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チョッパリの邑 (12) 椎野 公雄

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通常 チョッパリの邑 (12) 椎野 公雄

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/5/9 5:57
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 再び迎える寒い冬と原料不足に悩む父の工場

 そんな日々を送っているうちに、また木枯らしが吹き始め、二回目の寒い寒い冬がやってきた。
 キムチ作りも去年と同じ要領。しかし今度の材料は魚貝類を除いて殆《ほとん》どが自家製の野菜、特に丹精こめて育てた白菜は見事な出来で、前回にも増して美味いキムチが完成した。

 ただ、師走に入る頃から毎日のように、ラジオからは「日本連合艦隊は太平洋○○地域において敵艦隊と遭遇、敵の空母、巡洋艦○○隻を撃沈、当方の損害は軽微」といった大本営発表が屡々《しばしば》流れる一方、「第OO管区情報・敵B129、○○機が○○より本土○○に進入中・警戒せよ」、「B-29、○○機が○○に爆弾を投下して飛び去ったが、損害は軽微」などの放送が次第に増えてきて、会社からも「万一に備え防空頭巾《ぼうくうずきん=頭を保護するための帽子》は必ず携行するように」との通達が出され、通学時には必ず持だされた。
 こんな不穏な雰囲気で迎える二度目の正月の食卓は、さすがに質素なものとなったが、朴さんが調達して来てくれた餅米のお陰で、お雑煮にだけは何とかありつくことができた。

 この年、朝鮮では珍しく大雪が降り、家の周りは一面の銀世界。社宅の東隣には、北海道出身の青木さんの家があって、中学校に通う「お兄さん」がいたが、彼は早速スキーを二つ持ち出し、「公雄君、教えてあげるから、これを使って」と一つを貸してくれて、下りになっているすぐ側の道で指導が始まった。スケート同様まったく経験がなかったが、一時間もすると何とか滑れるようになり、「なかなか上手いよ」と誉められて得意になったことが懐かしい。

 寒い冬も二度目ともなると、要領もわかって寒風もあたりまえになり、おやつのニンニクをかじりながら氷の上に出かける毎日ではあった。
 しかし、ラジオで流れる戦況を聞いたり、大人たちが集まってひそひそ話しをする様子を見ていると、遊びも心から楽しめない。
 というのも、大人たちの話には「戦争」の影響で「原料不足」が著しく、「これじゃ軍需工場が泣きます」、とか「兵器生産には到底追いつかない」といった会話が混じっていて、工場の運営がままならないことが垣間《かいま》見られたことである。

 父の会社の生い立ちについては先に触れたが、東洋軽金属は昭和十九年四月に三井軽金属と社名変更され、その年十二月八日、つまり私たちが二度目の冬を迎えた頃、軍需大臣から軍需会社に指定されてアルミニウムの増産体制に入った筈であった。
 しかし十九年十一月末にはボーキサイト原料が皆無となった三池工場のアルミナ生産量は僅かに二〇〇〇トン強と落ち込み、三池からアルミナの供給を仰ぐ楊市工場としては、供給不足を補うために、朝鮮産の長山粘土からの直接電解を開始したものの、効率は極めて悪くアルミニウムの汲み出しは頭初計画の二万トンを大きく下回り、僅かに一八○○トンとなっていた。

 更に政府指導により、三池のアルミナ製造設備の1/3を楊市工場へ移設する計画まで進められようとしていたが、これも十八年九月に閣議決定、実施された「国内態勢強化方策」に基づく建物・人員疎開の延長線上にあって、戦況の悪化から特に軍需工場や重要施設などの生産疎開が促進される方策の一環でもあった。
 ただ計画はあったが、とうとう終戦まで実施されることはなく、楊市工場は細々と動いていたと言ってもよかった。
 こうした状況を、工場の資材課長であった父は当然知っていたと思われるが、少なくとも私たちには一度も話してくれることはなく、他所でのひそひそ話でしか聞こえてこなかったのである。

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編集者 (代理投稿)

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