鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 5
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鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ (編集者, 2012/10/26 7:59)
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秋津丸遭難から救助されるまで その2 間橋国司
時は朝を刻んだ。昨夜の時化(しけ)は、風が西に変わり空が晴れ渡っても、依然として白波を立てて吹きまくる。それでも待ちに待った朝を迎えた喜びが皆の顔に再び生気を取り戻してくれた。「今日は必ず助けに来てくれるぞ!」という信念があったのだろうか。反面、この大海に流されている木の葉を果たして捜し出してくれるだろうかという一抹の不安。一一一明るくなった水平線を十の日は射るように見つめる。
と、一人の兵隊が「見えたぞオーっ!救助船がみえたぞ!」と叫んだ。思わず一同万歳を叫ぶ。涙は頬を伝わり抱き合って泣いた。服を脱ぎ千切れるばかりに振る。身体が風と波のため飛んで行きそうだ。だが波間に見えた救助船は間もなく波間に消えた。もう駄日だと思ったらまた見えてきた。そんなことが三度三度(後で知ったことによると、他の遭難者の救助に右往左往していたらしい)。始めの発見から救助されるまでの長かったこと! まるで5年も10年も待っているような気がした。
やがて、海防艦が我々のボート目がけて突進してきた。出し得る限りの声で叫び腕も抜けよとばかり手を振る。水兵さん達が我々5人を艦上に引き上げてくれた。「生」の喜びをこの時こそ強く感じたことはなかった。
我々を「生」に導いてくれたボートはゆらりゆらりと波間に遠ざかっていく。
遭難して救助されるまで実に24時間余の苦闘はここに終わったのである。
艦には私達より先に助けられた兵隊達が沢山寝転んでいた。同期生も助かっているのではないかと捜したが、知っている顔は見当たらなかった。他の艦に助けられたことを祈らずにはいられなかった。身心共に疲れた身に温かい粥は何よりのご馳走であった。
多くの将兵を救助し、ひとまず五島列島福江港に入港した我々は、小学校を仮宿舎とし、村民の温かい愛の手によって、再び帝国軍人としての威厳を徐々に回復数していった。
数日後、村民と別れを惜しみながら再度海軍の船で佐世保に入り、陸軍の重砲兵隊の馬小屋を宿舎として藁を敷き一週間ばかり生活した。ここに収容された人達は僅か300名位で、5000名程乗船したと思われる秋津丸の主力は殆ど海没したのではなかろうか!
この生存者中、私を含めて5人の少年兵がいた。一週間の佐世保での生活は専ら休養と体力の回復だった。そして1週間後、再び南方行を命じられたのである。・・・・.. ° (後略)
(むらまつ誌より転載.. )
注
間橋氏は静岡県出身繰上げ卒業で南方要員として19年11月出陣、救助されたのちは、5人の仲間と共に、マニラ兵站部に出向し指示を受けるよう命令され、ブラジル丸に乗船、敵潜の脅威を潜り抜け数日後台湾のキールンに入港、更に魔のバシー海峡も無事通過、フイリピン・ピンポロ港に上陸しました。
また、この手記に関連し、同じ秋津丸に乗船されていた輸送指揮官の岡田真一氏は、つぎのように綴つて居られます。