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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 13

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 13

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/26 6:43
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 「北杜夫(きたもりお)」斯(か)く語りき
 伊原 太郎(いはら たろう)


 

 『青山にいた子供の頃は、非常に気が弱かったんです。父の斎藤茂吉は青山脳病院の院長でした。(中略)

 年を取ると、過去のことを思い出します。戦争の時の心理は、異常心理としか思えないですね。

 空襲で青山の青南小学校から皆がぞろぞろ逃げるのを見て、それでも僕は家の前に立って「まだ逃げるな」と言ったんです。小学校にいた軍隊も逃げていた。でも僕は逃げないぞと。

 新聞だって、本土決戦我に有利なんて書いていたんですよ。その通り信じて、僕には変な愛国心がありました。とにかくアメリカが憎かったんです。でもB29がのし掛かるように飛んできて、灯に照らされて、あやしい美しさなんですよ。敵もやるな、と思った。

 やがて母がやってきて、青山墓地の隣にある副院長の家に逃げ込んで助かりました。火の粉が目に入って、翌朝まで痛くてたまらなかった。その時は怖いという意識はなかった。でも冷静に考えれば、おろかだったと思います。軍国教育が原因でしょうか。

 空襲の後、自転車を借りて青山通りを走らせました。板をかぶせただけの粗末な防空壕があって…軍隊の人が生焼けになっている死体を放りだしていました。神宮外苑は、ピラミッド状に死体が2カ所積み上げられていた。

 異常心理でね…。終末の心理、人間が滅ぶ前兆のような気がしました。家の焼け跡で水道から水がちょろちょろ出ていました。それがわずかに生の名残だった。本当にむなしいですね。
        
 ただ『楡家(にれけ)の人びと』ではそう書かなかった。勇敢さというかな。アメリカ憎しや、愛国心を強調したんです。

 その後、平和な自然がある松本の旧制高校に進みました。あまりになごやかで美しくて、その心理は誇張されて『幽霊』にでてきます。旧制高校には良い先生がいて、文学に出あいました。僕はそこで大人になったんです。』

 これは、朝日新聞平成二十二年十一月九日夕刊の「追憶の風景 焼け跡の水 わずかな生」と題した北杜夫の記事からの抜粋である。言わずと知れた「楡家の人びと」の著者北杜夫君が戦時空襲下での体験感を記者に語った一節である。

 青山脳病院のすぐ近くの青南小学校で私は茂吉の二男斎藤宗吉少年と同級だった。家も近く、麻布中学までも共に通学することになる。

 第二次世界大戦下、昭和二年(一九二七年)生れの吾々は中学二年末、太平洋戦争勃発とあって、授業らしい授業は三年余で(旧制中学校は五年制)、残る一年余は、兵器生産工場へ「勤労動員」 と称して狩り出された。

 三月の卒業後も敵の本土上陸に備えての動員が続き、それぞれ旧友に別れを告げ、彼は旧制松本高校へ、私は鹿児島の旧制七高造士館へと進学したのは昭和二十年六月になってからであった。

 青山、表参道界隈が被災炎上した当夜については、既刊の「表参道が燃えた目」にそれぞれが舐めた苦難の模様が痛々しく綴られているが、北杜夫は「楡家の人びと」「神々の消えた土地」「どくとるマンボウ追想記」 などに詳しく書いている。

 十年ほど前だったか、彼から賀状交換はこれで終わりにしたいとあり、今は週刊新潮で同君の令嬢斎藤由香さんの「トホホの朝、ウフフの夜」を読んで、彼を巡る「楡家」御一家の様子を知る。
 
 毎年春先に青南小学校の男女合同クラス会がある。何年か前に北杜夫君が久方振りに来会し、一同拍手で迎えた。その折に彼が唸って聞かせた浪花節「清水次郎長」のくだりは、今もって時折話題に上り、一同を微笑ませてくれている。

 (赤坂区青山南町五丁目)

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