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チョッパリの邑 (19) 椎野 公雄

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通常 チョッパリの邑 (19) 椎野 公雄

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/5/26 6:51
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
  工場と日本人会
 このような状況の中、父の工場が八月十五日以降も稼動《かどう》したのは、どのような理由で、また誰の指示であったかは判然としないが、おそらく人民委員会の指導のもとで、産業振興は大げさとしても、事業継続による朝鮮人労働者の職域確保《=働く場をしっかり保つ》という観点から「存続承認[color=CC9900]《=続けていくことを認める》[/color]」されたのではなかったろうか。
 父たちも一部の人を除き立場を替えて働かされ、殆ど毎日出社していたが、これも憎らしい日本人とはいえ、事業継続に必要な従業員として認めざるを得なかったものと思われる。
 従って労働に見合う対価《たいか=賃料》として、僅かではあるが賃金と食糧が与えられ、病人が出れば工場付属の病院で治療することも可能ではあった。

 しかしこの頃の食料事情は到底満足できる状況になく、配給されるものは少しばかりの米にトウモロコシ、粟《あわ》、稗《ひえ》、などが主で、ごく偶《たま》に鶏肉や卵のほか、塩、砂糖といった調味料などもあったが、その数量は極めて少なく、しかも節約しながら使うので必然的に味は薄くお世辞にも美味いといえる料理にはありつけない。ただただ不充分ながら腹をそこそこ満たし飢え死にすることだけは避けられるといった状況であった。
 食料のほか粗末な衣料、マッチや石鹸も配給されたが、始末しながら使ってもマッチなどはすぐ切れて隣近所に火を借りにいくこともしばしば。

 こうした配給物資は、各戸の家族構成や状況に応じて均等に配分される必要があったから、日本人会の役目も大変である。
 また、この日本人会は、互助会の役割と、父達「労働者」の労働組合でもあったから、当然会社との交渉もしなければならず、特に物資調達係の父は交渉責任者として、会社を相手に工場の仕事の傍《かたわ》らその役割も果たさなければならなかったので、負担も大きかったと思われる。
 その父の役目を補佐する私は、配給があると会の指示に従って物資の配分、通達、受け取りに来られない家までの配達係をやらされた。
 通達は狭い社宅のこと、文書を回すほどでもないので「トウモロコシと石鹸の配給でーす。○○時から○○時までに取りにきて下さーい」と大声をあげながら二周すれば済んだ。最初は恥ずかしかったが、「ご苦労さん」と返ってくる言葉に励まされながら「仕事」にもすぐに慣れ、また時には家庭から会事務局への伝言まで取り次ぐこともあって、日本人会の庶務《しょむ》係になった気分でもあった。

 私たち子供は、ここに来てから学校に行く必要がなく、「勉強」とは全く無縁な生活となっていたから、宿題などに悩まされることもなかった代わりに朝から自由な時間がたっぷりあって、当然のように仕事をさせられることになったが、その仕事もない時は友達と朝から遊ぶことができた。
 しかし以前と違って周りは立場が逆転した朝鮮人、子供同士であっても私たちの姿を見つけるや「チョッパリ」といいながら喧嘩《けんか》を仕掛けてくる。そんな中に何人が束になっても敵《かな》わない乱暴な大将がいて、彼らの間で「ケイシン」と呼ばれていたから名前はすぐ覚えたし、私たちは何時も彼の出没する時間や場所を避けて遊ぶことを心がけた。
 遊ぶといっても食糧難に物資不足の厳しい生活環境だから、ケイシンを心配しながらも常に何か役立つものを持って帰る遊びとなる。一番熱心にやったのが魚釣り。しかし最初のうち竿は何とかなっても折々テグスがないので、ザルや筵《むしろ》を使った「魚獲り」。周りには用水池がたくさんあって小川も流れていたから、小鮒、ハヤ、ドジョウなどが結構獲れて蛋白質不足を補うのに役に立っていた。
 遊んでいる間も、誰かが「ケイシンが来たぞ!」と叫ぶと獲物を放りだして一目散に逃げ帰り、その日の収穫はゼロということもしばしば、母にも喜んで貰えず悔しい思いをしたものである。
 

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編集者 (代理投稿)

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