@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

続 表参道が燃えた日 (抜粋) 11

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

編集者

通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 11

msg#
depth:
1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/24 8:50
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 忘れられない恐怖の空襲
 KA・AM






 KAさんとAMさんの姉妹は戦時中、青山南町の青山通りから少し入った所に住んでいました。本土への空襲が間近に迫った昭和十九年八月、学童疎開が始まり、妹AMさんは縁故疎開をしました。その後姉KAさんは東京で、妹AMさんは疎開先の長岡でそれぞれ空襲を体験することになります。(編者)


  KAさんの話

 昭和十三年に青南小学校を卒業し、その後商業学校を出て十六年三月、日本電気に入社しました。
 二十年五月二十五日、私は会社から友人と帰り、表参道の佐阿徳さんの前で別れましたが、友人はその夜の空襲で銀行の角で亡くなったと近所のかたに伺いました。ご冥福をお祈りします。

 母と二人で逃げる時表参道は火の海でした。裏の方から青南小学校の方向に向かって根津さんのお屋敷に行くつもりで四つ角まで来ましたら、高樹町の方からどんどん人が逃げて来ましたのでそのかたたちに付いて逃げ、青山墓地に辿り着きました。朝まで墓地にいましたが、明るくなるとあちこちで名前を呼ぶ声が聞こえ、家族を探していました。私も父を置いて先に逃げて来たので、父はどうしただろうかととても気になり探しましたが、墓地で逢うことができほっとしました。あの光景は忘れることができません。私の家の路地では亡くなった方が多く、隣組十一軒のうち、十二人のかたが犠牲になりました。何と申し上げたらよいのか心が痛みます。

 私たちは焼け残った青山会館に行って一夜を過ごし、翌朝親類のいる長岡に行くことにしました。
 青山会館では、近所のお嬢さんが目を傷め開かなくなっていらしたので、手当てをしてあげました。昨年の五月二十五日に青山に行きました時にそのかたにお会いでき、とてもお元気なので嬉しく思いました。

 長岡には一か月ぐらいいて、母の妹がいる東京の馬込に移りました。東京に帰ってまもなく、七月か八月だったと思います。朝会社に行く時、大森の山王付近で、突然戦闘機が一機現れ、機銃掃射を受けました。夢中で建物の陰に隠れたので助かりましたが、どんな飛行機だったのか覚えていませんし、周りに人はいなかったように思います。

 仲良し五人組の一人、若林さんとはその後行方がわからず月日が経ちました。二十四年ごろだったと思いますが、知人のかたが具合が悪く青山に手伝いに行っていた時、自転車で四丁目のお肉屋さんに行ったところ偶然お逢いしました。二人で生きていたのね、生きていたのねと抱き合いました。しかも二人とも大森の五分ぐらいの近くに住んでいたのですが、そこでは逢えず、青山で逢えるなんて運命を感じました。今でもずっとお付き合いをしています。
 
 戦争によって親しい人が亡くなり別れ別れになる、二度とこのようなことが起こらないようにするために、一人一人が戦争の恐ろしさを若い人たちに伝えていかなければいけないと思います。

 (赤坂区青山南町六丁目)

  条件検索へ