鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 3
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秋津丸遭難から救助されるまで その1 間橋国司
昭和19年11月6日、南方要員として選抜された我々11期315名は、全校及び村松町民の歓呼の声に送られて上越線上野経由で一路乗船地門司に向かつた。2昼夜に亘る列車の旅は修学旅行の小学生のように、楽しさも加わり、車中での話題も村松の思い出話、家族、着任地等尽きることを知らなかつた。
8日門司着、9日夜半、闇にまぎれて静かに横たわる秋津丸に乗船を完了した。村松少通校からは1中隊6名、3中隊57名、4中隊25名の計88名であつた。
船中での憩いの場所は3段位に出来た蚕棚とでもいえるもので、更に幾層にも重なつていて、通路と言つても狭く頭が上に当たらぬ程度である。加えて完全軍装の我々の装具は狭いスペースを更に狭くした。通風が悪く数千名の将兵を収容した船内の熱気は凄く、まるで蒸し風呂に入っているようであった。
我々少通兵は全員下の階に位置し行動するにはある程度楽でもあつた。10名か15名が一つのグループになり、主力が3中隊で何かしら心強く感じた。
11月13日、愈々南方前線目指して輸送開始である。翌14日敵情不穏のため五島列島北端に退避、15日6時、再び航行は開始された。
その日の昼食にはぜんざいが出され、甘いものに永い間遠ざかつていた我々を大いに喜ばせた。食べ終わった私は余りの暑さに通路に出て一体みしていた時の事である。「ドカン!」という大きな音がしたと思ったら船が揺れ出した。これが最初の敵潜水艦の雷撃であった。しかし、はじめは船が島か浅瀬に突っ込んでしまったのではないかと思つた。我々は軍人でありながら勿論戦場に出た経験もなかったし、船団の周囲には数隻の海軍駆逐艦、航空母艦が護衛の任についていたからである。その安心さもあって、再度の雷撃により誰かが「大きな魚雷だ!!」と叫ぶ声によって初めて身の危険を感じた。思わず出日の方ヘスットンでいった。
船が急に傾き出し、出口までの15mか20mの距離さえ思うように進めなかった。
既にあっちの通路、こっちの出入り口には兵隊達が殺到し、叫ぶ声、怒鳴る声でこの世のものとは思えなかった。幸い脱出が早かった関係でデッキに早く出ることが出来たが入り口が幾つもあって船内が広ければ、被害も最少限度にとどめることが出来たのではないかと思う。
傾きかけたデッキは既に波に洗われ、其処を駈足で抜け夢中で海に飛び込んだ。
少しでも早く、少しでも遠くへと急いだ。もたついていたら沈む船の渦巻きに呑み込まれてしまうからである(もともと、私は静岡県御前崎の浜辺で育ち、小さい時から泳いでいたので泳ぎは達者だった。村松に入校するまで、父や兄と何時も家の小型船で漁に出て再三危険な目にもあっており、この経験が私の運命を左右させたと思う)。
威風堂々進んでいた輸送船団も、秋津丸轟沈の悲運を境として雲を散らすように退散してしまつた。
それまで無我夢中で泳いでいた私にも漸く他の戦友の安否を気遣う気持ちが出始めた。誰かそこらに戦友が泳いではいないだろうか、皆運良く脱出できたであろうか、ともかく一亥も早く助け出されることを願って、波間に見えるボートに向かって泳ぎだした。近くの方遠くの方から、救助された人達が乗っているであろう筏やボートから軍歌が聞こえてくる。時々味方駆逐艦の対潜爆雷が破裂する。
はらわたが引きずり出されてしまうのではないかと思うほどの激痛を感じる(この爆雷のため、漸く脱出できた人々の中には、腸や胃をネジ切られて死んで行った人が多数ある筈だ。私も、このため腸をやられて腸の一部が一回転しており復員後も数年間痛みを覚えた)。