ下サイナレド君国二報ユルハ御両親様ノ志ヲ受継ギ、之忠孝両道ヲ全クスル事卜確信致シ居リマス
今日迄オ世話ニナリシ親戚、近所、町内、郵便局、知人友達ノ方々二宜敷ク申シテ下サイ弟妹達モ元気デ暮ス様二皆様ノ御健康フオ祈り致シマス千年仕えて尽きぬ忠と孝忠の始めに孝の終を委細は戦友島崎安夫君に依頼しあり。
尚、松尾の叔父様には特に宜敷く申し上げて下さい。遺髪、爪は後程送付さるべく、くれぐれもお体を大切に、御健康をお祈り致します。
昭和19年11月6日出陣の日 哲矣
注本遺書は、氏が卒業式の夜、家族あてに書き残したものです。
かくして、救助された将兵は残りの神州丸に収容され、再びルソン島を目指しましたが、辿り着いた先に待っていたのは餓えとマラリア等との戦いであり、間もなく圧倒的な物量を誇る敵の攻撃によって指揮命令系統が分断され、山岳地帯での彷徨が始まりました。
特に餓えは深刻で、其処には食糧を挟んでは友軍と雖も一瞬も気が許せない文字通りの「生き地獄」が現出され、病に侵され食糧も尽き果てた兵士は、終には白骨が並ぶ傍らで自決するなど、同地で散華された11期生は同島だけで212名に及んだと記録されています。
この模様を東京少通校11期生だった尾崎健一氏は、次のように生々しく綴っています。