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チョッパリの邑 (15) 椎野 公雄

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通常 チョッパリの邑 (15) 椎野 公雄

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/5/22 8:44
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 八月十六日の不安と焦燥《しょうそう》

 その夜は何事もなく静かに過ぎて、また暑い真夏の一日が始まった。
 父は、「では行ってくる」といって何時ものように出かけて行ったが、夕べの父の言葉が妙に気になる。
 母と姉は、若しものことがあってはと箪笥《たんす》中など整理を始めている。私は斥候[color=CC9900]《せっこう=偵察するための兵士》[/color]よろしく、社宅を囲っている三メートルほどの高さがある土手に登り、朝鮮人部落を見回すが、いまのところ変わった様子は見えない。
 「どうだ、どうだ」と集まって来た友達も、「何もないな、大丈夫だ。遊ぼう」と言い出すのにつられて、あまり気乗りしない竹馬遊びなどに興じているうちに夕方になった。

 五時頃だったろうか、家に帰ると近所の人たちと話しこんでいた母が心配顔に言う。
 「満州から馬賊がやってくるらしい」。
 馬賊《=勝手気ままに振舞う騎馬の群盗》や匪賊《ひぞく=徒党をくんで出没し殺人、略奪をこととする盗賊》の話は前に聞いたことかあるが、特に馬賊は中国や満州で、時の為政に不満を抱く農民などが馬に乗って荒らしまわった盗賊のこと。日本が満州進出を目論んだ時にもこの馬賊を巧みに使って反抗勢力を駆逐《くちく》した史実も残されており、当時も未だ時には出没するといわれ恐ろしがられていた。そして何か悪いことをしでかした時には、必ず「馬賊がきて連れていくよ」と怒られ、子供にとっては「オマワリサン」より恐ろしい存在であった。

 母が冗談をいっているとも思えず、そんな怖いものが本当にくるとなれば大変、急に身体が氷つく思いがする。
 「男はみな鴨緑江の葦切りに連れていかれるそうよ」隣のおばさんからは、突拍子もない言葉が出るし、話にはだんだん尾ひれが付いて、「嫌だといったら満州に連行される」、「ひょっとすると捕虜になって暫くは帰れないかも」などと物騒《ぶっそう》な会話になってしまう。或る人はソ進軍が、もうそこまできている。彼らは獰猛《どうもう=性質が荒くたけだけしい》で何をやらかすかわかったものじゃない」と、さも知ったかぶりにいう。
 事実、ソ進が対日参戦したのは一週間前の八月八日であったし、満州には既にソ進軍の大部隊がなだれ込み、終戦の詔勅が出た十五日には鴨緑江北岸まで到達していたから、あながち「知ったかぶり」ともいえなかったのである。

 そうこうするうちに父が会社から帰ってきた。
 「急な話だが、予想した通り工場が朝鮮の人たちの手に渡ることになった。技術関係の人を除いて出社する必要はないとのことだが、私は引継事務もあるから暫くは出ることになる」と、まったく急な話。「朝鮮人」が「朝鮮の人」になったのも、状況の変化がそうさせたと慮《おもんばか》られるが、会社でどんな話があったのか事情がわからない私には不思議な気がした。
 さらに続けて「また社宅は明日彼らに引き渡すように言われた。しかも家財道具は貴重品と生活に必要な品物だけを持って出るようにとのことだ」
 「そんな無茶な!」母もそれだけ言うのが精一杯。しばらく沈黙のあと「出ていけと言われても、何処に行くんですか?」母の問いに父も困惑気味にポツリとこたえる。
 「職員社宅と工員社宅を入れ替えることが、今日決まったんだ。戦争に負けたんだから仕方ないよ」
 父が言う通り、決まったものは仕方がない。そしてその晩は何を持っていくか、母が中心になっての引越支度となった。貴重品は嵩張《かさば》らないが、これからの冬のことを考えると衣類や布団、それに炊事道具など結構な品数だ。
 結局、作業が終わったのは夜半を過ぎていた。

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編集者 (代理投稿)

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