鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ
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投稿日時 2012/10/26 7:59
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
少通11期生 敢闘の記録
はじめに
この記録は、
メロウ伝承館へ掲載させていただくました「村松の庭訓を胸に」の、いわば続編ともいうべきもので、小冊子にまとめられたものを、発行責任者の大口光威様よりご寄贈いただき「メロウ伝承館」へ転載するようにとご依頼をいただいたため、転載するものです。
メロウ伝承館スタッフ
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目次
はじめに
写真村松慰霊碑と出陣式を前にして
11期生の繰上げ卒業と、その背景など
秋津丸遭難から救助されるまで村松11期間橋国司
秋津丸遭難の顛末(追記)少年兵輸送指揮官岡田真一
出陣に当たってのメモと遺書
メモ(抄)村松11期市岡光男
遺書東京11期寺井哲実
少年兵の戦争体験(付フィリピン参戦記・抜粋)
東京11期尾崎健一
終戦前夜、そしてシベリアヘ村松11期井上隆晴
慰霊碑等の建立
村松少通校・高木校長を偲んで村松11期岡本勝造
村松町民と少通生の心の交流
あとがき
はじめに
村松にお住いの皆様、或いはご関係の皆様、皆様は村松公園の一角にある「慰霊碑」の由来を何処までご存知でいらつしやいますか。
一一一其処には先の太平洋戦争で散華した陸軍少年通信兵812柱の御霊が祀られていますが、本誌はそのうちの過半数を占める11期生に纏わる物語です。即ち、陸軍少年通信兵は、昭和8年、生徒隊として1期生が誕生して以来、その期数は終戦までに13を数えましたが、そのうち、大戦末期の昭和18年に入校した11期生の最期が最も悲惨でした。特に戦局の急迫より繰上げ卒業させられた彼らは、3隻の輸送船に分乗して南方に向かう途中、うち2隻が敵潜水艦の魚雷攻撃によって相次いで沈没、幸うじてルソン島に辿り着いた1隻もまた、其処に待っていたのは「生き地獄」にも等しい飢えと悪疫との戦いでした。また、遅れて卒業した後発組も、満州、朝鮮、樺太等、外地に派遣された者の多くは、戦後も多年に互ってシベリア抑留の苦汁を強いられました。
純粋に祖国を信じ、その存亡の危機に臨んで進んで「昭和の白虎隊」の気概を持って国を護ろうとした彼ら一一一その年齢は15,6歳から19歳でした。
しかし一方、戦後67年、現在では戦争中のことなど、総て忘却の彼方に押しやられ、碑の由来を訊ねる方も殆ど見当たらなくなりました。
此処に於いて当時12期生だった私共は、彼ら先輩の辿ったこれらの史実を正しく後世に伝承すべく、先に「村松の庭訓を胸に平和の礎となった少年通信兵」と「西海の浪、穏やかに」の2誌を公にしましたが、本誌はこれに続く、生々しい実体験の記録です。
所詮、如何に装つても戦争とは残虐なもの。この点、元々本誌は私共に代つて村松碑をお守りくださる現地の皆様を対象に纏めたものではありますが、その他の方々でも、これをお読みくださることによって、戦争の実態をお知りになり、それが誰よりも平和を願いつつ散華された戦没先輩の「不戦への希い」の達成に繋がれば、これに過ぎる私共の喜びはありません。
平成24年秋元・村松陸軍少年通信兵学校
第12期生徒大口光威
第12期生徒佐藤嘉道