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チョッパリの邑 (18) 椎野 公雄

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通常 チョッパリの邑 (18) 椎野 公雄

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/5/25 7:34
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 当時の朝鮮半島情勢

 この頃の、こうした私たち日本人の急激な環境変化の裏で何か起こっていたのか、特に八月十五日以降の朝鮮総督府権限の現地委譲《いじょう》や軍の情勢については未だに知りえないことも多いが、資料によれば少なくともソ連軍の朝鮮半島進入は極めてすばやく、十五日には新義州《シンウィジュ》に進駐するとともに部隊の一部は南下を始めていた。事実を知ったアメリカはソ連の朝鮮全土占領を恐れ、両国の分担地域を三十八度線とすることを提案し、協議の結果、八月十六日に両国間でこの三十八度線を境界とすることが確認されたとされる。

 北のソ連軍は早速日本車の武装解除を進め、八月中にはこれを完了するとともに、各地で選挙された人民委員会に行政権を移管する一方、ソ進軍司令部内に民生部を設置して、人民委員会への指導を強化するなど、その動きは早かった。
 この人民委員会は、朝鮮半島全土にわたる社会主義政権樹立を危惧《きぐ》した総督府が、比較的穏健《おんけん》とされる呂運亨(ヨウニョン)、安在鴻(アンジェホン)らの民族運動家に治安維持の権限を委譲すべく協議した結果、彼らが八月十五日に朝鮮建国準備委員会を立ち上げたのち、その支部として結成された一四五の委員会のことである。

 一方のアメリカ軍の南朝鮮進駐はソ連とは対照的に遅く、ようやく九月六日になってからであった。時あたかも全国人民大会が開催されて朝鮮人民共和国の樹立が宣言され、主席にアメリカで活動していた李承晩(イスンマン)、副主席は呂運亨、その他のメンバーも国内外で活動していた人たちが幅広く選ばれている。
 しかしアメリカは「軍政庁」(長官・アーノルド少将)を南朝鮮の唯一の政府として、この人民共和国を認めず、また北のソ連軍もこれを承認することなく最終的には北朝鮮の行政に統一的管理を行う機関として「北朝鮮五道行政局」を設置して実質的な軍指導体制を確立したため、人民共和国は南北の連携《れんけい》もままならず空中分解してしまった。

 こうして、その後しばらくは米ソが三十八度線を境界とする南北朝鮮を分割支配する体制が続くことになったが、北側においては、それまで地下活動を続けていた共産党が、解放を機に正当な組織化に動いて「朝鮮共産党」を再建し、その北部朝鮮分局が結成されると、「金日成」が初めて人々の前に姿を現し、私たちもこの時からその名前を知ることになったのである。

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編集者 (代理投稿)

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