チョッパリの邑 (1) 椎野 公雄 <一部英訳あり>
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- チョッパリの邑 (11) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/8 7:46)
- チョッパリの邑 (12) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/9 5:57)
- チョッパリの邑 (13) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/20 10:17)
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- チョッパリの邑 (15) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/22 8:44)
- チョッパリの邑 (16) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/23 8:05)
- チョッパリの邑 (17) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/24 7:23)
- チョッパリの邑 (18) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/25 7:34)
- チョッパリの邑 (19) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/26 6:51)
- チョッパリの邑 (20) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/27 7:27)
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11
戦況悪化する中の現地生活
寒い、寒いといいながらも、春の彼岸を過ぎる頃から氷も解け始め、日差しも和らいで、防寒着も要らなくなってきた。
この昭和十九年の春、私たちがこうして比較的安穏《あんのん》な生活を送っている頃、太平洋地域の戦争はますます激しさを増し、日本軍はマーシャル諸島《北西太平洋》、パラオ諸島《北西太平洋、ミクロネシアのカロリン諸島の西端》で相次いで敗北、連合艦隊司令部はフィリピン・ミンダナオ島に移動を余儀なくされ、当時絶対防衛圈の中でも特に重要視されていたサイパン、テニアンなどを含むマリアナ諸島《北西太平洋北部に位置する》すらアメリカ軍の射程距離に入るなど、戦況はますます不利な状況にあった。
一方、大陸では重慶《じゅうけい=中国四川省》の蒋介石《しょうかいせき》・国民政府軍、毛沢東《もうたくとう》・共産軍を相手にした戦いが続けられていた。そして、この年の一月には、アメリカ軍記の台湾空襲に使われたといわれる数箇所の飛行場の破壊、また鉄道を中心とする大陸横断路を追って満州から南方・シンガポールに至る長大な補給路確保を目的とした「大陸打通作戦」と称する前代未聞の大作戦が決行され、このため五〇万の大軍が華北から華南へ動かされたとのことである。
中国大陸では、こうして拡大した戦線の維持に難渋しながらも、苦戦が続く南方今太平洋地区に比べれば未だ総体的に統治能力は高いと信じられていたし、少なくとも鴨緑江《おうりょくこう》のこちら朝鮮には大陸の様子はあまり伝わらず、朝鮮国内にも不穏な動きはまったく見えなかった。
しかし、戦争が「不利」に傾くなか、ここ朝鮮でも物資不足は顕著《けんちょ》になり、食糧は米を除き自給自足が奨励されて、各家庭の空き地は野菜・穀物の栽培が盛んになっていった。
キムチを漬けてくれた朴さんが、「そろそろ野菜を植える準備にかかりましょう」と、鍬《くわ》やスコップを持ってきて、未だ下の方の固い裏庭の土を掘り起こして畑を作ってくれる。
勿論、私たちも手伝って2アールほどの畑ができた。
そこに、青菜、隠元豆、キャベツなどの春野菜を植え、少し時間をおいて茄子《なす》、胡瓜《きゅうり》、トマトに馬鈴薯《ばれいしょ》やサツマイモ、カボチャのほか、朝鮮特有のトウモロコシ、黍《きび》、ニンニク、唐辛子などを順次植えていった。
肥料は自家製、地味も豊かなのか、早いものは夏を持たず食べられたし、トマトや胡瓜はオヤツとして毎日のように、もいではそのままかぶりついたが新鮮で美味しかった。
こうした白家穀培で殆どの野菜類、またトウモロコシなどの穀物は、食料不足の助けになったが、朴さんが「これは少し難しいよ」といっていたマクワ瓜も、彼の指導で見事な出来ばえ、手に入り難い蜜柑《みかん》や挑に代わる「果物」として有難い産物であった。
春・夏野菜が終わると、白菜、葱《ねぎ》が畑の主役になるが、霜が降り始める頃にはキムチの材料になる見事な白菜が育った。
朝鮮にきて、初めはその臭いに閉口したニンニクも、特が経つにつれて「美味いもの」に変わり、特に冬場はそのまま焼いて味噌を付け、オヤツ代わりに一玉をペロリと平らげるようになった。今でいうバクダン、何とも乙なオヤツではあった。
二学期も終わりに近づいた頃、太平洋地域の戦闘は更に厳しくなり、サイパン《北西太平洋ミクロネシアのマリアナ諸島南部の島》は七月七日に陥落して東条内閣は総辞職(七月十八日)、四日後に小磯内閣が成立して、太平洋戦争勃発《ぼっぱつ=とつぜんにおこる》以来絶大な権威を誇った開戦内閣は終わりを迎えたのである。
そんな或る日、父の串木野時代の知り合いの梅原さんが軍服姿で突然訪ねてこられた。
「久しぶりだけど、どうしたの?」父が問いかけると、梅原さんは「今度、中支に派遣されることになり、今その途上ですが一日休暇を貰ってご挨拶に上がりました」
「わざわざ来てくれて嬉しいけど、大陸も大変らしいから、くれぐれも身体を大事にね」。
そして「これをお守りに特っていって」と、父が日ごろ大事にして、時には鞘《さや》を払ってタンポで白い粉をつけたりしていた幾つかの刀の中から、白鞘のI振りを差し出すと、梅原さんも「こんな立派なものを頂いて恐縮です。早速現地で軍刀に仕立てます」
しばらく現在の戦況や内地の様子などを話し込むと、梅原さんは、母の「食事でもしていって下さい」との誘いも断って
「では行って参ります。皆さんもお元気で」と、直立不動で敬礼して帰っていかれた。
軍服の様子から、梅原さんが低い地位でないことは判るが、もともと職業軍人ではなかった筈だし、何故そんな人が戦地に赴《おもむ》くのか、いよいよそんな時がきたのかと不安な気がしてならなかった。
事実、そんな出会いがあった少し前、日本内地ではアメリカ軍のB-29による初めての空爆(六月十六日)があり、北九州では大きな被害が出ていた。しかも、この空襲で使われたB-29は中国・成都から飛び立ったものと伝えられ、中国大陸にもアメリカ軍の力が及び始めていたのである。
その後も成都から出撃するB-29の内地爆撃は続き、秋口からはアメリカ軍の手に落ちたサイパン・テニアンなどマリアナ諸島からの空爆も頻繁《ひんぱん 》に行われるようになったことから、ここ朝鮮・南楊市《ナムヤンジュ》でも防空壕の設置が義務付けられたり、防空演習が行われるようになったし、学校でも体育授業の中で竹槍訓練や短棒投げなどをやらされるようになって、それまでは比較的遠くにあった戦争も身近に迫ってきたことを感じないわけにはいかなかった。
そうはいっても、食料や日用品の配給に制限が加えられたりする他は、空襲などの直接的な被害は何もなかったので、未だまだ日常生活は穏やかなもの。夏の或る日曜日など父に連れられて鴨緑江河口の多獅島まで築(ヤナ)遊びに出かけ、グチや蟹などたらふく食べることもできたし、或る時は、これも父が何処かから仕人れてきた「かすみ網」を持って雀やツグミを獲りに遠出することもあった。
勿論、放課後の遊びも今までどおり、チェギ、トッキ、モッパイ、竹馬など、畑でできたトウキビをかじりながら日が暮れるまで遊ぶ毎日。殊にモッパイは腕もあがって、標的の野ウサギ、野鳩、カササギを追いかけては野山を駆け巡っていた。
戦況悪化する中の現地生活
寒い、寒いといいながらも、春の彼岸を過ぎる頃から氷も解け始め、日差しも和らいで、防寒着も要らなくなってきた。
この昭和十九年の春、私たちがこうして比較的安穏《あんのん》な生活を送っている頃、太平洋地域の戦争はますます激しさを増し、日本軍はマーシャル諸島《北西太平洋》、パラオ諸島《北西太平洋、ミクロネシアのカロリン諸島の西端》で相次いで敗北、連合艦隊司令部はフィリピン・ミンダナオ島に移動を余儀なくされ、当時絶対防衛圈の中でも特に重要視されていたサイパン、テニアンなどを含むマリアナ諸島《北西太平洋北部に位置する》すらアメリカ軍の射程距離に入るなど、戦況はますます不利な状況にあった。
一方、大陸では重慶《じゅうけい=中国四川省》の蒋介石《しょうかいせき》・国民政府軍、毛沢東《もうたくとう》・共産軍を相手にした戦いが続けられていた。そして、この年の一月には、アメリカ軍記の台湾空襲に使われたといわれる数箇所の飛行場の破壊、また鉄道を中心とする大陸横断路を追って満州から南方・シンガポールに至る長大な補給路確保を目的とした「大陸打通作戦」と称する前代未聞の大作戦が決行され、このため五〇万の大軍が華北から華南へ動かされたとのことである。
中国大陸では、こうして拡大した戦線の維持に難渋しながらも、苦戦が続く南方今太平洋地区に比べれば未だ総体的に統治能力は高いと信じられていたし、少なくとも鴨緑江《おうりょくこう》のこちら朝鮮には大陸の様子はあまり伝わらず、朝鮮国内にも不穏な動きはまったく見えなかった。
しかし、戦争が「不利」に傾くなか、ここ朝鮮でも物資不足は顕著《けんちょ》になり、食糧は米を除き自給自足が奨励されて、各家庭の空き地は野菜・穀物の栽培が盛んになっていった。
キムチを漬けてくれた朴さんが、「そろそろ野菜を植える準備にかかりましょう」と、鍬《くわ》やスコップを持ってきて、未だ下の方の固い裏庭の土を掘り起こして畑を作ってくれる。
勿論、私たちも手伝って2アールほどの畑ができた。
そこに、青菜、隠元豆、キャベツなどの春野菜を植え、少し時間をおいて茄子《なす》、胡瓜《きゅうり》、トマトに馬鈴薯《ばれいしょ》やサツマイモ、カボチャのほか、朝鮮特有のトウモロコシ、黍《きび》、ニンニク、唐辛子などを順次植えていった。
肥料は自家製、地味も豊かなのか、早いものは夏を持たず食べられたし、トマトや胡瓜はオヤツとして毎日のように、もいではそのままかぶりついたが新鮮で美味しかった。
こうした白家穀培で殆どの野菜類、またトウモロコシなどの穀物は、食料不足の助けになったが、朴さんが「これは少し難しいよ」といっていたマクワ瓜も、彼の指導で見事な出来ばえ、手に入り難い蜜柑《みかん》や挑に代わる「果物」として有難い産物であった。
春・夏野菜が終わると、白菜、葱《ねぎ》が畑の主役になるが、霜が降り始める頃にはキムチの材料になる見事な白菜が育った。
朝鮮にきて、初めはその臭いに閉口したニンニクも、特が経つにつれて「美味いもの」に変わり、特に冬場はそのまま焼いて味噌を付け、オヤツ代わりに一玉をペロリと平らげるようになった。今でいうバクダン、何とも乙なオヤツではあった。
二学期も終わりに近づいた頃、太平洋地域の戦闘は更に厳しくなり、サイパン《北西太平洋ミクロネシアのマリアナ諸島南部の島》は七月七日に陥落して東条内閣は総辞職(七月十八日)、四日後に小磯内閣が成立して、太平洋戦争勃発《ぼっぱつ=とつぜんにおこる》以来絶大な権威を誇った開戦内閣は終わりを迎えたのである。
そんな或る日、父の串木野時代の知り合いの梅原さんが軍服姿で突然訪ねてこられた。
「久しぶりだけど、どうしたの?」父が問いかけると、梅原さんは「今度、中支に派遣されることになり、今その途上ですが一日休暇を貰ってご挨拶に上がりました」
「わざわざ来てくれて嬉しいけど、大陸も大変らしいから、くれぐれも身体を大事にね」。
そして「これをお守りに特っていって」と、父が日ごろ大事にして、時には鞘《さや》を払ってタンポで白い粉をつけたりしていた幾つかの刀の中から、白鞘のI振りを差し出すと、梅原さんも「こんな立派なものを頂いて恐縮です。早速現地で軍刀に仕立てます」
しばらく現在の戦況や内地の様子などを話し込むと、梅原さんは、母の「食事でもしていって下さい」との誘いも断って
「では行って参ります。皆さんもお元気で」と、直立不動で敬礼して帰っていかれた。
軍服の様子から、梅原さんが低い地位でないことは判るが、もともと職業軍人ではなかった筈だし、何故そんな人が戦地に赴《おもむ》くのか、いよいよそんな時がきたのかと不安な気がしてならなかった。
事実、そんな出会いがあった少し前、日本内地ではアメリカ軍のB-29による初めての空爆(六月十六日)があり、北九州では大きな被害が出ていた。しかも、この空襲で使われたB-29は中国・成都から飛び立ったものと伝えられ、中国大陸にもアメリカ軍の力が及び始めていたのである。
その後も成都から出撃するB-29の内地爆撃は続き、秋口からはアメリカ軍の手に落ちたサイパン・テニアンなどマリアナ諸島からの空爆も頻繁《ひんぱん 》に行われるようになったことから、ここ朝鮮・南楊市《ナムヤンジュ》でも防空壕の設置が義務付けられたり、防空演習が行われるようになったし、学校でも体育授業の中で竹槍訓練や短棒投げなどをやらされるようになって、それまでは比較的遠くにあった戦争も身近に迫ってきたことを感じないわけにはいかなかった。
そうはいっても、食料や日用品の配給に制限が加えられたりする他は、空襲などの直接的な被害は何もなかったので、未だまだ日常生活は穏やかなもの。夏の或る日曜日など父に連れられて鴨緑江河口の多獅島まで築(ヤナ)遊びに出かけ、グチや蟹などたらふく食べることもできたし、或る時は、これも父が何処かから仕人れてきた「かすみ網」を持って雀やツグミを獲りに遠出することもあった。
勿論、放課後の遊びも今までどおり、チェギ、トッキ、モッパイ、竹馬など、畑でできたトウキビをかじりながら日が暮れるまで遊ぶ毎日。殊にモッパイは腕もあがって、標的の野ウサギ、野鳩、カササギを追いかけては野山を駆け巡っていた。
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再び迎える寒い冬と原料不足に悩む父の工場
そんな日々を送っているうちに、また木枯らしが吹き始め、二回目の寒い寒い冬がやってきた。
キムチ作りも去年と同じ要領。しかし今度の材料は魚貝類を除いて殆《ほとん》どが自家製の野菜、特に丹精こめて育てた白菜は見事な出来で、前回にも増して美味いキムチが完成した。
ただ、師走に入る頃から毎日のように、ラジオからは「日本連合艦隊は太平洋○○地域において敵艦隊と遭遇、敵の空母、巡洋艦○○隻を撃沈、当方の損害は軽微」といった大本営発表が屡々《しばしば》流れる一方、「第OO管区情報・敵B129、○○機が○○より本土○○に進入中・警戒せよ」、「B-29、○○機が○○に爆弾を投下して飛び去ったが、損害は軽微」などの放送が次第に増えてきて、会社からも「万一に備え防空頭巾《ぼうくうずきん=頭を保護するための帽子》は必ず携行するように」との通達が出され、通学時には必ず持だされた。
こんな不穏な雰囲気で迎える二度目の正月の食卓は、さすがに質素なものとなったが、朴さんが調達して来てくれた餅米のお陰で、お雑煮にだけは何とかありつくことができた。
この年、朝鮮では珍しく大雪が降り、家の周りは一面の銀世界。社宅の東隣には、北海道出身の青木さんの家があって、中学校に通う「お兄さん」がいたが、彼は早速スキーを二つ持ち出し、「公雄君、教えてあげるから、これを使って」と一つを貸してくれて、下りになっているすぐ側の道で指導が始まった。スケート同様まったく経験がなかったが、一時間もすると何とか滑れるようになり、「なかなか上手いよ」と誉められて得意になったことが懐かしい。
寒い冬も二度目ともなると、要領もわかって寒風もあたりまえになり、おやつのニンニクをかじりながら氷の上に出かける毎日ではあった。
しかし、ラジオで流れる戦況を聞いたり、大人たちが集まってひそひそ話しをする様子を見ていると、遊びも心から楽しめない。
というのも、大人たちの話には「戦争」の影響で「原料不足」が著しく、「これじゃ軍需工場が泣きます」、とか「兵器生産には到底追いつかない」といった会話が混じっていて、工場の運営がままならないことが垣間《かいま》見られたことである。
父の会社の生い立ちについては先に触れたが、東洋軽金属は昭和十九年四月に三井軽金属と社名変更され、その年十二月八日、つまり私たちが二度目の冬を迎えた頃、軍需大臣から軍需会社に指定されてアルミニウムの増産体制に入った筈であった。
しかし十九年十一月末にはボーキサイト原料が皆無となった三池工場のアルミナ生産量は僅かに二〇〇〇トン強と落ち込み、三池からアルミナの供給を仰ぐ楊市工場としては、供給不足を補うために、朝鮮産の長山粘土からの直接電解を開始したものの、効率は極めて悪くアルミニウムの汲み出しは頭初計画の二万トンを大きく下回り、僅かに一八○○トンとなっていた。
更に政府指導により、三池のアルミナ製造設備の1/3を楊市工場へ移設する計画まで進められようとしていたが、これも十八年九月に閣議決定、実施された「国内態勢強化方策」に基づく建物・人員疎開の延長線上にあって、戦況の悪化から特に軍需工場や重要施設などの生産疎開が促進される方策の一環でもあった。
ただ計画はあったが、とうとう終戦まで実施されることはなく、楊市工場は細々と動いていたと言ってもよかった。
こうした状況を、工場の資材課長であった父は当然知っていたと思われるが、少なくとも私たちには一度も話してくれることはなく、他所でのひそひそ話でしか聞こえてこなかったのである。
そんな日々を送っているうちに、また木枯らしが吹き始め、二回目の寒い寒い冬がやってきた。
キムチ作りも去年と同じ要領。しかし今度の材料は魚貝類を除いて殆《ほとん》どが自家製の野菜、特に丹精こめて育てた白菜は見事な出来で、前回にも増して美味いキムチが完成した。
ただ、師走に入る頃から毎日のように、ラジオからは「日本連合艦隊は太平洋○○地域において敵艦隊と遭遇、敵の空母、巡洋艦○○隻を撃沈、当方の損害は軽微」といった大本営発表が屡々《しばしば》流れる一方、「第OO管区情報・敵B129、○○機が○○より本土○○に進入中・警戒せよ」、「B-29、○○機が○○に爆弾を投下して飛び去ったが、損害は軽微」などの放送が次第に増えてきて、会社からも「万一に備え防空頭巾《ぼうくうずきん=頭を保護するための帽子》は必ず携行するように」との通達が出され、通学時には必ず持だされた。
こんな不穏な雰囲気で迎える二度目の正月の食卓は、さすがに質素なものとなったが、朴さんが調達して来てくれた餅米のお陰で、お雑煮にだけは何とかありつくことができた。
この年、朝鮮では珍しく大雪が降り、家の周りは一面の銀世界。社宅の東隣には、北海道出身の青木さんの家があって、中学校に通う「お兄さん」がいたが、彼は早速スキーを二つ持ち出し、「公雄君、教えてあげるから、これを使って」と一つを貸してくれて、下りになっているすぐ側の道で指導が始まった。スケート同様まったく経験がなかったが、一時間もすると何とか滑れるようになり、「なかなか上手いよ」と誉められて得意になったことが懐かしい。
寒い冬も二度目ともなると、要領もわかって寒風もあたりまえになり、おやつのニンニクをかじりながら氷の上に出かける毎日ではあった。
しかし、ラジオで流れる戦況を聞いたり、大人たちが集まってひそひそ話しをする様子を見ていると、遊びも心から楽しめない。
というのも、大人たちの話には「戦争」の影響で「原料不足」が著しく、「これじゃ軍需工場が泣きます」、とか「兵器生産には到底追いつかない」といった会話が混じっていて、工場の運営がままならないことが垣間《かいま》見られたことである。
父の会社の生い立ちについては先に触れたが、東洋軽金属は昭和十九年四月に三井軽金属と社名変更され、その年十二月八日、つまり私たちが二度目の冬を迎えた頃、軍需大臣から軍需会社に指定されてアルミニウムの増産体制に入った筈であった。
しかし十九年十一月末にはボーキサイト原料が皆無となった三池工場のアルミナ生産量は僅かに二〇〇〇トン強と落ち込み、三池からアルミナの供給を仰ぐ楊市工場としては、供給不足を補うために、朝鮮産の長山粘土からの直接電解を開始したものの、効率は極めて悪くアルミニウムの汲み出しは頭初計画の二万トンを大きく下回り、僅かに一八○○トンとなっていた。
更に政府指導により、三池のアルミナ製造設備の1/3を楊市工場へ移設する計画まで進められようとしていたが、これも十八年九月に閣議決定、実施された「国内態勢強化方策」に基づく建物・人員疎開の延長線上にあって、戦況の悪化から特に軍需工場や重要施設などの生産疎開が促進される方策の一環でもあった。
ただ計画はあったが、とうとう終戦まで実施されることはなく、楊市工場は細々と動いていたと言ってもよかった。
こうした状況を、工場の資材課長であった父は当然知っていたと思われるが、少なくとも私たちには一度も話してくれることはなく、他所でのひそひそ話でしか聞こえてこなかったのである。
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戦局いよいよ悪化し朝鮮孤立の不安も
三寒四温の春が来る頃には、レイテ沖海戦で連合艦隊が大きな打撃を受けたあと、フィリピンがアメリカ軍に制圧され、三月には硫黄島《いおうとう》も陥落したとの悪いニュースが相次いで伝えられ、「いよいよ沖縄が本土防衛の最前線として戦力強化されている」、「大陸から軍用列車で毎目のように兵隊さんが半島を南に運ばれている」などと囁《ささや》かれていた。
また事実、三月末にはアメリカ軍の空母十九隻、戦艦二十隻を含む大艦隊が沖縄本島に押し寄せ、激しい戦いが繰り広げられていたが、「沖縄に向かっていた戦艦大和が四月七日、アメリカ軍の空爆を受け九州・坊の岬沖で沈没した」との事実はずっと後になって聞かされたことであった。
一方内地での空襲の様子は、毎日のようにラジオ放送されていたから、凡《およ》その見当はついていた。特に三月十目の東京大空襲は、サイパンから飛び立ったB-29(三三四機)の大編隊よる無差別の空爆で大きな被害が出たと報じられ、ここ朝鮮でも、これはただ事ではないと思わざるを得なかった。そして、その後も日増しに空襲をうける地域や規模が大きくなるにつれ、「内地は大変なことになっている」、「実家はどうなってるかな」、「我々は帰れるだろうか。ひょっとして此処に取り残されるのでは」といった会話も多くなっていった。
空襲については、日本内地で激しさを増していても、ここ朝鮮では実際に爆撃をうけたことは一度もなかったが、それでも空襲警報が発令され、頭巾を被って防空壕に入り身を固くしたことが二、三度はあったろうか。
また警戒警報は屡々《しばしば》出たものの、こちらはいつも何事もなく、すぐ解除されることが多かったから、「またか」といいながら壕《=防空壕》にも入らずごく普段の生活を送っていた。
そして、たしか一学期が終わる頃だったと記憶しているが、警戒警報中、よく晴れた遥《はる》か上空に機体を銀色に光らせながら、B-29数機が東南から北西、つまり朝鮮半島を縦断しながら中国大映方面へ飛んでいくのを見かけたことがある。その時も爆弾を落とすわけでもなく、悠々《ゆうゆう》と上空を飛び去ったという感じで、憎たらしいけど「すごい奴」との印象の方が強かった。結局これが、私がB-29を見た最初で最後の機会であった。
沖縄で激しい戦いが続き、日本内地では空爆がひどくなっている頃、ヨーロッパでも米英を中心とする連合軍が優勢に戦いを続けており、ドイツの敗北も近いという噂が流れていたが、実際にそのドイツの戦後処理と対日戦争方針がヤルタで話し合われていたことなど知る由もなく、また四月にソ連軍が日本に対して日ソ中立条約不延期を通告、満州国境付近のソ連軍が急増されていたことも、全く私たちの耳には入っていなかった。
しかし四月になると、本当にドイツ軍が無条件降伏し、日本は完全に孤立してしまっていたのである。
そして六月末には、大本営発表が「沖縄・摩文仁(まぶに)において牛島中将率いる部隊が総攻撃を敢行《かんこう》、見事な最後をとげた」ことを告げ、沖縄が完全にアメリカの手に落ちたことがわかると、「いよいよ本土決戦だ」、「しかし神国日本が負けることはない、我々も頑張らなければ」と一様にいいながらも、皆の顔には不安が深まっていた。
三寒四温の春が来る頃には、レイテ沖海戦で連合艦隊が大きな打撃を受けたあと、フィリピンがアメリカ軍に制圧され、三月には硫黄島《いおうとう》も陥落したとの悪いニュースが相次いで伝えられ、「いよいよ沖縄が本土防衛の最前線として戦力強化されている」、「大陸から軍用列車で毎目のように兵隊さんが半島を南に運ばれている」などと囁《ささや》かれていた。
また事実、三月末にはアメリカ軍の空母十九隻、戦艦二十隻を含む大艦隊が沖縄本島に押し寄せ、激しい戦いが繰り広げられていたが、「沖縄に向かっていた戦艦大和が四月七日、アメリカ軍の空爆を受け九州・坊の岬沖で沈没した」との事実はずっと後になって聞かされたことであった。
一方内地での空襲の様子は、毎日のようにラジオ放送されていたから、凡《およ》その見当はついていた。特に三月十目の東京大空襲は、サイパンから飛び立ったB-29(三三四機)の大編隊よる無差別の空爆で大きな被害が出たと報じられ、ここ朝鮮でも、これはただ事ではないと思わざるを得なかった。そして、その後も日増しに空襲をうける地域や規模が大きくなるにつれ、「内地は大変なことになっている」、「実家はどうなってるかな」、「我々は帰れるだろうか。ひょっとして此処に取り残されるのでは」といった会話も多くなっていった。
空襲については、日本内地で激しさを増していても、ここ朝鮮では実際に爆撃をうけたことは一度もなかったが、それでも空襲警報が発令され、頭巾を被って防空壕に入り身を固くしたことが二、三度はあったろうか。
また警戒警報は屡々《しばしば》出たものの、こちらはいつも何事もなく、すぐ解除されることが多かったから、「またか」といいながら壕《=防空壕》にも入らずごく普段の生活を送っていた。
そして、たしか一学期が終わる頃だったと記憶しているが、警戒警報中、よく晴れた遥《はる》か上空に機体を銀色に光らせながら、B-29数機が東南から北西、つまり朝鮮半島を縦断しながら中国大映方面へ飛んでいくのを見かけたことがある。その時も爆弾を落とすわけでもなく、悠々《ゆうゆう》と上空を飛び去ったという感じで、憎たらしいけど「すごい奴」との印象の方が強かった。結局これが、私がB-29を見た最初で最後の機会であった。
沖縄で激しい戦いが続き、日本内地では空爆がひどくなっている頃、ヨーロッパでも米英を中心とする連合軍が優勢に戦いを続けており、ドイツの敗北も近いという噂が流れていたが、実際にそのドイツの戦後処理と対日戦争方針がヤルタで話し合われていたことなど知る由もなく、また四月にソ連軍が日本に対して日ソ中立条約不延期を通告、満州国境付近のソ連軍が急増されていたことも、全く私たちの耳には入っていなかった。
しかし四月になると、本当にドイツ軍が無条件降伏し、日本は完全に孤立してしまっていたのである。
そして六月末には、大本営発表が「沖縄・摩文仁(まぶに)において牛島中将率いる部隊が総攻撃を敢行《かんこう》、見事な最後をとげた」ことを告げ、沖縄が完全にアメリカの手に落ちたことがわかると、「いよいよ本土決戦だ」、「しかし神国日本が負けることはない、我々も頑張らなければ」と一様にいいながらも、皆の顔には不安が深まっていた。
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敗戦(天皇陛下の詔勅《しょうちょく=天皇の意思を表示する文書》を聞いた日)
昭和二十年の夏休みは「前年に比べても暑いな」という感じで始まった。
一年前は朝鮮での初めての夏であったが、厳しかった寒さを何とか過ごしきった後だったし、解放された気分で遊びにも忙しく、「暑い」と感じる暇もなかったという方が正しかったかも知れない。
しかし、この夏は違っていた。
ラジオから流れる各地の戦況や内地の空襲の様子は日を追って厳しさを増し、七月二十六日、連合国軍は日本に対して無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発し、鈴本貫太郎内閣はこれを黙殺するとの声明を出したことが伝えられたものの、何か得体の知れない大きな力が、ひたひたと追ってくるような不気味さを感じずににいられなかった。
この頃になると、現地朝鮮人から「日本は負けるぞ」との流言《りゅうげん=根拠の無い風説》が広がっているらしいと噂され、夏休みが始まるときの先生の注意は「むやみに街中へ出ないように」であったし、新義州《シンウィジュ 》まで汽車通学している中学生が嫌がらせを受げたとの話もあって、日本人の生活も次第に窮屈《きゅうくつ》になってきたのも事実であった。
そんな事情もあって、私たちもできるだけ社宅内の空き地や学校の校庭で遊ぶこととなったが、何をしても前年のようには楽しめず、暑さだけを堪える毎日であった。
そして八月六日、その日も朝から強い目差しで暑い日であったが、何時ものように半袖・半ズボンに戦闘帽《=旧日本軍が用いた略帽》を被って遊びに出かけ、昼食を食べようと帰ってくると、「広島に新型の爆弾が落とされ街は全滅したらしい」とのニュースが飛び込んできた。今まで見たことも聞いたこともない爆弾だという。
「そんなものが何故?」と皆が呟《つぶや》くのには、「どうしてそのような爆弾が出来たのか」、「なぜ広島なのか」、「また何処かに落とされるのだろうか」と色んな意味が込められ、「いよいよ最後の時が来たらしい」との諦めの様子すら感じられて、子供心に何とも空恐ろしい気持ちにさせられていた。
その三日後の八月九日、長崎にも同じ爆弾投下があったと聞くと、周囲の空気は更に重苦しくなって、「敗戦、朝鮮孤立」という言葉まで聞かれるようになっていった。
八月十四日、会社からの通達で、明十五日正午「天皇陛下の玉音《天子(天皇)の声》放送」があるから、みな心して聞くようにとのこと。
当時、各家庭にラジオはあって全ての情報はこのラジオで聞いてはいたが、真空管が古くなって聞き取り難いものも多く、「その場合は聞こえる家に集まって聞くこと」も付け加えられた。
ある人は「陛下の玉音放送とはよくよくのこと。現状から考えても『ポツダム宣言を受諾』して戦いに終止符をうつのだ」、また他の人は「いや、日本には『秘策』があって、どんなことがあっても、それが成就するまで戦い抜く決意を表明されるのだ」、と意見がわかれながらも、「覚悟しなければ」という気持ちだけは同じだったのではないだろうか。
勿論、正直いって私にはわからなかったし、気を揉《も》みながら十五日を持つよりなかった。
そして、とうとうその日がやってきた。
その日も朝から快晴、偶々《たまたま》私の家のラジオは比較的状態が良かったから、会社の人たち数人が「聞かせて下さい」と集まってきたので、ラジオを縁側に出しボリュームを上げて放送を待った。
正午になり玉音放送は始まったが、もったいなくも天皇陛下の肉声を聞くのはみな初めて。帽子を脱ぎ、直立の姿勢をして真剣な面持ちで聞き入っているが、雑音が大きくて所々聞き取れない。
「朕《ちん=天子の自称》深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑《かんが》み…朕は…米英…共同宣言を…する旨通告せしめたり…戦局必ずしも好転せず…時運の趨《おもむ》くところ…堪え難きを堪え忍び難きを忍び・以って満世の為に太平を開かんと欲す:」
二〇分ほどの放送が終わり、暫くそこに沈黙の時が流れる。
私には内容がよくは理解できないが、父や母、また集まった人たちも顔を見合わせながら、怪訝《けげん》な様子。
暫くすると、夫々自宅で放送を聞いていた近所の人たちも家から出てきて、口々に「全部は聞き取れなかったけど、どうも戦争を終わりにしたいと仰ったみたいだ」、「苦渋《くじゅう》のご決断をされたということだろう」、「それにしても犬変なことだ。我々はこれからどうなるのかな」、そんな会話を交わしながら、暑い日差しの中を虚《うつろ》ろな顔をしながら所在なくうろうろするばかり。
数時間が経って夕食時の会話は勿論これからのこと。日ごろから余計なことをいわない父もさすがに心配とみえて「凡《およ》その見当はついていたけど、やはりというしかないな。工場も閉鎖《へいさ》になると思うけど整理もしなければならないから、暫くは今まで通り出勤することになるだろう」と先ずは会社のこと。
続けて、「周囲が騒がしくなると思うから、皆社宅から外に出ないように」また、「公雄は男だから、お父さんが会社に行ってる間に何かあったら、ちゃんとお母さんを助けてやってくれ」。
「男だから」といわれても未だ五年生、「何かあったら助けられるのは僕なのに」ともいえず、「わかった」と答えるしかない。母も、「頼りにしてるよ」、いつものように明るく装《よそお》ってはいるか、穏やかでない様子が見て取れる。
昭和二十年の夏休みは「前年に比べても暑いな」という感じで始まった。
一年前は朝鮮での初めての夏であったが、厳しかった寒さを何とか過ごしきった後だったし、解放された気分で遊びにも忙しく、「暑い」と感じる暇もなかったという方が正しかったかも知れない。
しかし、この夏は違っていた。
ラジオから流れる各地の戦況や内地の空襲の様子は日を追って厳しさを増し、七月二十六日、連合国軍は日本に対して無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発し、鈴本貫太郎内閣はこれを黙殺するとの声明を出したことが伝えられたものの、何か得体の知れない大きな力が、ひたひたと追ってくるような不気味さを感じずににいられなかった。
この頃になると、現地朝鮮人から「日本は負けるぞ」との流言《りゅうげん=根拠の無い風説》が広がっているらしいと噂され、夏休みが始まるときの先生の注意は「むやみに街中へ出ないように」であったし、新義州《シンウィジュ 》まで汽車通学している中学生が嫌がらせを受げたとの話もあって、日本人の生活も次第に窮屈《きゅうくつ》になってきたのも事実であった。
そんな事情もあって、私たちもできるだけ社宅内の空き地や学校の校庭で遊ぶこととなったが、何をしても前年のようには楽しめず、暑さだけを堪える毎日であった。
そして八月六日、その日も朝から強い目差しで暑い日であったが、何時ものように半袖・半ズボンに戦闘帽《=旧日本軍が用いた略帽》を被って遊びに出かけ、昼食を食べようと帰ってくると、「広島に新型の爆弾が落とされ街は全滅したらしい」とのニュースが飛び込んできた。今まで見たことも聞いたこともない爆弾だという。
「そんなものが何故?」と皆が呟《つぶや》くのには、「どうしてそのような爆弾が出来たのか」、「なぜ広島なのか」、「また何処かに落とされるのだろうか」と色んな意味が込められ、「いよいよ最後の時が来たらしい」との諦めの様子すら感じられて、子供心に何とも空恐ろしい気持ちにさせられていた。
その三日後の八月九日、長崎にも同じ爆弾投下があったと聞くと、周囲の空気は更に重苦しくなって、「敗戦、朝鮮孤立」という言葉まで聞かれるようになっていった。
八月十四日、会社からの通達で、明十五日正午「天皇陛下の玉音《天子(天皇)の声》放送」があるから、みな心して聞くようにとのこと。
当時、各家庭にラジオはあって全ての情報はこのラジオで聞いてはいたが、真空管が古くなって聞き取り難いものも多く、「その場合は聞こえる家に集まって聞くこと」も付け加えられた。
ある人は「陛下の玉音放送とはよくよくのこと。現状から考えても『ポツダム宣言を受諾』して戦いに終止符をうつのだ」、また他の人は「いや、日本には『秘策』があって、どんなことがあっても、それが成就するまで戦い抜く決意を表明されるのだ」、と意見がわかれながらも、「覚悟しなければ」という気持ちだけは同じだったのではないだろうか。
勿論、正直いって私にはわからなかったし、気を揉《も》みながら十五日を持つよりなかった。
そして、とうとうその日がやってきた。
その日も朝から快晴、偶々《たまたま》私の家のラジオは比較的状態が良かったから、会社の人たち数人が「聞かせて下さい」と集まってきたので、ラジオを縁側に出しボリュームを上げて放送を待った。
正午になり玉音放送は始まったが、もったいなくも天皇陛下の肉声を聞くのはみな初めて。帽子を脱ぎ、直立の姿勢をして真剣な面持ちで聞き入っているが、雑音が大きくて所々聞き取れない。
「朕《ちん=天子の自称》深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑《かんが》み…朕は…米英…共同宣言を…する旨通告せしめたり…戦局必ずしも好転せず…時運の趨《おもむ》くところ…堪え難きを堪え忍び難きを忍び・以って満世の為に太平を開かんと欲す:」
二〇分ほどの放送が終わり、暫くそこに沈黙の時が流れる。
私には内容がよくは理解できないが、父や母、また集まった人たちも顔を見合わせながら、怪訝《けげん》な様子。
暫くすると、夫々自宅で放送を聞いていた近所の人たちも家から出てきて、口々に「全部は聞き取れなかったけど、どうも戦争を終わりにしたいと仰ったみたいだ」、「苦渋《くじゅう》のご決断をされたということだろう」、「それにしても犬変なことだ。我々はこれからどうなるのかな」、そんな会話を交わしながら、暑い日差しの中を虚《うつろ》ろな顔をしながら所在なくうろうろするばかり。
数時間が経って夕食時の会話は勿論これからのこと。日ごろから余計なことをいわない父もさすがに心配とみえて「凡《およ》その見当はついていたけど、やはりというしかないな。工場も閉鎖《へいさ》になると思うけど整理もしなければならないから、暫くは今まで通り出勤することになるだろう」と先ずは会社のこと。
続けて、「周囲が騒がしくなると思うから、皆社宅から外に出ないように」また、「公雄は男だから、お父さんが会社に行ってる間に何かあったら、ちゃんとお母さんを助けてやってくれ」。
「男だから」といわれても未だ五年生、「何かあったら助けられるのは僕なのに」ともいえず、「わかった」と答えるしかない。母も、「頼りにしてるよ」、いつものように明るく装《よそお》ってはいるか、穏やかでない様子が見て取れる。
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八月十六日の不安と焦燥《しょうそう》
その夜は何事もなく静かに過ぎて、また暑い真夏の一日が始まった。
父は、「では行ってくる」といって何時ものように出かけて行ったが、夕べの父の言葉が妙に気になる。
母と姉は、若しものことがあってはと箪笥《たんす》中など整理を始めている。私は斥候[color=CC9900]《せっこう=偵察するための兵士》[/color]よろしく、社宅を囲っている三メートルほどの高さがある土手に登り、朝鮮人部落を見回すが、いまのところ変わった様子は見えない。
「どうだ、どうだ」と集まって来た友達も、「何もないな、大丈夫だ。遊ぼう」と言い出すのにつられて、あまり気乗りしない竹馬遊びなどに興じているうちに夕方になった。
五時頃だったろうか、家に帰ると近所の人たちと話しこんでいた母が心配顔に言う。
「満州から馬賊がやってくるらしい」。
馬賊《=勝手気ままに振舞う騎馬の群盗》や匪賊《ひぞく=徒党をくんで出没し殺人、略奪をこととする盗賊》の話は前に聞いたことかあるが、特に馬賊は中国や満州で、時の為政に不満を抱く農民などが馬に乗って荒らしまわった盗賊のこと。日本が満州進出を目論んだ時にもこの馬賊を巧みに使って反抗勢力を駆逐《くちく》した史実も残されており、当時も未だ時には出没するといわれ恐ろしがられていた。そして何か悪いことをしでかした時には、必ず「馬賊がきて連れていくよ」と怒られ、子供にとっては「オマワリサン」より恐ろしい存在であった。
母が冗談をいっているとも思えず、そんな怖いものが本当にくるとなれば大変、急に身体が氷つく思いがする。
「男はみな鴨緑江の葦切りに連れていかれるそうよ」隣のおばさんからは、突拍子もない言葉が出るし、話にはだんだん尾ひれが付いて、「嫌だといったら満州に連行される」、「ひょっとすると捕虜になって暫くは帰れないかも」などと物騒《ぶっそう》な会話になってしまう。或る人はソ進軍が、もうそこまできている。彼らは獰猛《どうもう=性質が荒くたけだけしい》で何をやらかすかわかったものじゃない」と、さも知ったかぶりにいう。
事実、ソ進が対日参戦したのは一週間前の八月八日であったし、満州には既にソ進軍の大部隊がなだれ込み、終戦の詔勅が出た十五日には鴨緑江北岸まで到達していたから、あながち「知ったかぶり」ともいえなかったのである。
そうこうするうちに父が会社から帰ってきた。
「急な話だが、予想した通り工場が朝鮮の人たちの手に渡ることになった。技術関係の人を除いて出社する必要はないとのことだが、私は引継事務もあるから暫くは出ることになる」と、まったく急な話。「朝鮮人」が「朝鮮の人」になったのも、状況の変化がそうさせたと慮《おもんばか》られるが、会社でどんな話があったのか事情がわからない私には不思議な気がした。
さらに続けて「また社宅は明日彼らに引き渡すように言われた。しかも家財道具は貴重品と生活に必要な品物だけを持って出るようにとのことだ」
「そんな無茶な!」母もそれだけ言うのが精一杯。しばらく沈黙のあと「出ていけと言われても、何処に行くんですか?」母の問いに父も困惑気味にポツリとこたえる。
「職員社宅と工員社宅を入れ替えることが、今日決まったんだ。戦争に負けたんだから仕方ないよ」
父が言う通り、決まったものは仕方がない。そしてその晩は何を持っていくか、母が中心になっての引越支度となった。貴重品は嵩張《かさば》らないが、これからの冬のことを考えると衣類や布団、それに炊事道具など結構な品数だ。
結局、作業が終わったのは夜半を過ぎていた。
その夜は何事もなく静かに過ぎて、また暑い真夏の一日が始まった。
父は、「では行ってくる」といって何時ものように出かけて行ったが、夕べの父の言葉が妙に気になる。
母と姉は、若しものことがあってはと箪笥《たんす》中など整理を始めている。私は斥候[color=CC9900]《せっこう=偵察するための兵士》[/color]よろしく、社宅を囲っている三メートルほどの高さがある土手に登り、朝鮮人部落を見回すが、いまのところ変わった様子は見えない。
「どうだ、どうだ」と集まって来た友達も、「何もないな、大丈夫だ。遊ぼう」と言い出すのにつられて、あまり気乗りしない竹馬遊びなどに興じているうちに夕方になった。
五時頃だったろうか、家に帰ると近所の人たちと話しこんでいた母が心配顔に言う。
「満州から馬賊がやってくるらしい」。
馬賊《=勝手気ままに振舞う騎馬の群盗》や匪賊《ひぞく=徒党をくんで出没し殺人、略奪をこととする盗賊》の話は前に聞いたことかあるが、特に馬賊は中国や満州で、時の為政に不満を抱く農民などが馬に乗って荒らしまわった盗賊のこと。日本が満州進出を目論んだ時にもこの馬賊を巧みに使って反抗勢力を駆逐《くちく》した史実も残されており、当時も未だ時には出没するといわれ恐ろしがられていた。そして何か悪いことをしでかした時には、必ず「馬賊がきて連れていくよ」と怒られ、子供にとっては「オマワリサン」より恐ろしい存在であった。
母が冗談をいっているとも思えず、そんな怖いものが本当にくるとなれば大変、急に身体が氷つく思いがする。
「男はみな鴨緑江の葦切りに連れていかれるそうよ」隣のおばさんからは、突拍子もない言葉が出るし、話にはだんだん尾ひれが付いて、「嫌だといったら満州に連行される」、「ひょっとすると捕虜になって暫くは帰れないかも」などと物騒《ぶっそう》な会話になってしまう。或る人はソ進軍が、もうそこまできている。彼らは獰猛《どうもう=性質が荒くたけだけしい》で何をやらかすかわかったものじゃない」と、さも知ったかぶりにいう。
事実、ソ進が対日参戦したのは一週間前の八月八日であったし、満州には既にソ進軍の大部隊がなだれ込み、終戦の詔勅が出た十五日には鴨緑江北岸まで到達していたから、あながち「知ったかぶり」ともいえなかったのである。
そうこうするうちに父が会社から帰ってきた。
「急な話だが、予想した通り工場が朝鮮の人たちの手に渡ることになった。技術関係の人を除いて出社する必要はないとのことだが、私は引継事務もあるから暫くは出ることになる」と、まったく急な話。「朝鮮人」が「朝鮮の人」になったのも、状況の変化がそうさせたと慮《おもんばか》られるが、会社でどんな話があったのか事情がわからない私には不思議な気がした。
さらに続けて「また社宅は明日彼らに引き渡すように言われた。しかも家財道具は貴重品と生活に必要な品物だけを持って出るようにとのことだ」
「そんな無茶な!」母もそれだけ言うのが精一杯。しばらく沈黙のあと「出ていけと言われても、何処に行くんですか?」母の問いに父も困惑気味にポツリとこたえる。
「職員社宅と工員社宅を入れ替えることが、今日決まったんだ。戦争に負けたんだから仕方ないよ」
父が言う通り、決まったものは仕方がない。そしてその晩は何を持っていくか、母が中心になっての引越支度となった。貴重品は嵩張《かさば》らないが、これからの冬のことを考えると衣類や布団、それに炊事道具など結構な品数だ。
結局、作業が終わったのは夜半を過ぎていた。
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チョッパリ!」の声とともに地獄へ
翌日は朴さんも心配して駆けつけ、何処かからリヤカーを手配してきてくれた。
隣近所もみな同じような苦労をしたらしく、疲れ果てた顔をして夫々に荷物を纏《まと》めて集合してくる。
工場も、特に昭和二十年に入ってから生産規模縮小や若年者の徴用で職員数が減っていたが、それでも社宅の日本人は二〇〇人以上いたから、移動も大変なことだ。
地域別に五班に分かれて行動することになり、私たちは第一班に組み込まれた。
引率のため各班に二人づつ会社の人が付いてくれて、早速点呼のあと色々と注意事項が伝えられる。
「ご老人、幼児、ご病気の方には車を用意してありますが、その他はできるだけ歩いて下さい」、「所要時間は約一時間です。今日の移動については現地の人たちも承知していますが、何らかの挑発《ちょうはつ》があっても応じないで下さい」、「忘れたものがあったら、少しの時間なら待ちますから取ってきて下さい」。
残してきたものに未練はあるが、既に充分点検して持てるだけのものを持ってきたから、皆も「あとは仕方がない」といった顔で聞いている。
「では出発します」引率の人の声とともに、私たちの第一斑から、あたかも屠殺場《とさつじょう》に曳《ひ》いていかれる牛の群れの如く、ただただ黙々と動き始めた。
職員社宅から工員社宅までの道程には途中小さな朝鮮人部落があって、どうしても一部はそこを避けて通ることができない。私たちが差しかかると何人かが家から出てきて、物珍しげに、ある者は侮蔑《ぶべつ=あなどってさげすむ》の眼差しで見ている。
一人の子供が叫んだ。
「チョッパリ!」。
一瞬私は耳を疑った。この言葉こそ日本人の蔑称《べっしょう=相手をあなどっていう言葉》だったからだ。
この言葉の意味はこうだ。朝鮮人の履物は先が上向きに尖《 とが》っていようが丸かろうが全ての指が一体になる「靴」であるが、日本人は下駄や草履を履く習慣があって、指が二股《ふたまた》に分れる姿が彼らには異様と映る異人であったし、この「二股」を朝解語で「チョッパリ」といって日本人のことを指していた。ただ、今までは陰では言っても公の場で聞くことはなかったから、正直この言葉を聞いた時はハッとして、改めて環境が変わったんだと実感しないわけにはいかなかった。そして、その後はこのチョッパリが「バカヤロウ」と同意語になって毎日のように私達に浴びせられた。
この時発せられた子供の甲高《かんだか》い「チョッパリ!」の声とともに、私たちの北朝鮮における生活は、それまでとは一八○度、いや天と地が逆さまになったように変わってしまったのである。
翌日は朴さんも心配して駆けつけ、何処かからリヤカーを手配してきてくれた。
隣近所もみな同じような苦労をしたらしく、疲れ果てた顔をして夫々に荷物を纏《まと》めて集合してくる。
工場も、特に昭和二十年に入ってから生産規模縮小や若年者の徴用で職員数が減っていたが、それでも社宅の日本人は二〇〇人以上いたから、移動も大変なことだ。
地域別に五班に分かれて行動することになり、私たちは第一班に組み込まれた。
引率のため各班に二人づつ会社の人が付いてくれて、早速点呼のあと色々と注意事項が伝えられる。
「ご老人、幼児、ご病気の方には車を用意してありますが、その他はできるだけ歩いて下さい」、「所要時間は約一時間です。今日の移動については現地の人たちも承知していますが、何らかの挑発《ちょうはつ》があっても応じないで下さい」、「忘れたものがあったら、少しの時間なら待ちますから取ってきて下さい」。
残してきたものに未練はあるが、既に充分点検して持てるだけのものを持ってきたから、皆も「あとは仕方がない」といった顔で聞いている。
「では出発します」引率の人の声とともに、私たちの第一斑から、あたかも屠殺場《とさつじょう》に曳《ひ》いていかれる牛の群れの如く、ただただ黙々と動き始めた。
職員社宅から工員社宅までの道程には途中小さな朝鮮人部落があって、どうしても一部はそこを避けて通ることができない。私たちが差しかかると何人かが家から出てきて、物珍しげに、ある者は侮蔑《ぶべつ=あなどってさげすむ》の眼差しで見ている。
一人の子供が叫んだ。
「チョッパリ!」。
一瞬私は耳を疑った。この言葉こそ日本人の蔑称《べっしょう=相手をあなどっていう言葉》だったからだ。
この言葉の意味はこうだ。朝鮮人の履物は先が上向きに尖《 とが》っていようが丸かろうが全ての指が一体になる「靴」であるが、日本人は下駄や草履を履く習慣があって、指が二股《ふたまた》に分れる姿が彼らには異様と映る異人であったし、この「二股」を朝解語で「チョッパリ」といって日本人のことを指していた。ただ、今までは陰では言っても公の場で聞くことはなかったから、正直この言葉を聞いた時はハッとして、改めて環境が変わったんだと実感しないわけにはいかなかった。そして、その後はこのチョッパリが「バカヤロウ」と同意語になって毎日のように私達に浴びせられた。
この時発せられた子供の甲高《かんだか》い「チョッパリ!」の声とともに、私たちの北朝鮮における生活は、それまでとは一八○度、いや天と地が逆さまになったように変わってしまったのである。
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ブタ小屋生活
小一時間かけて私たちが着いた所は、工場から西南にだいぶ離れた工員社宅の更に南のはずれ。その先はもう田畑しかなく、一キロほど向こうに低い山並みが見えるだけの淋しい田園地帯である。
そこに、荒れ果てた四軒長屋が縦に五棟、横に三列連なった住居群があり、ここが今日から私たちの住家となるという。以前は現地の工員が住んでいたらしいが、いったい彼らはどうしたのかがわからない。尋ねると、工場開設に際して採用した工員をその後減員したため、社宅として不要になったものとのことであった。
各戸とも同じ造りで四畳半が二間、そのうち一間はオンドルで、他に土間の台所がついているだけのみすぼらしい住居。勿論トイレは集合便所で外まで出なければならない。
入り口(玄関)は扉がとれて、筵《むしろ》が垂れ下がっているだけのものが多いし、暫く放置されていたせいかすべてが汚らしい。とにかく、これまでの社宅を「家」とすれば、こちらは「豚小屋」と言ってもいい。
既に抽選でもして決められていたのか、それぞれ割り当てられた家に荷物を持って入居することになった。
当時の家族同伴(平均三~四名)の世帯数は約五〇戸だったが、そこにちょうど五〇名ほどの単身者が一人ずつ割り振られて、同居人となった。
余った家一〇戸ほどには、しばらくして、満州からの引揚者ながら直接帰還できず、ここ南楊市まで漸くたどり着いた女子供だけの家族が、どういう理由か知れなかったけど入ってきた。
割り当てられた家は一列目の西端に近いところ、案の定玄関は扉の代わりに筵がかかっており、中は薄暗くて埃《ほこり》っぽい。
すぐ掃除《そうじ》にかかり、持ってきた荷物を納め込むころ一人の男性がやってきた。年のころは四〇才位か、おとなしい人である。
「栗原と申します。ご厄介になりますが、どうぞよろしくお願いいたします」申し訳なさそうに挨拶され、父母も丁重に答える。「心強いです。こちらこそ、よろしくお願いします」。
私達の家族は五人だから、この栗原さんを入れて六人。家の広さからすると狭苦しくなるが、この非常時に文句を言っている場合ではない。
幸いに?栗原さんの荷物は、身の回りの品と布団だけだったから、場所もとらず私たちのものの片隅にすんなりと納まった。
こうして私たちの新しく厳しい戦後の抑留《よくりゅう》生活が始まったが、とにもかくにも、今まで持っていた権力を失い、帰還も許されず、居住して働くことだけを認められた在朝・日本人としては、今ここにいる約二〇〇名が団結して何時訪れるかわからない帰国の日を耐えて待つよりほかなかった。
早速、父は集まりがあるといって社宅の東側にある小さな集会所へ出かけていった。
この時、これからの集団生活を取り仕切る日本人会が正式に結成され、色々な役どころが決まったと、帰ってきた父から知らされた。父は資材課長の経験から食糧や生活に必要な物資の調達を担当することになったという。また小学校高学年の子供達にも応分の役割が与えられ、私は当然ながら父の仕事を補佐する役目、つまり物資の配給係をさせられることになった。
小一時間かけて私たちが着いた所は、工場から西南にだいぶ離れた工員社宅の更に南のはずれ。その先はもう田畑しかなく、一キロほど向こうに低い山並みが見えるだけの淋しい田園地帯である。
そこに、荒れ果てた四軒長屋が縦に五棟、横に三列連なった住居群があり、ここが今日から私たちの住家となるという。以前は現地の工員が住んでいたらしいが、いったい彼らはどうしたのかがわからない。尋ねると、工場開設に際して採用した工員をその後減員したため、社宅として不要になったものとのことであった。
各戸とも同じ造りで四畳半が二間、そのうち一間はオンドルで、他に土間の台所がついているだけのみすぼらしい住居。勿論トイレは集合便所で外まで出なければならない。
入り口(玄関)は扉がとれて、筵《むしろ》が垂れ下がっているだけのものが多いし、暫く放置されていたせいかすべてが汚らしい。とにかく、これまでの社宅を「家」とすれば、こちらは「豚小屋」と言ってもいい。
既に抽選でもして決められていたのか、それぞれ割り当てられた家に荷物を持って入居することになった。
当時の家族同伴(平均三~四名)の世帯数は約五〇戸だったが、そこにちょうど五〇名ほどの単身者が一人ずつ割り振られて、同居人となった。
余った家一〇戸ほどには、しばらくして、満州からの引揚者ながら直接帰還できず、ここ南楊市まで漸くたどり着いた女子供だけの家族が、どういう理由か知れなかったけど入ってきた。
割り当てられた家は一列目の西端に近いところ、案の定玄関は扉の代わりに筵がかかっており、中は薄暗くて埃《ほこり》っぽい。
すぐ掃除《そうじ》にかかり、持ってきた荷物を納め込むころ一人の男性がやってきた。年のころは四〇才位か、おとなしい人である。
「栗原と申します。ご厄介になりますが、どうぞよろしくお願いいたします」申し訳なさそうに挨拶され、父母も丁重に答える。「心強いです。こちらこそ、よろしくお願いします」。
私達の家族は五人だから、この栗原さんを入れて六人。家の広さからすると狭苦しくなるが、この非常時に文句を言っている場合ではない。
幸いに?栗原さんの荷物は、身の回りの品と布団だけだったから、場所もとらず私たちのものの片隅にすんなりと納まった。
こうして私たちの新しく厳しい戦後の抑留《よくりゅう》生活が始まったが、とにもかくにも、今まで持っていた権力を失い、帰還も許されず、居住して働くことだけを認められた在朝・日本人としては、今ここにいる約二〇〇名が団結して何時訪れるかわからない帰国の日を耐えて待つよりほかなかった。
早速、父は集まりがあるといって社宅の東側にある小さな集会所へ出かけていった。
この時、これからの集団生活を取り仕切る日本人会が正式に結成され、色々な役どころが決まったと、帰ってきた父から知らされた。父は資材課長の経験から食糧や生活に必要な物資の調達を担当することになったという。また小学校高学年の子供達にも応分の役割が与えられ、私は当然ながら父の仕事を補佐する役目、つまり物資の配給係をさせられることになった。
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当時の朝鮮半島情勢
この頃の、こうした私たち日本人の急激な環境変化の裏で何か起こっていたのか、特に八月十五日以降の朝鮮総督府権限の現地委譲《いじょう》や軍の情勢については未だに知りえないことも多いが、資料によれば少なくともソ連軍の朝鮮半島進入は極めてすばやく、十五日には新義州《シンウィジュ》に進駐するとともに部隊の一部は南下を始めていた。事実を知ったアメリカはソ連の朝鮮全土占領を恐れ、両国の分担地域を三十八度線とすることを提案し、協議の結果、八月十六日に両国間でこの三十八度線を境界とすることが確認されたとされる。
北のソ連軍は早速日本車の武装解除を進め、八月中にはこれを完了するとともに、各地で選挙された人民委員会に行政権を移管する一方、ソ進軍司令部内に民生部を設置して、人民委員会への指導を強化するなど、その動きは早かった。
この人民委員会は、朝鮮半島全土にわたる社会主義政権樹立を危惧《きぐ》した総督府が、比較的穏健《おんけん》とされる呂運亨(ヨウニョン)、安在鴻(アンジェホン)らの民族運動家に治安維持の権限を委譲すべく協議した結果、彼らが八月十五日に朝鮮建国準備委員会を立ち上げたのち、その支部として結成された一四五の委員会のことである。
一方のアメリカ軍の南朝鮮進駐はソ連とは対照的に遅く、ようやく九月六日になってからであった。時あたかも全国人民大会が開催されて朝鮮人民共和国の樹立が宣言され、主席にアメリカで活動していた李承晩(イスンマン)、副主席は呂運亨、その他のメンバーも国内外で活動していた人たちが幅広く選ばれている。
しかしアメリカは「軍政庁」(長官・アーノルド少将)を南朝鮮の唯一の政府として、この人民共和国を認めず、また北のソ連軍もこれを承認することなく最終的には北朝鮮の行政に統一的管理を行う機関として「北朝鮮五道行政局」を設置して実質的な軍指導体制を確立したため、人民共和国は南北の連携《れんけい》もままならず空中分解してしまった。
こうして、その後しばらくは米ソが三十八度線を境界とする南北朝鮮を分割支配する体制が続くことになったが、北側においては、それまで地下活動を続けていた共産党が、解放を機に正当な組織化に動いて「朝鮮共産党」を再建し、その北部朝鮮分局が結成されると、「金日成」が初めて人々の前に姿を現し、私たちもこの時からその名前を知ることになったのである。
この頃の、こうした私たち日本人の急激な環境変化の裏で何か起こっていたのか、特に八月十五日以降の朝鮮総督府権限の現地委譲《いじょう》や軍の情勢については未だに知りえないことも多いが、資料によれば少なくともソ連軍の朝鮮半島進入は極めてすばやく、十五日には新義州《シンウィジュ》に進駐するとともに部隊の一部は南下を始めていた。事実を知ったアメリカはソ連の朝鮮全土占領を恐れ、両国の分担地域を三十八度線とすることを提案し、協議の結果、八月十六日に両国間でこの三十八度線を境界とすることが確認されたとされる。
北のソ連軍は早速日本車の武装解除を進め、八月中にはこれを完了するとともに、各地で選挙された人民委員会に行政権を移管する一方、ソ進軍司令部内に民生部を設置して、人民委員会への指導を強化するなど、その動きは早かった。
この人民委員会は、朝鮮半島全土にわたる社会主義政権樹立を危惧《きぐ》した総督府が、比較的穏健《おんけん》とされる呂運亨(ヨウニョン)、安在鴻(アンジェホン)らの民族運動家に治安維持の権限を委譲すべく協議した結果、彼らが八月十五日に朝鮮建国準備委員会を立ち上げたのち、その支部として結成された一四五の委員会のことである。
一方のアメリカ軍の南朝鮮進駐はソ連とは対照的に遅く、ようやく九月六日になってからであった。時あたかも全国人民大会が開催されて朝鮮人民共和国の樹立が宣言され、主席にアメリカで活動していた李承晩(イスンマン)、副主席は呂運亨、その他のメンバーも国内外で活動していた人たちが幅広く選ばれている。
しかしアメリカは「軍政庁」(長官・アーノルド少将)を南朝鮮の唯一の政府として、この人民共和国を認めず、また北のソ連軍もこれを承認することなく最終的には北朝鮮の行政に統一的管理を行う機関として「北朝鮮五道行政局」を設置して実質的な軍指導体制を確立したため、人民共和国は南北の連携《れんけい》もままならず空中分解してしまった。
こうして、その後しばらくは米ソが三十八度線を境界とする南北朝鮮を分割支配する体制が続くことになったが、北側においては、それまで地下活動を続けていた共産党が、解放を機に正当な組織化に動いて「朝鮮共産党」を再建し、その北部朝鮮分局が結成されると、「金日成」が初めて人々の前に姿を現し、私たちもこの時からその名前を知ることになったのである。
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工場と日本人会
このような状況の中、父の工場が八月十五日以降も稼動《かどう》したのは、どのような理由で、また誰の指示であったかは判然としないが、おそらく人民委員会の指導のもとで、産業振興は大げさとしても、事業継続による朝鮮人労働者の職域確保《=働く場をしっかり保つ》という観点から「存続承認[color=CC9900]《=続けていくことを認める》[/color]」されたのではなかったろうか。
父たちも一部の人を除き立場を替えて働かされ、殆ど毎日出社していたが、これも憎らしい日本人とはいえ、事業継続に必要な従業員として認めざるを得なかったものと思われる。
従って労働に見合う対価《たいか=賃料》として、僅かではあるが賃金と食糧が与えられ、病人が出れば工場付属の病院で治療することも可能ではあった。
しかしこの頃の食料事情は到底満足できる状況になく、配給されるものは少しばかりの米にトウモロコシ、粟《あわ》、稗《ひえ》、などが主で、ごく偶《たま》に鶏肉や卵のほか、塩、砂糖といった調味料などもあったが、その数量は極めて少なく、しかも節約しながら使うので必然的に味は薄くお世辞にも美味いといえる料理にはありつけない。ただただ不充分ながら腹をそこそこ満たし飢え死にすることだけは避けられるといった状況であった。
食料のほか粗末な衣料、マッチや石鹸も配給されたが、始末しながら使ってもマッチなどはすぐ切れて隣近所に火を借りにいくこともしばしば。
こうした配給物資は、各戸の家族構成や状況に応じて均等に配分される必要があったから、日本人会の役目も大変である。
また、この日本人会は、互助会の役割と、父達「労働者」の労働組合でもあったから、当然会社との交渉もしなければならず、特に物資調達係の父は交渉責任者として、会社を相手に工場の仕事の傍《かたわ》らその役割も果たさなければならなかったので、負担も大きかったと思われる。
その父の役目を補佐する私は、配給があると会の指示に従って物資の配分、通達、受け取りに来られない家までの配達係をやらされた。
通達は狭い社宅のこと、文書を回すほどでもないので「トウモロコシと石鹸の配給でーす。○○時から○○時までに取りにきて下さーい」と大声をあげながら二周すれば済んだ。最初は恥ずかしかったが、「ご苦労さん」と返ってくる言葉に励まされながら「仕事」にもすぐに慣れ、また時には家庭から会事務局への伝言まで取り次ぐこともあって、日本人会の庶務《しょむ》係になった気分でもあった。
私たち子供は、ここに来てから学校に行く必要がなく、「勉強」とは全く無縁な生活となっていたから、宿題などに悩まされることもなかった代わりに朝から自由な時間がたっぷりあって、当然のように仕事をさせられることになったが、その仕事もない時は友達と朝から遊ぶことができた。
しかし以前と違って周りは立場が逆転した朝鮮人、子供同士であっても私たちの姿を見つけるや「チョッパリ」といいながら喧嘩《けんか》を仕掛けてくる。そんな中に何人が束になっても敵《かな》わない乱暴な大将がいて、彼らの間で「ケイシン」と呼ばれていたから名前はすぐ覚えたし、私たちは何時も彼の出没する時間や場所を避けて遊ぶことを心がけた。
遊ぶといっても食糧難に物資不足の厳しい生活環境だから、ケイシンを心配しながらも常に何か役立つものを持って帰る遊びとなる。一番熱心にやったのが魚釣り。しかし最初のうち竿は何とかなっても折々テグスがないので、ザルや筵《むしろ》を使った「魚獲り」。周りには用水池がたくさんあって小川も流れていたから、小鮒、ハヤ、ドジョウなどが結構獲れて蛋白質不足を補うのに役に立っていた。
遊んでいる間も、誰かが「ケイシンが来たぞ!」と叫ぶと獲物を放りだして一目散に逃げ帰り、その日の収穫はゼロということもしばしば、母にも喜んで貰えず悔しい思いをしたものである。
このような状況の中、父の工場が八月十五日以降も稼動《かどう》したのは、どのような理由で、また誰の指示であったかは判然としないが、おそらく人民委員会の指導のもとで、産業振興は大げさとしても、事業継続による朝鮮人労働者の職域確保《=働く場をしっかり保つ》という観点から「存続承認[color=CC9900]《=続けていくことを認める》[/color]」されたのではなかったろうか。
父たちも一部の人を除き立場を替えて働かされ、殆ど毎日出社していたが、これも憎らしい日本人とはいえ、事業継続に必要な従業員として認めざるを得なかったものと思われる。
従って労働に見合う対価《たいか=賃料》として、僅かではあるが賃金と食糧が与えられ、病人が出れば工場付属の病院で治療することも可能ではあった。
しかしこの頃の食料事情は到底満足できる状況になく、配給されるものは少しばかりの米にトウモロコシ、粟《あわ》、稗《ひえ》、などが主で、ごく偶《たま》に鶏肉や卵のほか、塩、砂糖といった調味料などもあったが、その数量は極めて少なく、しかも節約しながら使うので必然的に味は薄くお世辞にも美味いといえる料理にはありつけない。ただただ不充分ながら腹をそこそこ満たし飢え死にすることだけは避けられるといった状況であった。
食料のほか粗末な衣料、マッチや石鹸も配給されたが、始末しながら使ってもマッチなどはすぐ切れて隣近所に火を借りにいくこともしばしば。
こうした配給物資は、各戸の家族構成や状況に応じて均等に配分される必要があったから、日本人会の役目も大変である。
また、この日本人会は、互助会の役割と、父達「労働者」の労働組合でもあったから、当然会社との交渉もしなければならず、特に物資調達係の父は交渉責任者として、会社を相手に工場の仕事の傍《かたわ》らその役割も果たさなければならなかったので、負担も大きかったと思われる。
その父の役目を補佐する私は、配給があると会の指示に従って物資の配分、通達、受け取りに来られない家までの配達係をやらされた。
通達は狭い社宅のこと、文書を回すほどでもないので「トウモロコシと石鹸の配給でーす。○○時から○○時までに取りにきて下さーい」と大声をあげながら二周すれば済んだ。最初は恥ずかしかったが、「ご苦労さん」と返ってくる言葉に励まされながら「仕事」にもすぐに慣れ、また時には家庭から会事務局への伝言まで取り次ぐこともあって、日本人会の庶務《しょむ》係になった気分でもあった。
私たち子供は、ここに来てから学校に行く必要がなく、「勉強」とは全く無縁な生活となっていたから、宿題などに悩まされることもなかった代わりに朝から自由な時間がたっぷりあって、当然のように仕事をさせられることになったが、その仕事もない時は友達と朝から遊ぶことができた。
しかし以前と違って周りは立場が逆転した朝鮮人、子供同士であっても私たちの姿を見つけるや「チョッパリ」といいながら喧嘩《けんか》を仕掛けてくる。そんな中に何人が束になっても敵《かな》わない乱暴な大将がいて、彼らの間で「ケイシン」と呼ばれていたから名前はすぐ覚えたし、私たちは何時も彼の出没する時間や場所を避けて遊ぶことを心がけた。
遊ぶといっても食糧難に物資不足の厳しい生活環境だから、ケイシンを心配しながらも常に何か役立つものを持って帰る遊びとなる。一番熱心にやったのが魚釣り。しかし最初のうち竿は何とかなっても折々テグスがないので、ザルや筵《むしろ》を使った「魚獲り」。周りには用水池がたくさんあって小川も流れていたから、小鮒、ハヤ、ドジョウなどが結構獲れて蛋白質不足を補うのに役に立っていた。
遊んでいる間も、誰かが「ケイシンが来たぞ!」と叫ぶと獲物を放りだして一目散に逃げ帰り、その日の収穫はゼロということもしばしば、母にも喜んで貰えず悔しい思いをしたものである。
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編集者 (代理投稿)
編集者
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朝鮮人によるリンチとロシア兵の襲撃の恐怖
こうして始まった新生活であったが、やはりと言うべきか二~三週間経った頃から、工場では日本人に対する復讐の仕打ちが始まり、社宅内にも衝撃《しょうげき》が走っていた。
従業員として働かされる日本人が、これまで抑圧されてきた彼ら朝鮮人から、積年の恨みとばかりに連日・連夜リンチを受ける日々が続くようになり、一日ニ~三人、多い時には五~六人が工場内で詰問のうえ樫《かし》の棒で殴打《おうだ》され、特に過去の所業が手荒かっかり非人道的であったりして恨みが深かった人間は、想像を絶する処罰を受けたという。
或る朝など、遺骸《いがい》となって戸板に乗せられ帰宅した人を目撃したこともあった。
おそらくこの人は、暗い工場の片隅で一応の釈明や抵抗はしたに違いないが、ただひたすら叩かれ続け、無念な最後だったのではなかろうか。取りすがって泣き叫ぶ家族の姿をみていると、「敗戦」の凄まじい現実を見せ付けられるようで子供心に居たたまれず、父もこんな目に遭《あ》わなければ良いがと心配する毎日になった。
そんなある日、夜になっても父が帰ってこない。杞憂《きゆう》であってくれればと祈りながら、一家全員まんじりともしない夜が明けて、父がよろよろしながら帰ってきた。「やっぱりやられたよ」といって見せてくれる身体には全身にわたって黒い痣《あざ》と傷。
母は薬箱から瓶に半分ほど残っているヨードチンキを取り出して手早く傷口に塗り、湿布薬はなかったから、手ぬぐいを濡《ぬ》らして腫《は》れ上がったところを冷やす。
以前、母から「私は昔看護婦《=女性の看護士》だったのよ」と聞かされ、私たちには病気予防の心得」も厳しかったし、病気した時の看護はいつも手際が良くて感心していたが、この時の手当てもさすがはプロと思わせる技であった。
「二~三時間樫《かし》の棒で殴られたが、日ごろから優しくしてやった人が側にいてくれたお陰で、大分手加減してくれたようだ。それでもこの有様だから、ひどかった人は半殺し状態だったよ」
父は体格もよく、いつも「若い時は柔道で鍛《きた》えてあるから身体には自信がある」と言っていた通り確かに頑丈な身体の持ち主だったから、或いはこの程度で済んだのかとも考えられたが、とにかくひどい仕打ちだったことは間違いなかった。
このような惨《むご》い仕打ちも10日ほどすると少しずつ下火になって、平穏な日々が戻ってきたかに見えた或る日、外でバリバリバリと機関銃らしき音がする。
何事かと日本人会の人に聞くと、社宅の北側にロシア兵の宿舎ができて射撃の訓練をしているらしいとのこと。彼らが新義州《シンウィジュ》までいち早く進駐して来たことは知っていたが、この南楊市まで来ているとは想像もしていなかったから少なからず驚いたし、彼らが「野蛮」で「獰猛《どうもう》」と噂していただけに何をしでかすか怖くて不安だった。
日本人会からも「できるだけ彼らには近づかないよう、少なくとも夜は外に出ないように」とのお達しが出て、夕食を早仕舞いすると家の中で息を潜《しそ》めて過ごす夜が多くなった。
また略奪や強姦《ごうかん》の備えとして、特に女性は顔に墨を塗って髪の毛はわざともじゃもじゃにし、服装はもともとみすぼらしいものしかない上に更に男っぽい洋服を着込んで変装するから、家の中は恰《あたか》も男所帯の乞食小屋である。
「こんな魅力のない女では向こうも愛想をつかして連れていく気にもならないよ」父も冗談めかして言ってはいるか、心穏やかならぬ様子。同居人の栗原さんはお世辞を交えながら真顔で「いや、地が良いからもっと黒く塗った方がいいでしょう」「やはり栗原さんは解っていらっしやる」大らかな母が言うものだから、つい私もつられて笑ってしまうが、やはり不安で一杯。
通達が出て二~三日たった或る夜、その不安は現実に訪れた。
「バリバリ」と機関銃(マンダリン)の音が遠くに聞こえたかと思うと、次第にロシア兵の大きな声が近づいてくる。
「ダワイ・・・」、「ダワイ・マダム」、「ヤポンスキー・・・」三、四人連れ立っているようだ。
父は奥の部屋の押し入れを開け布団を出して先ず姉を押し込み、母にも入るよう促《うなが》す。母は「私は大丈夫」、「いや入れ」と争う間もなく、その声は隣まできている。仕方なく姉だけを入れて前をその布団で慌しく覆《おお》い襖《ふすま》を閉めたとき、軍服を着た大男のロシア兵が二人、入り口の筵《むしろ》をかき分けて入ってきた。
「ダワイ・・・」、「ダワイ・マダム」
初めて聞くロシア語でよく解らないが、どうも「ダワイ」は「『くれ』、『出せ』」らしく、「マダム」は「女」を意味するようだ。
一人はすぐ出ていったが、もう一人はしっこく「ダワイ・・・」「ダワイ・マダム」と繰り返しながら家の中を覗《のぞ》き込む。
姉も心配だが、幸い上がりこむ様子もなく、父の後ろに隠れるように控えている母を一瞥《いちべつ》すると、「女」はいないと思ったか軍服の両袖をたくし上げ、右腕に二個左に三個の腕時計を見せて、これと同じ物を出せとの仕草。父が持っていた時計を差し出すと、ひったくるように受け取り、もう一度周りを見回して出ていった。
外では他の兵隊と何やら大声で話し合っている様子。時折バリバリと銃声もする。
隣も、その先の家も同じようにやられているようだが、泣き叫ぶ日本人の声が聞こえないのは、大きな乱暴がないと思われて少しホッとする。
銃声とロシア語が聞こえなくなるのを持って、「もう大丈夫だ」と押人れの中の姉を引っ張り出す。数分間はただお互いに顔を見合わせるだけで声も出ない。とにかく生きた心地がしなかったとはあの時のことを言うのだろう。
ようやく父が「腕時計一個で済んでよかった。未だ懐中時計かあるから不自由はないよ」、「それにしてもお母さんは女に見えなかったみたいだな。ハハハ」
と、未だ興奮している皆の気持ちを和らげるように言うのに、母も負けていない。
「残念だったわ。墨は塗ってもこんな美人を見損なうとはね」
何とか切り抜けた危機とはいえ、こんな会話ができるのも、毎日の苛酷《かこく》な生活で少しは腹も座ってきた証拠であったろう。しかし、私の身体には未だ震えが少し残っていて本当のところ怖かった。
それにしても戦利品の腕時計を六個も身につけて得意になるなど、ロシア兵の程度の低さには驚いたし、こんな奴らに負けたとは信じたくもなかった。
ロシア兵の襲撃はこの時の一回だけで済んだが、それも、略奪するにも日本人は碌《ろく》な物を持っていないと解ったらしきこと、更には日本人会の努力で「女子挺身《ていしん》隊」が結成され彼らの暴力の盾《たて》になってくれたことが、その理由であった。
最初この聞きなれない「隊」の意味が、子供の私にはどうにも理解しかねたが、会事務所の裏側一角にある少し広めの家から女性の嬌声《きょうせい=なまめかしい声》が聞こえ、ロシア兵や女性が出入りするのを見かけると、怪しげではあるが何となくその意味も解ってきた。
この挺身隊結成の裏でどのような動きがあったのか、当然秘密裡に進められたとは思われるが、女性はすべて日本人。大人達のひそひそ話には「素人もいるようだ」、「可哀想に」との言葉もあって何とも割り切れない気持ちにさせられた。
ただ戦時中、新義州《シンウィジュ》あたりには歓楽街もあって、この種の女性が内地から渡ってきたことは想像に難《かた》くなかったし、終戦となって内地帰還もままならず残留せざるを得ない人たちであったろう。従って「素人」というのは当たっていなかったのかも知れない。
一ケ月ほどでロシア兵が出没しなくなると彼女らもいなくなったが、その後この話題には誰も触れたがらず、私たちもロシア兵の乱暴がなくなってホッとしながら忘れてしまった。それにしても、日本人会の中に知恵者がいて考え出した窮余《きゅうよ=くるしまぎれ》の一策とはいえ、彼女たちが我々を救ってくれたのは事実であって、感謝しなければ罰が当たるという気持ちは今でも消えない。勿論彼女達が無事に帰国できたかどうかも不明のままである。
こうして始まった新生活であったが、やはりと言うべきか二~三週間経った頃から、工場では日本人に対する復讐の仕打ちが始まり、社宅内にも衝撃《しょうげき》が走っていた。
従業員として働かされる日本人が、これまで抑圧されてきた彼ら朝鮮人から、積年の恨みとばかりに連日・連夜リンチを受ける日々が続くようになり、一日ニ~三人、多い時には五~六人が工場内で詰問のうえ樫《かし》の棒で殴打《おうだ》され、特に過去の所業が手荒かっかり非人道的であったりして恨みが深かった人間は、想像を絶する処罰を受けたという。
或る朝など、遺骸《いがい》となって戸板に乗せられ帰宅した人を目撃したこともあった。
おそらくこの人は、暗い工場の片隅で一応の釈明や抵抗はしたに違いないが、ただひたすら叩かれ続け、無念な最後だったのではなかろうか。取りすがって泣き叫ぶ家族の姿をみていると、「敗戦」の凄まじい現実を見せ付けられるようで子供心に居たたまれず、父もこんな目に遭《あ》わなければ良いがと心配する毎日になった。
そんなある日、夜になっても父が帰ってこない。杞憂《きゆう》であってくれればと祈りながら、一家全員まんじりともしない夜が明けて、父がよろよろしながら帰ってきた。「やっぱりやられたよ」といって見せてくれる身体には全身にわたって黒い痣《あざ》と傷。
母は薬箱から瓶に半分ほど残っているヨードチンキを取り出して手早く傷口に塗り、湿布薬はなかったから、手ぬぐいを濡《ぬ》らして腫《は》れ上がったところを冷やす。
以前、母から「私は昔看護婦《=女性の看護士》だったのよ」と聞かされ、私たちには病気予防の心得」も厳しかったし、病気した時の看護はいつも手際が良くて感心していたが、この時の手当てもさすがはプロと思わせる技であった。
「二~三時間樫《かし》の棒で殴られたが、日ごろから優しくしてやった人が側にいてくれたお陰で、大分手加減してくれたようだ。それでもこの有様だから、ひどかった人は半殺し状態だったよ」
父は体格もよく、いつも「若い時は柔道で鍛《きた》えてあるから身体には自信がある」と言っていた通り確かに頑丈な身体の持ち主だったから、或いはこの程度で済んだのかとも考えられたが、とにかくひどい仕打ちだったことは間違いなかった。
このような惨《むご》い仕打ちも10日ほどすると少しずつ下火になって、平穏な日々が戻ってきたかに見えた或る日、外でバリバリバリと機関銃らしき音がする。
何事かと日本人会の人に聞くと、社宅の北側にロシア兵の宿舎ができて射撃の訓練をしているらしいとのこと。彼らが新義州《シンウィジュ》までいち早く進駐して来たことは知っていたが、この南楊市まで来ているとは想像もしていなかったから少なからず驚いたし、彼らが「野蛮」で「獰猛《どうもう》」と噂していただけに何をしでかすか怖くて不安だった。
日本人会からも「できるだけ彼らには近づかないよう、少なくとも夜は外に出ないように」とのお達しが出て、夕食を早仕舞いすると家の中で息を潜《しそ》めて過ごす夜が多くなった。
また略奪や強姦《ごうかん》の備えとして、特に女性は顔に墨を塗って髪の毛はわざともじゃもじゃにし、服装はもともとみすぼらしいものしかない上に更に男っぽい洋服を着込んで変装するから、家の中は恰《あたか》も男所帯の乞食小屋である。
「こんな魅力のない女では向こうも愛想をつかして連れていく気にもならないよ」父も冗談めかして言ってはいるか、心穏やかならぬ様子。同居人の栗原さんはお世辞を交えながら真顔で「いや、地が良いからもっと黒く塗った方がいいでしょう」「やはり栗原さんは解っていらっしやる」大らかな母が言うものだから、つい私もつられて笑ってしまうが、やはり不安で一杯。
通達が出て二~三日たった或る夜、その不安は現実に訪れた。
「バリバリ」と機関銃(マンダリン)の音が遠くに聞こえたかと思うと、次第にロシア兵の大きな声が近づいてくる。
「ダワイ・・・」、「ダワイ・マダム」、「ヤポンスキー・・・」三、四人連れ立っているようだ。
父は奥の部屋の押し入れを開け布団を出して先ず姉を押し込み、母にも入るよう促《うなが》す。母は「私は大丈夫」、「いや入れ」と争う間もなく、その声は隣まできている。仕方なく姉だけを入れて前をその布団で慌しく覆《おお》い襖《ふすま》を閉めたとき、軍服を着た大男のロシア兵が二人、入り口の筵《むしろ》をかき分けて入ってきた。
「ダワイ・・・」、「ダワイ・マダム」
初めて聞くロシア語でよく解らないが、どうも「ダワイ」は「『くれ』、『出せ』」らしく、「マダム」は「女」を意味するようだ。
一人はすぐ出ていったが、もう一人はしっこく「ダワイ・・・」「ダワイ・マダム」と繰り返しながら家の中を覗《のぞ》き込む。
姉も心配だが、幸い上がりこむ様子もなく、父の後ろに隠れるように控えている母を一瞥《いちべつ》すると、「女」はいないと思ったか軍服の両袖をたくし上げ、右腕に二個左に三個の腕時計を見せて、これと同じ物を出せとの仕草。父が持っていた時計を差し出すと、ひったくるように受け取り、もう一度周りを見回して出ていった。
外では他の兵隊と何やら大声で話し合っている様子。時折バリバリと銃声もする。
隣も、その先の家も同じようにやられているようだが、泣き叫ぶ日本人の声が聞こえないのは、大きな乱暴がないと思われて少しホッとする。
銃声とロシア語が聞こえなくなるのを持って、「もう大丈夫だ」と押人れの中の姉を引っ張り出す。数分間はただお互いに顔を見合わせるだけで声も出ない。とにかく生きた心地がしなかったとはあの時のことを言うのだろう。
ようやく父が「腕時計一個で済んでよかった。未だ懐中時計かあるから不自由はないよ」、「それにしてもお母さんは女に見えなかったみたいだな。ハハハ」
と、未だ興奮している皆の気持ちを和らげるように言うのに、母も負けていない。
「残念だったわ。墨は塗ってもこんな美人を見損なうとはね」
何とか切り抜けた危機とはいえ、こんな会話ができるのも、毎日の苛酷《かこく》な生活で少しは腹も座ってきた証拠であったろう。しかし、私の身体には未だ震えが少し残っていて本当のところ怖かった。
それにしても戦利品の腕時計を六個も身につけて得意になるなど、ロシア兵の程度の低さには驚いたし、こんな奴らに負けたとは信じたくもなかった。
ロシア兵の襲撃はこの時の一回だけで済んだが、それも、略奪するにも日本人は碌《ろく》な物を持っていないと解ったらしきこと、更には日本人会の努力で「女子挺身《ていしん》隊」が結成され彼らの暴力の盾《たて》になってくれたことが、その理由であった。
最初この聞きなれない「隊」の意味が、子供の私にはどうにも理解しかねたが、会事務所の裏側一角にある少し広めの家から女性の嬌声《きょうせい=なまめかしい声》が聞こえ、ロシア兵や女性が出入りするのを見かけると、怪しげではあるが何となくその意味も解ってきた。
この挺身隊結成の裏でどのような動きがあったのか、当然秘密裡に進められたとは思われるが、女性はすべて日本人。大人達のひそひそ話には「素人もいるようだ」、「可哀想に」との言葉もあって何とも割り切れない気持ちにさせられた。
ただ戦時中、新義州《シンウィジュ》あたりには歓楽街もあって、この種の女性が内地から渡ってきたことは想像に難《かた》くなかったし、終戦となって内地帰還もままならず残留せざるを得ない人たちであったろう。従って「素人」というのは当たっていなかったのかも知れない。
一ケ月ほどでロシア兵が出没しなくなると彼女らもいなくなったが、その後この話題には誰も触れたがらず、私たちもロシア兵の乱暴がなくなってホッとしながら忘れてしまった。それにしても、日本人会の中に知恵者がいて考え出した窮余《きゅうよ=くるしまぎれ》の一策とはいえ、彼女たちが我々を救ってくれたのは事実であって、感謝しなければ罰が当たるという気持ちは今でも消えない。勿論彼女達が無事に帰国できたかどうかも不明のままである。
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