鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 9
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少年兵の戦争体験 その1 尾崎健一
私は先の太平洋戦争下、志願し、陸軍少年通信兵として、フィリピン・ルソン島で戦争体験をしました。
60余年も前のことですから、詳細については記憶も薄れていますが、以前「フィリピン参戦記」というタイトルで思い出を綴り戦友達(出身校である東京少通校の関係者及びご遺族)にお配りしたことがありますので、この記録を基に、自分が体験した事柄を赤裸々に纏めてみました。ご覧頂き、三度と戦争を起こさないために、「戦争は如何に悲惨なものであるか」を知って頂ければ幸いです。
昭和18年12月(その頃は戦争の真っただ中でした)、私は15歳でしたが東京都東村山にあった「東京陸軍少年通信兵学校」を志願して入校しました(この時、姉妹校として新潟県村松に「村松陸軍少年通信兵学校」が新設されました)。
少年通信兵学校の修業年限は2年で、軍人教育を受け通信技術を習得しましたが、急激な戦況悪化のため(山本五十六司令長官の戦死、アッツ島の玉砕、ガダルカナル島の撤退等、敗戦色が見え始めていた頃です)翌19年11月、在学中の私達11期生に対し修業年限を1年余り短縮し繰上げ卒業と南方派遣が命じられました。人数は、東京、村松両校とも、それぞれ300余名ずつが選抜され、私はその一人でした(階級は兵長でした)。
I 南方に向け出港、赴任途中の海難
卒業した翌日、東京の新橋から汽車で九州の門司に行き、其処で村松少通校からの315名と合流、更に少年戦車兵、少年砲兵、北満州から派遣された将兵達と3隻の輸送船(秋津丸、摩耶山丸、神州丸)に分乗しました。行き先がフィリピンであることは、軍の機密のため正式に発表はなかったのですが、「麻の産地」と聞かされたので分っていました(マニラ麻)。
輸送船団は輸送船が5隻、タンカーが5隻、護衛艦として航空母艦が1隻、海防艦が7隻、駆逐艦が1隻の合計19隻の大船団でした。当時としては最大、最強の輸送船団だと言われており、しかも護衛艦が多かったので、私達は少しも不安を感じることはなく勇躍して乗船しました。
ところが、門司を出航後、数日の内に、五島列島沖、済州島近く、さらに迂回して上海に向かう途中で、待ち構えていた米軍の潜水艦の魚雷攻撃を受け、あっという間に護衛の航空母艦を含む3隻の船が次々と撃沈されたのです。輸送船も2隻(秋津丸と摩耶山丸)が沈没し、任地に着かずして哀れにも東京、村松両校の同期生169名が海の藻屑と消えました。私が乗った神州丸は8,160トンの老朽船で、可なりのボロ船でした。敵は新鋭艦から狙ったのではないでしょぅか。
私の船は幸運にも被弾を免れて危機を脱し、輸送船の墓場と言われる台湾海峡、バシー海峡も無事に通過し、辛うじてフィリピン・ルソン島に到着して、上陸することが出来ました。その時、私は16歳でしたが、海外に行った兵士としては最年少であったのではないかと思います。
輸送船の中は各部隊の兵隊が乗り込み、超満員でした。
僅か畳1枚のところに10人程もギュウギュウに詰め込まれ、横になって寝ることも出来ず、膝を抱いて戦友達と背中をもたれ合って過ごしました。
しかも船室は換気が非常に悪く、40度近い蒸し風呂のような暑さの中、入浴は勿論のこと、下着の交換も全く出来ず、ルソン島に上陸するまでの約1か月間、必死に耐えました(今、考えると、これは人間扱いではなく、荷物扱いです)。沈没した他の輸送船も艦内の状況は、多分同様だろうと思いますが、脱出する出口もない船倉に詰め込まれたまま海没死した戦友の無念さを思うと、断腸の思いが致します。
私が子供の頃、家によく鼠が出ました。それを鼠捕り器で捕まえ、籠のまま近くの川に沈めて殺した記憶がありますが、輸送船の沈没による死亡は、それと全く同じ状態です。