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続 表参道が燃えた日 (抜粋)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/24 8:50
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 忘れられない恐怖の空襲
 KA・AM






 KAさんとAMさんの姉妹は戦時中、青山南町の青山通りから少し入った所に住んでいました。本土への空襲が間近に迫った昭和十九年八月、学童疎開が始まり、妹AMさんは縁故疎開をしました。その後姉KAさんは東京で、妹AMさんは疎開先の長岡でそれぞれ空襲を体験することになります。(編者)


  KAさんの話

 昭和十三年に青南小学校を卒業し、その後商業学校を出て十六年三月、日本電気に入社しました。
 二十年五月二十五日、私は会社から友人と帰り、表参道の佐阿徳さんの前で別れましたが、友人はその夜の空襲で銀行の角で亡くなったと近所のかたに伺いました。ご冥福をお祈りします。

 母と二人で逃げる時表参道は火の海でした。裏の方から青南小学校の方向に向かって根津さんのお屋敷に行くつもりで四つ角まで来ましたら、高樹町の方からどんどん人が逃げて来ましたのでそのかたたちに付いて逃げ、青山墓地に辿り着きました。朝まで墓地にいましたが、明るくなるとあちこちで名前を呼ぶ声が聞こえ、家族を探していました。私も父を置いて先に逃げて来たので、父はどうしただろうかととても気になり探しましたが、墓地で逢うことができほっとしました。あの光景は忘れることができません。私の家の路地では亡くなった方が多く、隣組十一軒のうち、十二人のかたが犠牲になりました。何と申し上げたらよいのか心が痛みます。

 私たちは焼け残った青山会館に行って一夜を過ごし、翌朝親類のいる長岡に行くことにしました。
 青山会館では、近所のお嬢さんが目を傷め開かなくなっていらしたので、手当てをしてあげました。昨年の五月二十五日に青山に行きました時にそのかたにお会いでき、とてもお元気なので嬉しく思いました。

 長岡には一か月ぐらいいて、母の妹がいる東京の馬込に移りました。東京に帰ってまもなく、七月か八月だったと思います。朝会社に行く時、大森の山王付近で、突然戦闘機が一機現れ、機銃掃射を受けました。夢中で建物の陰に隠れたので助かりましたが、どんな飛行機だったのか覚えていませんし、周りに人はいなかったように思います。

 仲良し五人組の一人、若林さんとはその後行方がわからず月日が経ちました。二十四年ごろだったと思いますが、知人のかたが具合が悪く青山に手伝いに行っていた時、自転車で四丁目のお肉屋さんに行ったところ偶然お逢いしました。二人で生きていたのね、生きていたのねと抱き合いました。しかも二人とも大森の五分ぐらいの近くに住んでいたのですが、そこでは逢えず、青山で逢えるなんて運命を感じました。今でもずっとお付き合いをしています。
 
 戦争によって親しい人が亡くなり別れ別れになる、二度とこのようなことが起こらないようにするために、一人一人が戦争の恐ろしさを若い人たちに伝えていかなければいけないと思います。

 (赤坂区青山南町六丁目)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/25 8:53
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

  AMさんの話

 昭和十九年の夏、私は青南国民学校の五年生で、学童疎開が始まっていました。親戚などに疎開できる子どもは縁故疎開に、行く所のない子どもは学校から集団疎開をしました。私の両親は新潟県長岡の出身でしたので、長岡の叔母の所に二年生の従妹と一緒に縁故疎開をしました。東京と違ってまだ空襲もありませんでしたが、畑や田んぼでイナゴ取りや薪運び、何十年ぶりの大雪のため雪おろしを何回もするなどの生活で、勉強はほとんどしなかったような気がします。

 私は青山での空襲体験はありませんが、長岡での体験を少しお話したいと思います。花火で有名な長岡市です。まだ子どもでしたし、それはそれは怖い思いをしました。

 空襲の四日ほど前、敵機が来てビラがたくさん撒かれましたが、そのビラには爆撃予定都市としていくつかの都市といっしょに長岡も書かれていました。それで叔母たちから東京の私の両親に、田舎も危なくなってきたので、子どもを引き取ってほしいとの話があったようです。その頃は汽車の切符がなかなか買えず、やっと買えたのが八月一日、長岡の空襲の日でした。

 空襲警報が鳴りB29が焼夷弾を落とし始めたのは夜十時半ごろでした。本所、深川で焼け出されたご夫婦が私たちの二階に住んでいてそのかたに連れられて逃げました。外へ出た時はもう周りは真っ赤に燃えていました。焼夷弾がキーンという音とパラパラという音で落ちてくる中を、火のない所、火のない所へと行き、カボチャ畠を通った時運動靴が脱げて裸足になって逃げました。ようやく辿り着いた信濃川の土手の穴に入りましたが、穴の傍まで火が迫り熱くて我慢できず、従妹と私は震えて抱き合っていました。信濃川には火のついた焼夷弾が無数に流れ、川の向こう側は火の海でした。飛行機が引き上げ、火を消してもらって穴から抜け出し町の方へ戻りましたが、町はまだ火の海で蔵が音を立てて崩れていました。親戚の家は燃えてしまいましたが、皆無事で、手を取り合って感謝しました。

 父と姉は八月二日の夜長岡に着き、まだ駅の周りは燃えていたようです。真っ暗だった疎開先には家はなく、焼け残った家に泊めていただき、真っ里になった方々があちらこちら横たわった間を手を合わせて通り、親戚の人に出会って私たちが助かったことを知ったようです。三日の夕方父と姉に逢い、その夜長岡を後にして四日の朝東京に着き、母に逢って泣いて喜びました。そして十五日終戦、めまぐるしい年でした。ただただ命が助かったという大切さを噛み締めています。

 長岡では戦争中中止していた花火大会の復興祭を二十一年八月一日に行い、二十二年に花火の復活、二十三年から一日を戦災殉難者慰霊の日とし、二日、三日を花火大会の日としました。亡くなられた多くの方々のご冥福を心から祈り、また町の復興を願っているとのことです。

 若い方々に戦争とはどんなに惨いものであるか、ぜひ読んでいただき、考えていただければ有難いと思います。


編注‥長岡空襲
 昭和二十年八月一日夜間、B29一二六機が長岡市を空襲。死者一一四三名*、重傷者三五〇名、羅災者六万〇五九九人、焼失家屋一万五一二三戸。市街地の八〇%が焦土と化した。長岡市に投下された焼夷弾の量は九二五トン(米国戦略爆撃調査団報告書)。この数字は三月十日の東京大空襲の半分以上に当たる。面積当たりの焼夷弾の量の密度は東京よりはるかに濃い。人口十万人以下の空襲都市の千人当たりの死亡者が平均五・八人とすると、長岡市は約三倍の死者ということになる。(「日本の空襲」 日本の空襲編集委員会編 三省堂)

 * 「こんな日々があった!戦争の記録-直江津空襲と平和を考える会発行」 では一四五七名。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/26 6:43
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 「北杜夫(きたもりお)」斯(か)く語りき
 伊原 太郎(いはら たろう)


 

 『青山にいた子供の頃は、非常に気が弱かったんです。父の斎藤茂吉は青山脳病院の院長でした。(中略)

 年を取ると、過去のことを思い出します。戦争の時の心理は、異常心理としか思えないですね。

 空襲で青山の青南小学校から皆がぞろぞろ逃げるのを見て、それでも僕は家の前に立って「まだ逃げるな」と言ったんです。小学校にいた軍隊も逃げていた。でも僕は逃げないぞと。

 新聞だって、本土決戦我に有利なんて書いていたんですよ。その通り信じて、僕には変な愛国心がありました。とにかくアメリカが憎かったんです。でもB29がのし掛かるように飛んできて、灯に照らされて、あやしい美しさなんですよ。敵もやるな、と思った。

 やがて母がやってきて、青山墓地の隣にある副院長の家に逃げ込んで助かりました。火の粉が目に入って、翌朝まで痛くてたまらなかった。その時は怖いという意識はなかった。でも冷静に考えれば、おろかだったと思います。軍国教育が原因でしょうか。

 空襲の後、自転車を借りて青山通りを走らせました。板をかぶせただけの粗末な防空壕があって…軍隊の人が生焼けになっている死体を放りだしていました。神宮外苑は、ピラミッド状に死体が2カ所積み上げられていた。

 異常心理でね…。終末の心理、人間が滅ぶ前兆のような気がしました。家の焼け跡で水道から水がちょろちょろ出ていました。それがわずかに生の名残だった。本当にむなしいですね。
        
 ただ『楡家(にれけ)の人びと』ではそう書かなかった。勇敢さというかな。アメリカ憎しや、愛国心を強調したんです。

 その後、平和な自然がある松本の旧制高校に進みました。あまりになごやかで美しくて、その心理は誇張されて『幽霊』にでてきます。旧制高校には良い先生がいて、文学に出あいました。僕はそこで大人になったんです。』

 これは、朝日新聞平成二十二年十一月九日夕刊の「追憶の風景 焼け跡の水 わずかな生」と題した北杜夫の記事からの抜粋である。言わずと知れた「楡家の人びと」の著者北杜夫君が戦時空襲下での体験感を記者に語った一節である。

 青山脳病院のすぐ近くの青南小学校で私は茂吉の二男斎藤宗吉少年と同級だった。家も近く、麻布中学までも共に通学することになる。

 第二次世界大戦下、昭和二年(一九二七年)生れの吾々は中学二年末、太平洋戦争勃発とあって、授業らしい授業は三年余で(旧制中学校は五年制)、残る一年余は、兵器生産工場へ「勤労動員」 と称して狩り出された。

 三月の卒業後も敵の本土上陸に備えての動員が続き、それぞれ旧友に別れを告げ、彼は旧制松本高校へ、私は鹿児島の旧制七高造士館へと進学したのは昭和二十年六月になってからであった。

 青山、表参道界隈が被災炎上した当夜については、既刊の「表参道が燃えた目」にそれぞれが舐めた苦難の模様が痛々しく綴られているが、北杜夫は「楡家の人びと」「神々の消えた土地」「どくとるマンボウ追想記」 などに詳しく書いている。

 十年ほど前だったか、彼から賀状交換はこれで終わりにしたいとあり、今は週刊新潮で同君の令嬢斎藤由香さんの「トホホの朝、ウフフの夜」を読んで、彼を巡る「楡家」御一家の様子を知る。
 
 毎年春先に青南小学校の男女合同クラス会がある。何年か前に北杜夫君が久方振りに来会し、一同拍手で迎えた。その折に彼が唸って聞かせた浪花節「清水次郎長」のくだりは、今もって時折話題に上り、一同を微笑ませてくれている。

 (赤坂区青山南町五丁目)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/27 6:32
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 空襲の想い出  その1
 十代田 禮子(そしろだ れいこ)






 昭和十九年後半から二十年にかけて、空襲は東京のどこかで毎日のようにありました。木造家屋は強制疎開で取り壊されて、近所の方達は親戚知人を頼って東京を離れていきました。戦況は厳しくなり、木造の私の家も壊されて、関東大震災後に建築した鉄筋コンクリート三階建ての隣の祖父母の家に同居となりました。家族は祖父母、両親、大阪陸軍幼年学校在学の見、中二の私、中一の妹、小四の弟、二歳の弟、九人でしたが、兄と学童疎開中の弟はいませんでした。三月十日の下町大空襲があっても、何故か家はコンクリートなので爆弾でも落ちない限り大丈夫という妙な安心感があり、早く疎開をと奨められても祖父は法政大学総長、貴族院議員の要職にあったので頑として動こうとしませんでした。
                        
 五月になり、二十三日、二十四日と近くが焼け、笄(こうがい)町の一部や高樹(たかぎ)町市場が焼けていよいよ空襲が近づいたという思いはありましたが、家族は日常の生活をするのが精一杯で、不安はあっても切迫感はありませんでした。しかし、二十五日の空襲は夜十時過ぎという時間で、連日の空襲に疲れていた矢先に始まりました。父が「今日は危ないぞ」と言うとおり空襲警報が鳴ると同時にB29は上空に飛来しました。空はすでに赤く燃えて、銀色に機体を輝かせたB29の大編隊はまるで烏の大群のように空を覆い、大変不気味でした。サーチライトの光、爆音、尾翼から吐き出されるたくさんの焼夷弾はザーツという音と共に雷雨のように降って来て地面にたたきつけられて、家の外はいっぺんにパァーツと明るくなりました。「落ちたぞ」という父の大声、家族はいつも入っていた地下室の防空壕には恐ろしくて入らずに家の中でウロウロしていました。

 次にB29が落とした焼夷弾は三階の屋根を三発が突き破り、一階台所の網入りガラスも破って地下壕の入口の戸棚に落ちてすぐに燃え上がりました。私は消そうとして流しにあった大きなバケツの水をかけたので焔が静まったように見えましたが、水道は夜は断水で戸棚の反対側に燃え上がった火は地下壕の入口に向かって燃え上がっていました。外に出た父が「早く家から出て来なさい」と大声で叫ぶので、祖父、怖がる祖母の手を引いて私、幼い弟を背負った母、妹、と急いで外に出ました。玄関の外の三和土(たたき)は落ちた焼夷弾があちこちで燃えていました。エレクトロンという焼夷弾で飛び散った火花から燃え始める新兵器だったのです。

 すでに前の二階家は火の柱で、道路は火の海でした。北の青山墓地方面、西の明治神宮方面も家が燃えていて、東の日赤、東京女学館の屋根に物凄い音で焼夷弾が落ちて、赤い焔が見えていました。南の渋谷方面からは、折からの南風に煽られて火の粉と煙が吹いて来て、とても行かれません。仕方なく強制疎開跡の空き地の土蔵の陰が火の粉と煙を避ける唯一の場所だったので、父の指示でそこに皆でうずくまって火の鎮まるのを待ちました。その間、コンクリートの家の中は赤や黄色、青、様々な色の焔が大きく渦巻いているのが見えて、時々何かが炸裂する音がして
          
激しく燃え上がったり、鎮(しず)まったとみるとまた燃える状態が続いて、恐ろしいというよりも夢を見ているような呆然とした気持ちでいました。

 衣服には火の粉が飛んでくるので揉み消し接み消ししていましたが、その熱かったこと。強い南風で煙も吹き付けてくるので、目もひどく痛みました。「煙で目を傷めるから伏せていなさい」。父の言葉で、皆じっと耐えていました。その時、知らない男の方がバケツに防火用水の水を汲んできて下さったのです。防空壕から出て様子を見に来られたのでしょう。私達一家にとってパケツ一杯の水がどれだけありがたかったことか。手拭いを浸して皆で目を冷やし、覆っていました。今でも感謝の気持ちでいっぱいです。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/28 6:54
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 空襲の想い出  その2
 十代田 禮子(そしろだ れいこ)

 B29は青山渋谷方面を焼き尽くして飛び去りました。
 長い一夜が明けて、断水していた焼け跡の水道から水が流れ出ていて、焼け跡で拾った錫のコップで皆で水を飲みましたが、皆放心状態でした。幼い弟は泣きもせず母の背中で青白い顔で眠っていましたが無事でした。近所の方達は、崖に横穴を掘って防空壕にした避難所から次々に出て来られ、自分の家の焼け跡をがっかりした表情で見ていました。

 近所の大学生は物干台の上でB29の偵察をしていて焼夷弾の直撃に遭い亡くなられ、ご両親がご遺体を戸板に乗せて運んで来られました。被せた薦(こも)の下から青白い足が見えていました。コンクリートの私の家は、まるで竈(かまど)のように燃えてすべて灰になりました。床は焼け落ち、鉄筋がはみ出して、灰は三十センチ位積もって、歩くと足が埋まりました。祖父のたくさんの書籍、父の収集したレコードは円形の灰の筒となり、私が弾いていたピアノも残骸のみで、食器瀬戸物は熱で互いにくっついていましたし、銀製の物等は僅かに形を残していました。どれ位の高温だったのでしょうか。火の廻りの弱かった所からは父の愛用のフルート、ローライコードのカメラ、シンガーのミシンは形を残していて、戦後修理して母の役に立ちました。

 私達は一時親戚に身を寄せ、父は焼けビルの後始末をし、行き場のないご近所の方達の雨露しのぐ場所としたので、何世帯かの方が入って来られました。私達は疎開する荷物の発送が遅れて車庫に山積みのまま焼けてしまい無一物になりましたが、ご近所の方達は畳やふとん、鍋、釜、所帯道具をたくさん持って居られたので、その生活力に驚きました。

 隣組には俳優志望の青年が居ておばあさんと二人暮らし、空襲警報と同時におばあさんをいち早く背負って逃げて東京女学館の高い塀を乗り越えて芝生の校庭に飛び降りて避難したとのこと。おばあさんは「もう恐ろしくて恐ろしくて」と涙を拭いながら笑って話していましたし、劇作家の方は、「この体験は何としても劇にして後世に残します」と言って居られました。皆が生きていたという実感を同じに味わった時でした。

 住む所を失った私達、祖父母は北海道の親戚、私達は北軽井沢の夏の別荘へ、父は勤めのために焼け跡に残りました。空襲は各地で続いています。私達は一番列車に乗るために、ごった返す上野駅で空襲を恐れながら夜明かしをして、やっと一番列車で座ることができました。横川近くになった頃、車掌から窓の鎧戸を閉めるよう指示があり、何事かと思ったところ、戦闘機が何機か置いてあるので見せないようにするためだったのです。

 疲れきって草軽電鉄に乗り換えて、戦争が始まる前に毎年夏休みを過ごした北軽井沢に着きました。五月末の山つつじの美しさ、懐かしい浅間山や緑に包まれた山々を見た時、こんなに平和な所があったのかとしみじみ思いました。それからは戦災に遭って無一物となった家族のきびしい疎開生活が始まります。

 (赤坂区青山高樹町)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/29 7:33
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 赤坂区青山北町
      六丁目












 恐ろしく悲しい大空襲の記憶
 平田 諦(ひらた てい)

 昭和二十年一月一目、それは大変寂しいそして静かなお正月でした。外には羽根つきの音もなく子供たちの遊び声も聞こえなかった。この年には子供達はみんな疎開していて、もう青山に子供達の姿はなかった。この日、この前年十一月より敵B29の来襲によって毎日必ず鳴っていた警戒警報の「ポー」が聞こえなかった静かな正月であったと記憶している。私は父と二人で塩の汁にうどん粉のダンゴの雑煮らしきもので正月のお祝いをした。餅は高嶺の花で手に入らなかった。
 母は弟二人を連れて埼玉の方に疎開、兄は旧制一高の寮に、妹は青南小五年で学童疎開、家には父と私しかいなかった。私は中学二年(正則中)でした。
 
 この年、戦局は益々悪化、二月には硫黄島が玉砕、敵機B29による空襲は毎日のように日本都市を襲った。「本土決戦」が叫ばれ国民は竹槍で敵を打つべく毎日必死に稽古していた。三月九日の夜、東の空が真っ赤に染まった。東京下町大空襲である、B29爆撃機三百機による焼夷弾の雨、死者八万人、家屋焼失二十七万戸、東京の下町は焦土と化した。この空襲で私は中学の友三人を失った。

 そして運命の日、五月二十五日、空襲を知らせるサイレン「ボー・ポー・ボーボー」が鳴り響いた。気のせいかいつもより重く感じた。父が起きて来て「いやな予感がする、今夜の空襲は危ない早く支度しろ」と言った。急いで仕度、荷物をいっぱい持って父と共に家を出た。

 私の家は青山北町六丁目五十一番地、地下鉄神宮前駅(今の表参道駅)近くの岡田薬局と木村タバコ店の間を入った路地の奥にあった。電車通り(今の青山通り。当時は都電二路線が走っていた)に出て左百メートル表参道の交差点に着いた。時間が早かったせいかあたりはまだ静かだったが風が強く、遠く明治神宮方面と渋谷方面の空が赤く染まって見えた。私は安田銀行(今のみずほ銀行)のそばで友達と話しながら情勢が静まるのを待っていた。

 空を睨んで情勢を見ていた父が急に「ここは危ない。逃げよう、荷物を捨てるんだ」と言った。
 急いで家にとって返し、荷物を捨てた。物資のない頃荷物は貴重品だったが、この荷物を捨てたのがこのあとの明暗を分けたのだ。父は後に「明治神宮の方に逃げるつもりだったがあの時青山墓地に変えたのだ」と述懐していた。再び表参道の交差点に来たとき、情勢は一変していた。四方の空は深紅に染まり、上空は黒雲が覆い、風がゴオーゴオーと吹き荒れた。

 私と父は一緒に居た私の友達二人と四人で青山墓地に向かって逃げた、途中ここかしこ燃えていたが、なんとか無事に青山墓地にたどり着いた。翌朝、明るくなって墓地を出て驚いた。家は一軒もない。一面焼け野原、我が愛する青山は焦土と化していた。青山通りに出て渋谷方面に向かった。遠くに東横デパート(今の東急)が見え、右に青山電話局、左に青山郵便局の焼けた残骸が見えた。その間はただ焼野原だった。現在のビル林立、広く美しい青山通りから誰が想像できようか。

 青山五丁目に差し掛かって世にも恐ろしい光景を見た。右に左に死体が散乱していた。そしてその死体は髪の毛も衣類も焼けて男女の区別もつかず見るも無残なものだった。表現が悪くて申し訳ないが丁度デパートのマネキン人形のようだった。この焼死体が延々と続いた。青山警察の前では多分御一家だろうか、円く抱き合って亡くなっていたのを見たとき涙が自然にこぼれ出てきた。

 そして表参道、そこで見た光景はなんとも恐ろしく悲しい姿、まさに地獄絵そのものだった。黒こげの死体、マネキン人形の死体、ミイラみたいな死体、百体ぐらいが重なり合って亡くなっていた。また石灯寵の周りには余程苦しかったのだろう、石灯龍にしがみついているいくつかの焼死体があり、石灯龍にはこの人達の涙と恨みの黒いしみがついていた。そして六十五年経った今もそのしみはかすかに残っている。また参道の中央で正座して両手を合わせ明治神宮を拝んでいた焼死体もあった。昨日まで元気にともに遊んでいた二人の友の亡き姿もあった。この恐ろしくあまりにも残酷な光景は今も私の脳裏に焼きついている。

 当時の表参道は入口左右に石灯籠があり、欅の並木がはるか明治 神宮まで続く静かな通りだった。表参道ヒルズをはじめ多くの商店が並ぶ現在の賑やかな表参道を美しく着飾った若者たちが歩く姿を見るとき、戦争の怖さと平和の有難さをしみじみ感じる今日である。

 平成二十二年十月記
 
 (赤坂区青山北町六丁目)
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 山陽堂さんに助けられて
 若林 加寿子(わかばやし かずこ)




 空襲のあった頃、私は善光寺さんの裏に住んでいました。
 五月二十五日の晩は具合が悪くて寝ていましたが、母が掻巻(かいまき)(綿入れの夜着)を掛けてくれてすぐ逃げるようにと言い、私は妹と二人で外へ出ました。母は隣組の仕事があるので見回りをしてから逃げるからと言って出て行きました。

 表参道に来たら風がひどく、掻巻があっという間にくるくると飛んで行き、球のように飛ばされ、電柱にぶつかりパッと燃えました。その時の光景が今でも目に浮かび忘れられません。

 山陽堂書店さんの戸をたたいて、何人か入れていただきました。周りを見渡しましたら姉がいましたので喜び、どんどん燃えている外を怖々見ながら、母がどうしているか心配で生きた心地がしませんでした。

 どのくらいの時間が経ったのかわからない時、ごめんなさい、ごめんなさいと二、三人の女性の声が聞こえ、中に入ってきました。その一人の声が母の声に似ているので見ると、母は両手と顔に大火傷をして入ってきました。びっくりしましたが、火傷の手当てをし、三人で母の傍にいました。父は青山墓地に逃げて助かりました。
 
 山陽堂さんには本当に、感謝しています。善光寺さんは実家の菩提寺で時々お参りにいきます。
                              
 (赤坂区青山北町六丁目)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/31 7:53
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 創業一二〇周年の山陽堂書店
 萬納 昭一郎(まんのう しょういちろう)







 リニューアルされた山陽堂書店
 平成23年5月



 表参道と青山通りの交差点にある山陽堂書店は、空襲の時多くの人を店内に避難させ、その命を救いました。オリンピックのための道路拡幅で、建物は三分の一に削られましたが、同じ地で営業を続け、平成二十三年の三月、創業一二〇周年を迎えました。

 その集いのときの萬納昭一郎さんの挨拶の一部を抜粋いたします。昭一郎さんは初代の孫に当たる方で、神奈川県生麦で山陽堂書店を開いておられます。(編者)

 創業者である、萬納孫次郎は明治元年に岡山県で生まれました。
 家業はかつて池田藩の御用商人をしており、「萬納屋善六郎」 を代々名乗っていました。祖父は幼児期に母親と死別し、その後父親は再婚しましたが、その父親も祖父も十五歳の頃他界しました。どのようないきさつからなのか、祖父は単身上京し新聞販売業などに従事し、明治二十四年頃青山で新聞販売と古書店を始めました。その後新刊書を扱うようになり、子・孫・ひ孫があとを継ぎ現在に至っております。

 以上の経過から、名字を「萬納」、屋号を「山陽堂」としたと聞いております。

 私は生まれてから中学二年の夏まで青山で暮らしておりました。(略)

 東京府東京市赤坂区青山北町六丁目十四番地が私の最初の本籍地であり、今の山陽堂がある場所です。物ごころがついた頃は山陽堂は青山通りの筋向かいにあり、今の道路の中程に建っていました。古い感じの古書店だったのではないかと思います。(略)

 山陽堂が今の場所に移転したのには事情がありました。かつて明治神宮の隣に代々木の練兵場があり、毎年、年の始め、陸軍の記念日や四月二十九日の天皇誕生日などに練兵場で観兵式が行われていました。

 天皇が馬車に乗って通って行く道すじに市電のレールがあり、馬車が通るとすべる恐れがあったのか、天皇が往復する際には市電を一時停めて、レールの上に幅三メートル、厚さ十センチ位に砂を敷き詰め、その砂の上を馬車が通っていきました。砂の量や人力などは大変なものであったろうと思います。

 そこで政府は市電の上を通らなくてもすむように新しく道路(行幸(みゆき)道路)を造ることにし、そのため山陽堂をはじめ多くの住宅が強制的に撤去されることになりました。

 祖父萬納孫次郎は移転先として今の場所を選びましたが、この場所には以前豆腐屋があって水を使っていたため井戸がありました。

 山陽堂は鉄筋コンクリート三階建てを造った際、井戸を潰さずに地下室に井戸の口をつけました。この井戸が戦災で青山一帯が火の海になったときに思わぬ威力を発揮したわけです。現在その井戸はありませんが、山陽堂の建物は今でも戦火をくぐりぬけてきた柱と壁が支えてくれています。

 (赤坂区青山北町六丁目)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/1 9:05
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 思い出の青山
 田中 寿子(たなか としこ)







 青山の空襲で焼け出されてもう六十五年も経ってしまいましたが、忘れられない日となりました。今八十六歳です。私の家は青山六丁目の停留所の角に大きな酒屋(灘屋)があり、その道を入った所でした。レンガの塀で、玄関と庭ポーチが付いていい家でした。父が銀行員で、借りていました。

 昭和二十年の五月、その頃は毎晩のように空襲のサイレンが鳴り、そのたびに震えていました。
 家族は父母、妹二人、弟二人、私の七人で住んでいました。妹たちはよくB29が落とした焼夷弾を消しに行ったのですが、私はこわくて防空壕に入ったり出たりしていました。

 五月二十五日の夜、父は「まだ焼けないから」と言っていましたが、渋谷方面から火の手が上がり危なくなってきたので、五人(弟たちは学童疎開でいませんでした)で手をつなぎ、呼び合って表参道の方へ逃げました。片側は強制疎開のため家が壊されていましたが、火がついて燃えていました。風がすごいし、目も痛く、銀行の傍までやっとでした。着ているものが熱いので防火用水の水を頭から何度もかぶりました。そのうち渋谷方面から馬が墓地を目がけて走って行くのをて、妹が、動物が走って行った道なら大丈夫と言うので、墓地目がけて走りました。墓地の門も火が回っていたので奥へ奥へと逃げのびました。時間は十一時頃だったと思います。

 墓地で夜を明かし、翌日二十六日に走ってきた道を我が家へと戻りました。道路には山積みになった人たちが皆、服は焼かれて蝋人形のようになっていたので、ただ驚いて何も言えませんでした。やっと助かった喜びを感謝しました。亡くなった方々にお悔やみを言いながら家へ着きました。

 我が家は全部焼けて何もありません。庭に、父が大事にしていたクラシックレコードがお皿のように黒こげになっているのを見た時は涙が出て止まりませんでした。隣組のかたを見たらお元気でしたので喜びあいました。そのかたがすぐにお米でご飯を炊いて下さったのでいただきました。

 しばらくして母が大橋方面の叔母の家を思い出してそこまで歩いて行ってみました。叔母の家は焼けないで残っていましたので、一晩畳の上で休みました。翌日は松涛(しょうとう)の母の友達の家までまた歩いて行きました。荷物はリュックにあるだけです。ここは二階家で、四世帯が一緒に過ごしました。この家から母と妹たちは田舎につてがなかったのですが、ただ行って見ました。田舎には食料があると思っても、母の着物を持って行ってじゃが芋やお米に換えてもらいます。私もリュックで買出しに行きました。ここではノミやダニに悩まされました。

 八月十五日の天皇の放送を聞き、やっと戦争が終わり、これで東京へ帰れると喜びました。また松涛の家にしばらく住みました。

 昭和二十三年十一月六日に私は明治神宮で結婚式を挙げました。小田急の祖師谷に住み三人の娘にめぐまれ、元気に過ごしてきました。今は高井戸に家を建て孫八人になり、庭付きで植木、花に囲まれて過ごしています。色々なことがありましたが、これからも戦争をなくすようにして欲しいです。あの時に亡くなられた方々のご冥福を、表参道の銀行に行った時にお祈りしたいと思います。
  
 (赤坂区青山北町六丁目)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/2 8:27
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

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 原宿駅 昭和16年頃 穂積和夫氏 画

 明治39年、日本鉄道の駅として開業。
 昭和20年4月と5月の空襲では駅舎は焼失を免れた。
 表参道口の駅舎は大正14年に竣工した木造建築で、都内で現存する木造の駅舎では最も古い。
 宮廷ホームといわれる乗降場が代々木側にある。








 戦時中の出来事
 佐藤 銀重(さとう ぎんしげ)その1


 小学生時代

 昭和十四年神宮前小学校入学、昭和二十年同国民学校卒業、入学は小学校で卒業は国民学校と変化し、この間上海上陸とか南京陥落とか、ことあるごとに戦意を高揚させるため、表参道で提灯行列を行い隣組(町会の下部組織)を通して動員され参加させられ、戦時色一色であった。印象に残っているのは昭和十八年、小雨降る神宮外苑で開催された、学徒出陣の壮行会を小学校ぐるみで、スタンドから見送ったことである。

 日本は神国だから戦争に絶対負けない、いざというときは神風が吹くから安心しろと、担任の先生は口癖のように言っていた。そうは言っても毎月二日は、学校ぐるみで武運長久を祈って明治神官に参拝に行っていた。そして君達も大人になったら兵隊になって戦争に行って戦うんだと教育を受けていた。従って生ということに執着心は無かった。


 学童疎開

 戦火が進むにつれ、昭和十九年八月、国策で将来の戦闘要員としての学童疎開が始まった。
 疎開は縁故疎開と集団疎開があった。縁故疎開は家族の親戚縁者を頼って疎開する制度で、縁故疎開先が無い場合は集団疎開をすることになる。縁故疎開をした人は、地元の生徒達と一緒に通学し勉強したので、行った先によってはいじめられたという話を聞いたこともある。

 私達の集団疎開は先生・寮母・生徒が一体となってお寺に泊まり、地元の小学校の教室を借りて勉強していたので不自由は無かった。疎開先は静岡県富士郡原田村(現、富士市原田)永明寺で、村長・住職をはじめとした村の方々に大変お世話になった。B29(米軍爆撃機)は空襲の時、グアムから太平洋上を富士山目指して飛来し静岡上空で東京方面と大阪方面に分かれるので、疎開先は飛行機の通り道になっていたので上空では年中空中戦が行われB29墜落を見たこともある。
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