鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 10
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鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ (編集者, 2012/10/26 7:59)
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編集者
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少年兵の戦争体験 その2 尾崎健一
2 ルソン島に上陸して
でも、無事でやっとルソン島に上陸することが出来た私達も決して幸運ではありませんでした。其処には更に恐ろしい地獄の戦場が待ち受けていたのです。
その頃、マニラの治安は非常に悪く、私達は配属先が決まるまで、一時的にマニラ競馬場を宿舎として待機していましたが、比較的近くにあった日本軍の航空基地が毎日のように米軍の空爆を受けており、その爆弾の炸裂音と、炎上する火柱が遠望され、初めて見る戦場のすさまじさに戦慄しました。制空権は既に完全に米軍に握られており、反撃する友軍機は1機も見たことはありません。
私はマニラの固定通信隊に配属され任務に就きましたが、1か月もしないうちに、状況悪化のため、マニラから部隊は撤退し、40 km程離れた東方の山岳地帯ヘ転進しました。各部隊の兵達もマニラからの戦火から逃れて来ており、山は大勢の兵士達で溢れていました。
私は仮設の送信所に勤務しましたが、発信する電波を敵に探知されて標的となり、連日物凄い空爆と砲撃を受けて通信機は破壊され、部隊はあっ!という間に壊滅しました。他の部隊も同様に戦死者が続出しました。辛うじて生き残った兵達は、命からがら散り散りに山奥に敗走したのです。20年2月初め頃であったと記憶しています。
「1に通信、2にラッパ、3に担架の大タルミ」と言われ、これが軍隊では定評になつていました(1は通信兵、2はラッパ兵、3は衛生兵)。これらは戦闘兵ではなく、危険の少ない後方基地に勤務するので、「楽な臆病者」と、さげすんだ言葉ですが、通信兵も送信所勤務の場合は、アンテナから電波を発信するので、敵の恰好の標的にされ、むしろ、真つ先に空爆、砲撃を受ける危険が多かったのです。
その時から食糧の補給は完全に途絶え、軍としての組織、機能も失われ事実上の部隊解散となりました。指揮、命令、状況説明等も一切無く、それに受信機もないので、戦況は皆目分りません。将校たちは真つ先に逃げました(自分の面倒を見てもらうために、部下の当番兵に食糧を持たせて逃げたのです)。私達下級兵士は取り残され、敵の攻撃から逃げながら飢えと戦い、山奥のジャングルを彷徨い、数人単位で逃げる敗残兵になったのです。食糧の分配は一切ありませんでした。上官、部下という階級制度も自然消滅し、たとえ山中で将校に出会つても敬礼もせず無視しました(私達はいち早く階級章をむしり取つたのですが、将校達は未練がましく着けている者が大半でした)。