チョッパリの邑 (13) 椎野 公雄
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チョッパリの邑 (1) 椎野 公雄 <一部英訳あり> (編集者, 2007/4/28 7:38)
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チョッパリの邑 (2) 椎野 公雄 (編集者, 2007/4/29 7:43)
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チョッパリの邑 (3) 椎野 公雄 (編集者, 2007/4/30 6:49)
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チョッパリの邑 (4) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/1 7:21)
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チョッパリの邑 (5) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/2 8:31)
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チョッパリの邑 (6) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/3 7:38)
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チョッパリの邑 (7) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/4 8:37)
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チョッパリの邑 (8) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/5 7:51)
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チョッパリの邑 (9) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/6 8:12)
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チョッパリの邑 (10) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/7 7:47)
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チョッパリの邑 (11) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/8 7:46)
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チョッパリの邑 (12) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/9 5:57)
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チョッパリの邑 (13) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/20 10:17)
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チョッパリの邑 (14) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/21 9:32)
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チョッパリの邑 (15) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/22 8:44)
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チョッパリの邑 (16) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/23 8:05)
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チョッパリの邑 (17) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/24 7:23)
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チョッパリの邑 (18) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/25 7:34)
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チョッパリの邑 (19) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/26 6:51)
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チョッパリの邑 (20) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/27 7:27)
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チョッパリの邑 (21) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/28 7:07)
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チョッパリの邑 (22) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/29 7:36)
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チョッパリの邑 (23) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/30 7:39)
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チョッパリの邑 (24) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/31 15:39)
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チョッパリの邑 (25) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/1 7:56)
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チョッパリの邑 (26) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/2 6:56)
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チョッパリの邑 (27) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/3 7:22)
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チョッパリの邑 (28) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/4 7:19)
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チョッパリの邑 (29) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/5 8:04)
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チョッパリの邑 (30) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/6 7:43)
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チョッパリの邑 (31) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/7 7:39)
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チョッパリの邑 (32) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/8 8:21)
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チョッパリの邑 (33) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/9 7:20)
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チョッパリの邑 (34) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/10 8:08)
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チョッパリの邑 (35) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/11 7:53)
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チョッパリの邑 (36) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/12 7:54)
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チョッパリの邑 (37) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/13 7:15)
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チョッパリの邑 (38) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/14 7:59)
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チョッパリの邑 (39) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/15 7:52)
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チョッパリの邑 (40) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/16 8:46)
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チョッパリの邑 (41・最終回) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/17 7:27)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298

戦局いよいよ悪化し朝鮮孤立の不安も
三寒四温の春が来る頃には、レイテ沖海戦で連合艦隊が大きな打撃を受けたあと、フィリピンがアメリカ軍に制圧され、三月には硫黄島《いおうとう》も陥落したとの悪いニュースが相次いで伝えられ、「いよいよ沖縄が本土防衛の最前線として戦力強化されている」、「大陸から軍用列車で毎目のように兵隊さんが半島を南に運ばれている」などと囁《ささや》かれていた。
また事実、三月末にはアメリカ軍の空母十九隻、戦艦二十隻を含む大艦隊が沖縄本島に押し寄せ、激しい戦いが繰り広げられていたが、「沖縄に向かっていた戦艦大和が四月七日、アメリカ軍の空爆を受け九州・坊の岬沖で沈没した」との事実はずっと後になって聞かされたことであった。
一方内地での空襲の様子は、毎日のようにラジオ放送されていたから、凡《およ》その見当はついていた。特に三月十目の東京大空襲は、サイパンから飛び立ったB-29(三三四機)の大編隊よる無差別の空爆で大きな被害が出たと報じられ、ここ朝鮮でも、これはただ事ではないと思わざるを得なかった。そして、その後も日増しに空襲をうける地域や規模が大きくなるにつれ、「内地は大変なことになっている」、「実家はどうなってるかな」、「我々は帰れるだろうか。ひょっとして此処に取り残されるのでは」といった会話も多くなっていった。
空襲については、日本内地で激しさを増していても、ここ朝鮮では実際に爆撃をうけたことは一度もなかったが、それでも空襲警報が発令され、頭巾を被って防空壕に入り身を固くしたことが二、三度はあったろうか。
また警戒警報は屡々《しばしば》出たものの、こちらはいつも何事もなく、すぐ解除されることが多かったから、「またか」といいながら壕《=防空壕》にも入らずごく普段の生活を送っていた。
そして、たしか一学期が終わる頃だったと記憶しているが、警戒警報中、よく晴れた遥《はる》か上空に機体を銀色に光らせながら、B-29数機が東南から北西、つまり朝鮮半島を縦断しながら中国大映方面へ飛んでいくのを見かけたことがある。その時も爆弾を落とすわけでもなく、悠々《ゆうゆう》と上空を飛び去ったという感じで、憎たらしいけど「すごい奴」との印象の方が強かった。結局これが、私がB-29を見た最初で最後の機会であった。
沖縄で激しい戦いが続き、日本内地では空爆がひどくなっている頃、ヨーロッパでも米英を中心とする連合軍が優勢に戦いを続けており、ドイツの敗北も近いという噂が流れていたが、実際にそのドイツの戦後処理と対日戦争方針がヤルタで話し合われていたことなど知る由もなく、また四月にソ連軍が日本に対して日ソ中立条約不延期を通告、満州国境付近のソ連軍が急増されていたことも、全く私たちの耳には入っていなかった。
しかし四月になると、本当にドイツ軍が無条件降伏し、日本は完全に孤立してしまっていたのである。
そして六月末には、大本営発表が「沖縄・摩文仁(まぶに)において牛島中将率いる部隊が総攻撃を敢行《かんこう》、見事な最後をとげた」ことを告げ、沖縄が完全にアメリカの手に落ちたことがわかると、「いよいよ本土決戦だ」、「しかし神国日本が負けることはない、我々も頑張らなければ」と一様にいいながらも、皆の顔には不安が深まっていた。
三寒四温の春が来る頃には、レイテ沖海戦で連合艦隊が大きな打撃を受けたあと、フィリピンがアメリカ軍に制圧され、三月には硫黄島《いおうとう》も陥落したとの悪いニュースが相次いで伝えられ、「いよいよ沖縄が本土防衛の最前線として戦力強化されている」、「大陸から軍用列車で毎目のように兵隊さんが半島を南に運ばれている」などと囁《ささや》かれていた。
また事実、三月末にはアメリカ軍の空母十九隻、戦艦二十隻を含む大艦隊が沖縄本島に押し寄せ、激しい戦いが繰り広げられていたが、「沖縄に向かっていた戦艦大和が四月七日、アメリカ軍の空爆を受け九州・坊の岬沖で沈没した」との事実はずっと後になって聞かされたことであった。
一方内地での空襲の様子は、毎日のようにラジオ放送されていたから、凡《およ》その見当はついていた。特に三月十目の東京大空襲は、サイパンから飛び立ったB-29(三三四機)の大編隊よる無差別の空爆で大きな被害が出たと報じられ、ここ朝鮮でも、これはただ事ではないと思わざるを得なかった。そして、その後も日増しに空襲をうける地域や規模が大きくなるにつれ、「内地は大変なことになっている」、「実家はどうなってるかな」、「我々は帰れるだろうか。ひょっとして此処に取り残されるのでは」といった会話も多くなっていった。
空襲については、日本内地で激しさを増していても、ここ朝鮮では実際に爆撃をうけたことは一度もなかったが、それでも空襲警報が発令され、頭巾を被って防空壕に入り身を固くしたことが二、三度はあったろうか。
また警戒警報は屡々《しばしば》出たものの、こちらはいつも何事もなく、すぐ解除されることが多かったから、「またか」といいながら壕《=防空壕》にも入らずごく普段の生活を送っていた。
そして、たしか一学期が終わる頃だったと記憶しているが、警戒警報中、よく晴れた遥《はる》か上空に機体を銀色に光らせながら、B-29数機が東南から北西、つまり朝鮮半島を縦断しながら中国大映方面へ飛んでいくのを見かけたことがある。その時も爆弾を落とすわけでもなく、悠々《ゆうゆう》と上空を飛び去ったという感じで、憎たらしいけど「すごい奴」との印象の方が強かった。結局これが、私がB-29を見た最初で最後の機会であった。
沖縄で激しい戦いが続き、日本内地では空爆がひどくなっている頃、ヨーロッパでも米英を中心とする連合軍が優勢に戦いを続けており、ドイツの敗北も近いという噂が流れていたが、実際にそのドイツの戦後処理と対日戦争方針がヤルタで話し合われていたことなど知る由もなく、また四月にソ連軍が日本に対して日ソ中立条約不延期を通告、満州国境付近のソ連軍が急増されていたことも、全く私たちの耳には入っていなかった。
しかし四月になると、本当にドイツ軍が無条件降伏し、日本は完全に孤立してしまっていたのである。
そして六月末には、大本営発表が「沖縄・摩文仁(まぶに)において牛島中将率いる部隊が総攻撃を敢行《かんこう》、見事な最後をとげた」ことを告げ、沖縄が完全にアメリカの手に落ちたことがわかると、「いよいよ本土決戦だ」、「しかし神国日本が負けることはない、我々も頑張らなければ」と一様にいいながらも、皆の顔には不安が深まっていた。
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編集者 (代理投稿)